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2007年7月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 7月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。




(583) 『水底の歌』上巻(その2)(著:梅原猛。新潮文庫)

 前回取り上げた斎藤茂吉は、いろいろなことを言っているようで、結局は柿本人麿の死んだ場所を、それまでの通説、現益田市の沖にある鴨島ではなく、邑智郡山中の鴨山だと主張したことに尽きる。それに対し筆者は、茂吉が鴨山と考えるに至った過程も、なぜ人麿がそんな山の中で死んだのかという理由もことごとく誤っていると批判した。

(1) 茂吉は「磐根し纏ける」からかなり高い、岩の多い山であると解したが、筆者は「『磐根し纏ける』というのは、古代日本人にとってただの死を意味するにすぎない。〜石槨の中に孤独に横たわって死んでいるイメージが『岩根し纏ける』である」とする。
(2) 茂吉は「貝」は「峡」と解したが、筆者は「貝が峡のあて字などということは全くあり得ない」とする。
(3) 茂吉は石川とは「たいへん大きな河でなければならぬと考える」が、筆者は「たしかに語気は激しいが、それは作者の心の悲しみゆえである」のに、茂吉は、それを「河の大きさのせいにしている」とし、さらに「茂吉は、人麿の妻の悲しみが、あるいは人間というものの悲しみが、ちっとも分かっていない」とまで批判している。
(4) 茂吉は人麿が山の中で死んだとしているので、丹比真人の「荒波に寄りくる玉を〜」という歌は、「実に怪しからぬ者」のつくった「殆ど問題にならぬ」歌で、次の「夷(ひな)の荒野〜」の歌も「空想の拵へもの」としている。
 これに対し筆者は、「人麿の死を直接に解明できるのは、わずかに五首である」のに「その五首のうちの二首を、あなたは全く除外、抹殺してしまおうというのだ。あなたの口吻は全く専制主義者の口吻である。
〜私は、歌の本文の抹殺まで主張するあなたの詩人としての良心を、このような歌の虐殺書をほめたたえた学者たちの学問的良心と共に、根本的に疑わざるを得ない」と口を極めて非難している。
(5) 茂吉は、古来、人麿が亡くなった「鴨山は高津の沖合にあり、万寿3年(1026)の津波で水没したとされてきた」が、「万寿の海嘯は〜陸地が却って増してゐるぐらゐで〜鴨島〜が、海嘯で〜無くなったことは信ぜられない」としている。
 しかし、筆者は「万寿3年の津波〜は、多くの町を水没せしめた。〜また、日本海沿岸は、徐々に沈んでいることは、今日、疑うことのできない地質学的な事実である」とし、鴨山が300mもある岩山なら水没も難しいだろうが、それは上記(1)のとおり茂吉の誤りであるのだから「二重に非科学的である」と批判する。

(6) さらに茂吉は、自分が考えるような山の中で人麿が死んだのは、鉄鉱山視察に行った先で流行病に罹患したためとしたが、筆者は地元の矢富熊一郎氏の研究では「邑智郡内の鉄山事業、特に鉄穴流しは〜邑北の浜原・亀あたりの、江川の本川筋には、鉄穴が全く、盛行していなかったことが実証される」という文章を引き、「茂吉は存在しないタタラ工場に労働者を群集せしめ、その架空の労働者の間に痢疫を伝染せしめ、その見舞いに当代随一の老詩人を赴かせ、彼をもまた痢疫にかからせて殺してしまった」と批判する。

 要はボロボロに批判しまくっているのだ。


★★★☆


(584) 『水底の歌』上巻その3(著:梅原猛。新潮文庫)

 仙覚『万葉集註釈』では、「貝に交じりて」の「注釈として『源氏物語』の「蜻蛉の巻」の一節を引用し」、宇治川に身を投げた浮舟の死骸が貝に混じって漂っているのをイメージする薫のことを挙げているようだ。
 そして筆者は、「万葉集の依羅娘子の歌において、石川の底で貝に交わっていたのは誰か。明らかに人麿の死骸である」と断じる。
 また、由阿『詞林采葉抄』では、さらに『石見風土記』で、人麿が「持統天皇の時、四国の地に配流され、文武天皇の時に東海の畔に流され、息子の躬都良(みつら)は隠岐の島に流されて、流罪の地で死んだ」とあることを引用しているそうだ。

 さらに筆者は「森末義彰氏編の『流人帖』〜は〜横山弥四郎氏の次のような躬都良伝説についての報告をのせている。
〜皇太子草壁の皇子は、御病にて御即位が叶わず、かわって大津の皇子が即位されようとした折柄、何者か阿閑皇后に、大津の皇子に謀反の企てがある由を内奏したものがあった。
〜ついに皇子に死を賜り、常に扈従していた美豆良麿も、その謀議に与(あずか)ったとして隠岐の島に遠流(おんる)された。

更にその父人麿朝臣をも近流に処し、皇后は自ら皇位に上った」という一節を引用している。

 そして、「人麿は〜流罪と水死の姿でわれわれの前に現れてきた〜私もわれとわが眼を疑った。〜私は用心深く、私の眼の錯誤を調べたが、私の見る眼に、何も何らの故障も発見できなかった」としている。

 もし、人麿の「流罪」と「水死」が事実であるとすれば、その水死は事故ではあり得ない。なぜなら、人麿は万葉集の中で、有馬皇子を除いては、唯一「自傷」の歌を残している。自らの事故死を予知して予め自己の死を傷む歌を残すのは不可能である。

 事故死でない水死としては「自殺」も可能性がある。しかし、「自らの死を傷む歌をつくるのは、自らの死が確実であることが意識されながら、しかもその死が自らにとってのぞましくない場合である」とするなら、確かに「自殺者が自らの死を傷むということは、本来ありえない。彼は自ら求めて死ぬのだから」ということがいえるだろう。

 自殺以外の「事故死でない水死」とは、刑死であろう。しかし、そのような「刑」が存在したのか。
 筆者は「舟も通わない、ものもとれない島に放って、流人の死を待つ−−−これが、身分ある犯罪者を罰するもっとも厳格で、同時にもっとも礼儀正しい処刑の方法であった」とする。
 さらに「水死の刑が当時存在していたことを、他ならぬ日本最古にして最大の古典である古事記によって知りうる
〜アマテラスの支配体制に反逆したスサノオは〜出雲国へ流罪となった。〜その五世の孫オオクニヌシの罪はもっと重い。〜ニニギノミコトの政治体制を安定させるために〜彼は丁重に葬られることになり〜身を隠さねばならなかった。〜宣長は〜『古事記伝』において〜「隠りましき」とは、水に入って死んだことだという
〜この大神の死に方は、息子の事代主命(ことしろぬしのみこと)と同じ死に方である。〜天つ神の使いが出雲の国へやって来たとき〜天つ神の要求を聞いて、コトシロヌシは自発的に海に入る。
〜ニニギノミコトの降臨のはじまる前に、かくの如き、親子の神の強制された入水自殺が必要であった」としている。
 古事記のこの記載と、人麿父子の伝承とを重ね合わせているのは明らかであろう。

「おそらくはうららかな初夏の一日、詩人は舟にのせられて海に投げられたのであろう。ひょっとしたら、詩人の首には重い石がつけられていたかもしれない」というのは、すごい想像力であると思う。


★★☆


(585) 『水底の歌』上巻その4(著:梅原猛。新潮文庫)

