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2006年9月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 9月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。


(545) 『麺の文化史』(著:石毛直道。講談社学術文庫)

 筆者は幼少のみぎり親から将来つきたい仕事を聞かれ「蕎麦屋の小僧」と答え、軍国主義華やかなりし頃の親をいたく失望させた過去があるそうだ。筋金入りの麺好きの筆者が、日本だけでなく世界の麺に関する歴史を知りたくて、(そのような書物を見つけられずに)自分で調べたのが本書である。まさに「文化麺類学」といえよう。

 まず「麺」の定義が確立していないようだ。筆者の定義は「穀物、マメなどの粉を主原料として、線状に加工した食品で、原則として、ゆでたり、煮たりして、主食、あるいは準主食的な料理の主材料として食べられるもの」

 次に製麺法の分類だが、「めんの系譜研究会」の見解を参考にして、(1)手延べラーメン系列、(2)そうめん系列、(3)切り麺系列、(4)押しだし麺系列(リョクトウ粉、ソバ粉、コメ粉)、(5)河粉系列
 (1)は、道具をいっさい使用せず、練り粉を手で線状にのばす製麺法。(2)は、小麦粉を練ったものを1本の長いひも状にのばし、2本の棒に巻きつけ、片方の棒を固定し、もう一方の棒を下に引っ張って糸状にのばす製麺法。(3)は、薄くのばした麺生地を刃物で切って線状に加工する製麺法。(4)は、粉をペースト状にして小孔から押し出すことによって線状に加工する製麺法。(5)は、ペースト状のコメ粉を湯に入れ、できた皮膜を刃物を条状に切ってつくる麺を、広東省で「河粉」(ホーフェン)と呼ぶらしいのだが、筆者もあまり資料が見つけられなかったそうだ。

 そして、日本、朝鮮半島、モンゴル、シルクロード、チベット、東南アジア、イタリアなど各地の麺の歴史と現状を探る。ただ、全体を通じると、後半(世界各国編)がやや息切れしているかな。いや、、むしろ読んでる私が息切れしたんだろう。

★★★


(546) 『古代殷王朝の謎』(著:伊藤道治。講談社学術文庫)

 本書は序章がけっこう長いのだが、その末尾で筆者がえらく弱気である。「殷代史研究の現段階の意義を〜示そうと考えているが、かぎられた私の力では、ほとんどその目的を達することはできないかもしれない。かえって読者には、古代史に対する不信感をいだかせるだけの結果におわるのではないかとも思う。
 〜本書の全体はほとんどこうした自問自答と、さらにそれに対する自己懐疑で終わりそうである。おそらく、明確な結論はなにも出ないのではないか、と私はそれをおそれるのである」とある。「しかし、力の及ぶ限り努力したい」とか何とか書いて本論に入るのか、と思いきや、この自信のない状態で本論に入っちゃうのである。

 まず、董作賓氏は甲骨文にあらわれる卜師の名や祖先名などで「第一期 武丁、第二期 祖庚・祖甲、第三期 「りん」辛・康丁、第四期 武乙(ぶいつ)・文丁、第五期 帝乙(ていいつ)・帝辛」に分けた(P26)とある。
 一方、董氏は文化的内容による分類も試みたようだ。「殷代には旧派・新派の二つの文化があり、これが相互にあらわれる」(P29)というのは知らなかった。
 甲骨文に刻まれた王の名前で「第一段 旧派 盤庚・小辛・小乙・武丁・祖庚、第二段 新派 祖甲・「りん」辛、第三段 旧派 康丁・武乙・文丁、第四段 新派 帝乙・帝辛」に分類できる(P31)そうだ。

 で、旧派と新派がどう違うか、というとまず祭祀の制度。初代帝「こく」から8代王亥を旧派は祭祀の対象とするが新派はしないし、あといろいろ違いがある。
 次に暦法では、旧派は閏月を「十三月」として年の終わりに置くが、新派は適当なところにはさむ。また、年のはじめを旧派は「一月」と称し、新派は「正月」と称する。
 さらに甲骨文に記された占いの内容として、疾病・妊娠分娩などについては旧派には含まれるが、新派ではない。
 なお、こうした旧派と新派の違いを生じた理由を、筆者は兄弟相続に求めている。すなわち、当時祭祀の様式が変わるというのは相当大きな変革であり、これはその王をかつぐ権力集団の交代であって、当時の特に兄弟相続は「同一の政治機構が歴代継承されていくようなものではなく、王ごとに構成員を変化させていくものであった」としている。

 筆者は、第一期から第五期の約200年で「殷代の祭祀がしだいに先王に代表される祖先神に統一されるようになってきた」(P84)ことをエジプトにもメソポタミアにもみられぬ中国の特色として注目している。
 また、筆者は殷代末期(第五期)の特色として、王自ら卜(うらな)い、かつその結果がすべて吉である現象から「祖先の神としての地位が確立すると〜その子孫である〜王の意思がすべて(石野注 卜いの結果にすら)に対して優越するものとなった」ことにも注目している。

