移動メニューにジャンプ

2006年7月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 7月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。


(524) 『さおだけ屋はなぜ潰れないか』(著:山田真哉。光文社新書)

 タイトルがおもしろいな、と思っていたが最近古本屋で見つけた。
 サブタイトルが「身近な疑問からはじめる会計学」とある。「さおだけ屋」はいまだに見かけるが言われてみれば、確かに謎だ。
 「さおだけ」(平仮名だと読みにくいので、以下「竿竹)なんて一生の間に何回買い換えると言うのか?つまり、竿竹という商品のニーズは低い。また、たまたま竿竹が折れたり錆びたりしても、いつ通りかかるか、うまく呼び止められるかもわからない竿竹屋を待っているだろうか。近所の金物屋なり、今ならスーパーやホームセンターに行くのではないか?どうも竿竹屋が商売として成り立つ可能性は低い。

 にもかかわらず、竿竹屋は昔からあり、いまだに存続している。それは何故か・・・というところから話は、会計学の基本である、「『売り上げ』から『費用』を引いたものが『利益』」につながる。そして、「あらゆる商売を商売として成立させるためには、『利益を増やす』こと、つまり、『売り上げを増やす』か『費用を減らす』しか方法がない」へ展開していく。

 第2章は筆者の自宅近く、住宅街の真ん中にある高級フランス料理店の謎。都心から1時間以上かかるし、田園調布、白金台といった高級住宅街でもないありふれたベッドタウン。商店街はおろか、近隣にはパン屋や八百屋、コンビニすらなく民家が並ぶ中で、マンションの中に入っている。外装もいたってシンプルで店をやってるのかすら近付いてもなかなかわからぬほど。じゃあ、安くて評判なのか、というとコースは最低1万円から、とおいそれと足を運べる価格設定ではない。有名なシェフが趣味的にやっていて、評判を聞きつけたグルメたちが集まってきているのか、というとどうも流行っているところを見かけたことがない。しかし、もう5年ほど潰れずにいるのは何故・・・・というところから連結経営や、ローリスク・ハイリターンの投資術に展開していく。

 この後も、「在庫だらけの自然食品店」でカンバン方式、「完売したのに怒られた!」では「機会損失」、麻雀で、2位の者が逆転を狙わず安上がりしたというエピソードで回転率、いつも飲み会で支払い役を買って出る人の話で「キャッシュ・フロー」といった概念を説明する。なかなかうまい。
 第7章では、「数字に強い」より「センス」が大事とあり、「50人に1人が無料!(全額キャッシュバック!)」というキャッチフレーズをどう思うか問われている。これは全日空が2002年にやったキャンペーンを題材にしているそうだが、私の近所じゃ確かビッグカメラという店が「100人に1人、お買い上げ全額をキャッシュバック!」と宣伝している。
 筆者によると、「50人に1人無料」というのは、「100人に2人が無料」、つまり全体では2%割引と等しい、と気付くのが数字の「センス」らしい。確かに、「全商品2%割引!」と言われても大して魅力は感じないが、「50人に1人無料!」と言われると、自分もその「1人」になれるかも?と思って購買意欲がわく。
 売り上げ6000万円、正社員3人の企業の社長さんが、取引先から「社員数は?」と聞かれ、小さい会社と馬鹿にされてはいけない、バイトの人数も足そうと考え「7人です」と答えたそうだ。しかし、取引先は「一人あたま1000万も稼げないようでは、この社長の経営手腕も疑わしい」と考え契約を見直したとのこと。私も「7人」と答えそうだし、この取引先みたいな分析が瞬時にできるだろうか。う〜ん、どうも私には数字のセンスがないようである。


★★★


(525) 『天下統一と朝鮮侵略』(著:藤木久志。講談社学術文庫)

 裏表紙には「一向一揆との徹底的対決の過程で、自らを統一権力として形作ってゆく信長。一揆鎮圧の完成後関白として『日本の治』を唱える秀吉。統一政権を目ざし抜きん出た二人の権力者が抱いた共通の構想は何か」とある。それが何か、は私にはよくわからない。
 ともかく、これまでも長島一揆の悲惨さは何かで読んだことがある。本書も、信長自身「降伏をうけいれる意志はまったくなく、ただ『餓死』、『撫切り』、『根切り』とくりかえしていた」とある。なぜ、一揆の根絶、皆殺しをめざしたのか。それは本願寺勢力が天下統一のため絶対に相容れない存在であったからにほかならない。
 本書には「大坂寺内とは、守護権の介入を排し、領主からの諸賦課をまぬがれ、徳政の適用から除外される、文字どおりに治外法権の世界であった」とある。このようないわば宗教自治都市の存在は、確かに信長には許せない存在であったろう。秀吉も、様々な局面で対抗勢力の解体策を進めていった。寺内の解体には土地・農民政策(農村政策)と市場・町人政策(都市政策)の両面を同時に推進させる必要があった。農村政策の手がかりは土地(知行地)・農民の掌握であり、政策の骨子は検地であった。そして、都市政策のてがかりは市場・町人の再編成であり、政策の骨子は町人の城下集住(楽市化)である。