 「柿本朝臣人麿、石見国より妻に別れて上り来る時の歌二首」という詞書のついた歌がある。
 この歌は、「〜『韓の崎』に人麿は妻とともに住んでいた。そこにいる妻と別れて『渡の山』〜を通って〜高角山へやってきた。そして高角山でこの哀切きわまる有名な長歌を作って妻をしのぶ」ものである。
 古来「韓の崎」は仁摩町沖合の韓島、「渡の山」は、江津市渡津付近の山、そして「徳川時代の中頃まで、人麿は石見の高津の鴨山で死に、その鴨山は、万葉集によまれている高角山であることを、誰も疑っていなかった」。
 しかし、最近の通説のように、これを人麿が石見に赴任した下級役人で、この詞書を任期を終え、現地妻と別れて都に戻る時の歌と解すると矛盾が生じる。役人がなぜ島に住んでいたのかという点と、渡の山が韓島より西にあり、高津は渡の山よりさらに西にある点だ。つまり、一路東を向いて上京すべきところ、逆に西へ西へ向かっていることになるのだ。
 よって、最近では「韓の崎」や「高角山」の位置が別の地だと考えられたのである。

 筆者は「歌の内容と詞書が矛盾している〜歌は、女と別れて都に行く男の悲しみを歌っている。その悲しみは異常である。しばらく同棲した現地妻と別れる〜男の方は悲しいにはちがいないが、長い地方ずまいを終えて、都に帰れる期待にどこか心ウキウキするものである。〜この歌は、朝集使として都に上る人麿が、妻と一時の別れを惜しんだというような歌ではない」とする。
 そして筆者はためらいなく「明らかにわれわれは詞書を疑わねばならぬ」と断じる。
  しかし筆者は茂吉を批判しているところで「歌の本文ばかりでなく、詞書もまた重要である。詞書の一句一句に深い意味がこめられていて〜重要な手がかりを与えるのである。それゆえわれわれは、みだりに〜詞書を無視したりしてはいけない」としていたので少し引っかかるのだが。

 筆者は、「韓島は、野津説・角田説によって奈良時代の国府の所在地とされる邇摩郡宅野の沖合にある。〜もちろん、島にいるのは流人である。〜流人の高官は〜妻と同居する自由を許されている。
〜流人・人麿は、国府の近くにある韓島から、高津の沖合にある鴨島に移動することが命ぜられる。しかも、今度は、妻をつれてゆくことができないというのである。この命令が、何を意味するかは明らかであったであろう。流人人麿の行く先に待っているのは、死の運命である。
〜人麿が、おそらく、わが国の文学史上において、もっとも悲しい別れの歌を残せたのは、こういう彼の運命ゆえではなかったかと私は思う」とする。

 また、人麿には「讃岐の狭岑島(さみねのしま)に、石の中に死(みまか)れる人を視(み)て、柿本朝臣人麿の作る歌一首」という詞書のついた歌がある。
 その島で人麿は石の間で横たわった人を発見するのだが、その人は寝ているのではなく死んでいるのだった。人麿は「私がお前の家を知っていたならば行って、妻にお前の死を知らせてやるものを。妻も、お前の死を知ったならば訪ねてくるだろうに」とうたう。
 筆者は「狭岑島で死んだ死人を、人麿はほとんどわが事のように感じている。
〜人麿はこの狭岑島で死人を見たが、その感動は異常である。その死人の中にほとんど己れを見ているほどだ。
〜武田祐吉は、このところの『家知らば 行きて告げむ 妻知らば 来も問はましを』の言葉にある不思議な意識の交錯に注意をしている。『家知らば』は人麿自身が主語であるのに、『妻知らば』は死人の妻の方が主語であり、こういう唐突な主語の変化は珍しいといい、その理由を、人麿がこの死人と自己を同一視していることに求めている」としている。

 つまり、狭岑島も流人の島で「流人人麿は、ここに先輩流人の無残な屍を見〜そこにおそらく、近い将来に自分がおちいるにちがいない運命を人麿は見た」とし、「凄惨で壮絶な美である。〜この歌を、万葉集随一の歌にしてもいい」とまで言う。

 私は筆者が紹介する斎藤茂吉の論証ぶりを読んで、「立証責任」という単語を連想した。
 例えば、茂吉は、人麿が砂鉄の事業場に出張に来たと主張し「出張などは絶対にしなかったといふ反証の挙がらない以上は、人麿は臨終の時、かういふ土地即ち浜原あたりに来て居ても、毫も不思議ではない」としているらしい。立証責任はどっちにあるんだよ、と呆れたのである。

 よって、筆者の茂吉批判には別に異論はない。しかし、筆者が茂吉に向けた「自己の主観的判断を、客観的真理とせずにはおかないすさまじい意志に、この文章は貫かれている。〜茂吉の意志にはほとほと感嘆せずにはいられない。このようなすさまじい意志は、天才か狂人にのみ許された意志のように私には思える」という言葉を、私はそのまま筆者に対しても向けたいと思う。

★★★☆

 


(586) 『水底の歌』上巻その5(著:梅原猛。新潮文庫)

 これまでは第一部「柿本人麿の死」という章であった。
 続いて第二部「柿本人麿の生」という章に移る。

 筆者はこれまでは斎藤茂吉を批判していたが、ここからは特に賀茂真淵(←どうも「かも」づいている)を批判する。
 賀茂真淵の主張を筆者が要約しているのは次の5点である。
(1) 正史
 正史である日本書紀には柿本佐留(?〜709)なる四位の人物が、また、『続日本紀』には柿本を名乗る人が数人いるが「柿本人麿」という名前は正史に登場しない。
(2) 時代
 人麿は後岡本宮(のちおかもとのみや)、すなわち斉明天皇(在位655〜661)に生まれた。
 また、万葉集で人麿の死の歌の次に、和銅四年(711)としるした他人の歌がある。万葉集の配列が時代順とすれば、柿本人麿は、奈良遷都の直前に死んだと考えられる。
(3) 年齢
 時代がはっきりしている人麿の最初の歌は持統三年(689)、草壁皇子(くさかべのみこ。662〜689)の挽歌。草壁皇子の舎人(とねり)の挽歌が多いので、人麿も舎人の一人であろう。
 身分ある人の子が舎人となるのは21歳頃だが、当時人麿は24、5歳頃ではないか。
 そうすると人麿は50歳前で死んだと思われる。
(4) 官位
 人麿は草壁皇子の舎人に始まり、その後高市皇子(たけちのみこ。654〜696)の舎人となり、その後地方官としてあちこちの国の下級役人となる。
 彼が死んだときの、「死す」とあり、「薨ず」とか「卒す」と書かれていないのは彼が六位以下であることを示す。
(5) 『古今集』序文
 そうすると『古今集』仮名序に「おほきみつのくらゐ」とか、真名序(まなじょ)に「柿本の大夫」とあるが「おほきみつ」とか「たいふ」は正三位を示すので、その表現は誤り。
 紀貫之がそのようなことを書くはずがないので、そうした部分は後世の改竄。

 こうした賀茂真淵説に対する反論は、上巻にも若干は書かれているが、とりあえず下巻に譲ることとする。 

★★★☆

 


(587) 『水底の歌』下巻その1(著:梅原猛。新潮文庫)

 賀茂真淵説の正史考、時代考、年齢考、官位考、『古今集』序考の前に神話の変遷について若干考察する。

 人麿の「日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)」に対する挽歌(上巻P421)がある。そこではアマテラスとか葦原の瑞穂の国、天の岩戸など、神話のようなことがうたわれている。

