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2006年10月・11月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 10月・11月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。


(552) 『体験的朝鮮戦争』(著:麗羅。徳間文庫)

 「麗羅」というから「夜露死苦」的な、イケイケのスケ番暴走族(←死語)かと思ってカバーの著者近影を見たら、髪の毛がさみしくなったおぢさんだった。
 筆者は、1950年、東京は府中の米軍基地内のクラブのマネージャーをしていた。そして、朝鮮戦争開戦の報に接し、国連軍(米軍)の通訳として朝鮮戦争に渡った。筆者が日本に渡るまでには凄まじい過去があったのだ。

 筆者は第二次世界大戦の最後の日「祖国が日本帝国主義の鉄鎖から解放されたその歴史的な転換点を〜朝鮮半島東北部の咸鏡北道で迎えた。口惜しいことに〜祖国の敵である日本陸軍の一兵士としてであった」(P34)。しかも彼は無理やり日本軍に徴兵されたのではなく志願兵だった。
 ソ連軍の制服を着た朝鮮人将校が武装解除された日本軍から朝鮮人兵士を選別し、徴兵組は即時帰郷が許されたが、志願組はウラジオストックで親日派・民族反逆者としての査問を受けることになった。
 彼は「少しでも罪を軽くしたい一心で、日本軍に志願した動機を警察に脅迫されたがためと、嘘の身上報告書と反省文を書きとおした」(P43)。彼は、反省文が朝鮮語で書いてあることが、後に北朝鮮の外相となる南日(ナムイル)に認められ、北朝鮮安州の政治訓練所に送り返される。そして「幼時からの私に才能があるとしたら、こうした集団教育の場でうまく教官にとりいること」(P91)を活かし、所長の安吉(アンギル)に目を掛けられ、故郷への慶尚南道に帰るよう命じられた。

 「38度線はいかなる意味でも本来の国境線ではない〜いかなる伝統的な意味も持っていない」と言われているが、ソ連軍と米軍が朝鮮半島を掌握する分岐線はそのまま深い溝となった。
 筆者は、その後南側へ北側勢力拡大要員として送り込まれた。彼は南朝鮮労働党のもと党勢拡大に奔走したが、なぜか途中から冷遇されるようになった。ある日、党から呼び出しを受けた彼は、思いがけず三郡の軍事委員会の責任者に任命される。彼は「道委員会は私のことを忘れてはいなかった」(P125)と感激するが、それはワナだった。
 「北から帰ってきた筋金入りの共産主義者(?)としての虚名はとうに探知されていて〜道委員会は承知していながら、弾圧がはじまった場合を予測し、当局側を欺く囮として私を三郡の統合軍事委員会の責任者ということにしたが、実際は、裏で別の責任者が任命されており、私が努力して作成・提出した遊撃戦計画などは一顧もされなかったばかりか、そのまま警察に通報されていた」(P133)ことを警察に逮捕された後で知る。
 彼は壮絶な拷問を受け、また、彼に勧誘された人々が拷問される場に同席させられ、彼らに「苦痛に呻きながら『自分が党員になったのは、あいつのせいだ』と」(P135)指さされ、肉体以上に精神的な苦痛を受ける。さらに、囮であっても責任者である以上、死刑を免れることはできないと予告され、「必ず処刑されるがいつになるかはわからない」(P151)恐怖と絶望の日々をおくる。

 死刑判決を待つばかりの彼は、ある日取調室に呼び出され、激しい殴打を受け失神する。気がつくと彼は棺桶に入って家族のもとにいた。父が警察署長、担当検事、警察医に莫大な賄賂を贈り、拷問で死亡した「死体」として家族に引き渡されることになったのだ。
 赤狩りのトラックがニ、三日おきに村にやってきて、棍棒を持った青年団の連中が家々を襲う。「遠くからトラックの音が聞こえると、父は私を背負い、母に毛布を持たせて裏山に連れていった」(P156)が、これ以上隠れきれないと感じた父は1948年の半ば、日本へ密入国し、東京に住んでいる兄を頼れと命じた。
 彼が押し込められた7、8トンの小さな漁船は、何とか福岡県のどこかの海岸50m沖合いに着いた。彼は刑事の尋問を受けるが、拷問の痕を見せ、見逃してくれと哀願した。刑事は、彼を門司駅へ連れて行き、足りない切符代まで出してくれ、さらにコッペパンを三つ買ってくれたという。

