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仏画(11)平成17年度美術史ゼミナール「日本の仏教絵画」第3回その5

1 はじめに

 平成17年度美術史ゼミナール「日本の仏教絵画」という講座の、備忘録程度の受講録。
 で、第3回ゼミの受講録その5。今回のテーマは「日本の仏画の歴史」のうち、平安後期(藤原)時代。


2 本日のテーマ

 今日のテーマは「日本の仏画の歴史」。

 下表が先生にいただいたレジュメの続き。

日本の仏画の歴史

 V 平安後期の美術の特徴

 10世紀半ば〜1180年頃 (※注1)

(1) 様式面

 国風化、和様化 ※注2

  大陸・半島様式からの脱却 ← 894年:遣唐使の廃止、907年:唐の滅亡

    重厚な様式 → 穏和・優美・平明(奥行き表現の減退)
               
  11世紀後半以降(院政期 ※注3);華麗・繊細(工芸化)  

    末法思想、浄土教、法華経信仰の隆盛 ※注4
      → 貴族、女性による造仏活動の活発化(作善=さぜん の一環)
       この時代の仏画は日本仏画の黄金期 → 古典化

(2) 絵画の技法面の特徴

 色彩の豊麗さ

   暖色系中心、具色(ぐいろ)=朱具、丹具、白群、白緑、
   色線(丹、茶、白)
   色暈(いろぐま)

   照暈(てりぐま。白=ハイライト)の多用、細かな彩色文様(団花文、花唐草文、花丸文など)

   繧繝彩色(うんげんさいしき):紺丹緑紫(こんたんりょくし)による濃淡の配色

    賦彩は濃彩を避け、暖色系や中間色(具色)、白を多用する。

 截金(きりがね)の使用 → 多様な截金文様(卍字・七宝・菱繋ぎ、格子、立涌など)

   ※注1

   12世紀後半以降:截金、銀截金、金銀泥の多用 ← 装飾経の影響 
     時代とともに彩色主体から截金主体へ(地模様のみならず主文も截金へ)

   12世紀後半以降:銀への趣向
     銀截金、銀泥は寒色系によく映える(鎌倉仏画へ)

(3) 絵仏師の系譜

 宮廷絵所;巨勢金岡(こせかなおか)ら → やまと絵の確立

 絵仏師;飛鳥寺玄朝円心(えんじん)ら 京・南部の寺院絵所

 ※注1




3 講座内容の概要・補記

3−V 平安後期の美術の特徴

※注1 
 「寛平6年(894)菅原道真の献策により、遣唐使の派遣が廃止されたことは、美術史の時代区分を画するに足る注目すべき政策決定であった〜遣唐使廃止後の日本の美術は、この唐の美術を基調に据え、これを日本の四季の変化に富んだ湿潤な風土に適合するように、長い歳月のもとに和様化する道をたどることになった」。(『仏画』P156)

 なお、『仏画』では、平安後期を「藤原時代」と表記している。

V−(1) 様式面

※注2
 「藤原時代300年は〜癖の多い貞観時代から次第に離脱し、平明温和な和様化を一路つき進めていく」(『仏画』P157)

 
「和様化の頂点に位置するのは11世紀前半の御堂関白藤原道長とその子頼道の時代」(『仏画』P157)

 
「この時代の絵画の特徴を一言で述べるならば、和様表現の追及となるだろう。仏画・世俗画といったジャンルの別を問わず、画面は優美さへの傾斜を強め、温和で抒情的な気分を漂わせている。〜10世紀後半になると〜唐画の直摸から離れて、細やかな描写を目指し始めた」(『日本美術史』P75)

※注3
 
「11世紀末期から始まる院政時代は〜摂関政治を無力化し〜歴代法皇の狂信的な仏教信仰のもとに、11世紀に完成した和様の仏教美術を、飽くこともなく量産した時代」(『仏画』P159)


※注4
 「折りから、永承7年(1052)が末法到来の年と信じられ〜当時の人々に救済の手を差し伸べたのは、天台宗の恵心僧都源信(942〜1017)であった。源信の著した『往生要集』は〜熱心に人びとに念仏を勧めている。ところがこの念仏は〜極楽浄土の壮麗なありさまを観想する念仏をも交えたものであったから〜浄土教美術を一挙に趣かせることになった」(『仏画』P157) 


