移動メニューにジャンプ

2006年6月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 6月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。


(520) 『密教の世界』(著:松長有慶・宮坂宥勝・佐和隆研・頼富本宏ほか。大阪書籍)

 大阪における朝日カルチャーセンターでの「密教の世界」という講座内容を収録したもの。たくさんの講師がいろいろ述べられている。

日本で密教といえば、東密と台密だが、本書は空海を中心としているのが特徴。各講座の概要を紹介する。

「密教の源流」松長有慶。

「一言で密教を定義しろと言われるほど難しいことはない」
「密教の特徴を要約いたしますと、一番目は神秘主義、二番目は儀礼の重視、三番目は仏教思想を根底に据えているということ」
「この『大日経』『金剛頂経』が、それまでの密教とどういう違いがあるかというと、それまでの密教、あるいは大乗仏教の経典というのはみな仏説〜釈尊の教えであるということであったのが〜大日如来の教えになってくる〜釈尊が悟られたもう一つ前の、その真理そのものを仏様にしたのが大日如来〜
 第二番目の特徴というのは、それまでは〜現世利益が中心であったものが〜人間の解脱(げだつ)という問題、人間の悟りそのものに焦点が移ってまいります。〜
 第三番目の特徴と申しますのは〜身口意(しんくい)の三密というのが重視される〜
 その次に大事なのは、曼荼羅が描かれるようになった」
不空三蔵というのは、行動力のすぐれた大人物であると同時に、意図的な誤訳家でもある」
伝経大師は、一生懸命『法華経』、天台の勉強をしてきたのに、桓武天皇は、それをあまり高く買ってくれない。反対についでに勉強してきた密教を高く買う」。

「空海の生涯の謎」上山春平。

空海の生まれた年というのがいっこうにはっきりしておりません。真言宗のほうでは、宝亀5年(774)〜正史の『続日本後記』〜の記事にしたがえば、空海の生年は宝亀4年」
 筆者は「空海自身によって書かれたもっとも信頼のおける資料を基準にしてぐんぐん押していくと、意外に簡単に結論がついた」と言っている。
 で、筆者があげているのが空海の著作である『三教指帰』で、そこに出てくる「仮名乞児」の年齢からすると、宝亀5年だという。フィクションの、しかもその登場人物が空海自身を思わせるというだけで「第一級の史料」というのはいかがなものか。もう一つが、最澄泰範に与えた『久隔帖』という手紙の内容から宝亀5年と結論できるとのこと。

 次に空海の得度の時期が真言宗では、空海の自伝といわれている『御遺告』(ごゆいごう)から20歳としている。また、正史の没伝では31歳となっているそうだ。
 この点について、筆者は20歳に得度したと書いているのは四点ある『御遺告』のうち『遺告二十五箇条』というものにしか明記されていない。そもそもこの『御遺告』自体、空海がするはずがないような誤りがあり、真筆かどうか疑わしいとしている。で、筆者は、『御遺告』でなく正史の記述をとって31歳説に立つ。そして、補強史料として、「延暦22年4月」に得度したとする太政官符(いわば当時の内閣による、得度を認める公文書)をあげる。

 ところで、正史では生年を宝亀4年としており、そうすると延暦22年にちょうど31歳になり、ぴったり計算が合う。しかし、筆者は生年を宝亀5年としているので、1年ずれてしまう。それをどう説明するか、と言うと、現存する太政官符写しに「二十二年」とあるのは「二十三年」の書き間違いだというのだ。何か史料の取扱いがやたら恣意的だなあと思う。

