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仏画(12)平成17年度美術史ゼミナール「日本の仏教絵画」第3回その6

1 はじめに

 平成17年度美術史ゼミナール「日本の仏教絵画」という講座の、備忘録程度の受講録。
 で、第3回ゼミの受講録その6。今回のテーマは「日本の仏画の歴史」のうち、鎌倉時代。


2 本日のテーマ

 今日のテーマは「日本の仏画の歴史」。

 下表が先生にいただいたレジュメの続き。

日本の仏画の歴史

 VI 鎌倉時代の美術の特徴

 1180年頃〜1333年頃 (※注1)

(1) 様式面の特徴

 古典への回帰( Renaissance ;文芸復興)

  飛鳥〜藤原時代の美術の集大成(※注2)

    徹底した写実指向、男性的で明快さの追究



(2) 大陸からの影響の復活

 
宋様式・宋代の図像の流入(← 日宋貿易、渡来僧・入宋僧)

(3) 絵画技法の特徴


 暖色系の多用 → 「寒色系の多用」へ

   同系色、同系色の暈、具色 → 色彩の対比

    「謹厳な鉄線描」 → 「肥痩(ひそう)の強い筆墨線」へ

   截金、切箔 → 「皆金色像」(かいこんじきぞう)へ (金泥+截金文様)、盛り上げ彩色



(4) 像種・画題の復活と発生

 垂迹画(すいじゃくが)、山越阿弥陀の登場、当麻曼荼羅・絵因果経の復活

   そして祖師像の興隆(頂相=ちんそう、祖師絵伝、高僧伝絵巻)と水墨画の発生


(5) 絵所(工房)の変化


 絵師〜宮廷絵所(やまと絵の伝統)

 絵仏師〜寺社絵所、詫間派(私仏所)




3 講座内容の概要・補記

3−VI 鎌倉時代の美術の特徴

※注1
 
「1180年」 は、平重衡による南都(東大寺・興福寺)焼き討ち。
 「1185年」(寿永4年)は、平家の滅亡。
 「1333年」は、鎌倉幕府の滅亡。

VI−(1)
 様式面の特徴

※注2
 「寿永4年(1185)の平家の滅亡は、長かった和様の藤原時代の終焉を告げる事件であった
鎌倉新様式の発生をうながした宋代彫刻の影響は無視できないものがあるが、それまで日本の彫刻様式を支配していた唐風を根本的に改めるほどではなく、藤原時代に完成した唐代彫刻の和様化が、依然としてその基調をなしていた
〜仏画における鎌倉新様式の発現も、彫刻の場合とほぼ同じ道筋をたどったことが遺品のうえから確認できる」(『仏画』P) 

VI−(2) 大陸の影響の復活

VI−(3) 絵画技法の特徴

 
「尊像の肉身を金泥塗りとし、衣も金泥塗りとした上に截金文様をおくため、尊像の表情や姿態に柔軟さが失われ、画一的な表現を多くなってくる。藤原時代のフリーハンドで描いたような截金文様に代って、鎌倉時代には定規で引いたような幾何学的な截金文様があらわれる。また、一般に截金のような手間のかかる技術が衰退し、宋画の影響を受けて、簡便な金泥による文様が主流を占め、彩色も明るく暖かみのあった藤原仏画の色調に代って、渋く暗い色調が画面を支配するようになる」(『仏画』P180)

VI−(4) 像種・画題の復活と発生

VI−(5) 絵所(工房)の変化


<鎌倉時代(12世紀末〜14世紀半ば頃)の主な作品>

1 浄土教絵画

 「浄土教絵画においては、鎌倉新仏教の先頭に立つ浄土宗の開祖法然の影響が強かった」(『仏画』P167)

(1) 法華寺本 阿弥陀来迎図

 「重源が関与したと推定される法華寺本阿弥陀来迎図〜は、阿弥陀浄土院の本尊阿弥陀像と思われる姿を画面いっぱいに描き、蓮華座下に飛雲を加えたもの〜
 阿弥陀の姿には運動をあらわすなにものもなく、ただ、蓮台の下に雲があり、左右の空中に蓮弁が散るので、これも来迎図であることがわかる。
〜阿弥陀の相好にみられる重厚さ、赤衣に朱線で描いた卍繋文の固さ、藤原仏画風の照隈をつけた赤衣の平面的な表現と、衣のひだにあらわれた写本的な特色などから、鎌倉時代の初期の制作と思われる」(『仏画』P168)


(2) 蓮華三昧院本 阿弥陀三尊来迎図

 「明遍が制作させた蓮華三昧院本阿弥陀三尊来迎図〜は、大仏蓮弁の線彫にある仏・菩薩とよく似た阿弥陀三尊を描き、これに浄土図を意味する蓮池と、来迎図を意味する飛雲を加えたもので〜阿弥陀は正面向きで転法輪印を結ぶ点に(法華寺本阿弥陀来迎図と)共通性が認められる」(『仏画』P168)