 下巻P42には、人麿の歌(持統3年=689)、大祓祝辞、古事記(和銅5年=712)、日本書紀(養老四年=720)のそれぞれにしるされた神話における制作年代、当時の天皇、降臨の主体、降臨の命令者を比較した一覧表が載っている。
 ここで、人麿の歌では皇子降臨だが、それ以降は皇孫降臨に変わっていること、そして、その降臨を命じるのが人麿の歌では諸神の合議だったが、それ以降は皇神のウェイトが高まり、さらにその皇神(天照大御神)も高木神に取って代わられてしまうことが示される。
 人麿の歌で皇子が(降臨の前提として)昇天したのは草壁皇子が亡くなったことを示すが、その後「皇孫」に変わったのは、即位した持統天皇が夫天武天皇(つまり自分にとっても)の孫である軽皇子への譲位を目指したため。
 また、人麿の歌で降臨を命ずるのが「八百万(やおよろず)の神の衆議」なのは天武帝死後の不安定な政治情勢を示し、「皇神」のウェイトが増すのは持統天皇の皇権確立を示し、最後には高木の神単独になるのは外祖父藤原不比等の独裁を示すという筆者の分析には感心した。
 なお、「大祓祝辞」とは文武2年(698)頃、中臣氏が藤原氏から分離して神祇(じんぎ)を司るようになったが、その中臣神道の最も中心的な祝辞らしい。そういえば、以前修二会の講演を聴いた時、お祓いをする道具を「中臣祓」(なかとみのはらい)と呼んでおられたことを思い出した。

 それでは、真淵の挙げた諸点について。これらは互いが密接に絡み合い、また筆者の論述も行きつ戻りつするのだが、無理に整理してみる。

 第1点は「正史」考。真淵は、柿本人麿は正史に登場しないとする。これは、後の、人麿がそれほど(正史に記載されるほどの)高官ではないという主張とも結びつく。
 これに対し、筆者は、「人麿」の名では登場しないが別の名で出ているとする。結論からいうと、『日本書紀』で天武10年(681)に従五位に相当する小錦下(しょうきんげ)を授けられた柿本臣猨(さる)、天武13年には朝臣の姓を授けられ、『続日本紀』で和銅元年(708)に「従四位下柿本朝臣佐留卒す」とあるのが柿本人麿のことだとする。
 さらに柿本人麿と猿丸大夫も同一人物だとする。(下巻P184、P198)

 筆者は正史に二つ以上の名前で載っている同一人物の例を、同音異字で藤原史(ふひと)・藤原不比等大伴旅人(おおとものたびと)・淡等多比等、別姓で石上麻呂(いそのかみのまろ)・物部麻呂(もののべのまろ)、別名で藤原八束(やつか)・藤原真楯(またて)など挙げている。(下巻P143)
 なぜ「人」麿が「猿」、つまり猨とか佐留と記されたかについては、「人間をしてサルとよぶことは、その人間の尊厳の失墜を意味」し(下巻P150)、「刑罰としての改名」(下巻P149)だとしている。
 筆者は人麿は政治問題(軽皇子(後の文武天皇)の立太子に反対し死を賜った弓削皇子に連座したことが示唆(下巻P202)されている)又は女性問題(不比等の娘であり、文武天皇の第一夫人である宮子を犯したことが示唆(下巻P236)されている)で失脚し、流罪にあい、ついには刑死に至ったと考えている。
 そして、中国で則天武后が前皇后の王氏の姓を蟒(ボウ。うわばみ)、妃の蕭氏を梟(キョウ。ふくろう)と変えたり(下巻P151)、後の孝謙女帝が愛人の藤原仲麻呂を除こうとした黄文王(きふみのおおきみ)をクタナブレなどと、さらに後に、道鏡を除こうとした和気清麻呂別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)など改名させた例(下巻P153)をあげ、持統帝が「出身の卑しさにもかかわらず五位の位を与え、ついで従四位下にまで昇進させ、いつも彼女に扈従させて歌をつくらせた歌人が、こともあろうに彼女の可愛い一人の孫の排斥の陰謀の一端をかついだとすれば〜『サルよ、さっさと消えておしまい』と叫ばなかったであろうか」(下巻P156)としている。

 猿丸大夫というと、私も小倉百人一首の「奥山に〜」の歌しか知らないし、百人一首の解説書にも猿丸の伝記は不明とある。
 筆者は猿丸大夫を「日本の歴史上これほど曖昧模糊たる人物はあるまい」(下巻P185)とまで言っている。
 そして猿丸大夫の歌と確定しているものはなく、後世の『猿丸大夫集』におさめられた歌のうち、弓削皇子の歌が三首、『人麿歌集』所収の歌が二首、それ以外は「恋+隠棲」といったイメージに合う歌を読み人知らずの歌から勝手に抜き出したもの(下巻P193)らしい。
 そして、奈良時代には平安時代のような隠遁趣味は出現しておらず(下巻P201)、猿丸の旧跡とされる曾束(そつか。現在の滋賀県大津市)は、人麿の最初の流刑地ではないかとしている(下巻P203)。
 つまり、「猿丸大夫伝説こそ、実は権力が抹殺した歴史の真相をひそかに後世に知らしめようとする、民衆の意志の生んだ人麿=猨説の証拠」(下巻P184)とする。
 「一人の政府の要人、しかも和歌の名人として噂の高い高官が、この山の中に来て、細々と暮らしている。この異常なる事態が、どうして里の人の噂にならないことがあろうか。
〜もちろん都の人は猿丸大夫が誰であるかを知っていた。しかし、それは語るべからざる話である。
〜この事件以後、百年、二百年たつと〜ただ、有名な歌人がこの曾束の山に来〜たことしか分からなくなる。おそらく〜前者(藤原公任=きんとう)は、思い切って『古今集』の読み人知らずの歌の中から彼の歌をつくり出すという、多少、人迷惑な好意を猿丸大夫に示し、後者(鴨長明)は猿丸大夫を隠棲の歌人として〜『無名抄』『方丈記』に彼の墓の場所を記し、おかげでわれわれは〜その伝説には信頼性が高いことを知る」(下巻P210)とするのである。

★★★☆

 


(588) 『水底の歌』下巻その2(著:梅原猛。新潮文庫)

 賀茂真淵説の第二は時代考で、第三は年齢考だから、この二つは密接に関連する。
 真淵説は、人麿は後岡本宮斉明天皇。在位655〜661)の時代に生まれ、奈良遷都直前に死んだ。
 人麿作で年代がはっきり示されている最初の歌は持統3年(689)の草壁皇子の挽歌だが、蔭子(おんし。身分ある人の子)として舎人となった人麿は当時24、5歳で、和銅2年(709)に死んだ時には50歳前だったとする。(上巻P319)

 しかし、これには以下の反論がなされている。
(1) 『柿本陰供記』(かきのもとえいぐき)など、古代中世の伝承などでは人麿は60余歳と伝えられてきた。(上巻P352)
(2) 真淵は、人麿が草壁皇子の舎人として挽歌をつくり、後に高市皇子の舎人に転じて挽歌をつくったとしている(上巻P354)が、確かに人麿は舎人の心情をうたっている。
 しかし、土屋文明氏は皇子の挽歌をうたっても舎人であるとは結論されないとし(上巻P426)、契沖も「人麿は第三者として舎人の嘆きを歌った」としている(上巻P427)そうだ。
 これについて土屋文明氏は、実際に舎人であってその仕える人の挽歌をつくったなら「個人的感動の抑え難きものがあるはずだ」ともしているらしい(上巻P426)。
 これは、筆者が、真淵が人麿を両皇子に仕える舎人としたのは「人麿を平気で主人を変えるサラリーマン」とするもので、いわば「葬式の時だけ泣きくずれ、涙のかわかぬうちに、よい主人をさがす節操なき淫婦」扱いにしていると憤る(下巻P110)のと共通するものであろう。
(3) 真淵は人麿を蔭子とするが、そのような名門の出で、しかも大歌人の人麿が一生六位以下であったとは考えられない。また、人麿の身分ある先祖のことは正史に触れられていない。(上巻P354)
(4) 人麿が真淵のいうように持統3年(689)に24、5歳だったなら生まれは天智四年(665)前後となり、38代天智天皇の時代となり、自説の37代斉明天皇の時代に生まれたという主張と矛盾する。(上巻P354)