 なお、筆者が「結び」の章で全体を要約してくれているので、それを引用して終わることとする。
「一 殷代の宗教は、たんなる神への崇拝信仰というようなものではなく、そこには征服者と被征服者とを結合する働きがあった。すなわち自然神と帝との関係がこれであった。
二 当時は、このほかに祖先崇拝があり、それは王の場合にとくに顕著に見られるものであったが、これは王権がしだいに確立してくる過程を示すものであった。
三 しかしこの祖先祭祀をめぐって、殷の王室には、二つの大きな伝統の流れがあったことも明らかにされた。
四 しかもこの二つの流れは、たんに宗教上の問題だけでなく、王室の構成という人的な関係をも二分するものでもあった。このことは、この時代の王室が内部に対立する勢力をもっていたことを意味していた。さらにこれは、殷の王子たちをも二分していた可能性が認められる。
五 したがって王の死後、王位継承の争いがおこれば、それはたんに王子間の争いにとどまるものではなく、王朝の構成をも崩壊させるものでもあった。しかも王権の分散、各地の政権の対立を生む可能性があった。都の内部でも争いがあったことが墓によって知られる。
六 じっさいに、王系に対する殷の人々の考え方のあいだにみられる混乱や、殷王遷都の伝承は、以上のような可能性によって、新しく解釈することが必要になった。
七 したがって、殷という王朝の王権は、それほど確固たるものではなく、王個人の能力によってかなり変化するものであり、その支配する地域もつねに変動するものであった。
八 まして紂王の東南方への円成というような、一時的な軍事行動が、政治的な支配圏を意味するものではない。
九 また殷代の官制をみても、確固たる組織があるわけではなかった。それは、殷の支配下にあった地方の各小国から派遣されてきた人々によって構成されるものであったために、広範な地域をじゅうぶんに支配していくことのできるような組織ではなかった。
十 以上の各条から考えて、殷という国家の基盤は、王墓や巨大な青銅器から連想されるほど強固なものではなかった。
十一 歴代の王宮が、比較的短期間しか使用されなかったのも、たんに技術的な問題として理解するのは不十分で、王権の不安定性ということとも関連するものであった。
十二 そればかりでなく、王宮の使用期間ということから、当時はなお死者の霊に対する畏怖感、死者崇拝というものがのこっていたことがわかる。
十三 にもかかわらず、当時はすでに、未開社会的な氏族制が崩壊し、大家族制が成立しており、祖先崇拝が行なわれ、家長権がしだいに確立してきていた。
十四 これに対応して、殷代中期には社会の内部に階級の分化が生じているのであり、晩期には王権を成立させるに至っていた。
十五 では、この分化した階級の最底辺にいたと想像される奴隷と、当時の基本経済であった農業生産とはどんな関係にあったかということになると、従来行なわれてきた資料解釈には重大な疑点があることが明らかになった。しかし残念ながら新しい解釈も、考古学的な資料および甲骨文のもっている限界のために、じゅうぶんには展開することができないのが現在の研究段階である」。

 なんだ、お前がごちゃごちゃ書かなくても、最初からこの筆者の「要約」を書けばよかったのに・・・・・なんて言わないでもらいたい。私自身、そう思っているのだから。

★★★


(547) 『清国文明記』(著:宇野哲人。講談社学術文庫)

 本書は、明治39年から41年にかけて、当時東京帝大助教授だった筆者が清国に留学したおり、旅行記風に両親に書き送った手紙がベースとなっている。当時の清国の風俗がうかがえるので、目にとまったまま書き留めてみる。

P31「河北と江南とは到底同日に論ずべからずとは云え〜北京を了解すれば中国の過半を了解したものである」。

P35「中国家屋のすこぶる都合好いことは、壁を塗り直し〜全く耳目を一新することができることである。中国国民は実に多くの点において物を糊塗することの巧みなるものである」。

P36「貧乏のことを壁立とは面白い形容もあったものだ」

P37「彼らの家屋中に雪隠の設ないでもないけれど、窮屈な臭い処よりも青天井の下を好むの性があって、横丁や曲がり角などにはしばしば蹲踞している」←これについては、別書『貝と羊の中国人』で、似たような指摘あり。

P38「彼らは創業の際にはドエライことをしてのけるが〜自然の成り行きに任せ、いよいよ不可なるに至れば、別に新しい物を作るのは彼らの常である」。

P40「中国人は一体に非常に投機心が強く、彩票(ツアイビヤオ)すなわち富籤が各所に非常に流行する」。

P45「一体に彼らは鳥を愛することはなはだしく、行住坐臥鳥を伴うている」。

 筆者はいわゆる京劇についても一項を設けている。
P56「中国では芝居見物のことを聴戯(テンシイ)という。〜
〜○ 囃し方 〜囃し方が乱雑な服装で雑然と舞台の上に並んでいるのは随分目障りである。
〜○ 演奏 〜役者は〜男子のみを常例とする。〜役者らが自分の謡い物を謡ってしまえば、我が事終われりという様子で、後見人から湯をもらって飲むのは滑稽である。〜我が能楽と同じく形ばかりの物を持ち出して、家とも舟とも見る例であるから、科(しぐさ)もこれに伴い〜鞭を人に渡し足をトントンと踏んだのは下馬を示す類が多い。〜
〜○ 観客 〜役者の歌謡の妙に入るごとに、観客は好好(ハオハオ)と叫んでこれを賛美すること我が大向連(おおむこうれん)に似ている。婦人は市中の劇場に入るものなし〜」

P84「僧侶は僧侶でも中国の僧侶はなかなか欲が深いのである」。

P91「北京の婦女は〜白粉を壁のようにぬり立て、眉尻から顎あたりにかけては臙脂(えんじ)を真紅にぬり、まるで林檎のようにしている。遠視(とおみ)はなかなか奇麗であるが、さて近づいて見ると頸筋は真っ黒に汚れているのは一種の奇観である」。

P134「山東は一体に山国だからその産物は全省の民を養うに足らぬ。そこで、昔斉の管仲は非常に産業に注意し〜天下に覇を唱うるに至った〜あたかも上杉鷹山公が米沢のごとき山間の脊地(せきち)にあって〜富を増進したようなものである。〜山東人は〜一体に進取の気風に富み最も商業に巧みで〜体質も強壮かつ偉大」

P161「由来中国夫人は「かん」にして御しがたい。〜なるほど古来の風習によって女子の社会上における地位の極めて低いのは事実であるが、家庭における婦人の権利ははなはだ強い。〜実際は案外女尊男卑と云ってもいいくらいである」。

P183「中国人気質は〜概して〜河南の人気は外人を欺負(きふ)することはなはだしく、北京に比してさらに狡詐なるを覚ゆ」。

 巻末には中国人の国民性や社会制度などをテーマ別に論じた文章も収録されている。訪れた各地の写真もたくさん載っており、特に私も行ったことがある万里の長城やら蘇州やらの文章や写真は興味深かった。 