 筆者は、その後の朝鮮戦争の経緯を淡々と著述している。もちろん「北の政権は〜人民を〜主席父子とその二人を取り巻く一群の共産主義貴族の奴隷にしている」(P398)というスタンスに立ち、国連軍(米軍)寄りではあるが、彼のこの「体験」からすれば、それをどうこう言うことは私にはできない。ただ、筆者が、共産主義よりもさらに強く指弾すべきと感じているのは「民族の宿痾(しゅくあ)ともいうべき非団結性」(P19)ではないだろうか。

★★☆


(553) 『水滸伝 一』(著:北方謙三。集英社文庫)

 語るな、北方水滸伝は。これが第一印象である。『水滸伝』というとこれまで、登場人物が多すぎて一人ひとりの描き分けは粗略・・・というイメージを抱いていた。それと、お約束のように、登場人物を紹介するためのエピソードを連ねていく(そして、多くは登場するだけ登場して消えていってしまう)という印象。
 しかし、本書では既に林冲、魯智深らは宋江の存在を前提としているようなのだが、あまり多くは説明されない。
 で、一方、林冲は妻との愛欲生活(? 世間体のため娶った。惚れてはいないが、情欲は抑えきれないなど)を魯に語ったりしている。
 その後、林は反政府活動を疑われ(まあ、実際そうなのだから李富ら諜報部の情報収集能力が高かったのだが)、妻を失う。妻は林冲を救おうとするあまり高俅に陵辱され自殺するのだが、失った後で、林は妻を愛していたことに気づくのである。悩む、反省する、悔やむ。こんな一人ひとり内面を語らせていて、ボリューム的には大丈夫なんだろうか。
 朱貴も出てくる。朱貴といえば、王倫時代から裏で梁山泊への手引き役をやっている茶店の親父というイメージだったが、彼も若妻が不治の病となったことに苦悩している。
 盧俊義と燕青はまるで「やおい」関係である。「盧俊義は燕青に腕を揉むのをやめさせた。燕青は、もの足りないという表情をしている」などという描写もある。
 また、宋江も若妻と愛欲の限りをつくしている。妻閻婆惜は同志の娘で、父の死後母閻馬桂と共に宋江を頼ってきた。宋江は最初養女にしようと考えたが、馬桂が妾にすすめたという設定になっている。原作では、やはり母親が妾に、と押し付けたのだがとんだあばずれで、宋江の下役と密通し殺されるのだが、本作では違う。「事実、好色なのだ。閻婆惜の若い躰を、どう楽しもうかと抱くたびに考え」ているのだ。もうえらいことである。(←何のこっちゃ)

★★★


(554) 『水滸伝 二』(著:北方謙三。集英社文庫)

 もともと原作では、潘金蓮は醜男の武大に愛想をつかし、弟の武松を誘惑するが相手にされない。そして西門慶と浮気し、夫を毒殺し、武松に殺される悪女・淫婦だった。それが本作では女神のような存在である。武松の二十年来の思慕の対象であり、最後、その思いを受けとめ(まあ、受け入れたのは「思い」だけではなかったのだが)、さりとて夫を裏切ることもせず、従容と自ら死を選ぶ。本巻前半では、とにかく武松が苦悩しまくっている。
 本巻では晁蓋が先乗り部隊の林冲の手引きで、堕落した王倫を倒し、梁山泊を乗っ取るところまでが描かれる。改革を目指す組織の黎明期である。すべてが清新で、希望にあふれている。しかし、これは『水滸伝』である。『水滸伝』である以上、現在描かれている素晴らしい組織も必ず堕落し、腐敗していく筈である。(好漢集結までで切ってしまう七十回本バージョンなら別だが)今語られている理想も、やがて泥にまみれる筈だ。
そう考えると、本巻の宋万、杜遷らの「俺たちは王倫の下で駄目になりつつあったが、完全に腐ってはしまわなかったのだ」、「俺たちはいま、はじめて世直しの闘いをはじめようとしている、という気がする」といったセリフも妙に哀調を帯びているように感じられるのである。

★★★

 


  何かと忙しく、書評に手がまわってません。

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