V−(2) 絵画の技法面の特徴

※注1
 「相好はあくまで優美で、衣には截金文様を地文として、暖かみのある色調の円形花文を散らし、各部分には周辺を明るくぼかす照隈(てりぐま)を加え、量感や奥行の感じはほとんど消失している。それは平明繊細さの極限まで追求し、この世ならぬ美しさに到達した作品といえるであろう」(『仏画』P161)


V−(3) 絵仏師の系譜

※注1
 「11世紀末期より始まる院政時代は〜歴代法皇の狂信的な仏教信仰のもとに、11世紀に完成した和様の仏教美術を、飽くこともなく量産した時代であった。12世紀末期の平家時代もまたこの傾向を継承し、仏像・仏画の量産こそ末法の世に極楽往生を可能にする裁量の手段と考えられ〜このような量産を遂行するため、定朝の師康尚(こうじょう)以来木仏師(きぶっし)は次第にその数を増し、仏画の制作者である絵仏師も、治暦4年(1068)に教禅が法橋に任ぜられたのを皮切りに、頼助頼源良秀等の名手が輩出した。
 当代の仏画を制作したのは絵仏師だけではなかった。密教僧のなかには、師から弟子に法を伝えるにあたって、図像の力を借りる必要があったところから、絵をよくするものが多く、すでに10世紀に飛鳥寺玄朝があらわれ、院政時代には鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)・定智珍海等が輩出した」(『仏画』P159)


<平安時代後期≒藤原時代(10世紀後半〜12世紀末)の主要な作品>

1 浄土教絵画

 「藤原時代の浄土教絵画においては〜すでに到来した末法の恐怖から逃れるため、より確実な救済の保証として、阿弥陀が聖衆を引き連れて、極楽から現世に来迎する光景を描いた来迎図が歓迎された」(『仏画』P158)

(1) 平等院鳳凰堂扉絵

 「天喜元年(1053)に造営された」(『仏画』P159) 参考画像はHP「平等院鳳凰堂」などで。

(2) 浄厳院本 阿弥陀聖衆来迎図 (じょうごんいんぼん あみだしょうじゅうらいごうず)

 「この11世紀に遡る来迎図は、斜め左向きに来迎する阿弥陀聖衆に対して、画面右下に往生者、右上に色紙形を配し、背景に大和絵山水を描いて、九品来迎図から独立した来迎図であることを物語っている」(『仏画』P159)

(3) 長谷寺本 阿弥陀聖衆来迎図

 「阿弥陀仏の来迎印は左膝の上で左手の指先を上に向ける点に特色があり、左足踏み下げの半跏の姿勢は朝熊山(あさまやま)経塚出土の鏡像阿弥陀三尊来迎図の阿弥陀と共通する。
〜その悠然たる来迎の速度、量感豊かな三尊の姿、古様な截金文様は11世紀にさかのぼる可能性があり、九品来迎図から掛幅装の来迎図が成立した初期の例にあげられよう」(『仏画』P248) 重文

 参考画像はHP「長谷寺」:内陣壁画にて。ただし斜めから写して、かつ、光が反射してますのでほとんど見えません。


2 密教絵画

 「9世紀以来の密教絵画は、京都の貴族の支持を受け、その加持祈祷に応じるため〜盛んに制作された」(『仏画』P159)

(1) 総持寺所蔵銅造毛彫蔵王権現像

 
参考画像はHP「西新井大師」:蔵王権現像などで。

(2) 青蓮院本 青不動 (しょうれんいんぼん あおふどう)

 「
醍醐寺本不動図巻に収める飛鳥寺玄朝筆の不動頭部と矜羯羅(こんがら)・制咤迦(せいたか)両童子の図像ときわめてよく似た不動で、不動十九観で描かれた不動の本格的な作品としては、現存最古の11世紀にさかのぼるであろう。
 鮮やかな丹と朱とそれに淡黒を添えてあらわした横向きの伽楼羅(かるら)7羽を不動周辺に配し、下方に下るに従って伽楼羅の形を次第にくずして、巧みにめらめらと燃えさかる炎のごとくあらわし」た。(『仏画』P232) 国宝

 参考画像は、HP「青蓮院門跡」:国宝青不動 や、(季節ものなどで多分、すぐリンク切れになると思うが)HP「京都物語」などで。
 なお、参考の参考として、滋賀県長浜市の、舎那院所蔵の、国宝じゃない、室町時代の(←しつこいな)青不動はここから。