「弘法大師の教えとその展開」宮坂宥勝(みやさかゆうしょう)。

 空海は長安で最初般若三蔵に師事したが、当時、般若三蔵の経典翻訳の手伝いをしていた景浄という人物は本名アダム・スミスというキリスト教ネストリウス派の教誡師だった。よって、筆者は、空海は日本人としてキリスト教に触れた最初の人物ではないかと想像する。
 また、「胎蔵界というのはまちがいです」と言葉のついでのように突然言及し、断言している。
 その他、空海は『十住心論』ないし『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)で、「それまでに人類が歩んできた思想の鳥瞰図」を示した。第一住心とは弱肉強食の倫理以前の世界。第二は儒教・仏教の倫理道徳。第三は道教・バラモン教などの救済的宗教。第四は声聞の教え、第五は縁覚の教えで、この二つは小乗仏教。第六は法相宗、第七は三論宗で大乗仏教に準ずるもの。第八は天台宗、第九は華厳宗で真実の大乗仏教。そして、第十の真言宗のみが最高段階の「密教」であるとしているそうだ。天台宗は怒ってこないんだろうか。

『書簡からみた弘法大師の人間像』高木、元(たかぎしんげん)。

空海最澄というこの日本の平安仏教を代表する巨匠ほど、きわめて対照的な組み合わせをみせているのも珍しい
 これは、私もそう思う。

「人間性についての大方の見方は、最澄にはきわめて同情的・好意的であるのに対して、空海にはかなり風あたりがきつく、ある場合には、あからさまに嫌悪の感情を表明する人々も多くございます」。
瀬戸内寂聴さんも〜『伝教大師巡礼』(講談社)という本の中で、『最澄は見栄も外聞もかなぐり捨てて、自分より若い空海に辞を低くして教えを請い、いうならばその膝下に土下座をしたありさまであったのに、空海は最澄のそうした愚直なまでの真剣さ、一途さに冷たく、意地悪く報いたのである』と」。
 こうした見解に対し、筆者はまず、世間の人々が、空海が最澄の依頼を非常に峻烈な言辞で拒絶したと考えている「叡山の澄法師の理趣釈経を求むるに答する書」は、空海のものではないとか、最澄あてのものではないという説があり、「いずれにせよ、この手紙は『般若理趣釈』とは何のかかわりもないことはたしか」としている。
 また、最澄の、空海あての手紙には「恩を蒙る」とか「参謁」といった表現があるが、これをそのまま現代的感覚で、土下座せんばかりに辞を低くしていると考えるのは誤りで、それは当時の「書儀」という模範文例によったものにすぎない。逆に、空海の最澄あての手紙に礼を失した表現は全く見当たらないとしている。
 また、最澄は対立していた法相宗の徳一を「麁食者」(そじきしゃ。粗末な食物を食べている者。転じて、まがいものの仏法を信奉している者の意か)といった蔑称で呼んでいるが、空海は彼を賛美している。「これをもってしても、なおかつ最澄のみが謙虚で、空海が無礼といえるかどうか」としている。もっともこれは立場が違うのであって、あまり説得力がないように思う。

 さて、筆者は「空海の生誕が宝亀5年(774)であったことも、最澄の手紙『久隔帖』と、空海の『中寿感興詩ならびに序』を突き合わせてみることではっきりとしてきます。そのことについては私自身すでに十数年以前に明らかにしたことで、最近出版の『弘法大師の書簡』(法蔵館)の中でも重説しておきました」としている。これははっきり、同じ講座の上山氏を意識しての発言だろう。私も、『久隔帖』のような有名な資料で、今さら新発見なんてあるのだろうか、と疑問だったので「納得!」という感じだった。

「密教美術の源流」佐和隆研。

 曼荼羅で東方に阿閦如来が配されているのだが、インドの東の方、オリッサという地方で阿閦如来は信仰されていた。それじゃ、西は阿弥陀如来か、と思って調べるとやはり、インドの西側、アウランガバートとかボンベイ近くのカーネリーという遺跡で阿弥陀如来が発見された。曼荼羅における如来の東西南北の配列の背景は、経典を読むだけでは浮かばなかったが当時のインド全般の仏教信仰を背景にしたものであるとわかった、としている点がおもしろかった。ちょっとこじつけっぽいような気もするが。