 さて、裏表紙の内容要約の後半には「下克上の組織化が孕んでいた『唐国まで』という大陸侵略の衝動」とあるが、この意味もよくわからない。本書には「中央集権の強化が、じつは地方分権の強化をもたらし、総体として民衆支配は比類なく強いものになっている〜奥羽仕置の真のねらいが、百姓に対する刀狩り・検地による東国の下剋上の封殺にあった」とあるが、この辺のことを言っているのだろうか。それとも、これまた昔に何かで読んだ、「国内を統一しちゃうと、与える土地がないんで、他国に進出せざるを得なかった」という単純論のことなんだろうか。

 ところで、「増田長盛は、捕虜にした朝鮮民衆の姓名を無理強いに日本名に改めさせていたし(『征西日記』)、安国寺恵瓊(えけい)は朝鮮のわらべをあつめて『いろは』を教え込み、髪形まで日本風に変えさせて召し使ってい」たとある。
 また、「略奪は、朝鮮民衆の人身・私財から、仏像・経典・金属活字など寺院の文化財におよび〜秀吉自身〜とくに男女の技術者たちを捕らえて送れと諸大名に命じていた」ともある。
 「文禄・慶長の役によって、朝鮮から製陶・活版印刷などの技術が渡来し、数多くの文化が伝えられ、日本文化によい刺激を与えた」という日本史の通念的理解と、韓国・朝鮮人民の認識との間には相当深くて暗い断層がありそうである。

★★★


(526) 『砂の海』(著:椎名誠。新潮文庫)

 朝日新聞社とテレビ朝日が「日中共同楼蘭探検隊」を計画し、筆者は、同行するテレビ・ドキュメンタリー隊への参加を打診された。行き先はロプノールと楼蘭で、外国人が入るのは1934年のヘディン隊以来54年ぶりなのだという。
 筆者は小学6年生の時『さまよえる湖』を読んで探険家を志した。筆者は「あやしい探検隊」シリーズで有名になったが、それはその夢の名残りである。また、筆者が奥さんと結婚するきっかけとなったのは、彼女の「私の夢はいつかチベットと西域に行くことです。スウェン・ヘディンの探検が好きなのです」という言葉だった。筆者は「妻よ、やったぞ!」と唸ったという。夢というのは、思い続けていれば叶うものなのだなあ。

 どのエピソードもおもしろいのだがきりがないので、まずはオアシスの村、米蘭(ミーラン)にて。
「我々は途中でサポート隊が増加して総勢150人」ほどになっていたが「問題は〜便所があまりにも少なすぎる」ことで「具体的には『一人用』しかない」。
「中国式便所は開放型である。〜書き忘れたが、中国の開放便所の座り方は『入り口に向かって頭』である。〜これはどういうことになるか、というと、大便をする人と、長い行列をつくる人々とが、つまりそこで《やっと安堵安泰の一名》対《切迫多人数》という力関係のもと、ある種の緊迫感情のうちにきっぱりと向き合う、という形になる。〜もうひとつ、中国人の行列について書き忘れていた。〜中国人は横入りを防ぐために、すぐ前に並んでいる人の背中に異常なくらいまで接近して割り込む隙間をつくらない、という自衛手段をとるようになった。〜この行列のおそろしいところは『押し』の力がすごい、というところである。
〜大便をする人は〜いかに衆をたよった目前の人々の攻撃をかわし、おのれの心ゆくまでの所業を完遂させるか・・・のタタカイに突入していく。さなきだに男は度胸。
この衆人環視のリンチのような便所体験をすると、もう大便関係では人生コワイものはないな、という気持になる」。

 すっかり干上がったロプノールにて。
「そうか、ここがロプ湖なのか・・・・。
 頭のうしろあたりがガツンとあつくなった。小学生の頃に図書館で見つけた『さまよえる湖』を読んで〜いつかそこへいける時があったなら・・・・と夢のようにして思い抱いていたその永年の幻の湖にいま自分が立っているのである」。私も初めての北京旅行で紫禁城の門前で似たように感じた。