★★★


(548) 『貝と羊の中国人』(著:加藤徹。新潮新書)

 タイトルとなっている「貝と羊」というのは「三千年前の東方系の〜殷人的な気質」と「西方系の〜周人的な気質」を、それぞれ「貝の文化」、「羊の文化」と筆者が命名したことに由来する。
 農耕民族は豊かな自然環境に住んでいるため、地域密着型の多神教になりやすい。人間的な「八百万の神々」は酒や御馳走など物質的な供え物を好んだ。
 一方、砂漠地帯などで暮らす遊牧民族は、普遍的な一神教をもちやすく、唯一至高の神である「天」は、善や義など無形の善行を好んだ。
 筆者は、こうした貝の文化と羊の文化を比較対照し、「現代中国人は、太古の二つの先祖から、ホンネとしての貝の文化と、タテマエとしての羊の文化の、両方を受け継いでいる。
〜華僑の商才に象徴される中国人の現実主義は、『貝』である。儒教や共産主義に象徴される中国人の熱烈なイデオロギー性は、『羊』である」としている。

 筆者は、「はじめに」で「『中国とは何か』〜を大づかみで論じ〜新たな切り口と視点を呈示することにつとめ〜論旨の明快さを心がけた」としている。筆者の試みはみごとに成功していると言ってよいだろう。

 さて、それでは筆者が呈示してくれている斬新な指摘を順に見ていきたい。
(1) 中国人には「流浪のノウハウ」があるが、日本人にはない
 象徴的なことだが、中国人は「泊まる」と「住む」を区別せず、ともに「住(ヂュー)」と言う。
 日本の歴史は、「一所懸命」の定住民が主役だが、中国の歴史は「流動民」の存在を抜きに語れない。
 具体例として、南北戦争時、アメリカでは多くの移民が働いたが、中国の「太平天国の乱」の残党達は民族的経験として蓄積してきた「流浪のノウハウ」を駆使してたくましく生き残った。しかし、日本の戊辰戦争の賊軍、旧会津藩士による入植団は2年足らずで壊滅したそうだ。
 江戸時代、天明の大飢饉で東北の農民は約30万人が餓死したが、当時も西日本の農業は健在だったから、これが中国なら、飢えた東北農民は百万の流民となって江戸や大坂になだれ込み、江戸幕府は転覆しただろうとしている。

(2) 中国人の死生観は「ドライ」だが、日本人は「ウェット」である
 日本人なら病院の周りに花屋があるのは許せるだろうが、葬儀屋などは考えられない。しかし、中国では入院患者ですら葬儀屋が病院の近くにあるのは当然と考える。死を特別視せず、死刑すら特別な刑罰とは考えない。公開銃殺や、遺族に銃殺の弾丸経費を負担させることも近年まで行なわれており、死刑囚の臓器を移植に使うのは現在でも続いている。

(3) 日本人は恩義の貸借関係に敏感だが、中国人はその場で決着する
 日本人は、恩着せがましさを避けるため「お茶が入りました」という自動詞的表現を多用するが、中国語では、特にこだわらず「私はあなたのためにお茶を入れてあげました」的な表現となる。
 また、恩を受けた側は、久し振りに相手に再会した時は「この前は、ご馳走になり、ありがとうございました」など、直近の恩義の貸借関係をおさらいする。
 しかし、中国人は、「大恩」はともかく、ちょっとした「小恩」は、その時礼を言えば終わりと考えるので、日本人にとっては恩知らず、傲慢と映りがちだし、逆に日本人が、前回の礼を繰り返すと、「そんな昔のことを蒸し返すなんて、またおごらせるつもりか」などと勘ぐられてしまう。

(4) 中国人は「功」と「徳」を区別するが、日本人は区別しない
 「功」とは、自分の職業や仕事を通じて、世のために働くこと。「徳」とは、見返りがないことを承知のうえで、人を助けること。
 日本人は昔から「功」と「徳」を区別せず、仕事を通じ社会に貢献することは賞賛される。
 一方、
中国人は、日本政府のODAや円借款は、外交戦略などの背景があり、結局「功」でしかないと感じている。しかし、民間人が自費で草の根援助活動など「徳」をすると純粋に感謝する。

(5) 日本人は「縄張り感覚」に鋭敏だが、中国人は大らかである
 日本人は縄張り感覚が強いので、他人が近づくだけでテリトリーを侵されたように感じる。よって、同性の大人が手をつないで歩くことは滅多にないが、中国人は仲の良い同性同士で腕や肩を組んで歩くことは珍しくない。
 日本人は、茶室、トイレ、カプセルホテルなど、自分だけの狭い空間に入ると安心するが、中国人は狭い空間に入ると安らぎより窮屈さを感じ、トイレも開放的である。
 日本人なら電車の中で向かいの乗客の横にある、自分のものではない雑誌を読もうとは考えないが、中国人は別に断りもせずに手を伸ばすことが多い。

(6) 中国人は大づかみで結論を重視するが、日本人は過程を重んじ、分析的である
 日本語は結論が最後に出るので、それまでの過程も印象に残る。(「見渡せば花ももみぢもなかりけり」では、むしろ最後に打ち消される春の桜や秋の紅葉が、残像として心に残る)また、日本語は助詞を多用し、ある意味では西洋言語以上に分析的である。
 中国語では「何もない」という結論が最初に焼きつく。また、「私は食堂”で”食べる」も「私も餃子”を”食べる」も、「我喫○○」という語形は同じである。

(7) 日本人は人口崩壊の悲劇を一度も経験していない、世界でもまれな幸運な民族だが、中国では過去に、短期間で半減したことさえ何度かあった
 日本は、第二次世界大戦の時でさえ、死亡者数は全人口の1割に満たなかった。世界の民族は中国を含め、ほとんどが人口が激減する悲劇を経験している。