「弘法大師とマンダラ」頼富本宏。

 筆者はマンダラの定義として「複数のものが集まっている」というのと、「中心とか、まとまりをもった集まりである」の2点をあげている。ずいぶん広義な定義だと思う。

 また、筆者は「『大日経』の中には胎蔵界という言葉がいっさい出てこない。〜そのため、仏教学あるいは仏教関係者のほうは〜両部という言葉を使います。
 すると、両界という言葉はまちがいかといいますと、実はそうは簡単にはいえないわけです。〜美術史家の方々は両界という用語を使います。〜平安時代初期の天台宗の安然(あんねん)という博学の方が両界という言葉をすでに使っておられます。〜典拠の点からいうと両部のほうが正しいが、しかし両界という用語を簡単に捨てるわけにはいかないということを、ここで少し申し上げておきたい」としている。これは、同じ講座の宮坂氏を意識した言葉だろうか。

「空海の書について」榊莫山。

「空海という人は、時、場所、目的、あるいは相手、こういうものによって書き方を変えるという、非常に近代的な考えを持つ人であった」という点と、「『弘法筆を選ばず』というような言葉があ」るが、「実際に空海という人は、筆をたいへん選んで」おり、罫を引くにはこれ、写経にはこれ、楷書はこれでないとダメ、行書なら絶対これ、といったことを嵯峨天皇などにも申し上げていたという点が興味深かった。

 あと四講座ほどあるが省略させてもらう。いやあ、ずいぶん中身の濃い連続講座だなあ。 

★★★☆


(521) 『仏教発見!』(著:西山厚。講談社現代新書)

 本書冒頭にはこうある。「私は僧侶ではない。どの宗派にも属していない。〜仏教の信者でさえないのかも知れない。〜この本は仏教の教義を説くものではない。〜仏教の歴史をたどるものでもない。きわめて個人的な仏教への思いをお話しするだけの、ささやかな本である」。

 筆者は、奈良唐招提寺に伝わる鎌倉時代の仏像内に納められた文書に注目する。その文書には、「一切衆生、皆々、仏となさせ給へ」とあり、人の名前に交じり、クモ・ノミ・シラミ・ムカデなどが列挙されているというのだ。天平15年(743)に出された聖武天皇の大仏造立の詔(みことのり)には、人間だけでなく「動植ことごとく栄えむとす」との言葉があるそうだ。それが仏教なのだろう。

 「お水取り」について今までほとんど知識がなかったが、「生きとし生けるものの幸せを祈る行事を、千二百五十年以上にわたり、一度の中断もなく続けているのは、世界中で日本だけである」とは驚いた。あの平氏による焼き討ちの年も続けられたとは。
 それと、「『お水取り』の楽しいところは、なんと言っても観音様をほめまくる点にある」というところは笑った。ぜひご一読を。

 最澄空海の関係について述べた部分も興味深い。
 いわゆる『釈理趣経』を貸すことを拒絶した手紙は、最近では、空海が書いてないとか、最澄あてではないとかいう説が多いが、筆者は空海が最澄にあてたものとみる。そして、その激烈な内容に最澄は驚いただろうが、『久隔帖』をみても、両者はまだ心を通わせていたとする。
 筆者は、決別のきっかけを、最澄が泰範(愛弟子だが、空海のもとに身を寄せていた)に「天台と真言に優劣はない。私も長くはないので戻ってきてくれ」と書いた手紙に対する返書とみている。
 泰範は返事を書かず、代わりに空海が泰範の名で「天台と真言には浅深があります。私は真言の醍醐味を耽執しており、ほかのものを味わう暇はありません。利他のことはすべてあなたにお譲りいたします」と書いた。
『利他の事は悉く大師に譲りたてまつる』。この一文を見た時、最澄の中で何かが終わってしまったのだろうと私は思う。
〜『己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり』。これが最澄である。その最澄の人生を小馬鹿にするような皮肉な文章。こんな文章を空海に書いてほしくなかった」。
 空海への印象・好悪を決定づけてしまうような文章である。


★★★☆


(522) 『密教』(著:松長有慶。中公文庫)

 筆者には同じタイトルの著書(岩波新書)がある。本書は、サブタイトルに「インドから日本への伝承」とあるように、密教伝来の過程を詳しく述べている。

 第1章「密教の世界」では、「弘法大師の主要な著作の一つである『弁顕密二教論』」では「顕教は阿弥陀仏のように誓願によって出現した報身仏(ほうじんぶつ)、あるいは釈尊のように歴史的な存在である応身仏(おうじんぶつ)の教えであるに対して、密教は宇宙の真実そのものを人格化した法身仏(ほっしんぶつ)としての大日如来の説とみる」。