(3) 高野山有志八幡講十八箇院本 阿弥陀聖衆来迎図

 「高野山有志八幡講十八箇院に伝わる阿弥陀聖衆来迎図は、顕真ゆかりの来迎図と推定されるもので、阿弥陀は来迎印を結び、正面向きに来迎し、左上に山越三尊と称する転法輪印を結ぶ阿弥陀と両脇侍を描く。
 〜中尊の肉身と衣の表現には、鎌倉時代の皆金色に近い色調があらわれ〜また、衣の文様を金泥で描くものもあって、藤原時代から鎌倉時代に移る過渡期の特色をあらわし〜文治3年(1187)ごろに天台座主顕真が制作したとする学説は〜真に近いであろう」(『仏画』P168、P245)

 参考画像はHP「高野山霊宝館」などで。


(4) 禅林寺本 山越阿弥陀図

 「法然の影響は〜真言宗の静遍におよび、禅林寺本山越阿弥陀図が生まれる。
〜転法輪印を結んだ阿弥陀が、正面向きに山の彼方に出現する図で、図の左上隅に阿字を描く」(『仏画』P168)

 参考画像は、龍谷大学HPパドマ特別展示室などで。


(5) 金戒光明寺本 山越阿弥陀図

 「鎌倉時代から発生した正面向き来迎図の伝統は、そのまま浄土宗に継承され、13世紀末期の金戒光明寺本山越阿弥陀図を生み出す」(『仏画』P170)

 「しかし、これらの正面向きの来迎図は〜端座合掌で臨終を遂げることを念頭において制作されたので、その至難の業が敬遠されたのか〜それほど流行して行った形跡が見当たらない。

 〜藤原末期になると長谷寺本阿弥陀聖衆来迎図のように、斜め左向きに来迎する阿弥陀聖衆を描き、浄厳院本とは違って往生者を画面右下に描かず、むしろ画面の外、阿弥陀の白毫から発する光が届くところに、実際の往生者が頭北面西で横たわるのを予想した来迎図が生まれた。この種の来迎図をもとに、鎌倉時代を迎えて、阿弥陀の急速な来迎を望む人々の期待に応えて制作されたのが迅雲来迎図で〜天台浄土教で発生した迅雲来迎図は、鎌倉時代の早いころに、興福院(こんぶいん)本のように奈良にまで発展していったが、これが鎌倉末期に浄土宗に影響を及ぼし、知恩院本早来迎を成立させる」(『仏画』P170)

浄厳院本 阿弥陀聖衆来迎図(部分)。
画面右下に往生者の家が描かれている。
長谷寺本(部分)。画面右下に往生者の姿はない。原図では、黄色で囲った範囲の真ん中あたりに、白い筋が描かれている。

 「重源は〜正面向きで転法輪印を結ぶ阿弥陀の来迎図を創始したと推定されるが、一方では、宋から立像形式の阿弥陀三尊画像を請来し、これの普及にも貢献した。
 〜鎌倉時代以降、坐像形式の阿弥陀来迎図はほとんど影をひそめ、立像形式のそれが燎原の火のごとく広がって行った」


(6) 知恩院本 阿弥陀浄土図

 「(重源が請来した立像形式の)阿弥陀三尊の特徴は、中尊が右手を前下方に伸ばして掌を前に向け、左手を胸前に構えて掌を上に向ける特殊な印を結び、また、脇侍観音が右手楊柳枝を持ち、左手に水瓶(すいびょう)を捧げる楊柳観音であることと、三尊とも蓮台下に飛雲を置いて来迎像であることをあらわしていることにある。
 これらの特徴は〜淳熙10年(寿永2年=1183)制作の知恩院本阿弥陀浄土図〜とも共通する」(『仏画』P171)

 参考画像はHP「知恩院の美」などで。


(7) 京都国立博物館本 山越阿弥陀図

 本図は、(4)や(5)と違い、斜め向き。国宝

 参考画像は、京都国立博物館HPのここで。


(8) 清涼寺本 迎接曼荼羅(ごうしょうまんだら)

 「遺品の上で立像阿弥陀聖衆来迎図の最古の作品は、清涼寺本迎接曼荼羅であろう
 〜これこそ承元2年(1208)に入滅した熊谷直実の臨終仏であった〜この来迎図と来迎図の上方に描かれた帰り来迎図の双方に、七宝空殿と無数の化仏(けぶつ)の出現を描いているのは〜上品上生図であることをあらわ」す。(『仏画』P173) 重文


(9) 知恩院本 早来迎

 「この早来迎もまた虚空に七宝宮殿と化仏を配する上品上生の阿弥陀二十五菩薩来迎図で〜急速な来迎を願う切なる心情に呼応するかのごとく、急峻な山腹を一気に滑り降りて阿弥陀聖衆が来迎するさまは、暗い虚空と桜花爛漫たる山水とを背景にした金色の阿弥陀聖衆や、スピード感を盛り上げる巧みな飛雲の描写と相俟って、臨終の緊迫感を見事に盛りあげている。
 〜桜花爛漫のさまを描き、山の所々に紅葉を点じ、山頂には雪を戴いた樹林を配し、山腹には金泥の隈取りを施しているように、この山水が即浄土そのものであることをあらわし〜一種の即身成仏的な往生を意図した来迎図と考えることができる」(『仏画』P175)