(8) 日本人は自律的な人口抑制で社会的豊かさを実現し、中国の過去の王朝は人口増加で崩壊した
 日本の人口は江戸中期に3000万に達し、そのまま安定期に達したので、生活の質は劇的に向上し、識字率の向上などに成功した。これは困窮のため人口増加が止まったのではなく、一定の生活水準を維持するため避妊、堕胎、間引きなどの人口抑制メカニズムが働いたと考えられている。
 一方、中国ではどんな王朝も概ね200年ほどが限界で、人口増加が社会の困窮を招き、群雄割拠の戦乱が続き人口が激減するという荒っぽい人口抑制メカニズムが働いた。
 新中国でも、馬寅初という学者が人口抑制策を提案したが、アメリカとの全面的核戦争を人海戦術で生き残ろうと考えた毛沢東に反対され迫害を受けた。その後の大躍進運動の失敗で膨大な農民が餓死し、文革でも多くの犠牲者が出たが、全体として人口は急増し続けた。
 文革が終わり「一人っ子政策」に転換した後、馬寅初は名誉回復されたが、「一人(馬)を批判したために3億人増えてしまった」という言葉が流行した。

(9) 日本では階級間の棲み分けが確立したが、中国では「士大夫」の一人勝ちとなった
 日本では漢字から、修得しやすい「カナ文字」が生まれたため、幅広い階層が文芸創作に参加できた。また、文明が一階級に独占されることなく、政治・軍事は武家が、商業活動は町人が、学芸は僧侶や公家が担当するという階級間の棲み分けが幕末まで続いた。
 中国では、門閥貴族階級や僧侶階級は、10世紀までに衰退した。科挙という官吏登用試験があったので、地主(有力農民)・豪商らは自分たちのステータスや自由を獲得するより、師弟を科挙に合格させ、士大夫階級に取り込まれる道を選んだ。

(10) 日本人は人間の多面性を楽しむが、中国人は善玉・悪玉を峻別する
 日本の歌舞伎では、悪玉として登場した人物が実は善玉だったり、あるいはその逆など、登場人物の善悪が途中で変わることが多い。
 中国の京劇では、悪役の曹操秦檜は顔を白塗りにし、「赤誠」の関羽は真っ赤に塗る。善玉と悪玉が入れ替わることはあり得ない。
 中国民衆は、共産党員や毛沢東を憎むとわが身に危険が及ぶことを本能的に察知し、失脚して、いわば憎むことが「公認」された四人組を悪役として徹底的に憎むことで精神の均衡を図る。

(11) 中国の国家名称は理念のみで、日本の国家名称は固有名詞のみである
 世界的にみて、近代の国家名称は、アメリカ合衆国、フランス共和国、ブータン王国など、固有名詞(地域呼称)と立国理念(政治体制)を組み合わせている。
 その点、中華人民共和国の「中華」はチャイナという地域呼称でなく「中華」思想などのように「世界の中心に花咲く」という理念であるから、理念のみといえる。一方、「日本」、「日本国」は固有名詞のみである。

 さて、諸外国が「チャイナ」と呼んでいるのは「支那」から転音した語ではないか。中国自身、昔は「支那」という語を用いたではないか。「支那」という言葉は本来蔑称でも何でもない。だから、中国が日本人に「支那」という語を用いるなと言うのは不遜であり、私は「支那」と呼び続けるという論者を確かに私も何人か(呉智英など)知っている。これについて筆者はどう言っているか。

 孫文らが清朝を倒し「中華民国」を建国した。しかし、当時の日本政府は「中華」という呼称を嫌い、1930年まで勝手に案出した「支那共和国」という呼称を使い続けたそうだ。中華民国の英訳は「ナショナル・リパブリック・オブ・チャイナ」だった。この「チャイナ」は確かに「支那」から転音したもので、地域呼称である。わざわざ「中華」を理念のまま「中央の栄光の」(central glorious)などと無理に訳すことはしなかったのだが、当時の日本政府は諸外国が「チャイナ」共和国と呼ぶなら日本にもそう呼ぶ権利があり、「中華」などという尊大な呼称を押し付けられるのは不公平だと主張したという。

 筆者はおもしろいたとえを持ち出している。突如、中国政府が日本を「ジパング国」という珍妙な名称で呼び始め、日本の抗議に対し「ジパングは、黄金の国という意味で蔑称ではない。日本人自身もJRの『ジパング倶楽部』やコミックモーニング連載の人気漫画『ジパング』などで使っている。諸外国には「ジャパン」という「ジパング」から転じた呼称を許しているのに、中国にだけそれを許さず、『太陽の本家本元』といった尊大な呼称を押し付けるのは不遜だ」と主張した時、それで納得するのかと問うている。
 「『支那』という語は、昔の中国人も使った。二十世紀の初めまでは、蔑称ではなかった。そんなことは、日本人に説明してもらえるまでもなく、中国人も知っている。中国人が『支那』という日本語に違和感を感じるのは、同じ漢字文化圏の国だからである」(P201)。
 要するに「支那」呼称問題は、筆者が言う「国どうしでも個人どうしでも、対等の関係なら、相手の自称を認めるのがマナーであろう」というのが結論だと思う。

(12) 日本と中国の間には、過去「交流」はなかった
 文化面で日本と中国には双方的な「交流」は存在せず、あるのは一方通行的な「直流」だけだった。長きにわたり、日本は中国の文化を学び続けた。唐の玄奘三蔵は命がけでインドに仏教を学びに行ったが、鑑真が死を賭して日本に渡ったのは日本の神道を学ぶためではなかった。一方、日清戦争後くらいから、魯迅蒋介石周恩来らは日本留学経験を持つが、日本の近代エリートが学ぶのはもっぱらヨーロッパだった。また、19世紀末から20世紀初頭にかけて日本人が考案した「人民」や「共和国」、「政府」といった「新漢語」が、現代中国語に流れ込んだ。
 日本と中国は、7世紀の白村江の戦い、13世紀の元寇、16世紀の朝鮮出兵、19世紀の日清戦争、20世紀の日中戦争など互いに敵として戦った経験ばかりで、連合軍として共闘した経験は皆無に近い。