 「わが国において伝統的に学ばれてきた密教は、『大日経』とか『金剛頂経』を中心とする7世紀から8世紀の前半ごろまでの密教を主体とするもので〜それをことさら正純密教、略して純密と名づけ、それ以前の密教を雑部(ぞうぶ)密教、略して雑密と呼んで一段と価値の劣るものとみなす。一方、8世紀の後半期以後のインド密教〜は〜左道密教という蔑称の下に〜本格的な研究が忌避されていた。
 一方〜外国人の密教研究は、その対象をインドの後期密教に集中させ」ているので、日本と諸外国ではずいぶん事情が違うようだ。

 また、「秘密」については「受け取り手の目が開かれていないため、その価値を知らない秘密であって衆生の秘密といわれる」ものと「受け取る能力のないものに説くと害があるため、仏がかくした秘密であって、如来の秘密といわれる」ものの二つがある。

「秘密は〜宗教体験の世界であって、通常の方法ではそれを他人に伝えることができない。〜密教の世界観の特徴は宗教体験そのものも、象徴によって表現し、他に伝達しうると考えたところにある。
〜形による象徴を密教では標幟(ひょうじ)とか三摩耶形(さんまやぎょう)と呼び、言葉による象徴を真言という」。

 密教の展開について、各国ごとにみている。まずインドだが、「『大日経』と『金剛頂経』は〜インド密教史においても〜画期的意味をもつもので」、主な特徴は「除災招福を求める現世の利益を求める宗教儀礼と呪法に、大乗仏教の思想性が付与せられたこと、修法の目的が現世利益から成仏に変化したこと、教主がそれまでの釈尊にかわって大毘盧舎那(大日)如来となったこと、宗教体験を図画をもって象徴的に表現する曼荼羅を生み出したこと」であるとしている。
 また、「8世紀以後の後期密教の時代には、インドでは『大日経』系の密教はほとんど展開をみせず、もっぱら『金剛頂経』系の密教がタントリズムの隆盛とあいまって、めざましい展開をとげた」とある。

 次にチベット・ネパールについて「ラマとはチベット語で宗教上の師匠のことで〜仏教では普通、仏と法と僧を三宝と呼んで尊崇するが、チベット仏教では〜師匠を三宝以上に敬う」ので、チベット仏教をラマ教と俗称するとある。

 続いて中国では「8世紀の後半ごろには〜『大日経』系統の密教と『金剛頂経』系統の密教の一元化がはかられ、9世紀の初めにはこれに『蘇悉地経』(そしつじきょう)を加えた三部の経典を頂点とする密教の体系が構成される。その後、中国では『大日経』系統の密教がとくに栄え、『金剛頂経』系の密教にみるべき発展の跡はみられない」というから、インドとは正反対。

 最後に日本について、組織的なインド中期密教を請来した天台系の台密と、真言系の東密について紹介されている。

 第2章「密教の相承」では「神秘的な体験に基盤をもつ密教であるからこそ、その伝達は筆受(文章を通じて秘法を受けること)によらず、面授(師弟相対して秘法を授けること)によることが不可欠とされ」るので、「密教においては、法の伝授の系譜が重要視される」とある。

「弘法大師は広略二種の『付法伝』を著し〜第一祖大日如来、第二祖金剛薩埵、第三祖龍猛(りゅうみょう)菩薩、第四祖龍智菩薩、第五祖金剛智阿闍梨耶(あじゃりや)、第六祖不空金剛阿闍梨耶、第七祖恵果阿闍梨耶〜について〜くわしく述べる」。
「真言宗では、大日如来より恵果阿闍梨にいたる七祖に、弘法大師を加えて付法の八祖という」。
「日本における真言密教のたてまえからいえば〜この付法の八祖には『大日経』系の相承者に乏しい。そこで〜善無畏三蔵一行禅師を別に加え〜かわりに、大日如来と金剛薩埵が除かれて〜これを住持(じゅうじ)の八祖、もしくは伝持の八祖と呼ぶ」。
「真言宗の寺院の本堂には、本堂の両側の壁に八祖の画像をかけるのがならわしで〜通常、それは伝持の八祖の画像であ」る。

