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(No134) 京都国立博物館 「日蓮と法華の名宝」関連講座 「日蓮法華宗美術試論」聴講記 その2
平成21年11月21日(土)に聴いた時のメモの続き。
講師は、学芸員の大原嘉豊氏。
配られたレジュメの内容を「白囲み」で表す。
宝塔を伴わない絵曼荼羅
玉沢妙法華寺所蔵十界勧請大曼荼羅 |
宝塔のない曼荼羅の代表が、妙法華寺の『十界勧請大曼荼羅』(49)です。
49 重文 十界勧請大曼荼羅(絵曼荼羅) 鎌倉時代(14世紀) 静岡・妙法華寺
(画像が表示された。なお、参考画像はHP「妙法華寺の文化財」にて)
ちょっと修理の状態が悪いですね。私が監督なら、修理をやり直させています。
裏打ちが厚いと折れが出やすいんです。(註 掛け軸の裏打ちが厚いと、巻き込んだ時、ヒビのような横割れで出やすいが、そのことか?)
ですから修理の業界では、とにかく「裏打ちの薄さ」を目指してきました。最近では、少し戻ってきて、ある程度の厚みがあるものとなっています。なぜか、というと薄すぎると紙が暴れる。(註 軸全体が安定せず、波打ったりするということか?)
この修理は、とにかく「薄く!」という時代になされたもので、紙が暴れるんですね。写真を撮ってもピントが合わない。
ただ、この絵は今回の展示品の中でもベスト3には入るものです。この後(観に)行っても展示されていませんよ。それは、前期に来なかった人が悪いんです。
(拡大した画像を表示)
非常に良い顔をなさっています。
これだけ拡大しても、細い整った線だというのは、相当高い技術ということです。
ところが、この良さというのが、なかなかガラスケース越しでは伝わらないんですね。よく分かってもらえるように赤外線写真を用意しました。(註 色はないが、線はより鮮明になった画像が表示された)
では、ガラスケース越しじゃなく直接展示すればいいじゃないか?と思われるかもしれませんが、直接だと、なかなかうまく天井から光が回らないんですね。
結局、ガラスケース越しに観ることを想定していないということに尽きるんです。
この妙法華寺本は、宝塔がなく、題目もあまり大きく書かれていません。
また描かれているのは天台大師と伝教大師のみで、日蓮がいません。法華No3の日蓮がいないのですね。
これは、この絵が描かれた時には、まだ日蓮が存命していた。存命中は絵に入れないということで、この曼荼羅は結構古い時代に描かれたものと考えられます。
これは、当時の鎌倉近辺の文化といってよく、孤立した作例で、類本があまりありません。
(註 絵の向かって左が伝教、右が天台)
私は、仏教絵画が美術の究極の姿と思っています。アップに耐えられるのが良い日本画ということです。皆さんも美術鑑賞家として具眼の士と言われるようになっていただきたい。
四条門流を中心とした絵曼荼羅の歴史(1)
京都・本能寺所蔵日像曼荼羅本尊
茨城・妙光寺所蔵日輪曼荼羅本尊
文和元年(1352)日輪書状(大覚宛 妙顕寺文書)「本尊料紙、絵所へ仰候ける、悦入候」
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本能寺に日像曼荼羅が伝わっています。今回も展示したかったのですが、貸してもらえなかった・・・。
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(石野註)
本能寺所蔵の曼荼羅の画像を表示。題目の上に「天蓋」が描いてある。また、画面の四隅に四天王が描いてあった。 |
茨城県の妙光寺には日輪の曼荼羅が伝わっています。
(47 日輪曼荼羅本尊 南北朝時代 康永3年(1344) 茨城・妙光寺)
この日輪が大覚に宛てた手紙が残っていますが、そこには本尊の料紙、型紙が手に入り嬉しいとあります。
四条門流を中心とした絵曼荼羅の歴史(2)
石川・妙成寺所蔵日像絵曼荼羅:建武二年(1315)三月五日
京都・妙顕寺所蔵金泥曼荼羅本尊
京都・法華寺所蔵絵曼荼羅:大覚大僧正署判
福井(小浜)・本境寺所蔵絵曼荼羅ニ幅:朗源上人署判:先師信仰の強調 |
石川県の羽咋というところに妙成寺があり、そこに日像絵曼荼羅が残っています。日像は、京都布教をした人ですが、いきなり京都に入ったのではなく、聖人の聖跡である流刑地佐渡や、福井県なども巡ったのです。