 砂漠の真ん中で。
「唯一の新鮮な肉として生きた羊を沢山連れてきており、これを毎日一頭ずつ殺していく。
 羊たちもしだいに仲間の数が減っていくので、どうも様子がおかしい、何かヨクナイことがおきているようだと薄々気付いているフシがある」。
「地平線のむこうに落ちていく夕陽を最後まで見とどける・・・ということを初めて体験した。これまで見ているようで、よく考えるとそれは多く、水平線への日没なのであった。
〜燃える巨大な赤いたまが、地平線に触れる瞬間、というのがまた見事であった。
 目に見える速度でもってどんどん降下していく太陽が大地に触れた瞬間は、まさに『着地』を思わせた。しかし太陽はそのままずんずん地平線のむこうに落ちていく。見ていると大地に『めりこむ』ようである。
 太陽が地平に触れた瞬間から、地表が赤く染まる。赤く染まった地表に光の波が走ってくる。砂漠の乾いた大地を走って、こちらにむかってくる」。なんて壮大なシーンだろうか。 

★★★☆


(527) 『田崎真也と探す、いい店おいしい店』(著:田崎信也。新潮文庫)

 筆者は、一切雑誌やガイドブックなどの情報に頼らず、地方の出張先で仮に夜遅く、疲れていても気に入る店を探すまで歩き回るそうだ。

 筆者があげるいい店の条件は、看板のセンスがいい店とか、酒にこだわりのある店とか、入ってすぐあいさつがあり、トイレや玄関の掃除が行き届いている店など。この辺はまあまあ分かるのだが、なかなか実践に移すのは難しそう。

 蕎麦屋やラーメン屋など、主人が客にいろいろ指図するような店は行きたくないと言っている点は私も同感だが、どうも筆者の指摘は、ソムリエとして外国人の洗練された接待などを前提としているものが多く、私にはピンと来ないことが多かった。



★★


 

 


(528) 『出世ミミズ』(著:アーサー・ビナード。集英社文庫)

 筆者は、アメリカ生まれの日本語詩人。ネットで好著との書評があったので買ったのだが、それほどいいなとは思わなかった。("We Play For MacArthur's Erection!"など、おもしろいエピソードはあったが)

 しかし、こんな一節があった。「2001年の秋に出版されベストセラーになった『声に出して読みたい日本語』がある。
『高砂』から3行と、『鶴亀』からも3行、全部で6行の引用が載っていて、隣のページには著者の解説文が・・・・『どちらもとことんめでたい状況を歌っている。覚えていると、めでたい席で使えて便利だ』。
〜しかし『使えて便利だ』という言い方があるだろうか。
〜どう扱われようと、名文はビクともしないだろう。けれど自分としては、謡いの稽古の中で声に出す名文、それから短歌を学ぶ中で接する名歌に、尊敬の念をもって向き合いたいと思う」とある。
 私は、『声に出して読みたい日本語』なる本は読んでいないのだが、筆者のセンスに深く共感する。

★★☆
 

 


 

(529) 『マンダラ紀行』(著:森敦。ちくま文庫)

 どうもNHKで同名のTV番組を撮った時のおはなしのようである。神護寺、東寺、東大寺、高野山、四国八十八箇所などいろいろな場所を訪れている。
 筆者は金剛界マンダラは胎蔵界マンダラから生まれ、両者一体となっているものであり、胎蔵界マンダラを裏返すと金剛界マンダラとなるといった具合に表と裏に分かれたものであってはならず、胎蔵界を見ているといつの間にか金剛界になっているというものでなくてはならないとしている。そして、それを可能とするのがいわゆる「メービウスの帯」だというのである。
 その他「乗法の根源が1であり、ベクトル180度回転は符号の変換、−1をかけることで、その互いの和は相殺されて加法の根元0であることを思い出してもらいたい」という表現もある。で、それを思い出すとどうなるか、というと「このようにして自由から不動のものを得る。この不動を得たとき〜恍惚たる蓮華蔵世界を現前するかも知れない」とある。わかんないなあ。
 また、「相反するベクトルの合一」という言葉もあるんだが、それは「一にかかって念力にありその証(あかし)は恍惚にある」そうだ。「ここが難しいのである」とあるが、全く難しい。
 「n次元空間も1n(n乗)=1となる」そうなんだが、その文章が、「もはや量として認識されぬとき、仏教では摩訶という」へ続く。
 ともかくいろんなところで「メービウスの帯」が出てきて、位相幾何学の本でも読んでる気分になった。私はすっかり著者のことを『月山』森「敦」ではなく、数学者の森「毅」と混同していたのである。