 真言宗と天台宗とでは密教相承系譜が諸点で異なる。
 第一に金剛界系と胎蔵系との関係では、真言宗では両部の不二を標榜する関係で両者は表裏一体をなして伝承されたとするが、天台宗では別々に相承されたとする。
 第二に両系の相承者の人数は、真言宗は両部等葉といって6人まで共通し、その先が金剛界系が金剛智、不空。胎蔵系は善無畏、一行と分かれ、両系とも8人。一方、天台宗では両部不等葉といって相承者も人数も異なる。
 第三に、同じく9世紀初めに中国から伝わったのだが、どこの地域の密教かという点は、真言宗は長安の恵果の系統天台宗は辺地の越州に流布していた密教が伝えられた。
 第四に、両部の伝授の仕方であるが、真言宗は金剛智三蔵が龍智阿闍梨から両部の法を授かり、不空三蔵、恵果阿闍梨、弘法大師と伝承されたという立場をとるが、天台宗では、金剛智三蔵が金剛界系を、善無畏三蔵が胎蔵系を伝え、お互いにそれを伝授しあったという金善互授説(こんぜんごじゅせつ)をとる。

 第3章「真理の具現者」では、大毘盧遮那如来、四種法身説、金剛薩埵など、第4章「神話的な伝承をもつ開祖」では龍猛菩薩龍樹・龍猛同一説、龍樹複数説、龍智菩薩、龍智長寿説などを紹介する。
 第5章「金剛頂経の相承」では、金剛智三蔵玄宗と金剛智との関係、不空三蔵、不空のインドへの旅、不空と粛宗・代宗との関係など、第6章「大日経の相承」では善無畏三蔵、善無畏の家系(王位を兄に譲り出家)、玄宗との関係(穏やかな人柄だが、神通力で信頼を得た)、一行禅師、天文暦数の専門学者、道教の素養、玄宗の厚い信頼(自ら碑銘の文を作り、哀悼した)など。
 第7章「両部の相承」では、恵果和尚、金銭に対する淡白さ、伝教大師(最澄)弘法大師(空海)、真言宗は両部を尊重、天台宗は、両部に「蘇悉地経」を加えた三部の相承が基本、などが紹介される。

 さて、第2章の筆受、面授のところで最澄、空海の関係のことを連想していたのだが、最終の「付法の意義」というところで、その辺のことが触れられている。
「密教を法華と同一基盤において取り扱おうとした伝教大師は、弘法大師から密教経典を借覧することによって、密教の本格的な学習を志した。ところが『理趣釈経』の問題が端緒となって、密教経論の借用願いは拒絶された。その理由は密教の伝達方式を弘法大師は面授のみとし、伝教大師は筆受によっても可能と考えたところにある。両者の密教に対する考え方の基本的な相違が、この問題を機会に表面化したと考えることもできる」とある。空海が意地悪をした、俺が苦労して持ち帰ったのに最澄に楽してええとこ取りされてたまるかと物惜しみをしたとかいう問題ではないのだろうが、なかなか難しい。

★★★☆


(523) 『鎌倉仏教』(著:戸頃重基。中公新書)

