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2007年1月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 1月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。


(561) 『ひとりずもう』(絵と文:さくらももこ。小学館)

 実はこの本は小六の末っ子が自分で買ったものだった。
 話は変わるが、現実問題として、子供が一人目の時は両親とも子育てにリキが入っていた。長女が小さい時は、寝る前に絵本の読み聞かせなんぞをしていた。「やかまし屋のヤカちゃん」という絵本で、文中に出てくる歌を♪もしも 小さな 板切れの 上に♪なんて自分でメロディを付けたりしてたのを娘はいまだに覚えていたりする。
 しかし、長男や次男の時はそうもいかなくなった。そのせいかどうか分からないが、長女は実に本好きの子に育ったが、長男は推理小説を少し読んでるくらいだし、末っ子はマンガしか読まない。それなのに末っ子が自分で選んでマンガじゃない本を買ったというのだ。これは嬉しかったね。で、息子に本を借りて読んでみたのだ。
 ところが冒頭でいきなり「チンチンについては『変なの』という以外には何も知らなかった。まさかあの変なのが、状況に応じてやや変化するなんて予想もつかなかったし、小便以外の物を出す事があるなんて全く考えたことも無かった」とあるので、これを末っ子が読んだのかあ・・・と思うと困ってしまった。
 ラスト近くの漫画家になる夢をかなえるところがなかなか感動的だった。苦労してラブコメ少女漫画を投稿したがものにならなかった。あきらめて地元の短大にすすみ平凡な人生を送ろうと考え、国文科推薦希望者の作文模擬テストを受ける。すると気軽な気持ちで書いた作文が先生に「エッセイ風のこの文体は、とても高校生の書いたものとは思えない」と絶賛される。

「うれしい。こんな私の書いた文章を、そんなにほめてくれる人がこの世にいたなんて、うれしくてたまらない。
 夏の暑さとうれしさで熱くなっていた私は学校から帰るとすぐに風呂場に直行し、ホースで水を浴びた。〜ホースから出ている水がキラキラ輝いていた。〜このろくでもない風呂場全体が、虹色に包まれているように感じた。
 水が輝きながら流れているのを見て、私は将来、エッセイを書く人になりたいな・・・と思った。〜そして、ふと”エッセイを漫画で描いてみたらどうだろうか!!”と思いついた。〜私は、漫画家になりたい。小さい頃からそう思っていたのだ。絵も好きだし、文章も好きだ。それ以外の事は全部苦手だ。そんな事、最初っからわかっていたのに、私は何を迷っていたんだろう」

 あとがきもいい。
「よく”夢は願っていれば叶う”〜とか言うけれど〜みんなが叶うなら、あゆやヒッキーが何万人もいるだろう。〜でも叶った人がいないわけではない。〜もし夢が見つかった場合、その夢を叶えるためにどういう手順を踏むべきなのかまず考える事が必要だ。〜自分はとにかくそれになりたいとか〜いう情熱だけではどうにもならない場合も多い。〜自分には少しムリかも〜と感じたら微調整を考えてみる事も大事だと思う。〜まっしぐらに挑戦する時期がある事はすばらしいと思うが、状況に応じて対応できる柔軟な心というのも非常に大切だと私は思う」。

 結論として、息子がこの本を読んでよかったと思う。彼がどう感じているかはわからないが。

★★★☆


(562) 『水滸伝』3(著:北方謙三。集英社文庫)

「自分の生があるうちに、この国の土台ぐらいはしっかり立て直したい。そして、柱、屋根と取り替えていく端緒にしたい。それが、自分に国のありようというものをたえず問いかけ、理想を持つことの素晴らしさを教えてくれた、王安石へのささやかな自分の返答だと、袁明は思い続けてきた。
 理想は、夢のようなものだ。実現することなどない。ただ、一歩でも二歩でも近づくために生きる。それでいいのだ、と袁明は思っていた。
 頭の中にあるのは、瑣末な雑事ばかりである。それを、ひとつずつ解いていく。解く方向が理想にむかっていることだけ、見誤らないようにしていた。道のりの遠さは、考えなかった」。

 「袁明を中心とする青蓮寺が、守らなければならないのは〜この国そのもの〜
〜帝の極端な浪費を抑え、文官の数を減らし、不正の横行を取締れば、この国はまだ充分に豊かだった。〜
 頭で思い描いていることが、そのまま実現できないのは、よくわかっている。しかし、思う方へ少しでも近づけることは、難しいことではない。
 李富は、掌(てのひら)で眼を押さえ、少し揉んだ。
〜仕事がうまくいっても、軍人のように顕彰されるわけでもなく、文官たちのように昇進することもなかった。
 ただ、国は青蓮寺が支えている」。