(13) 現在の中国社会は、戦前の日本社会に通じる部分がある
 すなわち戦前の日本社会は陸軍、海軍、民間という三つの「独立国」からなり、「天皇」という絆でかろうじてつながっていた。都市と農村の生活格差が大きかった。工業技術は欧米に劣っていたが、ゼロ戦や戦艦大和など一点豪華主義で対抗した。経済的には小国だったが、第一次世界大戦の戦勝国として国際連盟の中心メンバーに名を連ねた。移民や密航者が多かった。政府は軍人のクーデターを恐れていた。家庭や友人同士で天皇や軍部の批判をすることは可能だが、公的な場ではただではすまない。つまり、言論の自由はあっても、言論「後」の自由はなかった。台湾、朝鮮などの植民地の存在が、社会に緊張の影を落としていた。
 一方、中国は、党組織や軍などの国家内国家が存在し、共産党支配という一点でかろうじてつながっている。都市部と農村部の経済格差は拡大している。国連分担金は小額だが、常任理事国である。まだまだ発展途上だが、有人ロケットや上海リニアなどの一点豪華主義で対抗している。密航者を含め、機会をとらえて出国しようとする者は多い。党や政府はひそかに軍人のクーデターを恐れている。私的な場で党を批判することはできても、公然と批判することは危険である。言論の自由はあっても、言論後の自由はない。新疆、チベットなどの独立運動が社会に緊張の影を落としている。

 やはり何と言っても、日本との比較が文化の違いをつかむには一番分かりやすい。その点で本書は非常に興味深く、示唆に富んでいた。


★★★☆


 

 


(549) 『法隆寺の謎を解く』(著:武澤秀一。ちくま新書)

 法隆寺には多くの謎があるそうだ。本書の構成では、まず筆者が「謎」を列挙し、あとで、けっこう順不同に謎解きというか筆者の見解を述べていく。その方がドラマチックなのだが、文章が長くなるので、あっさり謎と見解を続けて紹介する。

(1) 法隆寺はいつ建てられたのか?
 法隆寺はよく「世界最古の木造建築物」と呼ばれるが、いつ建てられたのか?本当に世界最古か、という問題。
 2004年に奈良文化財研究所が発表した、使用木材の年輪から割り出した伐採年代は、金堂で667年、668年。五重塔で673年。中門で699年頃であった。
 ギリシャ、インド、また中国や朝鮮でも法隆寺より古い木造建築物はあっただろうが、「現存」しているものとしては世界最古といえる。

(2) 法隆寺は焼けたのか?
 『日本書紀』には法隆寺が670年に全焼したとある。しかし書紀にはそれ以外の記述がなく、法隆寺側にも焼失に関する記録が一切残っていないとされてきた。
 しかし、2004年には焼けた壁画片が発掘調査で発見され、創建時の法隆寺が火災にあった確証が得られた。

(3) 現在の法隆寺と創建当時の法隆寺との関係は?
 一般的に歴史家は書紀の記述を信用して、聖徳太子創建の法隆寺は焼失し、現在の法隆寺は火災後に再建されたと主張し、建築家は建築様式の古さから判断すると現存法隆寺は焼失したとされる670年より古い。すなわち「670年焼失」という書紀の記述が誤りで、現存法隆寺がそれ以前からあったのだと主張した。
 その後、昭和14年の発掘調査で創建当時の塔と金堂の跡が発見され、現存の法隆寺とは位置が違い、かつ伽藍の方向も異なり、また寺地の一部が重なっていることがわかった。
 一方、創建法隆寺の火災は670年だが、現存金堂の使用木材が667年ということもわかったので、「火災の前から、つまり創建法隆寺が存在していた時から、それと全く異なる建物配置を持つ新法隆寺構想があった〜とみられる」。つまり、通常、ある寺院を造ろうという構想が出来てから使用木材を伐採する。逆に言うと、使用のあてもなく伐採し、保管してあった木材を適当に使って寺院を建築することはしない。現存金堂で667年に伐採した木材を使用しているということは、仮に完成が670年以後であっても、建設構想は火災(670年)以前からあった可能性が高い。

(4) 新創建を進めた者は誰か?
 厩戸皇子聖徳太子)没後、息子の山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)は皇位継承のもつれから法隆寺で一族全滅の惨事を迎えた。その後、時の権力者ににらまれ、主を失った法隆寺を新たに建立したのは誰だったのか?
 父の遺徳で人気のあった山背大兄皇子は、舒明天皇即位の際の軋轢で蘇我入鹿と対立した。次の皇極天皇即位後の643年、山背が今後もライバルになると判断した蘇我入鹿に襲われ、彼は創建法隆寺にて自死し、厩戸一族全員も殉死した。入鹿に殺害を命じたのは皇極天皇自身であるとも、襲撃した軍勢には皇極の弟(後の孝徳天皇)が加わっていたともいわれる。
 後の天智天皇は、実弟大海人皇子ではなく、息子の大友皇子に皇位を継がせたいと考え、天皇直系の皇子が継承するのが当然という空気を醸成しようと企んだ。そのために、天皇直系の厩戸皇子を神格化しようとした。釈迦三尊像は聖徳太子の似姿といわれる。そもそも「聖徳太子」という呼称自体、後代に付けられたものである。
 「厩戸皇子」ではなく普遍的信仰対象に昇華した聖徳太子を本尊とする現存法隆寺の金堂が完成した(あるいは完成の見通しがついた)。そうなると、壮絶な厩戸一族集団自決の現場であった創建法隆寺は、(その惨劇に深く関わっていたと思われる天皇家にとっては)忌まわしい記憶を呼びさます邪魔な存在でしかない。であれば、670年の火災も自然火ではなかったのでは・・・・と筆者は推理する。