妙成寺の曼荼羅をみると、題目と種字(左右の「不動」と「愛染」を示す梵字)が金泥で書かれ、それ以外の四天王や十羅刹女は絵で描かれています。
この金泥をみると、墨の上に施されています。これは、おそらく日像が書いた字の上に金泥を乗せたものと考えられます。
例えば妙顕寺の日像曼荼羅をみると、日像上人の字をトレーシングペーパーで転写し、その字をピンクの顔料で書いて、上から金で書くということをしています。
(48 日像曼荼羅本尊 南北朝時代(14世紀) 京都・妙顕寺)
なぜ、このようなことをしているかというと、赤っぽい下地があると金の発色が良くなるからです。
ということは、あえて墨の上に金を乗せている妙成寺の曼荼羅は、トレースではなく日像自筆だろうと想像できるのです。
法華寺の大覚大僧正は、日像の一番弟子です。大覚妙実署判の絵曼荼羅は、題目以外、すべて絵で描かれています。
(50 絵曼荼羅 大覚妙実署判 南北朝時代 延文2年(1357) 京都・法華寺)
「授与之法名貞妙」と書かれています。画面下側に描かれた尼僧姿の女性が、これを授与された貞妙という未亡人と思われます。
行徳論文では、この題目が京都実相寺に伝わる曼荼羅の題目と全く同じ大きさであることを発見し、転写されたものだとしています。
これも、京都にあるから、曼荼羅の需要があり、絵仏師もいるので転写ができたと言えます。
絵曼荼羅はお金がかかります。これを手に入れられるのは中産階級以上であって、一般庶民は、墨字だけの曼荼羅が普通でした。このように美術史は社会史と密接に関連しています。
小浜の本境寺にも朗源が開眼した絵曼荼羅が残っています。朗源は大覚の一番弟子です。
(116 絵曼荼羅 朗源署判 南北朝時代 応安元年(1368) 福井・本境寺)
なぜ朗源が小浜にいたのか?京都では比叡山(延暦寺)の勢力が強く、京都の妙顕寺も比叡山に破壊され小浜や丹後に逃げたことがありますが、これはその時のものです。
曼荼羅には、日朗、日像、大覚、朗源が描かれています。ここには先師(祖師)への尊崇の念がみえます。
こうした曼荼羅は、単発的にその都度作られたので「型」の伝承がなく、バリエーションが増える傾向があります。
四条門流を中心とした絵曼荼羅の歴史(3)
富山・本(ママ。大?)法寺所蔵長谷川等伯筆四幅
京都・妙傳寺所蔵長谷川等伯筆絵曼荼羅:妙傳寺日恵上人
新潟・本成寺所蔵絵曼荼羅:本成寺八世日現上人署判
同寺所蔵「木+唐」崎景良筆日現上人自賛寿像
心覚『別尊雑記』巻四七・四天(T図3−568−C)、東大寺大仏殿四天王→多聞天:紺青、持国天:青(緑)、増長天:赤、広目天:白色(肉色)が通常の身色 |
高岡には長谷川等伯筆の絵画が四幅伝わっています。
京都の妙傳寺は日蓮の遺骨を祀る由緒ある寺ですが、日恵が中興開山といわれています。これは、日恵が東北にいた頃に等伯に描かせて富山の大法寺に残っているものです。
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(石野註)
私のメモには大法寺とある。出展リストにも大法寺とあるので、配付されたレジュメの「本」法寺が誤記であろう。 |
これらの絵画には等伯の落款はありませんが、等伯作とみて間違いないと思います。本当にそっくりです。
画面前面(下部)向かって左に日恵、右に法体の悳祐(畠山義続:はたけやまよしつぐ)が描かれています。
(顔の拡大画像を表示)
おでこが広いところなど、他の長谷川等伯の人物の顔とそっくりです。
(56 絵曼荼羅 長谷川等伯・筆 室町時代 永禄11年(1568) 京都・妙傳寺)
(58 重文 釈迦多宝如来像 長谷川等伯・筆 室町時代 永禄7年(1564) 富山・大法寺)
等伯は町絵師でした。注文に応じ、いろいろな絵を描いていました。
参考となる曼荼羅が新潟に伝わっています。
(55 絵曼荼羅 室町時代(15〜16世紀) 新潟・本成寺)
この作者については、落款等はありません。
ただ、「木+唐」崎景良が描いた日現上人の自賛寿像が残っており、それと人物の顔等が非常に似ているので、絵曼荼羅も「木+唐」崎が描いたと考えられます。
「木+唐」崎も等伯と同じような町絵師であったのでしょう。
さて、本成寺の絵曼荼羅の特徴はお分かりになるでしょうか?