 こんな独白をしているのは、いわば水滸伝では敵役にあたる官僚側だ。派手さはないかもしれないが、そのかっこよさは、まるでヒーローそのものではないか。

 「こんなことが、あるのですか。私には、国がひとつできあがっていくように見えます。これは現実なのですか。私には信じられない。現実だとしたら、どこかに落とし穴があるはずです。私は、それがこわい。東渓村で、平穏に塾の教師をしていた方が、ずっとよかった〜」
 梁山泊の体制が徐々に整いつつある時、こんなカミングアウトをしているのは参謀の呉用である。

 晁蓋はいい男だ。呉用は胸につもる様々な悩み、苦しみに堪えかねた。「酒が飲みたかった。しかし、ひとりで飲みたくはなかった」。晁蓋の部屋の前に来た。灯りはついていた。しかし、提げてきた酒は部屋の外に置いて、声をかけて中に入り、実務的な報告を始めた。
「『〜銀の蓄えも、相当量があります。問題があるとしたら、武具を作るための鉄が不足しそうなことです。これも、湯隆がなんとかするだろうと思います』
『呉用』
『はい』
『水臭い男だ。酒を飲みたいのだろう。なぜ、そう言わん』」

 こんな男になら、どこまでもついていこうと思えるだろう。

 月並みな言い方だが、敵役にも正義があり、好漢にも弱さがある。それが物語に深みを与えているのだろう。

 以前読んだ柴錬水滸伝では、閻婆惜は密通した挙句、宋江を恐喝して殺される。本書では、閻婆惜が嫉妬のあまり宋江の新しい妾を殺す。しかし、妾の名目で置いていたが、実は彼女は宋江の同志で、近々弟と結婚させようとしていた。ところが、眼の前で彼女を殺された弟がその閻婆惜を殺した・・・・ということで、本書では直接宋江は手を汚していない設定になっている。
 こうした改変(改良というべきか?新たな「水滸伝」全体の創造的再編の一端というべきか?)が、あとどのくらいあるのだろうか。

★★★☆


(563) 『神G剣侠』第三巻(著:金庸。徳間文庫)

 愛する楊過から身を引いた小龍女であったが、「たまたま」楊過が迷い込んだ絶情谷にいた。P46の公孫緑蕚の台詞ではないが、「そんな都合のいい話がこの世にあるかしら?」という感じ。
 話は(いつものことだが)急展開。郭芙が小龍女の「秘密」をばらし、我を忘れた楊過が彼女を平手打ち。激昂した郭芙は・・・・。
 その少し前、小龍女は物陰で、武兄弟を言いくるめるための楊過の方便を「たまたま」聞いてしまう。
 いやあ、いつもながら、ジェットコースターストーリーですなあ。上がったり下がったりで息つく間もなく、忙しい。

 ところで、P222に尼摩星(にませい)が岩を高く差し上げて投げつけている。「これは『釈迦擲象功』(しゃかてきぞうこう)といって、天竺釈氏一門の恐るべき武芸である。仏典に曰く、釈迦がまだ太子であったころ、ある日城を出ると、大きな象に道を阻まれた。太子が象の足を掴んで、天高く擲(なげう)ったところ、三日後象はようやく落下し、地面に深くめり込んだ。その穴を擲象溝という」とある。
 仏画ゼミで昔少し勉強した時、やたら象をぶん投げる絵が多いなあと思っていたのだが、こんな逸話があったのか。

★★☆

 


(564) 『神G剣侠』第四巻(著:金庸。徳間文庫)

 自分を守る盾になってくれた尹志平に小龍女は・・・。
 楊過の姿を目にした小龍女は、掌力と金輪を・・・。
 しかし、楊過の姿は、以前とはすっかり異なっていた。
 石室内でまたもや、取り返しのつかないことをしでかす郭芙。
 公孫緑蕚は、憎まれ役を買って出てまで楊過のため解毒剤を手に入れようとし、その後、「楊過の瞳の中に、自分への気遣いを見て、大いに慰められたのだった。〜もう、死んでも悔いはない」と、自分を盾にしている父の剣に身を投げる。
 P353の黄蓉の台詞ではないが「それにしても、楊過はいったい、どれだけの娘たちに想われているのやら」と思う。さすが天性のホストである。