(4) なぜ中門の真ん中に柱が立つのか?
 法隆寺の中門には真ん中に柱が立っているが、これは他に類例がない。この意味をめぐって、いろいろ激論が交わされてきた。
 筆者はここに非常に力点を置いている。七つの説が紹介されているが、私はそれをさらに四つに大別できると思う。
 まず第一に、真ん中の柱が、円滑な通行を阻害するという「マイナス」機能を持つとする説。これには、この柱が気高い精神を持つ人だけを選別すると考える竹山道雄説と、下記(5)の梅原猛説がある。
 第二に、この中央の柱が門の中央をふさいでいるのではなく、この柱により、門が二つできているというプラス機能をみる説。これには、向かって左の口が五重塔、右の口が金堂への出入り口とみる関野貞(ただし)や田村圓澄(えんちょう)らの説と、門の真ん中に柱が立つのは古代中国の正統的形式であり、左回りをとる中国の礼儀作法にならい右が入り口、左が出口とみる田中淡説がある。
 第三には、この真ん中の柱には別に大した意味はないとするもの。これは、中門の間口は通常、柱間の数が三つだが、塔と金堂のバランスで四になったとする伊東忠太などの説と、今でこそ正面奥に講堂があるので中門中央の柱が目障りだが、当初は中央は空いていたので別におかしくなかったとする直木孝次郎説がある。
 そして、第四に中央の柱に、門を二つに分けるという以外のプラス機能をみる説で、ばらばらになりがちな伽藍構成を真ん中で引き締めているのが中門、なかんずくその中央の柱なのだとする上原和(かず)説。

 筆者は、この七つを「いずれも決め手を欠」くとしている。
 まず第一分類は、竹山説はそもそも「あまりに文学的、観念的に過ぎる」。また、梅原説は、インパクトがあり、なぜ法隆寺だけに真ん中の柱があるのか、という疑問に答えている。しかし、真ん中の柱はむしろ出入り口を二分し通行を円滑にする機能が認められ、怨霊封じの機能があるとは考えにくい。そもそも死者の霊が特定個人にタタルという怨霊思想の起こりは早くみても奈良時代末期で、法隆寺建設当時にはあり得ない。
 第二分類について、まず、専用出入り口説は、アプローチ短縮という合理的解釈と、塔は仏舎利、金堂は聖徳太子と祀る対象が違うから出入り口も別にするのは当然という二つの理由が考えられる。しかし、二つの出入り口は隣り合っており、塔と金堂もごく近いから「短縮」の実効は薄い。また、塔にも聖徳信仰の意味合いはあるから宗教的峻別説も弱い。次の中国伝来説は、中国にそのような門が確認できず、儒教経典からの推論という点で既にダメダメであろう。
 第三分類の、規模のバランスで機械的に柱間の数が四つになったにすぎないという伊東説は、あまりに設計者のプライドを無視しているものだし、「別に目障りじゃない」という直木説は、あってもおかしくないという消極的評価にとどまり、両説とも「法隆寺だけ」の説明ができていない。
 で、筆者は中門、塔、金堂が縦一直線に並ぶ伝統的伽藍構成に比べ、塔と金堂が横に並ぶ法隆寺において「中門、その真ん中に立つ重く太い柱。それが視界の全体をグイッと引き締めている」としている。結局、第四分類の上原説と同じだと思う。

(5) 聖徳太子の怨霊を封じ込める寺なのか?
 梅原猛氏は、中門の真ん中に立ちふさがるように柱が立っているのは聖徳太子を死に追いやった勢力がタタリをおそれ、怨霊を「通せんぼ」するために立てたのだという説を提唱した。この説の真偽について。
 これは、上記(4)にて解説済み。

(6) 柱のエンタシスは、ギリシャの影響か?
 法隆寺の柱の真ん中あたりがふくらんでいるのは、ギリシャ建築のエンタシスの影響を受けているのか、という問題。
 柱のふくらみは日本建築の専門用語では胴張りといい、エンタシスの影響を直接受けているか、どうかは確証もできず、それほどの意味がないとしている。

(7) みっともない(?)下屋(げや)がなぜ付いているのか?
 五重塔と金堂の一層目を裳階(もこし)とも呼ばれる小屋根のついた建物が取り囲んでおり、みっともないと古来評判が悪かったが、この下屋の存在理由について。
 薬師寺東塔は三重塔だが各層に裳階がつき、「六重」のように見える。それで「強弱」のリズムがついているとは古来言われている。しかし、法隆寺は一層目のみだから、そうした美観としての効果はないと思う。では、筆者はどう説明しているか。
 実用的な理由として、中の仏像を裳階で風雨から保護するため設けたという点、屋根が垂れ下がったので四隅に立てた支柱を隠すために裳階を設けたという点の二つを挙げている。
 さらに本質的理由として、この下屋は回廊を構成している。インド古来の祈りの作法である、像や寺院など祈りの対象のまわりをぐるぐる回るための通路を「プラダクシナー・パタ」と呼ばれるが、「裳階は〜内部化されたプラダクシナー・パタ」だとしている。

(8) なぜ本尊が二つあるのか?
 金堂中央には「現」本尊である釈迦三尊像が、右には「旧」本尊の薬師如来が安置されているが、なぜこのようなことが起こったのか。
 釈迦三尊像の光背銘文では、本像は厩戸皇子没後の癸未年に完成したとあり、623年と考えられる。創建法隆寺に納められたとすると670年の火災に遭った筈だが、その形跡はないし、大きな本像が火災の中で無事に搬出されたとは考えにくい。
 また、現金堂に安置された薬師像には、これが元々の本尊だとする銘文があるが、様式的に明らかに釈迦像より新しい。
 こうした謎を筆者はこう解説する。まず607年に厩戸皇子が法隆寺を創建し、その前後に当初の本尊仏が造られる。次に、623年に釈迦三尊像が造られる。669年に現金堂が(創建法隆寺の金堂とは別に)完成し、釈迦三尊像が本尊として納められる。670年に創建法隆寺が焼失。その際、元々の本尊仏も焼失。その後、焼失した本尊仏に擬されて薬師仏が造られ、現・金堂の釈迦三尊像の横に納められた。