 で、数学にからまない仏教単独のところでは「湯殿山〜の大岩石の頂上よりすこし下がったところに穴があり、巨大な女陰の形をなしていた。そこに宿るところのものをわたしは宇宙種と呼んだが、真言密教では〜種子と言っている。いや、若い僧侶たちはもっと露骨にザーメンといっている」と、「おいおい、急に何を言い出すねん」と言いたくなる文章。
 あと、「密教とは〜早い話が難行苦行によって験を得ようとするもので〜謂わば深奥な呪術」と言い切っている。ずいぶん大胆。「即身成仏〜がいつか即身仏という入定ミイラを出すことになった」としているが、これもけっこう粗いなあ。 



★★
 

 


(530) 『神G剣侠』一巻(著:金庸。訳:岡崎由美・松田京子。徳間文庫)

 社長・・・じゃなくて『射G英雄伝』を以前読んだが、それの後日談。文庫の「帯」に「武俠小説史上最高のラブ・ストーリー」とあったので、誰と誰がラブになるのか?と思いつつ読んだ。(今思えば、裏表紙んとこの「帯」には庸過と小龍女と明記されていた)

 いきなり、かなり強烈な「変な人」が現われる。
 続いて現われた武三娘が語る李莫愁も強烈なキャラ。要するに陸展元にふられた恨みで人を殺しまくっているのだ。で、最初の「変な人」である武三通は、陸展元と結ばれた何沅君に対し「親子の情を超えた思いを抱く」あまりに「頭がおかしくなって」しまったのである。

確かに、やたら「愛憎」まみれの展開が続く。

 庸過登場のシーンもそう。李莫愁の腰に「おい別嬪さんよ」と言いながらむしゃぶりつく。魔女李莫愁だが、「三十を過ぎてまだ生娘」で、相手は子供ながらも「美貌を誉められ〜吾にもなく心をくすぐられ」、抱かれて「ふと身体の力が抜け」てしまう。天性のホストか?

  庸過は幼くして父をなくし、母とも死に別れ、孤児として苦労してきた。周りから邪険にいじめられてきたため、周囲を敵視し心を開かないが、一方、珍しく優しくしてくれる人には、沸点が低いというか、たちまち「ぞっこんラブ」(←死語)になる。
 わけのわかんなさで冒頭の武三通にも劣らぬ「怪人」(欧陽峰)とたちまち実の親子以上に心を通い合わせる。後の孫ばあやとも同様だ。

 さて、李莫愁、そして小龍女の師匠林朝英は、全真教の開山王重陽と夫婦になりたがったのだが、要するに彼女もふられ、王を出家させ、自らは古墓に引きこもる結果となった。李莫愁はある意味師匠譲りなのかもしれない。
 また、妹弟子である小龍女は登場の頃は「クール・ビューティ」というか「正視しかねるほど端正な美貌だが、顔つきは氷のように清らかで冷たく、喜怒哀楽がまるでわからない。声は柔らかく美しいが、微塵も温かみがなかった」とある。しかし、吐血した彼女に庸過が腕を食い破り血を飲ませてから大きく変わる。庸過の言葉に「どうしたわけか、このとき胸に熱くたぎるものを覚え、思わず涙をこぼした」。その後、庸過を古墓の外に出した彼女は「永遠の別れに胸が熱くなって涙をこぼしかけたのだ。まさか、自分がこんなに涙もろいとは〜」。
 一方、数年を経て再び庸過に腰にむしゃぶりつかれた李莫愁は、闘いの最中ながら「いかに残忍とはいえ、処女の身を守ってきた李莫愁は、男臭い温もりを背中に感じて、思わず顔を赤らめ、力が抜けた」。
 庸過の超絶ホスト攻撃で危機を脱した小龍女は、庸過を墓外に残し、巨岩で出口を塞ぐよう命じて中に戻る。
「岩の落ちてくる音に、小龍女は満面を涙に濡らして、思わず振り向いた。入り口が塞がるまであと二尺という時だ。ふいに庸過が身を投げ出して〜滑り込んだ。〜『姑姑、もう追い出せないぜ』」
 本書でも一、二を争う名シーンと思うし、小龍女が「驚きと喜びで気が遠くな」るのもわかる。
「『過児、来て』
 甘えるように言った小龍女は、寄ってきた楊過の手を握り、そっと頬に当てた」。
「体を摺り寄せると、かっと胸が熱くなって、無性に抱きしめて欲しくなった」。
「小龍女は楊過の胸に顔を埋めて啜り泣く。〜小龍女は涙を含んだ眼で、嫣然と笑った」。どんどんヒートアップする小龍女。