(3) 東寺本 五大尊像

 「大治2年(1127)に焼失した後七日御修法(ごしちにちみしほ)用の五大尊十二天を同年中に復興したもののうちの一幅
 〜いずれも青色の肉身を白緑(びゃくろく)で隈取りし、渦巻火炎光を負う。
 〜後七日御修法とは、正月八日から七日間、東寺長者が〜天皇の安穏を加持する修法で、承和2年(835)に空海によって始められた。
 〜五大尊とは、不動明王を中尊とし、これに降三世(ごうざんぜ)・軍荼利(ぐんだり)・大威徳・金剛夜叉の四明王を加えたもの」(『仏画』P234) 国宝

(4) 京都国立博物館本 十二天像

 「もと東寺に伝来し、五大尊像と一具のもの
 〜梵天は風天とともに大治2年の火災を免れた長久元年(1040)救円制作〜のものと思われ、11世紀の仏画にふさわしい奥行き感、ふくよかな肉身のふくらみ、入念な彩色文様等が、大治2年制作の他の十天の平面的装飾的な表現と大きな相違を見せている」(『仏画』P236) 国宝

 参考画像は、HP「e−国宝」:十二天像や、京都国立博物館HPのここや子供向け解説のここなど。

(5) 持光寺本 普賢延命像

 「画面下辺裏側に〜墨書があり、仁平3年(1153)の制作であることがわかる。
 〜この像もきりりと引き締った相好をあらわし、象頭に乗る四天王にも、鎌倉様式に近い力強い姿勢が見え」る。(『仏画』P231) 国宝

 参考画像は、文化庁HP:文化財紹介:普賢延命像などで。

(6) 子島曼荼羅

 「長保年間(999〜1004)の制作と考えられている子島寺(こじまでら)の両界曼荼羅(※石野注 いわゆる子島曼荼羅)は、紺綾地(こんあやじ)に金銀泥をもって図像を細密に描くものであるが、平安前期の高雄曼荼羅と比べると、より装飾性が強まっていることに気付く」(『日本美術史』P77)

 参考画像は、HP「子島寺」などで。

(7) 大威徳明王像

 「11世紀前半では、柔軟な線描と彩色の気品ある装飾性が、おおらかな表現を獲得している」(『日本美術史』P78)

 「岡倉天心の遺愛品で〜ボストン美術館の所蔵に帰した。
 〜左右第一手で胸前に檀拏印(だんだいん)を結び〜左右第一手に弓と矢を持つ他の形式の大威徳とは違っている。
 〜忿怒形(ふんぬぎょう)でありながら、条帛(じょうはく)や裳(も)を飾る截金文様を地とした彩色文様、白地に太い朱線をゆらめかす火炎光などの華麗な表現に、藤原仏画の特色がうかがわれる」(『仏画』P234)

 参考画像は、HP「埃まみれの書棚から」(10)などで。 



3 釈迦関係仏画

(1) 金剛峯寺本 仏涅槃図

 「仏画中の屈指の優品と称せられる
 〜画面右端に応徳3年(1086)の年記が記され、日本に現存する最古の仏涅槃図であることがわかる。釈迦の肉身は黄色で、白色地に切り金文様を配した衣を纏い、両手を体側に付け〜右下隅には涅槃に参集した諸動物を代表して獅子一頭のみ描き〜沙羅樹は以後の日本の仏涅槃図がみなそうであるように、四方に2本ずつ計8本描かれている。
 仏涅槃図の遺品はインド・西域・中国にわたって現存しているが〜いずれも釈迦が頭光もしくは挙身光を負い、右手枕して横臥し、沙羅樹は左右に1本ずつ立ち、動物をまったく描かないといった諸点に、この仏涅槃図との相違が認められる」(『仏画』P212) 国宝

  参考画像は、HP「高野山霊宝館」:絵画などで。

(2) 京都国立博物館本 釈迦金棺出現図

 「相対する釈迦と摩耶を取り巻いて、画面いっぱいに配置された群集が、この奇跡を固唾をのんで凝視するさまを劇的に描いた〜緊迫した画面を構成しながら、藤原時代独特の優婉な美しさをただよわせている」(『仏画』P212) 国宝