 日蓮親鸞を中心に、ときおり道元も織り交ぜて、鎌倉仏教の諸要素について比較論証していく。

 筆者は全般的に手厳しい。鎌倉仏教代表の3人に至るまでに、それまでの仏教も手当たり次第に斬っていく。
「呪術的な奈良仏教は、道鏡事件が象徴するように、それが俗悪な政治仏教であることを暴露しながら、自滅へのコースを急いでいた」。
「〜空海は、最澄以上に官僚的な貴族僧〜最澄〜が比叡山に道場を定めたのは〜天皇の身体安全を祈るため〜空海になると〜貧乏な庶民を法門の対象から除外したほどである」。
「浄土教が説くあの世のことは〜密教の現世利益のようにボロをださなくてもすむ〜」。
慈円の末法思想は、ただ昔をあこがれる復古調をかなでているにすぎなかった」。
 筆者が珍しく華厳宗の明恵(みょうえ)と法相宗の貞慶(じょうけい)を「一生不犯(ふぼん)の浄僧が、南都仏教界に出現した」と誉めているな、と思ったら、すぐその後で「結果的にみれば彼らは、ただ過去の栄光を追慕して空しい努力を重ねていたにすぎない」とやはり斬り捨て。

「最澄に比較すると、党派心のいたって強い空海を開山にあおぐ高野山は、元来、真言密教だけにこり固まり、比叡山におけるような教学の多元性を欠いていた」

 さて、鎌倉仏教の代表者3人について、比較して述べられた点をみていく。
 第一に、比叡山との関係。親鸞は「下級貴族出身の親鸞の前途には、公家として立身する見込みがまったくなかった」。「親鸞が比叡山を離れ、法然の弟子となった動機については、『教行信証』の後序に『雑行を棄てて本願に帰す』とあるだけで、詳細はわからない」。
 道元は「長く在山しなかったし、したがってこの山から多くの影響を受けなかった。それは道元が、比叡山によって象徴される日本仏教の伝統に対し深く絶望し、入宋求法したことと関係がある」。
 日蓮は「彼らと同様、比叡山を捨てたが〜『この日本国は伝教大師の御弟子にあらざる者は外道なり悪人なり』(『撰時鈔』)とまでいう最澄へのひたむきな畏敬の心情は、離山後の他の新仏教者には全然みられない」。

 第二に、自力、他力の関係。「親鸞によって代表される浄土教の〜特徴を他力、道元によって代表される禅のそれを自力と呼ぶならば、日蓮の信仰の特徴は、浄土の他力と禅の自力の中間に位置を占める共力(ぐりき)と呼ぶことができる」。
「日蓮の法華信仰は、道元の禅に比較すると、他力の要素が、しばしば呪術的な霊験(れいげん)と混合して現われてくる。
〜他力とは『苦しいときの神だのみ』であり、自力とは『精神一到何事か成らざらん』の気節であり、自他共力とは『人事を尽くして天命をまつ』の心境にたとえることができよう。
 歴史のうえに、日蓮が登場しはじめたときには、念仏の他力がすでに全国を風靡し〜宋から伝来された自力の禅が、朝野の好奇心をそそっていた。日蓮が、これらのものに対抗して法華宗をひろめてゆ」くために「二つの主張のなかに身をお」き「それに比叡山の伝統である密教的な呪術を加え〜たのである」。

 第三に、現世をどうみるかについて。「法然と親鸞とは、この世の価値を究極的に否定し、道元と日蓮は、あの世の実在を否定した。〜そのひとつの重大な理由は、法然、親鸞が乱世に際会し、道元、日蓮が鎌倉政権安定後に活躍した、という歴史的背景の差異に求められる。乱世は人間に無力をさとらせ、治世は人間に努力の意義を呼びさますからである」。

 第四に、念仏への歩み寄りについて。「親鸞が法然の念仏に強くひかれたのは〜人間のはからいの空しさ〜を深く感じていたからである。
〜幼時から念仏を唱えてきた日蓮にとって、念仏は自覚以前のたんなる模倣にすぎなかった〜親鸞に顕著であった無常感が、日蓮にたいへん乏しかった〜無常感によって、世界や人生のはかなさを深刻に痛感するものでないかぎり、この世をいとい、あの世をあこがれる浄土教の法門など、ただバカバカしいの一言につきる」。

 第五に、出家の動機について。「日蓮の出家の動機」は、親鸞の動機が「きわめて主観的・宗教的であるのに比較して、理知的あるいは論理的である」。

 第六に、現世利益について。「持教者の『功徳をもりだくさんに羅列する現世利益の経典『法華経』にいつかはたどりつくべき運命を、日蓮は早くから背負っていた」。
 一方、「現世利益の有無で、仏法の真理の正邪をきめる考え方など、親鸞にはない」。
 別のところでは、「親鸞は、これまでの真言密教がおこなってきた直接的な現世利益を拒否する」。一方、「日蓮は、旧仏教的な現世利益思想が強い」。