 さて第1巻終わり近くで衝撃のシーン。
「目に何かが触れたかと思うと、何も見えなくなった。布で目隠しされたのだ。
 続いて、腕に抱きしめられた。〜相手は顔中に唇を這わせてくる。〜小龍女はなすすべもなく身を任せた。」
 やがて欧陽峰との稽古から帰った庸過は、目隠しされたまま仰臥している彼女を発見する。
「小龍女は相変わらず骨までとろけたように、ぐったりと庸過の胸に寄りかかった。
〜『自分こそ滅茶苦茶のくせに〜』
 小龍女が、庸過の胸に顔を埋めて、夢見るようにつぶやく。
〜『あんなことをされて、まだ師父でいられると思うの?』
〜『〜ゆうべ、お前にあんなことをされて、守宮砂が残っているわけがないでしょう?』
『俺がゆうべ何をしたって?』
『いや、言わないで』
 小龍女がぽっと頬を染める」。
 う〜ん、あれほど練達の小龍女が、欧陽峰の型破りの点穴を施されたとはいえ、庸過なのか違うのか気配を察することができなかったのか。尹志平は指も欠けてるのに。それと、尹はよほどの・・・・・。

 最後は、再び一人となってしまった庸過が、巻頭から姿を消していた陸無双とからむ。さて、続巻が楽しみだ。



★★★
 

 


 

(531) 『海辺のカフカ』上巻(著:村上春樹。新潮文庫)

 以前村上春樹作品の特徴として女性キャラの魅力、比喩の巧みさ、突拍子のないエピソード、印象深いメタファーを挙げた。今回あらためて(ほとんど同じなのだが)(1)魅力的な人物の造形、(2)しゃれた会話、(3)巧みな比喩、(4)思いもよらぬ情況の発生をあげたい。

 上巻で(1)魅力的な人物の造形に該当するというと、やはりナカタさんか。私はホシノ青年も好きだ。もちろんいつも通りさくらなどの女性も魅力的だが、今回は男性が健闘している。

(2)しゃれた会話については、
「『フランツ・シューベルトのピアノ・ソナタを完璧に演奏することは、世界で一番むずかしい作業のひとつだからさ。〜どうしてだと思う?』
『わからない』と僕は言う。
『曲そのものが不完全だからだ。〜』〜」

「経験的なことを言うなら、人がなにかを強く求めるとき、それはまずやってこない。人がなにかを懸命に避けようとするとき、それは向こうから自然にやってくる。〜」

「『差別されるのがどういうことなのか、それがどれくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。〜ただね、僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う<うつろな人間たち>だ。〜そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押しつけようとする人間だ。〜』
〜『〜想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪(さんだつ)された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。〜過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。〜そこには救いはない。〜』」

「僕は言う。『〜自分で選んだと思っていることだって、じっさいには僕がそれを選ぶ以前から、もう既に起こるときめられていたことみたいに思えるんだよ〜』
〜大島さんは僕の目をのぞきこむ。『〜君が今感じていることは、多くのギリシャ悲劇のモチーフになっていることでもあるんだ。〜人はその欠点によってではなく、その美質によってより大きな悲劇の中にひきずりこまれていくソフォクレスの『オイディプス王』が顕著な例だ。〜』」

 しゃれた会話は大島さんの独壇場だと思う。

(3)巧みな比喩は、以前挙げた印象深いメタファーも含む。
「ある場合には運命っていうのは、絶え間なく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。
〜君にできることといえば、あきらめてその嵐の中にまっすぐ足を踏み入れ、砂が入らないように目と耳をしっかりふさぎ、一歩一歩とおり抜けていくことだけだ」。

「小径は、まるでいきおいよく語りはじめられたことばがだんだんか細くなり、もつれていくように、進むにつれてしだいに狭くなり〜」

(4)思いもよらぬ情況の発生といえば、まず、ナカタさんとジョニー・ウォーカーとの事件。その前のジョニー・ウォーカーのやったこと。

 イワシとアジ、ヒルのあれも当然ここに含まれるだろう。

 またジェンダー主義者の二人に対する大島さんの突然のカミングアウトもそう。で、上巻最後のそれは父の「予言」であろうか。

 さて冒頭には「15歳の誕生日は、家出をするにはいちばんふさわしい時点のように思えた。それより前では早すぎるし、それよりあとになると、たぶんもう手遅れだ」という一節がある。
 最近、奈良である事件があった。高一の彼も、本人自身慙愧しているのだが、ただ家出すればよかったのに、と思う。



★★★☆

 

 


(532) 『海辺のカフカ』下巻(著:村上春樹。新潮文庫)

 さて下巻。
(1)魅力的人物の造形というと、下巻では大島さんの兄や「兵隊」はいるが、とりあえず上巻で出揃っていると言ってよい。

(2)しゃれた会話というのは(1)の魅力あるキャラによる味のある会話も含む。

「『彼女はおそらく意味や論理といった冗長な手続きをパスして、そこにあるべき正しい言葉を手に入れることができるんだ。宙を飛んでいる蝶々の羽をやさしくつまんで捕まえるみたいに〜芸術家とは、冗長性を回避する資格を持つ人々のことだ。』」

