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2006年12月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 12月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。


(555) 『うつうつひでお日記』(作:吾妻ひでお。角川書店)

 以前読んだ『失踪日記』を描いていた頃の「絵日記」。『失踪日記』は、あの人気漫画家がホームレスになってしまった事情を自ら明かしたり、アル中で入院したりしていた日々のことを描いていたから、ともかくセンセーショナルだった。
 本作は「アル中病棟を退院し〜社会復帰をめざす日々。しかし仕事はほとんどなく貧乏 やむなく同人誌を出版したり〜して糊口を凌いでいた頃をつづった」ものである。
 だいたい毎日、朝コーヒーとトースト食べて、漫画を2Pほど描いて、昼に麺類かまぜご飯を食べて、図書館で本で読んで寝る・・・ってことが延々と描かれている。
 私は昔からの「あじま」ファンだからそれでもおもしろいが、一般的には、作者が自嘲的に書いているように「毎日なんの変化もない」、「退屈」、「こんなやつだけにはなりたくない」という感想だろうか。


★★★


(556) 『伝統木造建築を読み解く』(著:村田健一。学芸出版社)

 先日ある講演会で「大仏様」(だいぶつよう。重源上人が東大寺を再興する際採用した建築様式)のことを知った。

 で、また先日、東大寺に行く機会があって転害門を観た。重源上人が大仏を含む東大寺伽藍を再興したのは1180年に平重衡の焼討ちにあったからである。転害門は東大寺境内の西北端に位置し、その兵火を免れた。よって転害門は東大寺創建当時の天平様式を伝える唯一の建築物・・・なんて言い方もされるのだ。
 ところが転害門を観ていて、どうも大仏様が混じっているように思えた。創建当時のままなら、再興時に採用された建築様式が含まれているのはおかしい。考えられるのは転害門の様式を参考に大仏様が考案されたか、逆に転害門を大仏様によって後日修復したかのいずれかの筈だ。多分後者だろうな、と思いつつも確信はなかった。

 ネットで「転害門」とかを検索していると本書の目次が出てきた。そこには「鎌倉期の建築ラッシュ」とか「東大寺転害門修理に見る中世の幕開け」なんて見出しの字句もあったので、読んでみたいなと思った。
 しかし、どうみても部数が出そうな本ではない。出版社に注文しないと無理だろうなあと思っていたが、先日本屋をのぞくとどうした訳か、一冊だけひょこっと並んでいた。それほど大きな本屋でもないので全く期待していなかっただけに妙なご縁を感じたのであった。

 結論から言うと、やはり後者だったようだ。金堂(いわゆる大仏殿)の竣工式の入口に転害門が選ばれ、この竣工式は当時の天皇、将軍らも参列する一大イベントであったので転害門は大々的に改築修理されたようである。
 本書には「組物を平三斗から出組とし〜正面側の斗と桁は〜新様式・大仏様の形式を採用しました。〜東大寺転害門の鎌倉期の改造は、金堂など鎌倉再建期に採用された新様式・大仏様を取り入れながら、その後一般化する出組に改造するという、中世の幕開けを象徴する改造と言えます」とある。
 私が感じたのは側面の組物や繰形に対してであった。正面にはそれほど着目していなかったので「背面側は新様式を採用することはな」かったという違いにもよく気が付かなかった。

 私が「大仏様かな?」と思った組物は確かにこの鎌倉期に改造されたものであるとはっきり図解されていたが、大仏様とまでは明言されていない。95%くらいまではスッキリしたのだが5%ほどだけモヤモヤが残る。

 他のところでも若干そうしたきらいがあった。連三斗については図解があるのだが、巻末の用語解説で出三斗、平三斗には図解がない。(←本文に図解されてました。ごめんなさい)
 はね木のところなんざ、「ああ、なるほど」と感心できるのだがP56の「回転力が働き・・・」の一節が少し難しい。

 こんなことを書くと著者にしてみたら「ええ?これだけ図解を多用し、かみ砕いて、分かりやすく書いたのに・・・」と無力感に襲われるかもしれない。
 これで分からないほどのド素人に向けて書いた本じゃないと言われるかもしれない。
 無い物ねだりの高望みと承知しつつ、これだけ取っ付きやすく書かれた本だけに、あえてあと一歩を望んでおきたい。


★★★☆


(557) 『誤解された仏教』(著:秋月龍a。講談社学術文庫)

 筆者は「秋月の仏教説は厳しすぎる。あまり厳格に考えすぎると、仏教そのものが、瘠せ細ってしまう」と批判されていると書いている。
 確かに筆者は本書でも多くを否定している。