 よって、筆者は人麿を古来の伝承とおり60余歳で亡くなったとし、それなら柿本猨と人麿は生まれた時期も死んだ時期も(当然年齢も)ほぼ重なるとする。(下巻P129)

 続いて第四の官位考。
 真淵は、契沖の、『延喜式』に六位以下は「死」というとあるが、万葉集に柿本人麿は二度にわたり「死」と書かれているので人麿は六位以下であるとする説(下巻P136)を受け継ぐ。(高官なら正史に載っている筈だという理由はとりあえず第一の正史考に譲っておく)

 これに対し筆者は、従三位(中納言)でありながら「死す」と『続日本紀』に書かれた大伴家持、従五位下でありながら「死す」と書かれた石川朝臣永年の例を挙げる。家持は、死後彼が藤原種継暗殺事件に関与したとして除名になり、永年は和気王(わけのおおきみ)事件に連座して流人となっていたため、延喜式や『養老律令』「喪葬令」(下巻P136)に反し、それぞれ「薨ず」や「卒す」でなく、「死す」と書かれている。
 よって、人麿が特に大過なく病死したなら真淵説は妥当だが、流罪であるなら人麿は六位以下とは必ずしも言えないことになる。

 また、前掲の人麿=猨(=猿丸大夫)とするなら最終的に人麿は従四位下(大夫職)で死んだことになる。しかし『古今集』仮名序には「おほきみつのくらゐ」とあり「大き三つの位は正三位と考えられる」(上巻P362)とある。
 これを合理的に解釈するためには、
(1) 真淵らのように、『古今集』序の「正三位」という記述が誤りとする(顕昭『柿本朝臣人麿勘文』で「みちのくを世俗むつのくといふがごとし」三つは六つの誤りか、などと言っている:上巻P364)か、
(2) 死後に正三位が贈位されたと考えるかのいずれかとなる。
 そして筆者は、「人麿は猨である。従四位下で死んだが、平城帝の御代に、万葉集撰集の事業とともに正三位となった」(下巻P318)とし、そうした死後贈位には、
(1) 子孫が天皇や皇后など高い地位についたため、祖先に贈位される場合(下巻P318)と、
(2) 菅原道真のように「鎮魂の贈官と称すべき」場合(下巻P319)の2パターンが考えられるとする。

 さらに筆者は、怨霊の成立要件として、
(1) すぐれた徳をもつ人の無実の死と、
(2) その死後に起こる政府の権力者の死や天災地変の二つ(下巻P332)を、
 そして、それに続く鎮魂のパターンとして、
(1) 彼の怨霊を鎮める神社、寺院の建立と、
(2) 彼の死後復位あるいは死後贈位(下巻P333)、さらにその中間的存在として子孫への贈位が考えられる(下巻P334)とする。

 では、なぜ筆者は平城帝の時期に人麿に「正三位」が贈位されたと考えたのか。
 平城帝は第50代桓武天皇の長男、安殿親王(あてのみこ)。
 桓武天皇は794年に平安京に遷都したことで知られる。しかし、同時に彼は弟早良親王(さわらのみこ)をいったん皇太子としながら、藤原種継暗殺の廉で延暦四年(785)に流罪に処し、配所で死なしめた。そして弟に代わり長男が立太子し、皇位を継いだのである。
 桓武天皇は弟の怨霊の崇りに悩まされていた。延暦19年(800)には、彼に崇道天皇と追号した。
 筆者は、「現万葉集の巻一、巻二が、天平勝宝五年に橘諸兄によってつくられた『原万葉集』であ」り、「家持がひそかに集めた歌集を加えた二十巻の現万葉集が、平城天皇の御世に勅撰になった」(下巻P340)とする。
 なぜ、万葉集が平城天皇により勅撰とならねばならなかったか。崇道天皇(早良皇太子)は桓武天皇を死に至らしめた(・・・と当時は考えられていた)が、平城天皇をも病に苦しめた。上御霊神社は、延暦13年、崇道天皇を祭ったが、なかなか鎮魂の気配は見えない。
 筆者は、原万葉集は、橘諸兄(・大伴家持)による、「人麿を死に追いやった藤原権力の告発という、ひそかな〜ねらい」(下巻P348)を持っていたが、「祖父・不比等を真似て藤原独裁体制をおし進めようとしていた藤原仲麻呂にとって、はなはだけしからぬ本であったにちがいな」く、「橘奈良麻呂の変以後、勅撰集〜の地位を奪われていたにちがいない」(下巻P390)とする。
 そして、仲麻呂体制の成立とともに「家持も左遷されたが〜この不遇な生活の中にあって〜全部で二十巻に及ぶ大部の歌集をつくった」(下巻P390)とする。ところで、家持は「早良皇太子=崇道天皇の第一の近臣として注目されていた」(下巻P391)。
 「主人の怨霊を鎮魂するには、まず近臣の怨霊を鎮魂せよ」ということで、早良皇太子を鎮魂するため、彼の近臣であった家持が深い執念を抱いていた「勅撰集」という地位を万葉集に与えて鎮魂することとした。(下巻P392)
 人麿は和歌の神である。家持は従三位である。家持は和歌の司祭者であるから、神たる人麿は家持より位が上でなければならない。しかし、人麿は家柄が低い。菅原道真のように正一位とか太政大臣というわけにはいかない。
 「家持より一階級上〜『おほきみつのくらゐ』正三位のみが、人麿に与えられるべき、ふさわしき唯一の位」(下巻P393)とされている。

★★★☆

 


(589) 『水底の歌』下巻その3(著:梅原猛。新潮文庫)

 既に書いたように、賀茂真淵『古今集』の特に仮名序には数々の誤りがあるとした。
 「序文を率直に読む限り『ならの帝の時から歌は広まった。その時代に、人麿という人があって、帝と共に歌を詠んだ。また、山部赤人という人があり、この人も、人麿と匹敵する歌の達人であった。この人々以外にも、多く歌の上手な人があり、これより先の歌を集めて、万葉集と名づけたという』という意味になる」(上巻P329)。
 仮名序は「延喜五年(905)、紀貫之によって書かれた」(上巻P329)。

 真淵は、次のように主張(上巻P377)し、「そういう非合理なことを紀貫之ともあろう人が書くはずはないといって」(上巻P380)仮名序を削除・改竄した。
(1) 「歌は奈良時代になって盛んになったというのはまちがっている。歌は藤原の宮、つまり持統−−文武天皇の頃がピーク」だった。(削除された原文 「ならの御時よりぞ、ひろまりにける。かのおほむ世や、哥のこゝろをしろしめたりけむ」)
(2) 「人麿の時代および官位についても、まちがっている」。(同 「かのおほん時に、おほきみつのくらゐ」)
(3) 「人麿と身を合わせた、つまり君臣合体したという天皇もいない」。(同 「これは、きみもひとも、身をあわせたりといふなるべし」)
(4) 「人麿が天皇と詠みかわした歌は、人麿の歌ではない」。(同 「秋のゆふべ〜雲かとのみなむおぼえけむ」)
(5) 「万葉集が平城天皇のとき撰せられていたとしたら、どうして天平宝字三年以後の作品がないか」。(同 「これよりさきの哥をあつめてなむ、万えうしふと、なづけられたりける」)
(6) 「例の十代、百年説」も誤っているので「はぶいた」。(同 「かの御時より、この方、としはもゝとせあまり、世はとつぎになんなりにける」)