「『〜ここんとこ俺はどうも異色のおじさんたちに巡りあう星まわりにあるみてえだ。〜』
 これはホシノ青年。

 小枝に止まっている鳥が視覚情報を安定させるために、
「『枝の揺れにあわせて頭を上下させるの。〜そういう人生ってすごく疲れそうだと思わない。〜』
〜『佐伯さんはどこかの枝にとまっているのですか?』
『考えようによっては』と彼女は言う。『そしてときどき強い風が吹く』」

 カーネル・サンダースに神社の祠の中から「入り口の石」を持っていけと言われた星野青年。
「『〜何があっても神社にだけは悪さをするなって、小さい頃からずっとじいちゃんにきつく言われてたからなあ』
『じいちゃんのことは忘れろ。ややこしいときに岐阜県の土着的なモラルを持ち出すな。〜』」

「役に立っているというのはなかなか悪くない気分だ。〜なんというか、自分が正しい場所にいるっていう実感があるんだな。〜比較するのはいささかオーバーかもしれんけど、お釈迦様かイエス・キリストの弟子になった連中も、あるいはこんな具合だったのかもしれないな。〜」

「〜青年は子どもの頃のことを思い出した。〜あの頃は何も考えなくてよかった〜ただそのまんま生きていればよかったんだ。〜でもいつのまにかそうではなくなってしまった。〜生きれば生きるほど俺は中身を失っていって、ただの空っぽな人間になっていったみたいだ〜その流れをどこかで変えることはできるのだろうか?
〜『俺はとにかくいけるところまでナカタさんについていこう。仕事なんて知ったことか』と星野さんは心をきめた。」

「『”ヒツジ年の執事は手術の必需品だ”という言葉もある』
〜『ホシノちゃん、お願いだから、そういうくだらないことを言わんでくれ。〜私はその手の方向性のない無意味さに弱いんだ』」

「『だいたい40時間ってところだ』
『よく眠ったような気がいたします』
『そうだね。そりゃそうだろう。それでよく眠った気がしなかったら、眠りの立場もなくなっちまうよな〜』」

「『でもさ、おじさん、世の中には”毒くわば皿まで”って言葉がある』
〜『しかしホシノさん、お皿なんかを食べたら人は死んでしまいます。〜』
『たしかにそうだよな』と青年は首をひねった。『なんでまた皿なんか食べなくちゃいけねえんだろう』」

「『迷宮という概念を最初につくりだしたのは〜古代メソポタミアの人々だ。彼らは動物の腸を・・・あるいはおそらく時には人間の腸を・・・引きずりだして、そのかたちで運命を占った』」

「『そうか、石は無口ときたね・・・見かけからしてだいたいの想像はつくよ』と星野青年は言った。『石さんはきっと無口で、水泳がことのほか苦手なんだろう〜』」

「『〜それまでちっとも面白いと思わなかった音楽が、なんていうのかね、ずしっと心に沁みるんだ。で、そういう気持ちを誰か、同じようなことがわかるやつと話せたらいいなとか思っちまうんだ。〜』」

「『やれやれ、まったくね』と星野さんは石に向かって言った。『トンカチと包丁をつかって”わけのわからないもの”と闘わなくちゃならないなんて、とんでもない話じゃないか。それもさ、近所の黒猫に指示されてやるんだぜ。ホシノくんの身にもなってもらいたいよ、まったくの話』」

 味のある話といえば、やっぱホシノ青年か。ところで本書ではホシノちゃんとか、青年とか、星野さんとかいろいろ使い分けられているのだが、何か明確な意味があるのだろうか。

(3)巧みな比喩について
「『〜少なくともこれまでは誰も助けてはくれなかった。〜はぐれたカラスと同じです。〜カフカというのはチェコ語でカラスのことです』」

「〜小さな波が、まるでシーツを持ち上げるみたいに上がり〜」

「駐車場に停まっている白のファミリアは、たしかに目立たなかった。それは匿名性という分野におけるひとつの達成であるようにさえ思えた」

「『〜俺っちが勝手におじさんについてきているんだ。〜誰に頼まれたわけでもない。趣味の雪かきみてえなもんだ』」

(4)完結に向けてどんどん思いもよらぬ情況の発生が続く。
 カーネル・サンダースによるホシノ青年への哲学的超弩級セックスマシーンの提供。

 僕と佐伯さん、そしてさくら。

 兵隊たち。幻想的な村。

 役割を果たしたかのようなナカタさんの死。白いものとの戦い。石を閉じること。

 まあ、こうした個別的分析はいい。で、結局なんなんだ。その答えはまだつかめていない。 



★★★☆


 