 例えば筆者は霊魂の存在を否定する。
P22 仏陀は「アン・アートマン」〜といって「無我」説を主張されたのである。「自我」ないし「霊魂」の存在をはっきり否定されたのである
P55 仏教は、”肉体が滅んでも死滅しない実体”である「個我」(霊魂)を否定する。〜釈尊は「霊魂」について何も語らなかった。その意味で、仏教ははっきり「無霊魂」論だといってもよい。

 筆者は輪廻を否定する。
P25  釈尊も確かにヒンドゥ思想伝来の輪廻説から出発した。〜釈尊は菩提(悟り・覚)によって〜生死を解脱した。だから、悟ったのちの釈尊が、輪廻説などにたったわけはない。〜「輪廻」の説は、あくまで仏教の前提としてのヒンドゥ教説であって、厳密な意味では仏教説ではない。

 筆者は梵我一如を否定する。
P62 学者たちは、往々にして仏教の「悟り」をヒンドゥ教の「梵我一如」に結びつけて解釈しようとしたがる。〜「梵我一如」の教説は仏教とはまったく”本質的に異なった仏教”(ヒンドゥイズム)のもので〜それは一種の「大我(マハー・アートマン)」説であって、「無我(アン・アートマン)」説を根本とする仏教とは相容れない考え方である。

 筆者は争いを否定する。
P17 争いは、つねに修羅道であって、断じて仏道ではない。真の仏教には、摂受(しょうじゅ)ということはあるが、折伏ということはあり得ない〜。

 筆者は三世を否定する。
P50 「三世」など否定しても、「因果」の道理は、ちゃんと成り立つ。現世だけでよい、前世や来世の話など、まったく必要ない。

 筆者は葬式を否定する。
P26 本来、仏教は葬式やお墓とは関係がなかった。

 筆者は神を否定する。
P47 苦しいのは神の罰などではなく、自分の業(行為)のせいである。〜釈尊その人の宗教は、あくまで無神論であった。

 あれも否定し、これも否定し、いったい何が残るのか?
  筆者は仏教の最も根源を「仏法には無我にて候」(蓮如)という言葉に見いだしているようだ。それを伝えるため「禅定」や「菩提」、「覚」、「般若」、「無我の我」、「空」、「仏性」などいろいろ表現をかえ、説こうとしているように思える。
 しかし、私の印象に最も強く残ったのは、少なくとも6回(P84、P123、P126、P143、P187、P188)は繰り返された「ノミのキンタマ八つ割り」という言葉なのであった。

★★★☆

 


(558) 『アメリカの鱒釣り』 (著:リチャード・ブローティガン 訳:藤本和子 新潮文庫)

 文庫の帯にある「藤本和子訳『アメリカの鱒釣り』は、翻訳史上の革命的事件だった」という惹句につられて買った。

P27「クールエイド一袋で二クォート分をつくるのが普通だが、かれはいつもその二倍、一ガロンの水を使った。だから、かれのクールエイドときたら、いわば理想的な濃度の影にすぎなかった」。

 どの作品もそこそこしゃれてはいるのだが、同じく帯にあった「魔法のように美しい」とまでは感じなかった。


★★☆

 


(559) 『言いまつがい』 (監修:糸井重里 編:ほぼ日刊イトイ新聞 新潮文庫)

 「馬車馬のように働く」というところを「種馬のように働く」と言ってしまって男性社員にうらやましがられた。

 「あいつは部長の二の腕だからなあ」

 「昨日は自分で晩御飯を作ったんだよ。さかりのあさむし

 「あなた達、音楽に全然気持ちが入ってないわね!今までこんだけ練習してきてるのに、しっともちんぽしてないじゃないっ!」

 エレベーターで、私は後から乗ってきたおじさんに「何階でござるか?」と言ってしまいました。

・・・・・などなど。文庫冒頭で「編集部からのお願い」として本書を不特定多数の人々が集まる場所などで読むなと注意している。
 しかし、私はこれを電車の中で読んでしまい、肩が震えて困った。

 冷静になれば大したこともないのだが、初読時のインパクトはなかなかのもの。最近本屋では『金の言いまつがい』とか単行本も出ているようです。


★★★

 


(560) 『飛びすぎる教室』 (著:清水義範 え:西原理恵子 講談社文庫)

 お勉強シリーズ最終巻。四教科ぜんぶやっちゃったが音楽や体育でやるというのもぴんと来ない。といって、いま話題の「総合的学習」という言葉は使いたくない。
 それで、授業の合間の先生の雑談、いわゆる「脱線」と呼ばれるような部分が一番心に残っていたりする、ということで今回は特にどの教科ということにはこだわらず、清水せんせえが自由に語ることになった。
 まあ、狙いはわかるのだが結果としてはも一つ焦点の定まらない感じになってしまったように思う。

★★★

 


  何かと忙しく、書評に手がまわってません。

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