 さて、これに対する筆者の反証をみていく。
(1) 真淵は、平城帝の時に歌が広まったというのが誤りで、正しくは持統、文武の頃だとしているのだが、これには特に反論していない。(下巻P302「平城帝のとき、はたして大和歌(やまとうた)が広まったかどうかはしばらくおき〜」)

 その代わり、「『ならの御時』を『何天皇の御時』と解釈するか」(下巻P276)について、詳しく論証しているが、ズバリ真淵の疑問点に対する論証をすべきだと思う。
 さて、人麿と同時代・・・という可能性を求めて、清輔は聖武天皇と解した。これは平安中期に赤染衛門が著したとされる『栄花物語』に「天平勝宝五年には、左大臣橘卿(諸兄)諸卿大夫集まりて、万葉集を撰ばせ給」とあるのに拠った(下巻P279)と考えられる。
 あと、桓武帝説(上巻P329)や文武帝説(上巻P339)もあるようだが、詳細は省く。
 筆者は「私はやはり『ならの御時』を平城帝の時とする説が正しいと思う」(下巻P301)としているが、顕昭契沖らがいうように、真名序には「平城天子」とある(上巻P331)天皇は平城天皇と解するしかないと思う。
(2) 筆者が、人麿が平城帝の時に正三位を死後贈位されたと考えていることは既に書いた。ここのポイントは、「かのおほん時に、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむ、哥のひじりなりける」の解釈である。通常は、平城帝の時代に、正三位で、歌の聖の柿本人麿が当時生存していたと解釈し、人麿が平城帝の時代まで生きている筈はないから、この帝はもっと昔の天皇をいうのか、あるいは、この仮名序自体が誤っているという方向に行かざるを得なかった。
 筆者は「平城天皇のとき、柿本人麿は、帝によって歌の聖として認められた、という意味にとる」(下巻P307)。それまでも人麿は民間では歌の聖と崇(あが)められていても、公式には、流人、国家の犯罪者でしかなかった。それがこの時に復権し顕彰され、贈位されたと解するのである。
(3) ここも、筆者は、現実に平城帝と人麿が歌を詠み交わすなどということはあり得ないことは百も承知である。そこで、ここにいう「君臣合体」とは「平城帝と人麿は、その魂の深い内面の世界で、身を合わせた〜生ける平城帝と死せる人麿の間には、魂の共同体が樹立された」(下巻P310)とし、契沖も『古今余材抄』で「帝と人麿の間の魂の感応が語られていて、歌の交換はもちろん事実ではないといっている」としている(下巻P311)。
(4) 筆者は「『大和物語』では、紅葉を見て帝と人麿が歌を詠み交わしていることになるが、『古今集』序文では〜人麿は吉野山の桜の歌を詠んだことになっている。人麿が〜吉野山の桜を詠むことは絶対になかったといってよかろう。なぜなら、吉野山が桜の名所として知られるようになったのは、平安時代に入ってからだからである。〜しかしとくに気にする必要はないであろう」(下巻P312)としている。しょせん、実際にどの歌を詠んだとかいう問題でなく、フィーリングの問題だからであろうか。
(5) 真淵は、平城帝が(人麿、赤人と)、その時代より前の歌から万葉集を撰したとすれば、「万葉集に入れられている日付のはっきりした最後の歌〜天平宝字三年(759)正月の大伴家持の歌」から、大同元年(806)まで47年間もの歌を一首もとっていないのは不合理だとしている。また、「定家が大同説に反対したもっとも大きい理由」もその点だとしている(下巻P338)。
 これも、「平城帝のとき、大伴家持によってすでにつくられていた現万葉集を勅撰集化」(下巻P391)した。鎮魂のため、そういう位置づけとしたというなら説明はつく。
(6) 真淵が「十代、百年」を否定したのは、人麿、赤人、平城帝が同時代に存在し万葉集を撰したのはおかしいと考えたためらしい(上巻P379)。単純に平城帝の大同元年から醍醐帝の延喜五年までは十代、百年で合っている。

 「紀貫之の語る言葉は、曖昧である」(上巻P385)。それゆえ、『古今集』仮名序は多くの矛盾があるようにみえた。
 そこで重要なのは、「貫之は、そういう曖昧な言葉しか語れない混濁した頭脳の持主」(同前)と考えるのか、真淵のように単純に「こういう馬鹿なことを紀貫之がいうはずはない〜無知な後人の書き加えたものにちがいないと考え」「近代的合理主義の至上命令」(上巻P380)として削除、改竄するのか、あるいは「自己の真情を韜晦させずにはいられない何らかの必然性をもっていたのか」(上巻P385)慮(おもんばか)ってみるということではないか。

 以上で、この大部の著書の紹介を終える。

 結論として、筆者はこう主張する。
(1) 柿本人麿は、持統天皇に寵愛され、宮廷歌人として権勢を誇り、身分も従四位下まで昇進した。
(2) しかし、藤原不比等の登場と共に地位は危うくなり、政治事件と恋愛事件によって失脚。正史には「猨」又は「佐留」と書かれるようになった。
 その後、流人として諸国を放浪し、ついに石見の海で刑死、水死した。
(3) その死は和銅元年(708)頃、60余歳であった。流人であったため、万葉集の詞書では「卒」でなく「死」と書かれた。近江に流罪中の人麿は、猿丸大夫伝説となっている。
(4) 万葉集は、「橘諸兄と大伴家持によって天平勝宝五年(756)に、流刑になり水死した人麿の歌を中心に、彼を悲劇に追い込んだ藤原権力批判の意志をもってつくられ、その後橘奈良麻呂の変後も家持によって書きつがれ、彼の家にあったものを、桓武天皇が没し、しきりに早良皇太子の怨霊のたたりが恐れられた大同元年(806)に、家持、及び彼の主君、早良皇太子の怨霊の鎮魂のために再び勅撰化された」(下巻P411)。

 全体として、論拠の選び方が恣意的で、展開が強引である感は否めない。しかし、見事に一つの体系的世界を構築しているのは凄いと思う。
 よって、筆者が、「『水底の歌』にたいして本当の批判をするためには〜茂吉説あるいは契沖、真淵説が依然として正しいことを証明するか、あるいは〜第三の説を提示するかどちらかである。〜私の批判者はこのような論を全く展開していない〜益田(勝美)氏など〜と、改めて徹底的に対決をしてみたい気が、今でも多分に私の心の中にある」(下巻P414)と突っ張るのも理解できる。
 重箱の隅をつつくようなあら捜しをするのではなく、私のようにトータルな理論展開をしてみろというところだろう。

★★★☆

 


(590) 『水滸伝』8巻(著:北方謙三。集英社文庫)