(9) 本尊仏は火をくぐり抜けたのか?
 「現」本尊の釈迦如来像は、銘文の制作年によれば火災以前に造られていたことになるが、火を受けた痕が全く残っていないのは何故か、という問題。上記(8)が解答になっている。

(10) なぜ仏像と壁画の様式が違うのか?
 釈迦像はやや硬さをおびた実直な表現様式だが、壁画は馥郁たる官能をおびた女性的で柔らかな表現であり、絵と彫刻の形式の違いを差し引いても調子が合っていないのは何故か、という問題。
 これは、釈迦三尊像の制作が623年で7世紀前半の飛鳥様式。壁画は、当然現金堂が造られた669年以降に描かれたから7世紀後半の白鳳様式であるから、と説明されている。

(11) なぜ心柱だけ地中に落とし込むのか?
 他の柱はすべて基壇の上に立っているのに、真ん中の心柱のみ地中深くまで掘られた穴の中に埋められているのは何故か。当然、地中に埋められている部分は腐りやすいのになぜこんなことをしたのか。
 地中から伸びているのは樹木信仰を象徴するもの。塔そのものが宇宙樹であり、中心の心柱は宇宙軸だとしている。

(12) 心柱は伐採されてから80年も経っていたのはなぜか?
 塔二層目の軒下に用いられていた木材の伐採年は673年、心柱の伐採年は594年という調査結果が出ており、79年もの差が生じている理由について。
 現存法隆寺に使われている心柱は、創建法隆寺よりもさらに古い時代のものである。塔は宇宙樹の象徴であるが、古来、さらに素朴な形として掘っ立て「柱」そのものが信仰されていた。現存法隆寺建立の際に、心柱に、それ以前から信仰の対象になっていた柱が用いられたのではないか、というのが筆者の見解。

(13) 法隆寺の建物配置は日本で生まれたのか?
 「法隆寺では形もヴォリュームも高さも違う塔と金堂が、ヨコに二つ並んでいる。左右非対称で真ん中が空いている」この配置は大陸にも見られないが、やはり大陸から伝わったものか、それとも日本で生まれたものか。
 創建法隆寺の伽藍配置は現存する四天王寺などと同じく、中門、塔、金堂が縦一直線に並ぶ大陸の寺院に伝統的な構成だった。一方、横配置は実は現存法隆寺が嚆矢ではなく、百済大寺が先例だった。百済大寺は、「639年、舒明天皇の発願により建てられた天皇家最初の寺」だった。筆者は、「有力豪族の氏寺はおしなべて大陸伝来のタテ型伽藍配置」であることに反発した天皇が、新機軸を打ち出す意味でもヨコ型配置を創設したとしている。

 ちょっとしたツッコミ所がないではないが、まるで歴史ミステリーを読んでいるようなドラマチックな構成で、おもしろかった。 

★★★☆
 

 


 

(550)『大長今』上巻(著:キム・ヨンヒョン。訳:根本理恵。角川文庫)

 帯には「『宮廷女官チャングムの誓い』の脚本家が書き下ろした・・・」とある。以前読んだ『チャングム』は、TVのそれとは、かなり内容に違いがあったが、こちらはほぼぴったり。読んでると以前に観た場面の映像がよみがえってくる。ビデオ全巻を観返すのは大変だが、これならいつでも手元に置いておける。
 上巻は、チャングムが味覚を取り戻すところまで。三部構成で、中巻は11月25日発売予定だそうだ。



★★★☆
 

 


(551) 『漢文の素養』(著:加藤徹。光文社新書)

 『貝と羊の中国人』で自著を紹介されていたので読んでみた。
 巻頭に「かつて漢文は、東洋のエスペラントであった」とあるが確かにそうかな、と思う。
 また、「近代以前は、どの文明国も、三層構造の言語文化をもっていた。
 上流知識階級は高位言語たる純正文語を、中流実務階級は口語風にくずした変体文語を使った。下層階級は、文字の読み書きができぬ者が多かった」という指摘もなるほどな、と思った。植民地などでもそうだし、封建時代の日本でもそうだった。
 また、日本の漢字文化のユニークさとして(1)漢字を「外国の文字」と見なさない。(2)漢字に音読みのほか、訓読みがある。(3)漢字の音読みが複数ある。(4)漢字をもとに、いち早く民族固有の文字を発明した。(5)中国に漢語を逆輸出し、恩返しをしたと列挙している点も、「お買い得」感が募る。

 私にとっては、本を読んでいて、今まで知らなかったことが整理して載ってあったり、何となく感じつつもきちんとイメージ化できなかったことをずばりポイントを絞って書かれていたりすると、ああ、この本を読んでよかったなあとしみじみ感じる。つまり下世話な言い方をすれば「お買い得」感にひたることができるのだ。
 その端的な例としては、「これが最初だ」とか、「これが最強だ」とかいう言い切りである。「これが初めて?中国史」のページでも少し書いたように、私はとてもとても「歴史を隅々まで極めた!」なんて自信がないから、「これが最も△△だ」なんて断じられない。せいぜい「最も○○なものの一つだろう」くらいの歯切れの悪い言い方しかできないのである。

