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(No141) 「空海の舎利信仰 〜法門寺から東寺へ〜」 聴講記 その1

 平成22年6月19日(土)、上記講演会を聴きに行った時のメモ。

 講師は、奈良国立博物館学芸部長補佐の内藤栄氏。


空海の舎利信仰〜法門寺から東寺まで〜 

                 内藤栄 奈良国立博物館学芸部長補佐

 

はじめに(講座の目的)

1 日本の舎利信仰、舎利荘厳美術(舎利を飾る美術)は、空海により大きく変貌

2 奈良時代まで、舎利は釈迦の聖遺物(釈迦その人)、空海以後は国家鎮護、五穀豊穣の宝物となる。

3 空海の舎利信仰は、唐の法門寺真身舎利の宮中への奉迎供養から影響を受けた。

4 空海は東寺を国家鎮護の舎利を守る寺(=日本の法門寺に位置づけた。

 

 初めに、本日のお話の概要を申し上げます。

 私は、舎利信仰を研究しているのですが、空海の舎利信仰のルーツが分かったのではないか、と。

 奈良、飛鳥時代と、それ以降では舎利信仰の内容がかなり変わってくるのですが、その変化の立役者は空海であって、その理由は彼の留学時代にある。

 彼が師事したのは恵果ですが、恵果は中国法門寺の舎利信仰の中心人物であり、恵果から空海に伝授されたのではないか、というのが私の考えです。

 奈良時代においては、舎利は釈迦の遺骨、釈迦そのものでしたが、空海以後は護国などの「象徴となりました。空海は、東寺を日本の法門寺と位置づけたと思われます。

 


一 飛鳥〜奈良時代の舎利信仰

1 舎利は寺院建立の必需品

2 『日本書紀』敏達天皇十三年(584)

3 奈良時代の伽藍の中心は仏像。舎利は伽藍の外側。

4 飛鳥〜奈良時代は基本的には舎利は塔に埋納。

5 護国の根本は経典。

(例) 国分寺『金光明最勝王経』、国分尼寺『法華経』、百万塔:無垢浄光経陀羅尼

6 奈良時代、舎利信仰は盛んではなかった。→舎利信仰は、人々の様々な願望に対応できなかった?


 
 『日本書紀』の584年の条は、日本で舎利が記された最古の文献です。
 そこには、蘇我馬子が自宅に仏殿を建て法会を修したところ、列席していた司馬達等
(しめのたつと)は、自分の食事の器の中に舎利を発見し、馬子に献じた。
 馬子は、その舎利の真偽を確かめるため鉄鎚で打ったが壊れず、水に投じたが思いのままに浮き沈みした。
 そこで馬子は、大野丘北に塔を建立し、その舎利を相輪の頂上に籠めた・・・とあります。

 飛鳥時代の頃は、舎利は寺院を建立する時の必需品でした。
 舎利というのは伝えられたり、外国からもたらされたりするものですが、徳の高い人には「自然に湧く」ということも信じられていました。

 奈良時代には、塔は伽藍の外側に位置するようになってきました。
 奈良時代になると舎利信仰があまり盛んでなくなったと言えます。理由としては、仏像は「担当」が明白なんですね。病気回復で薬師如来、極楽浄土を願うなら阿弥陀如来など分かりやすい。
 その点、舎利は釈迦の遺骨ですから、人々の願望に対応が難しかったのかもしれません。
  

   


二 空海による舎利の請来

1 仏舎利八十粒

2 密教法具に籠められた舎利

 金剛密教法具(五宝五鈷金剛杵、五宝五鈷鈴、金剛盤子):京都東寺蔵

3 金銅五鈷鈴の舎利納入孔

4 舎利が籠められた東寺講堂諸像

 ただし、請来された舎利かどうかは不明

5 金剛宝菩薩像及び頭部X線撮影

 空海が請来した仏舎利は、金剛智が南インドで入手して、以後金剛智→不空恵果→空海へと相承されたものです。

 資料の文献は、空海が804年に空海が唐から持ち帰った物のリストですが、そこに「仏舎利八十粒」という記載があります。

『御請来目録』
(【資料1】)

「(前略)
道具
(略)
阿闍梨付属物
仏舎利八十粒 就中金色舎利一粒
(略)」

 奈良時代まで、舎利は塔に埋納されるものでした。しかし、この舎利は東寺の校倉造りの宝蔵に安置されました。そのため、後世「東寺舎利」と呼ばれます。

 東寺の五重塔では舎利ではなく、大日如来の曼荼羅が安置されました。

 宝蔵の舎利は1年に1度、宮中に運ばれ「後七日御修法」に使用され、国家護持の秘宝として舎利信仰の核となりました。
 空海は、塔に埋め込んでしまっては外で活用できないので、持ち出せる宝蔵に納めたものと考えられます。 