 解珍の話で始まる。解珍は、小さな村の保正(名主)だった。祝朝奉が独竜岡一帯を祝家荘、李家荘、扈家荘に統合する話を持ち出したが、今は対等な村人が下風に立たされることを快しとしなかった解珍はこの話を拒んだ。役所に追われた解珍は、役人を斬って山に逃げた。解珍はその後、祝朝奉が役人を賄賂で抱きこみ、解珍の村を私物化したことを知った。
 そのうち、妻が病んだ。聞きつけた祝朝奉が薬を届け「跪いて拝礼すれば〜役人にも引き渡さないと言った」。
 「確かに、祝家荘で獣肉を売らせて貰うことで、ひと時、妻の薬は手に入った。妻は、跪いて拝礼していることは、知らなかった」。
 解珍は「替天行道」に心を動かされたが山を降りて参加する気は起きなかった。
 息子の解宝も「替天行道」に心を動かされていることを知った。
 息子の仲間が言った。
「『俺らは、山を降りて、梁山泊に加わろうと言いました。しかし、解宝殿が、解珍様がお元気な間は山を動けんと。』
〜若い者を見放せないから、山に留まらざるを得ない。そう言い訳のように自分に納得させてきたことは、なんだったのだ」。

「眠りが近づいている。
 馬桂の声だけは聞こえているが、言葉として耳に入ってこなくなる。〜
『私が眠るまで、体に触れていてくれ。おまえの体を、私に押しつけていろ』
『私も、とても眠くなってきましたわ』
『ともに、眠ろう』」

 眼を覚ましたとき、馬桂は馬桂でなかった。

「のどが痛い。その痛みが、徐々に李富を覚醒に導いた。
『口から血を流しながら、叫んでおられました、李富様』
〜このままでは、死ねない。
 思っていることは、それだけだった。生きたい。生きてやるべきことはひとつだけだが、それをやり遂げるまでは、絶対に死にたくない。
〜生きてやる。生きて、生き抜いて、梁山泊の叛徒どもを、皆殺しにしてやる」

 楊令が高熱を出した。自分の亡くした弟の姿を重ね合わせた白面郎君鄭天寿が、霹靂火秦明に、十二歳の頃蘇州の金持に拾われた頃のことを語った。
「三年、我慢しました。三年間、俺は女だったんですよ」

 鄭天寿は、熱さましの薬草を取ろうとして崖から落ちて死んだ。
 秦明は、楊令に、鄭天寿が懐にいれていた蔓草の一片を差し出した。
「これは、鄭天寿の命だ。私が本営に戻った時、おまえの熱はもう下がりはじめていた。だから、この蔓草が役に立つことはなかった。これが鄭天寿の命だとしたら、情けないほどどうでもいい命でもある。しかし、ひとりの、この世でただひとりの人間にとっては、無上に大切な命だ」

 扈三娘が執拗に林冲につっかかって来た。林冲はその頃、張藍が生きているという情報を聞き、心が乱れていた。気が付くと林冲は扈三娘の体を頭上に差し上げ岩に叩きつけていた。
「ここまでやることはなかろう」と彼女を抱き上げ自陣に連れ帰ったのは王英だった。

 李家荘の李応は、梁山泊に内応することを決めた。その時、王和が「やっと李応殿を殺すことができます」とつぶやきながら迫ってきた。青蓮寺は官軍を快く思わない李応の内応をかねてより警戒していたのだ。しかし、その時、李逵の板斧が一閃した。

★★★☆

 


(591) 『水滸伝』9巻(著:北方謙三。集英社文庫)

 戦線を離脱した林冲は愛馬百里風にこう語る。
張藍が生きているなら、なにかせずにおられん。それが、林冲という女々しい男なのだ。惚れている。それを伝える前に、別れ別れになったのだ。しかしもう、それを伝えようとは思わん。伝える資格もない。ただ、張藍は助けねばならん」

宋江の夢。ふと思った。宋江とともに抱いた、歴史を変えようという夢。それさえも、自分は捨ててきていた。
 女ひとり救えなくて、なんの志か。なんの夢か」

 秦明楊令に、数年、子午山の王進のもとで暮らすよう命じた。

 秦明は公淑に求婚し、妻帯した。
 ある夜、宋江は酒の瓶を持って晁蓋の部屋を訪ねた。
「〜梁山泊に入ったら、二竜山に公淑殿がいると、しばしば思ったものだ。しかし、忙しさにかまけて、会いに行けなかった。〜いま、私が妻帯などではないだろう、とも思ってしまったしな。そうしたら、この知らせだ」
「つまり、おまえは」
「そういうことだ。女に心をよせることはもうない、と思っていた。秦明のことを聞いた時、そうではなかったと気づいた。遅すぎたがな」

 扈三娘は梁山泊への合流を申し出た。親族を殺されたが恨みはない。「独竜岡で、祝家の支配を受け、生き延びるために、好きでもない相手の妻になる、そういう私の人生はなんだったのだろうかと」考えていた。むしろ「結婚をしないで済んだ」ことを感謝しているようだ。
 そして、王英に、
「梁山泊の中で捜してみたのですが、見つからなかった」
「なんで、俺なんかを」
「戦場に打ち捨てられて、当たり前でした。それを、助けてくれたではありませんか」

 『水滸伝の世界』(高島俊男)では、原作における扈三娘のひどい扱いについてふれている。
 梁山泊が祝家荘を攻めた時、扈三娘は、扈家が李家とともに祝家と同盟を結んでいたこと、扈三娘自身祝家の三男と許婚していた関係で祝家の味方をした。助平根性を出して挑みかかってきた矮脚虎王英を簡単に生け捕りにするが林冲に負け捕まる。扈家では娘を取り戻すため、投降を申し入れ忠実に自粛していたが、李逵が暴れこみ、一族郎党を虐殺したうえ財宝を奪い村を焼き尽くした。
「いったい、自分の家族を皆殺しにした連中の仲間にはいることを、扈三娘がどういう次第で承知したのか、一言の説明もない」。また、宋江のとりもちで結婚させられるのだが、「強く雄々しい豪傑が大勢そろっているのに、結婚させられる相手といえば、よりによって、一番のチンチクリンで、スケベエの下司野郎で、しかも自分よりはるかに弱い王英である」。
 ここを、北方水滸伝は、こう改変するのか。

 青蓮寺の追求が厳しくなってきた。
 追われて山中に逃げ込んだ盧俊義が、李袞に「なにもかもが、ひとり分だ。〜ひとりで汲々として生き延び、ひとりで死んで行く。〜おまえのような、かわいそうな男はあまりいない」と言い放つ。

 柴進も捕らえられた。城郭内に入り込めたのはわずかにケ飛と部下の楊林のみ。
 ケ飛は「俺はよ、魯達を女真の地からひとりで連れ戻した。〜いまでも、俺の名を聞くと、魯達を救い出したあのケ飛か、と梁山泊の兵はみんな言う。そんな時、おれは男だって思えるのよ」と楊林に語る。そして、今度は柴進を救出すべく、昼は糞尿清掃仕事をし、夜は不眠不休で城壁の掘削に打ち込んでいた。
 楊林は、「いま狂気の眼さえ見せているケ飛をゆっくり眠らせたかった」。そして、はっきり、こうも言った。
「兄貴は、どこかで間違った。俺は、そんな気がする」と。
 脱出劇のさなか、ケ飛は崩れ落ちる石を体で支え、柴進や楊林を先に脱出させ、自らは下敷きになって死んだ。

「俺が、語り継ぐ。兄貴のことは、俺が生きているかぎり、語り継ぐ。
 空にむかって、呟くように楊林は言った」。

 さて、この9巻もいろいろ名場面はあったが、いちばん唸ったのは巻末の馳星周の解説で、いちいち「あ!俺もそう思ってた!」と感じた。そんなあれこれを。

「百八人の北方謙三もどきが、これでもか、これでもかと男の生き様を説き、死に様を見せつける。百八人分のナルシズムに翻弄されるのだ」。

「だれも名前すら覚えていないようなキャラクターをここでこう使うのか」。

「いや、百八人だけではない。梁山泊と闇の闘いを演じる青蓮寺のメンバーも、ただ立場が違うというだけで、梁山泊の豪傑たちとなにひとつ変わらない。大義のため、自らの信ずるもののため、凄烈に生きていく」。