 第七に、生まれた環境とその影響。親鸞は「没落貴族の子が、人の世の栄枯盛衰の激しい京都の地から、厭世的な念仏をうけとる素地をつちかわれ」、一方、日蓮は「勇壮な太平洋の岸辺で成長した漁夫の子が、楽天的な法華信仰にたどりついた」。

 第八に、師匠に恵まれたか。「慈円について得度した親鸞は、法然という素晴らしい師に出会った。しかし日蓮は〜明匠に生涯出会わなかった」。

 第九に、受難について。「親鸞の生涯は、概して平穏無事な隠遁者として終わっている」。一方、「日蓮の生涯は、受難の連続であった」。

 第十に、受難の際の弟子たちへの態度。鎌倉幕府は、文暦2年(1235)、肉食女犯の徒が念仏者に多いことを理由に念仏禁止にふみきった。その際、親鸞は「弾圧が身のうえにおよぶことを恐れ、自分の教化した念仏者をあとに残して妻子同伴、京都へ逃避した」。一方、日蓮は「弟子、信者もろとも弾圧の嵐の前に仁王立ちになる。弟子、信者だけ残して、自分は安全地帯へ逃避する、ということは日蓮のとうていなしえないところであった」。

 第十一に、主著と、それを執筆した時の環境について。親鸞は「農村の稲田から内省的な『教行信証』」を生み、日蓮は「都市の鎌倉での大震災の経験から行動的な『立正安国論』」を世に問うた。

 第十二に、布教の仕方について。「布教の仕方は、相手に対し、穏健に説得する摂受(しょうじゅ)と、反対者を強引に改心させる折伏(しゃくぶく)とに分けられる」。
「他力念仏をやさしい修行だとしてひろめた法然や親鸞は、摂受の方法にたよっていた」。
 道元の場合、「『正法眼蔵隋聞記』などから推察される道元の風格は、厳格ななかにもたえず寛容を包み、したがって教育方法も、折伏よりはむしろ摂受に依存していた」。
 一方、日蓮は折伏一本である。「日蓮は『法華経』を信じないものに対しては、彼をあわれむのあまり、当の彼自身が反対しようが激怒しようが、法門の声を〜吹き込もうとした」。

 第十三に、師弟関係について。道元は「弟子に対する師匠の役割の大きいことを認めていた」が、「道元の認める師は〜真理の前には、一点の私情の介入も許さない師であ」った。それに対し、「日蓮のいわゆる師の英知は、主君の力と親の愛に対応するものでなければならなかった」。一方、親鸞は「『弟子一人ももたず』(『歎異抄』)と言明し、縦の師弟関係よりも、むしろ横の同朋同行(どうぼうどうぎょう)の関係を重んじた」。

 第十四に、肉親への情愛について。道元は「両親のことには、ほとんどふれていない」。親鸞も「父母のために、ただのいちども念仏を唱えたことがなかった」。一方、日蓮は「身延の山頂から、父母の地、安房の方へ向かって、題目を唱える日課を欠かさなかった」という伝説があるそうだ。もっとも、日蓮が、父母を重要な存在と思う理由は「ふしぎの日蓮を生み出した父母は、日本国の一切衆生のなかで、大果報の人である」(『寂日房御書』)というから、ちょっと違和感があるのだが。
 また、別のところでは、道元は「父母の忌日に回向するのは仏教ではない」としており、出家したいのだが、そうすれば老母が生活できないという相談に両立が無理なら、「母の生活を見捨てても、わが出家の志をつらぬくべきだと答えた」とある。