 参考画像は、HP「知恩院の美」などで。


2 六道絵

 「鎌倉時代は藤原時代の六道絵の流行を継承し、これに鎌倉新仏教による六道信仰を加えて、いっそうの流行をとげる」(『仏画』P176)

(1) 北野天満宮本 北野天神縁起(根本縁起)

 「鎌倉時代前期の作品で、縦幅51cmもある大きな絵巻に、燃えるような鮮烈な色彩を駆使して、六道の惨苦を生き生きと描く」(『仏画』P176)

 HP「北野天神縁起」によれば、全8巻のうち、第7巻、第8巻が六道絵。

 HP「天神さまの美術」によれば、六道絵の部分はメトロポリタン美術館に渡っていたりするようだ。

(2) 聖衆来迎寺本 六道絵

 「鎌倉時代後期の作品で〜大和絵を基調に据えながら、宋画の影響を受けた暗い色調で六道の惨苦をリアルに描いて、前者とは対照的な表現をみせている」(『仏画』P176)

 「六道絵の流行はやがて地獄の救済者である地蔵菩薩と、地獄の主宰者閻魔王をはじめとする冥官像を生み出す」(『仏画』P176)

 参考画像は、HP「えんま大王のホームページ」にて。すぐリンクが切れるかもしれませんが、京博「最澄と天台の国宝」にて。


(3) 奈良国立博物館本 春日地蔵菩薩像

 「地蔵菩薩(の)仏画は鎌倉時代に入って盛んに制作され、その多くは美男の僧形の姿をとり〜その縁起絵も掛幅もしくは絵巻の両形式をとって制作された」(『仏画』P176)

 HP「醍醐寺の国宝・重文」にて醍醐寺本 地蔵菩薩像の画像が。


(4) 禅林寺本 十界図

 「鎌倉時代の浄土宗で制作される六道絵〜の地獄の場面には、必ずといってよいほど、地蔵の救済が描き込まれるのが、その特色といえる」(『仏画』P176)

(5) 閻魔天曼荼羅

(6) 知恩院本 十王図 陸信忠筆

 「鎌倉時代に〜中国寧波から陸信忠一派の描く十王図が多量に輸入された。
 〜鎌倉時代に日本製の十王図が現存しないのは〜陸一派の十王図の輸入があまりにも多かったため」(『仏画』P178)

 参考画像は、「知恩院」HPなどで。

 


3 密教絵画

(1) 東寺本 十二天屏風

 「建久2年(1191)に詫間勝賀(たくましょうが。宅間とも)が描いた
 〜水墨画を思わせるような肥痩(ひそう)と屈曲の著しいかすれを伴った墨線が縦横に駆使され、彩色には渋味がかった色調が多く用いられるなど、宋画の影響がうかがわれ」る。(『仏画』P179)

(2) 高山寺本 仏眼仏母像

 「明恵上人(みょうえしょうにん)の念持仏であったと伝える
 〜密教図像を忠実に写した姿であるとはいえ、その面長でうねりのある目や、鼻筋を引いた冷やかな表情に宋風がうかがわれるし、衣文様や文様にみる線の固さは、鎌倉時代の特色をあらわしている」(『仏画』P179)


4 説話画

(1) 福井 劒神社 八相涅槃図

 「鎌倉時代は鎌倉新仏教の成立によって、藤原時代の貴族仏教に代って、民衆の救済を目指す仏教が広く普及し〜民衆へ布教するため、説話画を多数制作して絵解きに利用した」(『仏画』P180) 重文

 参考画像は、HP「劒神社」などで。


5 高僧伝絵

(1) 歓喜光寺本 一遍聖絵

 「その作風の優れている点では、正安元年(1299)円伊筆の歓喜光寺本一遍聖絵が一頭地を抜」く。(『仏画』P182)

 参考画像は、HP「e−国宝」などで。


(2) 藤田美術館本 玄奘三蔵絵

 国宝。『仏画』では、高階隆兼(たかしなたかかね)筆の玄奘三蔵絵が、上記(1)に次ぐとされている。

 参考画像は、藤田美術館HPなどで。


(3) 知恩院本 法然上人伝絵

 『四十八巻伝』とも称せられる。

 参考画像は、HP「知恩院の美」などで。


※ 「似絵」(にせえ)

 源頼朝像(京都国立博物館HP)

 公家列影図(京都国立博物館HP)

 後宇多天皇像(HP「大覚寺の名宝」)


6 社寺縁起絵

(1) 北野天満宮本 北野天神縁起絵巻(六道絵で既出)

 「物語文学的・娯楽的要素は弱まり〜絵は連続構図的傾向を著しく弱めて、段落式に移行する。料紙を縦位置にして継いだため、絵巻の縦幅が51cmもある大画面とな」った。(『仏画』P182)

 参考画像は、北野天神縁起絵巻(承久本)HP「北野天満宮」などで。


 それでは、皆さんごきげんよう♪ 


 

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