 


(533) 『僕の叔父さん 網野善彦』(著:中沢新一。集英社新書)

  網野善彦氏の著書というと、以前『中世の非人と遊女』を買ったが、まだ読んでいない。中沢新一も確かオウムの時に支持派と言われていたような気がするが、よく知らない。まして両者が「人類学で言うところの『叔父・・・甥』のあいだに形成されるべき、典型的な『冗談関係』を取り結」んでいたとは知らなかった。

 筆者は幼い頃網野氏に『伴大納言絵詞』を題材に、中心に描かれているのは「世の中で偉いと思われている人々の姿」であって、「歴史の本の中にもしっかり記録されている。だから、そんなものは気にしなくていいんだ。大事なのは、こういう隅っこに描かれている人々の姿なんだ」と教えられる。これは得がたい経験だろう。

 中沢家のアカデミックな雰囲気には驚いた。学閥や象牙の塔には無縁の、損得抜きの、いや、およそ損ばっかりとわかっているのに農民にマルクス主義を説く道を選び、あえて体ごと議論をぶつけ合う。そこに飛び込んだ網野氏が「『〜すばらしい学校だったなあ。あんなふうに純粋に自分の思想をぶつけ合う人々に、ぼくははじめて出会ったんだよ』」と述懐しているのももっともと思う。

 本書に、筆者がTVの仕事で知り合ったフランス人ディレクターから聞いた言葉があった。
「『〜コミュニストであるというのは、地上にあるどんな公認の共同体にも所属できない人間となることを覚悟することなんだなって、幼い頃に私は理解したわ。〜そういう生き方にも立派な意味があったなって、今では思うの。コミュニストの子供であったことは、それほど不幸なことではなかったわ』
 ローザさんの話は、私には痛いようによく理解できた。〜今ではそのことに誇りを感じているほどだ」
 それは、筆者自身も、中沢家がすばらしい学校だと感じていたためだろう。

 本書はいわば長大な弔辞である。そしてこの弔辞は「このようなつたない人間でしかない私を最後まで心からかわいがってくれた『僕の叔父さん』、長いあいだほんとうにありがとうございました」と結ばれている。
 このような弔辞を捧げられる網野氏も、また、捧げる相手を得た筆者もとても幸せであったろうなと思う。

 

 


(534) 『金色のガッシュ』(作:雷句誠。小学館少年サンデーコミックス)

 もともと、けっこうTVなどでは見かけているのだが「金色」が「きんいろ」なのか「こんじき」なのか、「ガッシュ」なのか「ガッシュ・ベル」なのかも知らなかった。それにスカートをはいてるので女なのやら男なのやら、それと顔に、腹話術人形みたいな顔に「縦線」が入っているので人間なのやら人形なのやらも知らなかった。
 で、うちの末っ子(小六)が学校主催の縁日の当てものでガッシュ19巻をいきなりもらったのだ。(←いかにもいらない巻を始末した感じ)
 しかし、末っ子がそれにはまってしまい、近所の小さな古本屋で第1巻から揃え始め、結局最新刊まで揃えた。
 1000年に1回、魔界の王を決めるため、魔物が人間とペアを組んで戦うというお話。人間は「本」を持ち、魔物のレベルアップに従い本に記される呪文を唱えて戦う。戦いに破れ本を焼かれると、その「魔物」は魔界に召還されてしまう。この負けた「魔物」が消えてしまうことが、なかなかドラマチックな展開を呼ぶ。なかなかガッシュががんばるし、みんながんばるんだ。

 


(535) 『射G英雄伝』第一巻「砂漠の覇者ジンギスカーン」(著:金庸。訳:金海南。監修:岡崎由美。徳間文庫)

(あらすじ) 時は南宋中頃、場所は杭州の田舎牛家村。郭嘯天(かくしょうてん)・李萍(りへい)夫婦と、楊鉄心包惜弱夫婦は隣同士で住み仲良くしている。郭・楊はある日、全真七子の一人長春真人・丘処機と知り合い、間もなく生まれる子供に郭靖楊康という名前をつけてもらう。その後、夫婦は官軍段天徳らに襲われ散り散りとなった。
 後に、丘処機は江南七怪ともめて、十八年後、丘が楊の遺児、七怪が郭の遺児を探し出して鍛え、勝負させることを約束し合った。
 楊・郭の遺児がそれぞれどうなったか、というと郭靖は蒙古の村に流れ着き、ジンギスカーンに気に入られる。七怪とも無事巡り会うが、銅屍鉄屍という仇名の陳玄風梅超風夫婦とも遭遇してしまい、七怪のうちの張阿生と陳が命を落とす。
 郭靖は至って物覚えが悪いたちで、六怪は暗澹とするが、全真七子の馬丹陽が密かに内功を伝授して第一のレベルアップ。
 その後、郭靖は汚い少年(実は東邪・黄薬師の娘黄蓉)と知り合う。さらに郭靖は、燕京で「比武招婿」ののぼりをあげている父娘連れに出会う。娘穆念児を弄んだ御曹司が楊の遺児であり、包惜弱を拉致した金国趙王完顔洪烈に王子として養育されていた完顔康(楊康)であった。