「おれの好きだったあのキャラクターはどこでどうやって登場してくるのだ?原典ではなぜこんな男が梁山泊の棟梁なのか、どれだけ考えても理解できなかった宋江をどうするつもりか?」

「あるいは、宋江という男。北方謙三がどれだけ足掻き、渾身の力でもって造詣し直したとしても、やはり彼が梁山泊の棟梁である必然性は弱い。『替天行道』の本文が記されていたらまた違う側面が見えたのかもしれないが、百八人の豪傑を梁山泊に向かわせたその『替天行道』は、熱く書き連ねられた言葉の上を枯れ葉のように漂うだけだ。
〜北方謙三は『替天行道』の中身を書くべきだった」。

 特に「替天行道」については、本当にいま切実に感じていたので、この解説には「ああ!いま、俺が先に書こうと思ってたのに・・・」って感じだった。梁山泊のすべてのエネルギーの根源が「替天行道」なのである。どのような文章であれば、これほどのエネルギーを持ち得るのか。まあ、「替天行道」の本文を書くことは非常に困難であり、求めるほうが無理だとは思う。

★★★☆

 


(592) 『世界史の誕生』(著:岡田英弘。ちくま文庫)その1

 まえがきにこうある。
「第二次世界戦後の学制改革で、東洋史と西洋史は合体して「世界史」という科目になることになった。
ところが、これはどだい無理な注文であった。〜どうにも水と油の観を免れない。
歴史が最初から普遍的な性質のものではなく、東洋史を産み出した中国世界と、西洋史を産み出した地中海世界において、それぞれの地域に特有な文化であることを、はっきりと認識しなければならない
この認識さえ受け入れれば、中央ユーラシアの草原から東と西へ押し出して来る力が、中国世界と地中海世界をともに創り出し、変形した結果、現在の世界が我々の見るような形を取るに至ったのであると考えて、この考えの筋道に沿って、単一の世界史を記述することも可能である」と。

 私はこのまえがきをほとんど読み飛ばしてしまったため、本文で
「1206年の春〜即位式を挙げて「チンギス・ハーン」と名乗った。これがモンゴル帝国の建国であり、また、世界史の誕生の瞬間でもあった」としている意味が理解できなかった。
 つまり、え?チンギス・ハーンの前にも「世界」はあるのだから当然「世界史」もあるでしょう?と単純に疑問に思った。中央ユーラシアを軸に「東洋」と「西洋」とを一体的にとらえた「世界史」という概念がなかったのである。

 まず筆者は、歴史について叙述する。

「歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである」。

「自分の体さえ使えば測れる空間とは違って、時間を空間化し、眼で見えるようにして測るのには、かなり高度の技術が要る」。

「世界広しといえども、自前の歴史文化を持っている文明は、地中海文明と、中国文明の二つだけである。
もともと歴史というもののない文明の代表は、インド文明である。
インドの宗教では〜輪廻(サンサーラ)の思想が特徴的である。〜この考え方では、時間の一貫した流れの全体は問題にならなくて、そのどの部分もそれぞれ独立の、ばらばらの小さなサイクルになってしまう。
カースト制度の社会の実感では、自分と違うカーストに属する人間は、同じ人類ではなく、異種類の生物である。〜人間の大きな集団を扱うのが性質の歴史は、こういう社会ではまとまるはずがない」。

 そして、代表的な歴史文化について順にみていく。まずは「西洋」編。
「(ヘーロドトスの)ヨーロッパとアジアの敵対関係が歴史だ、という歴史観が、地中海文明の歴史文化そのものになってしまった」。要は西洋の歴史は「対決の歴史」。

「その後に生まれたキリスト教の歴史観は、善と悪との敵対関係を機軸としていた。これがヘロドトス以来のヨーロッパとアジアの敵対関係という図式と重なり、ヨーロッパは善で「主なる神」の陣営であり、悪で「サタンの陣営」であるアジアを打倒することが神聖な天命であるとなった」。
 そして、11世紀のイスラムに対する十字軍、15世紀の大航海時代におけるアジア、アフリカ、アメリカ支配、そして20世紀末の湾岸戦争もこの考え方の延長線上にあるとする。
 さらに湾岸戦争で「あれほど戦争の遂行に協力した日本が、アメリカ・西ヨーロッパから露骨に警戒され」たのは、よく言われたように、血を流す代わりに金で済ませたからではなく「日本がアジアの国であるという、単純な理由」だとする。

 次に中国、つまり「東洋」編。
「中国文明の「歴史の父」は〜『史記』を著した司馬遷である」。

「いかなる政治勢力でも、実力だけでは支配は不可能であり、被支配者の同意を得るための何らかの法的根拠が必要である。中国世界では、そうした根拠が「正統」という観念である。唯一の「正統」(中国世界の統治権)が天下のどこかに常に存在し、それが五帝から夏に、夏から殷に、殷から周に、周から秦に、秦から漢に伝わった、というのである」。

「こうした『史記』によって、中国文明における歴史の性格は決定した。皇帝が統治する範囲が「天下」すなわち世界であり、「天下」だけが歴史の対象である。言い換えれば、中国文明の歴史は、皇帝の歴史であり、永久に変わることのない「正統」の歴史である」。

 そして、そうした「正統」の歴史の破綻について。

「317年の1年間は、中国世界には「正統」にも何にも、皇帝というものがなかった。これは中国史上、空前絶後の大事件であった」。

「南朝の歴代は、非中国人地帯に国を建てた亡命政権に過ぎない。ところが「正統」の歴史観から言うと、東晋の建国者は「正統」の晋の皇族であるから、東晋の皇帝も「正統」の皇帝でなければならない。東晋が「正統」なら、その継承国家の宋も、南斉も、梁も、陳も「正統」だということになる。
 このこと自体、すでに滑稽である〜」。

「もともと非中国人だった鮮卑が中国を再建した〜
 自分が鮮卑系である唐の政治的な立場では、北朝も「正統」であると主張するほかに道はなかった〜」。

 また、「正史」の構造的欠陥として、2点挙げている。
 第一に、正史記載の基本資料は「皇帝が日々決裁した公文書」であるが、「およそ国家の最高方針に関する重要な決定は〜皇帝の側近のごく小さなグループの内部で決定されるのが普通で、そうした決定はその性質上、文書になって残らない〜」。
 第二に、正史を実際に編纂するのは史官だが、「中国のどんな王朝でも、政権の本当の基盤は軍隊であり、本当の最高権力は、常に皇帝を取り巻く軍人たちが握っていた」が、「軍人は文字の知識がなく〜言い分は「正史」には表れない」。逆に「科挙出身の文人官僚〜の書く「正史」は、科挙官僚こそが皇帝の権力を支える基盤〜であったかのような、間違った印象を与えるように出来上がっている」。

 そこで、中国史を世界史に組み込んで、まともな世界史を創り出すためには〜「正史」の枠組みに収まりきれなかった現実を取り上げなければならない」。ということで、ようやく中央ユーラシアの話に入る。

★★★☆

 

 


(593) 『世界史の誕生』(著:岡田英弘。ちくま文庫)その2

 第4章は「世界史を創る草原の民」ということで、年を取ったら食べられちゃう「マッサゲタイ人」やら、「男も女も生まれながらの禿頭である」「アルギッパイオイ人」やらが紹介されている。

