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2007年6月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 6月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。




(580) 『ツレがうつになりまして』(著:細川貂々。幻冬舎)

 「うつ」というのは経験者でないと「何でそんなマイナス思考になるん?」とか理解しにくい場合が多いと思う。
 職場の誰か・・とかじゃなく、配偶者のように近親で「うつ」の方がいた場合の対応などについて、凡百の著書を読むより、本書を観る方が理解しやすいと思う。



★★★☆


(581) 『薬でうつは治るのか?』(著:片田珠美。洋泉社 新書Y)

 昔は「うつ」は、訳がわからない病気と思われていた。
 そのうち、「うつ」も、薬をのみさえすれば治る病気なんだと思われるようになってきた。でも、ほんとにそうなのか?

P108「あなたも、『薬を飲んでも<うつ>がなかなかよくならない』と嘆いているような場合、『本当に<うつ>なのか?』と疑ってみる必要があるだろう。『本当に<うつ>なのか?』とは、抗うつ剤が本当に有効であるとされている内因性うつ病なのか?ということである」

 安全だとか、理想の抗うつ剤ともいわれるSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害剤)であるが、現在では自殺衝動を高めるのではないかとの危惧がある。
 家族にとって、何が最悪の選択か。日常的に平穏を取り戻す「確率」の中に、自分の大切な人を永遠に失ってしまうそんなリスクをからめてしまうことは絶対に望んでいないと思うのだが。


★★☆


(582) 『水底の歌』上巻その1(著:梅原猛。新潮文庫)

 サブタイトルは「柿本人麿論」。「水底」は「みなそこ」と読む。
 第一部は「柿本人麿の死  斎藤茂吉説をめぐって」と題されている。
 斎藤茂吉が昭和の初めに『柿本人麿』という大部の著作を世に出し、それまでの通説に反する人麿終焉の地を主張した。茂吉の権威もあって、以後その説が定説となったのだが、著者はそれに全面的に反論する。

 柿本人麿については、いろいろ謎があるようだ。
 後に賀茂真淵の分析における謎として、(1)出身氏姓と、正史における記載、(2)時代、(3)年齢、(4)官位、(5)『古今集』序文の5点に要約されているのだが、まずは斎藤茂吉が主張した人麿終焉の地について見ていこう。著者の著述はいろいろ行きつ戻りつするのでわかりにくい。ごく大雑把に要約する。

1.茂吉以前の「人麿終焉の地」に関する諸説
 人麿には『万葉集』巻二に「柿本朝臣人麿、石見国(いはみのくに)に在りて臨死(みまか)らむとする時、自ら傷(いた)みて作る歌一首」という詞書のついた「鴨山の岩根し枕(ま)ける われをかも知らにと妹(いも)が待ちつつあらむ」という歌がある。
 また、「柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)の作る歌二首」という詞書のついた「今日今日とわが待つ君は石川の貝に交(まじ)りてありといはずやも」「直(ただ)の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲(しの)はむ」という歌がある。
 要は、人麿自身が死ぬ間際に「鴨山で死のうとしている私」と歌い、妻は「あなたは石川の貝に交わっている」とか「直接会えないが石川に雲よ立て。その雲を見てあの人を偲ぼう」と歌っている。つまり石見の国の石川の近くにある鴨山という所で人麿は死んだのだが、それはどこか?というのがテーマ。
1−(1) 江戸時代末期頃までは、今の益田市の鴨山、高津川の流域にあり万寿3年(1026)の大津波で水没した鴨島というのが通説であった。初出は『正徹(しょうてつ)物語』(文安5年=1448頃)。
1−(2) 浜田市旧城山の亀山説(那賀郡浜田城山説)、島根県江津市神村(かむら)説、奈良県葛城連山の中説など

2.茂吉他説否定編
 茂吉はまず、各説を否定する。その根拠は、
(1)「鴨山」は、「カモ」もしくはカモに似た音を持つ石見にある山である。
(2)「鴨山」は、「磐根し纏ける」という以上、ただの丘ではなく、相当高く、巌石のあらわれている山である。
(3)「知らにと妹が待ちつつあらむ」とある以上、鴨山から通知しても間に合わない場所、十里以上は隔たった場所に妻はいなくてはならない。
(4) 石川の「貝」とは「峡(かい)」のことであって、貝のあるような海浜近くではなく、山中の峡谷である。
(5)「雲立ち渡れ」という雄大な語気からすると石川は相当大きな川でなければならない。

