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(No142) 「空海の舎利信仰 〜法門寺から東寺へ〜」 聴講記 その2

 平成22年6月19日(土)、上記講演会を聴きに行った時のメモ・・・・の続き。




空海の舎利信仰〜法門寺から東寺まで〜 

                 内藤栄 奈良国立博物館学芸部長補佐

 

 


五 空海の舎利信仰の源

1 阿育王塔

2 中国の古塔と龍神信仰

3 中国皇帝による舎利信仰

4 法門寺


1 阿育王塔

(1) アショカ王は紀元前3世紀に活躍したインド・マウリア朝の第3代王で、インドを初めて統一しました。

(2) 統一の過程では残虐な行為を繰り返したが、統一後は仏法を信仰し、保護したといわれています。

(3) 初期の八塔のうち、七塔を開き、舎利を分割し、八万四千基のストゥーパを建立したと伝えられています。「84000」というのは、具体的な数字というよりインドでは「無限」を意味する数字です。

 「八」塔にはわけがあります。釈迦は、クシナガラで入滅しました。舎利を奪い合って争いが起こったが、ドローナという僧侶が舎利を八等分して仲裁し、それで八つの塔ができたのです。

 アショカ王は、その塔のうち七つを開いたが、藍摩(ラーマ)国の塔を開こうとしたとき、塔の近くの池に住む龍がバラモンに姿を変え、王にストゥーパを開かぬよう懇願し、龍が荘厳した舎利の見事さに感動した王は発掘をしなかったと『大唐西域記』にあります。

 アショカ王が建立したストゥーパの例としては、サンチー第一塔が挙げられます。これはインドでも最上のストゥーパだと思います。

 ストゥーパにはアショカ王が出てくる遺品が残っているものがあります。王は右手を上げているので、それと分かります。
(例:インド・アマラヴァディ大塔伝来のストゥーパ装飾板。ニューデリー国立博物館所蔵)

 中国の阿育王塔伝説については、中国の舎利信仰は紀元後3世紀頃に始まるもので、中国初期の塔は、いずれも阿育王塔伝承を有すると言われています。

 中国にも21基(19基という説もあり)の阿育王塔が存在すると信じられ、その代表は、寧波・阿育王寺、陝西省・法門寺、南京・長干寺だとされています。

(4) アショカ王は、転輪聖王(理想的な王)の一人、鉄輪王とされています。 

 

2 中国の古塔と龍神信仰

 中国の古塔の伝説には、次のようなものがあります。

(1) 益州・福感寺塔・・・益州が旱魃の時は官人がこの塔で祈雨を行い、必ず感応があるため福感寺と呼ばれた。(『法苑珠林』巻三八)

(2) 益州・雒県塔・・・塔は龍が守護し、龍は西南隅の池に住む。また、傍らの三池に三龍が住むと伝える。(同上)

(3) 鄭州・超化寺塔・・・塔の西南と南に五、六の泉があり、泉が湧き出し益成川に注ぐ。(同上)

(4) 懐州・妙楽寺塔・・・古老の伝によれば塔は地中より湧出し、下に大水があるという。(同上)

(5) 阿育王塔(寧波)・・・寺の東方に聖井がある。水は清涼甘美、大雨でも溢れず旱でも枯れない。中に一尺九寸の一鱗魚がおり、世に護塔菩薩という。(『唐大和上東征伝』
 
 中国において塔(舎利)は雨や水を人々にもたらすと信じられ、祈雨の対象となりました。インドのラーマ国の塔が龍神信仰の起源か、と思います。

 大和上とは鑑真のことです。鑑真は寧波の阿育王寺に滞在したことがあり、その時の記述が上の資料です。一鱗魚とは龍のことと考えられます。

 

3 中国皇帝による舎利信仰

(1) 皇帝による舎利塔への祈雨のことが記録に残っています。(【資料4】『広弘明集』巻一五:梁武帝の詔)
 そこには、凶作のため民は困窮したが、その責めは元首たる皇帝にあるが、この度真身舎利とまみえるという得がたい機会を得た・・・とあります。

(2) 天候の不順、民の飢餓は天子たる皇帝の責任。雨を祈り、豊作をもたらすことは、国を治める者の使命でした。

(3) 皇帝による中国全土への舎利塔の普及の例としては、隋の文帝による仁寿舎利塔の建立(601〜604)や、則天武后による大雲寺の建立(690)が挙げられます。 

 

4 法門寺

(1) 法門寺塔も阿育王塔の一基ですが、中国の阿育王塔のうち長安に一番近いものです。

(2) 法門寺塔の地宮には釈迦の真舎利(真身舎利)が安置されていると信じられています。指の骨と伝えられています。逆に、真身舎利は法門寺以外にはないとされています。

(3) 唐時代、法門寺塔の地宮が30年に一度開かれ、舎利が都に運ばれ、宮中で皇帝に供養され、その後都城の寺院で人々に礼拝を許しました。

 ここが、実は「後七日修法」との大きな違いです。後七日は、民衆には礼拝させず、修法が終れば帰ってしまいました。

(4) 法門寺の真身舎利が開かれるその年は豊かになり、民は安泰と信じられました。法門寺塔は、別名「護国真身塔」と呼ばれました。
 【資料5】『旧唐書』韓愈伝)によると、元和14年(819)に舎利が迎えられたとき、人々は熱狂的に興奮し、財産のすべてを寄進し廃業、破算状態になる者や、体の一部を焼いて供養する者が現われたとあります。 
 原文に「焼頂灼臂」とあります。頭のてっぺんやひじに火をつけるのです。

 中国の補陀山は観音の霊場ですが、今でも「身投げをするな」という碑が出ています。「捨身施虎」なのです。
 また、「身体を焼くな」という看板も出ています。油をつけて指をろうそく代わりにする人がいるのです。 

(5) 恵果による法門寺真身舎利の奉迎の記録が残っています。

 貞元5年(789)には、恵果、勅を賜り長安の右衛において「龍迎真身舎利」を迎えるとあります。『大唐青龍寺三朝供奉大徳行状』
 龍迎とは龍神信仰に基づくものを意味し、真身舎利とは法門寺の舎利を意味します。
 三朝供奉とは、三代の皇帝に仕え、お祈りをしたという意味で、恵果を意味します。

 貞元6年(790)には、真身舎利、法門寺に戻る(奉送者は不明)。真身舎利は宮中の内同上にて供養を受け、その後都の寺院に移された。人々の喜捨の盛んなさまは都を傾けるほどであったとあります。『冊府元亀』巻51)


 このように恵果は舎利供養の中心人物でした。

 ただ、空海の留学中には「30年」は該当せず、法門寺の舎利供養を直接目にはしていません。しかし、いろいろ伝授されたというのは大いに想像できます。

 
 通訳の関係でいろいろ問題はあるのだが、以前に聴いた法門寺に関する講演はここから。




 

 どうもお疲れ様でした。

 
  

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