 舎利は様々な法具にも籠められました。写真では分かりにくいですが、この孔が金銅五鈷鈴が舎利が納入された孔です。

 また、東寺講堂の諸像にも舎利が籠められました。

 


三 後七日御修法について

 

1 空海の上奏によって承和2年(835)より始まる。

2 毎年正月8日から7日間

3 場所は、宮中の真言院

4 目的は「国家護持」と「五穀豊穣」
 
院政期からは天皇の健康なども加わる。

5 後七日御修法の道場(『年中行事絵巻』

6 後七日御修法の大壇具(於:奈良国立博物館)

7 金銅宝塔
 
(平安時代、東寺所蔵)

 後七日御修法は、仏画や法具を持ち込み、同上を設営し、1月8日から7日間の期間で行います。

 院政期には、目的に天皇の健康が加わりました。

 『年中行事絵巻』には修法の道場が描かれています。
 横長の場所で、正面には五代明王の画像が掲げられています。明王に向って右側の壁に胎蔵界曼荼羅が掲げられ、その前に胎蔵界壇が、同じく左側には金剛界曼荼羅が掲げられ、その前に金剛界壇が設けられます。

 本尊は舎利です。舎利が置かれた壇で修法を行い、次の年には反対側の壇に舎利を置きます。

 宝塔の中に80粒の舎利が籠められています。その他、羯摩などの法具にも舎利が籠められています。この修法の壇は舎利で固められていると言えます。

 


四 後七日御修法における舎利の意味

 
1 護法力

2 大日如来・五智如来の象徴

3 如意宝珠

1 護法力

(1) 舎利は密教法具の護法性を高めることができると考えられています。

 
『陀羅尼集経』
(【資料2】)
「〜釈迦は三鈷杵が仏法を守護することを説き、印可として過去真仏舎利七粒を菩薩に与え、それを三鈷杵の中に籠めさせた。
 釈迦は、これが諸外道、欲界、天魔をよく防ぐと説き〜」

(2) 東寺講堂は国家鎮護の道場であり、舎利は講堂の仏像21体のうち15体に籠められています。(後述)

2 大日如来・五智如来の象徴

(1) 金銅宝塔(東寺)の姿は、「三十七尊賢劫十六外金剛二十天図像」(京都醍醐寺)に描かれた「毘盧舎那」の象徴とされている塔の姿と非常によく似ています。

(2) 金銅金剛盤(金銅密教法具:東寺)を見ると、盤の表面に金剛鈴菩薩、金剛鎖菩薩、金剛索菩薩、金剛鉤菩薩が筋彫りされています。ということは、その盤の中央に置かれる法具は大日如来の象徴ということになります。

(3) 東寺講堂諸像は立体の曼荼羅です。中央の五仏(=五智如来。大日、阿閦、不空成就、宝生、阿弥陀)、その両脇の五大菩薩(金剛波羅密、金剛薩捶、金剛宝、金剛法、金剛業)、五大明王(不動、金剛夜叉、降三世、軍荼利、大威徳)のすべてに舎利が籠められています。

 舎利が籠められていないのは、わずかに外縁の四天王
(多聞天、持国天、増長天、広目天)、そして梵天、帝釈天のみです。
 東寺講堂内の諸像の名前については、私の「東寺」のところで。

 立体的な解説は、例えばここで。

 重要なのは、空海が「舎利」をどうとらえていたか、です。
 舎利とは、本来「シャカ」の遺骨です。
 ところが、空海の奉ずる密教において中心的存在は、宇宙の最高の存在、大日如来だけです。しかし、釈迦はたくさんの仏の一つでしかないので、舎利は単に釈迦の遺骨・・・ではなく、舎利は大日如来であると考える必要があるのです。


3 如意宝珠・・・豊穣の象徴

(1) 【資料3】『御遺告』「東寺座主阿闍梨耶可護持如意宝珠縁起第二十四」)によれば、空海は師・恵果より能作性如意法珠を授けられ、室生山に埋めた。仏舎利八十粒(東寺舎利)の真の姿も如意宝珠だった・・・とあります。ただし、10世紀の資料です。

(2) 室生山は龍穴があり、奈良時代以来祈雨の聖地でした。如意宝珠は瑞獣である龍神の宝物であり、慈雨を降らせ、五穀を稔らせると考えられていました。
 如意宝珠は、あらゆる願いをかなえる不思議な玉だったのです。
 まさに「ドラゴンボール」だな。

(3) 後七日御修法の目的である「五穀豊穣」は、舎利の豊穣性に基づくものと考えられます。 

 

 

 


 

 どうもお疲れ様でした。

 
  

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