(感想) 包惜弱は完顔洪烈が怪我をしていたところを「一口ずつ汁を男の口に含ませ」て看病した。それで洪烈は、夫の楊は官兵に殺された。仇をとろうともちかけ、旅に連れ出した。「包惜弱は顔烈が自分の容貌を褒めるのを聞いて、内心まんざらでもなかった」とか「彼女は目立つほどの美貌であるが夫の楊鉄心はそのことを面と向かって褒めたことは一度もなかった」など、郭の妻李萍があくまで抵抗を続け、最終的に逃げおおせたこととの比較をかいま見せているようだ。
 それと郭靖だが「七怪は、聡明なトゥルイにくらべて、郭靖があまりにも愚鈍なのを見て、がっかりした」、「いかんせん、天性愚鈍な彼は師の期待にこたえることができない」とぼろくそである。

 


(536) 『射G英雄伝』第二巻「江南有情」(著:金庸。訳:金海南。監修:岡崎由美。徳間文庫)

(あらすじ) 穆父娘は趙王府に監禁された。その穆易は、実は楊鉄心であった。一方、郭靖黄蓉は、楊康に味方するチベット僧霊智上人の毒にやられた全真七子の王処一を救うため、趙王府に解毒薬を盗みに入る。その途中、梁子翁がこれまで丹精していた毒蛇の血を飲み干し、またも内功がレベルアップ。郭靖は屋敷の中で地下室に落ち、そこで待っていたのは梅超風。そこに西毒・欧陽峰の甥の欧陽克やら、六怪やら全真七子の馬、丘、王やらが駆けつけ大立ち回り。夫(楊鉄心)と再会した包王妃は、趙王軍に追い詰められ夫婦で自害する。
 趙王府を出た郭靖と黄蓉は食いしん坊の九指神乞・洪七公と知り合う。聡明な黄蓉は料理でつって、郭靖に洪の降龍十八掌を伝授させる。郭靖、またまたレベルアップ。
 穆念児というと、楊康とメロメロになり、女好きな欧陽克にかどわかされ、何かと大変だ。
 郭靖と黄蓉も帰雲荘で陸氏のもてなしをうけ、雅な日々を送っていたかと思うと、楊康がつかまるやら、裘千仭(きゅうせんじん)のニセモノとか江南六怪が現われるやら、梅超風の危機を救った怪人(実は黄薬師)が笛を吹くやら、またまた大騒ぎ。黄蓉の故郷桃花島に帰っても遭遇したのは、まずは老玩童周伯通である。

(感想) 巻末で周伯通にぼろくそに言われ続ける郭靖が哀れといえば哀れ、しゃあないかなといえばしゃあない状態である。

 


 

(537) 『射G英雄伝』第三巻「桃花島の決闘」(著:金庸。訳:金海南。監修:岡崎由美。徳間文庫)

(あらすじ) 周伯通と知り合った郭靖は、『九陰真経』とのいきさつを聞き、空明拳だの両手別拳、さらに九陰真経の真髄まで伝授(正確には経文の暗誦)され、強烈なレベルアップを遂げる。
 続いて、黄薬師欧陽峰は笛と筝で合戦し、そこへ洪七公がやって来て郭靖と欧陽克の婿合戦を裁定する。
 さて、いろいろあって難破した郭、周、洪の3人。鮫の大群に襲われ、さらには鮫よりたちの悪い欧が来て、洪七公がその毒牙にかかる。またいろいろあり、黄蓉、欧陽克、洪七公の3人が無人島に漂着。さらに欧陽峰も郭靖もそこへ漂着する。
 また、黄薬師は周の冗談と霊智上人の嘘でいろいろ誤解し、郭靖と江南六怪に復讐を決意する。
(感想)あらためてあらすじで振り返ると、あらすじにまとめきれないような内容である。しかし、老玩童、小説の登場人物ならよいが、実際にこんな奴が側にいたらたまらんやろな。

 


  今月は、けっこう書評を書きましたな。

inserted by FC2 system