 参考画像は、京都国立博物館HPのここ文化庁HP:文化財紹介:釈迦金棺出現図「e−国宝」:釈迦金棺出現図などで。

(3) 神護寺本 釈迦如来像

 「神護寺の法華会(ほっけえ)は延暦21年に最澄によって開かれて以来〜「高雄の法華会」と称して引き続き行なわれた。
 〜この釈迦像はその法華会の本尊であったと推定され、赤い衣をつけているので赤釈迦と呼ばれている。赤い衣には周辺を明るくぼかす照隈(てりぐま)をつけ、その上に七宝繋(しっぽうつなぎ)の截金文様(きりがねもんよう)を地文とする彩色円形花文を散らし、その優美な相好とともに、12世紀仏画の典型的な様式を示している。台座・光背も華麗を極めるが、とくに光背の縁は金銅透彫であることを巧みにあらわして見事である」(『仏画』P222) 国宝

 参考画像は、京都国立博物館HPのここなどで。

(4) 東京国立博物館本 普賢菩薩像 

 「肉身は白色で、合掌して六牙の白象に乗るなよなよとした姿は、まことに繊細優美
 〜普賢菩薩を女性的な姿に描くことは、藤原時代以後一般化するが、この像に至って爛熟の極に達したと称することができよう。彩色もまた豊麗で、截金文様を地文として繧繝を多く用いた彩色花文を散らし、技巧の限りを尽す」(『仏画』P223) 国宝

  参考画像は、東京国立博物館HPのここなどで。

(5) 東京国立博物館本 虚空蔵菩薩像

 (上記普賢菩薩像と)「ほぼ同じ頃の(本図)もまた、この時期の繊細な感覚を抑制と気品のうちに表現する名品で、前掲の普賢が色彩の妖艶美であるとするならば、これは截金の幽玄美といえるだろう」(『日本美術史』P79)

 参考画像は、東博HPのここなどで。



4 垂迹画

 「この時代の末期に、春日・熊野・日吉(ひえ)等の大社の社頭の景観を大和絵で描き、これに本地仏や垂迹神を適宜に配した垂迹曼荼羅(すいじゃくまんだら)が成立する」(『仏画』P161)



5 高僧伝絵

(1) 東京国立博物館本 聖徳太子伝絵

 「もと法隆寺絵殿にあった延久元年(1069)秦致真(はたのむねざね)筆〜」(『仏画』P161)

 「延久元年(1069)、秦致貞(はたのちてい)によって描かれた聖徳太子伝絵(法隆寺絵殿伝来)〜山や土坡(どは)、建物などの風景に様々な情景を点在させるというその構成法も、もともとは唐代の説話画の系譜につながる」(『日本美術史』P76)

 参考画像は、HP「e−国宝」:聖徳太子絵伝などで。




6 社寺縁起絵

 「やがて当代末期になると〜絵巻物形式の社寺縁起絵があらわれる〜優れた連続構図のもとに、絵のみの展開によって、物語文学性を豊かに含んだ霊験談をさりげなく訴える点で共通している」(『仏画』P161)

(1) 信貴山縁起

 
参考画像は、HP「MY TOWN 平群」HP「信貴山縁起絵巻」などで。

(2) 粉河寺縁起(こかわでらえんぎ)

 参考画像は、京都国立博物館HP「絵巻」などで。



7 経絵

 「説話画の流行と比例して〜経典の絵解き、すなわち経絵もまた盛んになった」(『仏画』P162)

(1) 藤田美術館本 両部大経感得図

 「永久寺旧蔵の(本図)は、善无畏(ぜんむい)による『大日経』金剛智による『金剛頂経』のそれぞれの感得の場面を描いた作品で、保延2年(1136)藤原宗弘が制作した壁画」(『仏画』P162)

 参考画像は、藤田美術館HPにて。

(2) 大寿院本 紺紙着色最勝王経宝塔曼荼羅

 「(本図は)『最勝王経』を金字で九重宝塔形に書写し、その周辺に経典の内容に関連する絵を極彩色で描いた美麗な額装本」(『仏画』P162) 重文

(3) 平家納経

 「巻子装(かんすそう)の代表的な作品〜長寛2年(1164)、時めく平家一門が『法華経』を書写して厳島神社に奉納したもので、見返絵のほか、料紙・軸・紐に至るまで、想像を絶する技巧の限りを尽した装飾を施している」(『仏画』P162)

 参考画像は、HP「平家納経」などで。リンクしておいてなんなんですが、個人HPだと思うんですけど、全写真をスキャンしちゃってるんでしょうか・・・・。

(4) 扇面写経

 「四天王寺や西教寺に残る扇面写経もまた『法華経』を書写したものであるが、その下絵として描かれた彩色画は、経典の内容とは関係のない愛すべき世俗画である」(『仏画』P162)