 第5章は「遊牧帝国の成長」で「トルコからキタイまで」という副題がついている。
 ギリシア人プリスコスは、怪鳥グリュプスに追われて逃走したアヴァル人が、サビル人をその住地から追い出したと伝えているそうだ。で、著者は、このアヴァル人とは烏丸、サビルは鮮卑、そして怪鳥グリュプスとは柔然(蠕蠕:ぜんぜん)のことだという。
 このアヴァル人は、557年の冬、東ローマ皇帝ユスティニアヌスに使者を遣わし、その後、領域は東はドン河、西はエルベ川とアドリア海に及んだという。烏丸というと、『蒼天航路』で首領がカラス天狗みたいな格好で描かれ「まんまやん!」と思った覚えがあるが、こんなとこまで来てましたか。

 さて、トルコ帝国にやられっ放しだった中国だったが、「唐の太宗は、628年に中国の統一を回復すると、東トルコに対する臣属関係を破棄し、630年、東トルコを滅ぼし〜続いて唐の高宗の軍は、657年〜西トルコのカガンを撃破し」た。
「唐の高宗は、遊牧民の君主たちによって彼らの『テングリ・カガン』(天可汗)に選挙された。〜このことは、唐の天子が、中国世界に対しては中国皇帝、中央ユーラシア世界に対しては遊牧帝国のカガンという二つの地位を一身に兼ね〜二つの世界は、共通の最高君主を持つ〜画期的な事態」を迎えた。

 907年、朱全忠は鮮卑の唐朝を滅ぼし、600年ぶりに中国人による後梁朝を建国したが、923年に李克用の息子李存勗により滅ぼされ、華北全体はトルコ人の後唐朝により支配されることになった。
 その頃、モンゴル高原には東方からキタイ(契丹)人が進出を始め、916年には耶律阿保機(「やりつあほうき」又は「やりつあぼき」。遼の太祖)が皇帝を自称し、キタイ帝国を建国した。
 中国人趙匡胤が宋朝を建て、後を継いだ弟の太宗は979年、北漢を滅ぼした勢いで北京を攻めたが、高梁河でキタイ軍に大敗、逆にキタイの聖宗は1004年、宋の首都開封に迫り、澶州に至ったとき、宋の真宗は屈辱的な和議を申し入れた。

 第6章は「モンゴル帝国は世界を創る」。
 「316年に晋朝がいったん滅亡し〜この時から中国では、遊牧民出身の王朝の支配が切れ目なく続いたために、中国といえば被支配階級を意味することになってしまった。〜やっと宋になって、中国人の王朝が600年ぶりに中国を統一したやさきに〜高梁河の敗戦と澶州の和約の屈辱によって〜キタイの優位を承認しなければなら」ず「〜中国人の自尊心に、さらなる打撃を加え〜中国人は、武力では『夷狄』(いてき)に劣るが、文化では「夷狄」に勝るのだと主張したがるようになった。
 この主張がいわゆる『中華思想』であるが〜どんな社会でも、支配階級の方が被支配階級よりも高い生活水準を享受し、従って文化の程度も高いことは当たり前である。どの時代の中国においても、支配階級の『夷狄』のほうが、被支配階級の中国人よりも文化において優っていたのである。中華思想は、中国人の病的な劣等意識の産物であるが、この中華思想を歴史によって正当化〜しようとしたものが〜司馬光(1019〜86)の著書『資治通鑑』である」。
「こうして正統の観念と中華思想が結び付いた結果、これ以後の中国人は、ますます中国の現実が見えなくなってゆくのである」。

 いつもの岡田節ではあるが、中国人はボロボロの言われようである。

 いよいよ、モンゴル。
「1206年の春〜テムジン」に「『チンギス・ハーン』の称号を奉った〜これがモンゴル帝国の建国であり、また、世界史の誕生の瞬間でもあった」。

 筆者はモンゴル帝国の発展をいくつかの段階に分けている。
(1) 西夏王国の征服
 1227年、西夏を滅ぼした。
(2) 天山のウイグル王国の投降
 ウイグル王国はカラ・キタイの保護国であったが、1209年、チンギス・ハーンに投降した。
(3) 金帝国の征服
 オゴデイ・ハーンは、1234年、金帝国を滅ぼした。
(4) カラ・キタイ帝国の征服
 カラ・キタイ帝国はクチュルクに滅ぼされたが、チンギス・ハーンは1218年、クチュルクを滅ぼした。
(5) ホラズム帝国の征服
 チンギス・ハーンは1219年、全軍を指揮してシル河を渡り、7年間の遠征でホラズム帝国を滅ぼした。
(6) キプチャク草原の征服
 バトゥのモンゴル軍は、1236年にヴォルガ河中流のブルガル人の国を征服してから、キプチャク人の諸部族、ルーシの諸都市、北コーカサスの諸種族を征服してポーランド王国に入る。1241年、ポーランド軍とドイツ騎士団の連合軍を撃破し、ハンガリー王国を蹂躙し、オーストリアに達した。
(7) 西アジアの征服
 1258年、フレグはアッバース朝を滅ぼし、マムルーク朝が支配するシリアに侵入したが、1260年、マムルーク軍に破れる。
(8) 華中・華南の征服
 1276年、フビライ・ハーンは南宋を滅ぼした。
 このほか、1253年に大理王国を征服し、1259年、高麗王国の降伏を受けた。

 そして、著者はモンゴル帝国の遺産を語る。
(1) インドのムガル帝国の「ムガル」とは「モンゴル」のなまりで、すなわちモンゴル帝国である。ムガル帝国から英国支配を経て独立したインド連邦とパキスタンは、モンゴル帝国の継承国家である。
(2) イル・ハーン朝の領地を支配したサファビー朝から引き続いたイランも、モンゴル帝国によって形作られた継承国家の一つである。
(3) 明朝は、元朝の正統の承継者を自認した。続く清朝は、元朝最後の正統ハーン・リンダンの皇后・皇子が玉璽を捧げて投降してきたのを受け、ホンタイジが1636年に大清皇帝の位についたことに始まる。
(4) ロシアは、1237年にモンゴル人の侵入を迎えたルーシが発展した国である。イヴァン4世が、1575年、ジョチ家の皇子を全ルーシのツァーリに推戴してから、翌年、モンゴルの皇子から禅譲を受ける形でロシア帝国を興した。
(5) 現在のトルコ共和国と、西アジア・北アフリカのアラブ諸国は、英国とフランスが、オスマン帝国を切り刻んで作った。〜13世紀のモンゴル帝国から後の時代のイスラム世界では「トルコ人」と「モンゴル人」は同義語だった。

 著者は「現代の世界のインド人、イラン人、中国人、ロシア人、トルコ人という国民は、いずれもモンゴル帝国の産物」だとする。
 そして、「ヘーロドトス『旧約聖書』『ヨハネの黙示録』に由来する地中海=西ヨーロッパ型の歴史の枠組みと、『史記』『資治通鑑』に由来する中国型の歴史の枠組みをともに乗り越えて〜首尾一貫した世界史を叙述しようとするならば〜13世紀のモンゴル帝国の成立までの時代は、世界史以前の時代として、各文明をそれぞれ独立に扱い、モンゴル帝国以後だけを世界史の時代として〜扱う」こととし、本書は「そうした叙述の最初の試みである」と結ぶ。

 着眼点は面白いと思うのだが、本書の段階ではまだ確固たる新たな叙述形式を構築したとまで言えないような気がする。

★★★☆

 


 

 まだまだ書評が大量に積み残し。



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