 以上の前提に基づき、まず、1−(1)を否定する。その理由は、万寿の津波では、逆に陸地が増しているくらいだから水没した鴨島の存在自体信じられない。また、存在したとしても水没する程度では「磐根し纏ける」ほどの高い山ではない。

 続いて、1−(2)の浜田市城山説は、浜田では妻がいたと思われる国府と近すぎる。また、亀山は低すぎるし、浜田川も小さいということで否定する。ただし、亀山がカモ山に音が通じる点を、茂吉は自説に取り込んでいく。
 島根県神村説も「カム」ラと「カモ」の連想によるものだが、同様に、近すぎる、高い山も大きな川もないとして否定。
 奈良県葛城山中というのは石見でない時点で論外。

3.茂吉新説編
 茂吉は、2ー(5)より石川は石見国の大河であるから、「江ノ川」と断定する。そして江ノ川も海浜近くではなく山ん中の峡谷を探し、さらに城山説にヒントを得て、石見国邑智郡浜原村にカモに似た「亀」という地名を見つける。
 昭和9年7月、茂吉は浜原の地を訪れ、そこそこ高く険しい津目山(つのめやま)を見て一目でこれぞ人麿終焉の地と直感する。
 また、茂吉は人麿がなぜよりにもよってこれほど辺鄙な山ん中で死んだのかについて、過去にこの辺では砂鉄事業が盛んであったろう、『続日本記』に慶雲4年(707)に石見などで疫病が流行ったとあるから、砂鉄事業に従事する労働者がいる所で流行しても不自然ではない。国府の官吏である人麿が救助のため視察に行ってもおかしくない。おそらく、人麿自身も感染して死の床につき辞世の歌を詠んだのであろうというのである。

4.茂吉自説補強編
 1で挙げたように妻が「貝に〜」と歌っているが、茂吉は2−(4)で「貝」のある海浜でなく、「峡谷」だとしている。
 あと、人麿の死に関しては万葉集には人麿の歌、妻の歌に続き「丹比真人 柿本朝臣人麿の意(こころ)に擬(なずら)へて報(こた)ふる歌一首」という詞書の付いた「荒波に寄りくる玉を枕に置き われここにありと誰か告げなむ」という歌がおさめられている。
 人麿自身の歌は死ぬ前に詠んだもので、妻は人麿の死後に詠んでいる。よって人麿が妻に返歌を贈れないので、丹比真人なる人物が彼に成り代わって詠んだ歌と解されるが、茂吉は「擬歌で毫も現実的価値のないものである。〜この歌の句に『荒波に寄りくる』などとあっても、直ぐ人麿が海辺で死んだなどと誤魔化されてはならない」と一蹴している。

5.茂吉変説編
 茂吉の権威によって、人麿終焉の地「鴨山」は、近くに「亀」という地名のある現在の津目山であると確定しつつあった昭和12年、茂吉は見知らぬ苦木という人物から自分の住む邑智郡の湯抱というところに「鴨山」という地名があるという手紙を受け取る。そして茂吉はさっそく実地調査に出かけ、鴨山が津目山に劣らぬ高く険しい山であったことから「津目山を鴨山だとするのは、前言のごとくカメからの推定に拠るのだが、湯抱の方のは、その儘鴨山なのであるから、寧ろその方と考える方が適当ではなかろうか」とあっさり変説するのである。
 茂吉は昭和15年の『寒雲』という歌集に「人麿が つひのいのちを をはりたる 鴨山をしも ここと定めむ」という歌をのせる。それはまさに「茂吉天皇が、ここに鴨山の地を定め給うたのである」(P105)ということであろう。

(注)「大雑把に要約する」と書いたが、さっぱり終わらない。とりあえず今日はここまで。

★★★☆

 


 

 相も変わらず 書評が再び大量に積み残し。



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