 参考画像は、HP「e−国宝」:扇面法華経などで。



8 六道絵

 「当代の六道信仰の中心となったのは天台浄土教〜六観音を六道救済の仏として、聖観音(しょうかんのん)→地獄、千手観音→餓鬼、馬頭観音→畜生、十一面観音→阿修羅、不空羂索観音→人、如意輪観音→天と、天平時代以来変化観音として日本の社会に親しまれてきた六観音を六道に配当〜摂関家の支持を受け、藤原基経以来〜藤原氏の氏寺でも必ず造立されるようになった」(『仏画』P162)

(1) 醍醐寺本 六字経曼荼羅

 「真言宗では観宿(847〜928)等によって、釈迦金輪を中心に、それを巡って六観音、その下に貴布禰(きふね)・須比(すひ)・賀津良(かつら)・山尾・河尾・奥深の六呪詛神、呪詛神の左右に不動・大威徳の両明王を配した六字経曼荼羅が考案され〜調伏法に用いられた。
 〜ただし、この六観音はいずれも二臂像で、人道救済の観音が准胝(じゅんでい)であるのが天台と異なる」(『仏画』P163) 重文
 それにしても、二臂に描いちゃったら千手観音を見分けるのは難しい・・・。


(2) 奈良国立博物館本 地獄草紙

 「恵心僧都『往生要集』で〜穢土すなわち六道それ自体の救済を認めていない。
 〜恵心僧都が考案したと考えるにふさわしい六道美術を求めてみると、時代はやや下がって12世紀の作品となるが、地獄草紙や餓鬼草紙のように、地獄や餓鬼の惨苦のみを取り上げた絵巻があげられよう。〜その内容は救済を拒絶した厳しい六道観に裏付けられ、見る者に反省懺悔を迫らずにはおかぬ深刻さをひそめている」(『仏画』P164) 

 「もと東京の大聖院にあり〜『起世経』に説かれる八大地獄それぞれに所在する十六別所のうち、七別所のみ残っている」(『仏画』P261) 国宝

 参考画像は、奈良国立博物館HPのここなどから。奈良国立博物館HPの検索ページで「地獄草紙」と入力すると、いやというほど画像を見ることができます。

(3) 東京国立博物館本 地獄草紙

 「もと岡山の安住院に伝来〜『正法念処経』に説かれる叫喚地獄所在の十六別所を描いているが、現在そのうちのハツ火流・火末虫・雲火霧・雨炎火石〜だけが残っている」(『仏画』P262) 国宝

 参考画像は、東博HPのここなどで。

(4) 東京国立博物館本 餓鬼草紙

 「もと岡山の河本家にあった餓鬼草紙で、『正法念処経』に説かれる36種の餓鬼のうち、10種の餓鬼〜を残している」(『仏画』P262) 国宝

 参考画像は、東博HPのここなどで。そこで表示される画像は、一見華やかな貴族の遊宴が描かれているので、何でこれが餓鬼?と思われるかもしれない。これは「欲色餓鬼」という場で、食物を盗みに来た小さな餓鬼が貴族の肩や膝の上に描かれている。あと、別画像ではスカトロ場面も。

(5) 京都国立博物館本 餓鬼草紙

 「もと岡山の曹源寺に伝来した餓鬼草紙で、全部で七段あり、第一・第二は『正法念処経』による食水餓鬼、第三・第四は『盂蘭盆経』(うらぼんきょう)による目連救母の物語、第五段も食水餓鬼、第六・第七は『救抜焔口餓鬼陀羅尼経』(くばつえんくがきだらにきょう)によって焔口餓鬼を描く」(『仏画』P263) 国宝

 参考画像は、京都国立博物館HPのここから。
 この餓鬼草紙は、実物を観たことがある。表示される場面で、(ちょっとウロ覚えだが)「A」が食水餓鬼で、人の足裏の水をすすっている。「B」も食水餓鬼で、墓に供える水のしずくしか飲めない。
 「D」は、目連が供養している場面。目連は、釈迦の十大弟子の一人。目連は、何か飲み食いしようとすると焔に変ってしまう餓鬼となった母を救うため、僧侶に供養する。「E」は、飲み食いしようとすると焔に変る場面、ほとけに救われる場面、普通に水が飲めるようになった場面、雲に乗って極楽浄土へ往生する場面を一図に描いている。
 最後の「G」はいわゆる「施餓鬼」の場面。


 それでは、皆さんごきげんよう♪ 


 

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