★★☆

 


(565) 『神G剣侠』第五巻(著:金庸。徳間文庫)

 いよいよ完結編。長い空白を超え、何とか再会を果たす二人。
 また、「胸に抱いていた憎しみを消し去って、郭芙は突然、気がついたのだ。自分がこんなにも楊過のことを思っていたのだと」。前巻の「どれだけの娘たちに想われているのやら」で、また、その「娘たち」が一人増えた。
 「楊過は〜左手で拳ほどの大きさの石を拾い、ぶんと擲ち、モンケの背中を狙った。渾身の力を込めたこの一擲は、モンケの筋と骨を絶ち、もんどりうって馬から落ちたモンケは、忽ち絶命した」。
 あら、モンケが死んじゃった。すごいな。
 郭襄らの物語は『倚天屠龍記』に続く・・・ということで、何か尻切れトンボ気味に終わった気がする。


★★☆

 


(566) 『菜根譚』(著:洪自誠。訳注:今井宇三郎。岩波文庫)

 本文庫の表紙には「中国明代の末期に儒・仏・道の三教を兼修した洪自誠が〜人生の哲理を簡潔な語録の形に著わした」とある。
 最初のうちは、ふむふむと思えていたが、「狭い道では自ら一歩を譲れ」なんてことが、第十三、第十七、第三十五と繰り返されると、さすがに飽きてくる。まあ、どれもこれも「淡」というか、こだわるな、恨みは許せ、施した恩は忘れろとかその手のことが繰り返し書いてあるし。

 それと、第四十一の「君子たるものは、平素の好みとしては、あまりに念入りで派手であってもいけないが、だからといって、あまりにあっさりし枯れてしまうのもよろしくない」とか、第八十一の「気まえは高く広くなければならないが、さりとて現実ばなれしていてはならない」、第百九十五「処生の道としては、世俗の人と全く同じであってはよくないが、また、あまりかけ離れてしまってもよくない」などを読むと、「いったい、どっちやねん」と言いたくなった。
 

★★☆

 


(567)『水滸伝』4(著:北方謙三。集英社文庫)

 前巻の最後で結果としては妾殺しということになって、役所を出奔した宋江であったが、本巻では未だ梁山泊入りせず武松を従者として旅を続ける。
 旅の途中で知り合った李俊という男の家で、夫と子を目の前で亡くして気がふれた公淑という女と出会うが、一目で彼女が庭の隅に子供の遺品を埋めていると気付く。
 そして、なぜわかったか訪ねる武松にこう答えている。
「わかったわけではないのだ、武松。強いて言えば、感じたというのだろうか。なにか、人の心の中にある悲しみのありようが、私にははっきり見えるようになった。それによって、さまざまなことを感じてしまうのだ」
 宋江というと、三蔵法師『西遊記』)、劉備『三国志』)とならぶ、中国明代小説三大「でくのぼう」ヒーローというような形容を目にしたことがある。(『三国志 策謀と激闘の世界』世界文化社。三国志の大地 「無能の人」劉備:駒田信二
 武勇抜群なわけでも、積極果断なわけでもなく、しかし、なぜか周りからは持ち上げられる。確かに以前読んだ『水滸伝』でも、やたら「及時雨(干天の慈雨)」とか言われて尊敬を浴びるが、どうしてなのかわからなかった。筆者もその辺の宋江の魅力づくりに苦心している感じがする。

 宋江が出会う人物としては、前半の穆弘も印象深い。李俊とはお互いに一目置き合う存在である。宋江は李俊に「李俊、おまえと穆弘が組めば、このあたりで逆らえる者などいなくなるのではないか?」と尋ね、「それもお互いにわかってるが、どこでどう組めばいいかが見えねえんだ。認め合いながら、やっていくしかねえ」と答えている。
 李俊は、「替天行道」の旗をあげ山塞で決起することにした。穆弘にそれを告げた時、軍が出た時、別の騒ぎを起こして負担を少なくすることはできると思うと言ってくれた。
「『それは、この地域にいて、俺を助けてくれるということではないか』
『くやしいが、そうするつもりだ』
 李俊は、しばらく黙っていた。
〜穆弘は、引き抜いた草を噛んでいた。〜
『お前に出し抜かれた。それは忘れぬぞ、李俊。〜』
『ああ』
 李俊は、空を流れる雲を見ていた。」
 まるで本宮ひろ志が『男一匹ガキ大将』で描いていた一シーンのようだ。
 また、本巻半ばで出会った李逵は、これからいやほど登場してくるのであろう。