 さて、では本書の、ズバッ!と断言する「お買い得」ポイントを他にも。
P32「日本列島から出土する最古の漢字の遺物は、約二千年前〜」
P44「文字記録に対する抑制、という現象は、どの民族にもあった」。
P54「七支刀の銘文は、伝世品の漢文としては、日本最古〜」
P55「日本に最初に漢字文化をもたらしたのは、王仁(わに)という百済人〜」。ちなみに私(石野)が通っていた小学校の校歌は「王仁の博士に、いと深き〜」という歌詞で始まる。学校の近所には王仁公園という場所がある。
P56「子供用の学習教材を政府間レベルで輸入した、などと歴史書で公言している国は、世界史上、日本くらい〜」
P57「古代の日本人で、この和歌(石野注 王仁作の「難波津の歌」)を知らぬ者はいなかった」。
P70「用明天皇が、日本で最初に仏像を拝んだ天皇〜」
P77「〜聖徳太子の時代に、その後の日中外交の基本パターンが決まった〜。日中両国〜は、それぞれ相手国の態度を、自国の都合のよいように解釈し、それを国内向けに宣伝する。〜外交上の矛盾を、国書の改竄や隠匿などの手段によって適当に処理〜する」。
P79「訓点を施した最古の文献史料は、八世紀末ないし九世紀初めに現われる」。
P90「飛鳥時代〜の雰囲気は、『外圧』と『お雇い外国人』という二つの点で、明治に似ていた」。
P92「入鹿暗殺ののち、中大兄皇子らは『大化』という日本最初の元号を制定した」。
P93「前漢の武帝は〜世界最初の元号『建元』(前140〜前135)を定めた」。
P93「元号制定は〜いわば独立宣言の意味あいがあった」。
P94「現在元号制度を維持しているのは、世界で日本だけ〜」
P94「〜大化元年〜漢文の詔(みことのり)のなかに『明神御宇日本天皇』という語がみえる。〜これが〜最初に『日本』という語が使われた例〜」
P98「日本初の漢詩は〜大友皇子(648〜672)が詠んだ〜」
P101「藤原京〜は日本史上初めて瓦葺きとなった」。
P108「『古事記』は、現存するものとしては、我が国最古の歴史書である」。
P110「現存最古の歴史書は〜『古事記』(712年成立)と〜『日本書紀』(720年成立)である」。
P114「『日本書紀』〜は、日本最初の勅撰正史〜である」。
P118「天平勝宝3年(751)、日本最古の漢詩集『懐風藻』一巻が成立した。〜日本最古の歌集である『万葉集』の成立年代は、759年以降と推定されている〜」
P125「鑑真ほど高位の僧侶が来日したのは、日本史上、空前のことであった」。
P142「日本史上、漢学の才をもって大臣にまで進んだのは、吉備真備菅原道真の二人があるのみである」。
P149「〜倭の五王などを別にすれば、日本の中央政府の権力者で中国に朝貢して冊封を受けたのは〜足利三代将軍・義満(1358〜1408)ただ一人である」。
P149「日本と中国の政府どおしが初めて対等の国交を樹立したのは、明治4年(1871)の日清修好条規においてである」。
P156「学者の大江匡房(おおえのまさふさ。1041〜1111)は義家を評して『好漢、惜しむらくは兵法を知らず』と言った。このことから義家は一念発起し、漢文の兵法書『孫子』を学ぶことにした」。この源義家のエピソードは、『三国演義』の「呉下の阿蒙」とか、落語「道灌」で知った太田道灌の逸話などを連想させた。
P165「モンゴルは、北方遊牧民族としては史上初めて、中国の最南端までを征服した。
〜元は、中国の王朝として史上初めて、全兵力を一カ所に集中できるようになった。中国軍が日本本土を攻撃する、という未曾有の事態は、こうして起きた」。
P183「晩年の政宗は〜酒や美食にふけり、みずから肥満体になって、天下を狙う野心がないことを世間にアピールした」。政宗は、人目のないところでは、自分の腹の肉を見ちゃあ自嘲して嘆いたことでしょうから、劉備の「髀肉の嘆」ならぬ、政宗の「肥肉の嘆」てとこでしょうか。
P187「徳川家康は〜下克上の連鎖〜を断ち切り、自分の子孫が半永久的に政権を維持できる〜画期的構想をいだいた。〜朱子学を日本に導入し〜武士を〜主君に絶対的忠誠を尽くす『日本版士大夫階級』に作りかえる」。
P188「日本史上、『漢文の力』を活用して日本人の思想改造に成功した統治者は、聖徳太子徳川家康の二人であった」。
P190「江戸時代は、日本史上、初めて文字文化が庶民にまで行き渡った時代であった」。
P194「元禄赤穂事件は、日本史上、最初の思想戦であった」。
P207「江戸末期には、下級武士のみならず、ヤクザの親分や農民までもが漢文を学んだ。当時の漢字文化圏のなかで、このような中流実務階級が育っていたのは、日本だけである」。

 こうして列挙してみると、新書サイズにこれだけの「史上初めて」などの「断言」を詰め込んでいるのだな、とあらためてそのハッタリいやいや押し出しの強さというか、パワーを感じた。

 また、巻末近くで「江戸から明治にかけて、日本の知識人は、豊かな漢文の素養を生かして、次々とセンスのよい新漢語を考案した」。一方、「今日の日本人は、『パソコン』にあたる漢語さえ考案できず、中国人が考案した『電脳』を輸入して使っている」という指摘がある。
 その前で、「『金融』『投資』『抽象』など、現代中国語の中の社会科学に関する語彙の60〜70%は、日本語から来たものだという統計がある」という日本語「恩返し」論が書かれているのだが、それも今後は再逆転するかもしれない。
 私も、何か少し語ろうとすると「スキーム」だの「コンプライアンス」だの「アイデンティティ」、「ユビキタス」だのとカタカナ用語を連発してしまうことに、借り物の概念を使わねば論理が構築できない脆弱さを感じていた。
 また、国立国語研究所などがよくカタカナ語の言い換えを提案しているが、それももう一つしっくりこない。「インフォームドコンセント」を「納得診療」てのもなあ・・・・・と思ってしまう。それは結局、「言い換え」にすぎず「翻訳」でしかない弱さ。要するに、その外来語を、単に説明するだけじゃなく、それが示そうとする背景や精神、そして今後日本に与える影響の「かたち」までも創りあげてやろうという「哲学」(この「哲学」も日本人の創った新漢語だが)が不足しているから不満に感じるのではないだろうか。

★★★

 


  今月は、長い書評が多かったですね。どこが「ひとこと」やねん?と言われそう。

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