 第十五に、妻帯について。道元は「女性を男性に比較して、とくに不浄視する差別観念をもたないだけでなく、『仏法を会(え)すること、男女貴賎をえらぶべからず』〜といって、一種の男女平等思想にまでじゅうぶん達していたのである。〜男女平等を一応説きながらも、実際の女性に接近するのは、道元自身にとってタブーであった」。日蓮は「生母をこのうえなく愛した日蓮が、母と同性の女人を蔑視するはずがない。彼自身は、終生独身だったけれども。〜僧侶の妻帯をよくないことだ、とみていた日蓮は、しかし『法華経』を信ずる在俗の信者の愛欲生活まで否認していたのではない。僧と俗のあいだには、おのずから差別がある」とある。
 親鸞の妻帯は有名だが「親鸞が妻帯に踏み切ったのは、当時、僧侶のあいだでなされていた公然の秘密を、行動的に秘密でなくしたまでのことで」、「法然のように、他力を説きながら、それでいて妻帯を拒む禁欲生活を営んでいたのでは、自力仏教を批判しても、行動的にはそれを肯定していたことになる。他力仏教のこの矛盾が、親鸞の妻帯によって解消したのである」とある。そこまで積極的に評価すべきことなんだろうか。

 最終の「4 法灯のゆくえ」では、この3人の後継者達をみていく。
 「浄土教の夢と現実」では、「生涯をつうじて弟子一人もたず、寺ひとつ建立しようとしなかった親鸞の意志にかかわりなく、彼の没後〜教団は統一へと向かっていった。〜蓮如は親鸞から、こんにち私たちがみて重要と思われる、念仏を根本とする信仰の遺産を継承していなかった。〜後世の本願寺は、念仏の行者親鸞よりは、組織者蓮如の遺産を継承していた〜妻帯や飲酒を認めたことは、親鸞の主観的意図とは別に、真宗僧侶の徳性を高めるよりも、堕落させることにあずかって力があった」。
 「禅の迷いの系譜」では、まず、「功利主義を蛇蝎(だかつ)のように嫌い、私の欲望を離れて、純粋な心で仏教のために仏教を求むべきだ、とした道元の純粋仏教の主張は〜現代の哲学者からさえ〜激賞されてきた」。「道元は〜曹洞宗とか禅宗とかいう宗名さえ、仏法を私するものとして使用を認めていなかった
〜教団のヒエラルヒーは〜道元によってきびしく排撃されていた」が、「教団が、いわゆる魔党の類であることは、皮肉にも道元滅後の曹洞初期教団の動向によって、みごとに実証された」。「〜永平教団を分裂させたのは、義演義介とのあいだで、永平寺相続権をめぐって争論がおこなわれたときからである」。
「座禅はけっして大衆向きの修行ではない。したがって、曹洞教団が大衆のあいだに布教の実績をあげるために」とった方法は「およそ座禅とは似ても似つかぬ現世利益の密教行事を採りいれることで〜密教化した『切紙大事』(きりがみだいじ)などという秘訣伝授がさかんにおこなわれ」た。
 同じ禅宗のうち、臨済宗はどうかというと、栄西は、在世中に大師名を得たというので、『明月記』藤原定家)や、『吾妻鏡』『愚管抄』『明恵上人伝記』などで俗物根性を批判されているとのことである。
 「折れた妙教の剣」という章では、「日蓮には、法華至上の立場から〜日本の神々とも妥協しながら『法華経』をひろめようとする傾向があった。〜神道をじゅうぶんに折伏しなかったことは、後世の日蓮門下を国粋主義に対して弱くさせたことの責めをまぬがれない」とある。
 また、「日蓮も道元と同様に、布施をうけても物に誘惑されて、心をよごさなければ、国王大臣からの所領や官位をうけいれてもさしつかえない。ということになる」。
「日蓮のこの布施に関する主張から、教団は後世、支配階級の提供する所領をうけいれて現実の発展を画策する現実派と、祖師日蓮が幕府の請侍をしりぞけた実例を模範にあげ、法華を信じないものの施しを受けず施さず、とする京都妙覚寺の日奥(1565〜1630)を祖とする不受不施派とに分裂した」とある。いわゆる本音と建前ってとこだろうか。



★★★☆


 

 


 

  なかなか読んだ本に書評が追いつかない状況が続いてます。

inserted by FC2 system