 晁蓋は、本巻でも、一本気な鍛冶職人湯隆とのやり取りなどで人間的魅力が横溢しまくりである。楊志も一目惚れしてるくらいだ。(P274に「その笑顔をむけられた瞬間、楊志は晁蓋をたまらなく好きになっている自分に気づいた」とある)
 さて、晁蓋は何巻で死ぬのだろうか。

 ということで、発売されるや読破してしまい、続巻も大いに楽しみなのだが、閻馬桂の所はちょっと・・・。唐牛児をブレーンウォッシュして、残忍な閻婆惜バーチャル殺害場面を脳に焼き付けさせる。そして、それを母の馬桂に聞かせる。
 夫が尊敬していた宋江が愛娘を惨たらしく殺し、志に女がいるか、と吐き捨てたと牛児の口から聞いた馬桂の心の隙を李富がつく。家と下女を用意し、馬桂を迎えた。梁山泊の間者だった馬桂を青蓮寺の二重スパイにするためだ。
「馬桂という女の心を、おまえのものにできるかどうかだ。どうすればいいのかは、自分で考えろ」、それが袁明の言葉だった。
 馬桂は尋ねた。
「男として、女を迎える、と言われているのですか?」
 さらに、問う。
「李富殿は、ほんとうに私を抱けるのですか。もう老いはじめたような女を」
 止める間もなく着物を脱ぎ捨てた馬桂の乳房に、李富は「抱ける」と言って手をのばす・・・・。ここまで書き込まなくてもいいような気がするんだが。

★★★☆



(568)『天平の甍』(著:井上靖。新潮文庫)

 巻末解説にあるように「名僧鑑真の来朝という、日本古代史上の大きな事実の裏に躍った、五人の天平留学僧の運命を描き出した」作品である。
 異国の地で命を落とし、鑑真に愛惜された栄叡も、志を貫き通して鑑真を連れ帰り、帰国後は既存南都仏教徒を論破するまでになった普照も、それぞれ印象深い。
 しかし、私には、唐土で「〜始めたのが遅かったんです。自分で勉強しようと思って何年か潰してしまったのが失敗でした。自分が判らなかったんです。自分が幾ら勉強しても、たいしたことはないと早く判ればよかったんですが、それが遅かった。経典でも経疏(けいしょ)でも、いま日本で一番必要なのは、一字の間違いもなく写されたものだと思うんです。〜」と語り、ただひたすらに写経に勤め、鑑真よりも自らの経典を持ち帰ることを重視したが、遂にその志を遂げることができず、膨大な経典、そして膨大な時間・労力、つまりは彼の生涯のすべてとともに海の藻屑となった業行がとりわけ心に残った。


★★★☆



(569)『まるこだった』(絵と文:さくらももこ。集英社文庫)

 参観日にいつも通り「もし犬が飼えるようになったら、どういう犬を飼い、どのような生活になるか」ということを空想し、大恥をかいたまるこを母が叱り、父ヒロシにも訴え、「ちょっとアンタからも、ももこにひと言いってやってよ」と言ったが、ヒロシはわけのわからぬ返答を。
 すると「あたしの話を何にもきいてないじゃないっ。なんでももこもあんたもそんなにうわの空で生きてるのっ!?あたしゃホントにイヤンなるよ。お姉ちゃんを連れてどっかに家出したいよっ」と叫ぶ母。ああ、ももこワールドだなあ。

 ヒロシと母の離婚話が持ち上がり、「私は姉に『もし離婚することになったらどっちに行く?』ときいた。姉は『私はお父さんのところにすると思う。転校したくないし経済的にもお父さんの方が困らないと思うから』という現実的な答えが返ってきた。」
 まるこは母につこうと考えていたので「離婚となれば姉妹も離ればなれになるのだ」と感じた。そこまでは共感できるが、ももこの妄想はふくらむ。
 「考えてみれば転校というのは新しい出発だ。〜転校すれば今までの私のことを誰も知らないクラスメイトに囲まれて、おしとやかで思慮深そうな知的な女子として一からやり直すことが可能である。これはちょっといい話だ」。
 さらに、離婚したとなったら同情されて、自分の部屋ももらえ、犬も飼ってもらえるのではないかと考え、「こうなると離婚も悪くない。むしろした方がいいんではないか、とすら思えてきた
 この辺の、非常時におけるノウテンキさが改めてももこワールドだなあと思う。


★★★


 

  積み残しの書評が少し片付きました。



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