四天王が、通常は正面を見たり、守護する本尊を見たりしているところが、すべて外を向いているのです。
どなたか気付いた方はいらっしゃいますか?もし気づいたらすごい。誉めてとらす。
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(石野注)
続いて講師は、(1)通常の四天王の配置、(2)法華曼荼羅における一般的な配置、(3)本成寺曼荼羅における四天王の配置について説明された。
言葉では分かりにくいと思うので、方角、名称、身色の順で図示する。
(1)通常の四天王の配置 |
西 広目天 黄 |
北 多聞天 青 |
南 増長天 赤 |
東 持国天 緑 |
(2)法華曼荼羅における一般的な配置 |
北 多聞天 青 |
東 持国天 緑 |
南 増長天 赤 |
西 広目天 黄 |
(3)本成寺曼荼羅における四天王の配置 |
北 多聞天 青 |
南 増長天 赤 |
東 持国天 緑 |
西 広目天 黄 |
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本成寺本は、対角線で赤と緑が一般的な曼荼羅本尊と入れ替わっているのです。
この原因ですが、当時の絵師は、型紙を用いて描いていました。しっかりした宗教的知識に基づいて描いたのではありませんでした。
型紙は、一般的な四天王の配置に基づいたものだったのでしょう。それを、依頼主のリクエストにより位置を入れ替えたのですが、色を変えるのがもれたのではないでしょうか?
絵師はアーチストではなく、アルチザンでした。技術者ではあって、芸術家ではなかったということです。
法華の曼荼羅はこうだ、という「型」がきっちり固まっておらず、僧侶がその都度指導していたので、モレもあったのでしょう。
絵師というのは、それまで将軍家や有力寺院などのお抱えでしたが、町絵師は掛け持ちでした。
モーツァルトと同じですね。宮廷音楽家からフリーになりました。それはフリーの音楽家として食えるようになったからです。
絵師も同じです。「お抱え」でなくても食えるようになったのですが、地方ではまだまだ需要が少ない。
「法華のスーパースター」と言われる等伯ですが、法華関係の絵画だけでなく、密教絵画や世俗に関する絵などいろいろ手がけています。これは、そうしないと食べていけなかったからでしょう。この当時の町絵師の姿をうつしていると思います。
法華の寺には専属絵師はいなかったということです。
長谷川等伯が当然出現したのではありません。町絵師は、それ以前からいたということが、「木+唐」崎の絵などを通じて、今回初めて分かりました。これは、この大原嘉豊が初めて言ったことです。
町絵師の用いる技法というのは、原則的に、それまでの伝統的手法をあてはめるというものです。新しい内容についていけるかどうかは、その絵師個人の腕次第ということです。
曼荼羅を観るとき四天王がきれいであれば、少しレベルが高い、絵師の腕が良いと考えればよいと思います。
さきほどご紹介した日輪書状の「本尊の料紙(型紙)」云々という点にも(大きな市場である)京都の優位性が表れていると思います。
まとめ
絵曼荼羅は図像規範力が弱く、ヴァリエーションが多い
その理由(1)思想的理由(2)技術的理由(3)需要量の問題 |
「まとめ」として絵曼荼羅の図像規範力が弱くバリエーションが多い理由を三つあげています。
一つ目は思想的理由です。
日蓮の真跡自体にもいろいろ差があります。それを伝承している点で、いろいろ差異が生じます。
二つ目は、技術的理由です。
以前の絵仏師は、僧侶でした。ところが、教団専属の絵師はいません。ですから願主の指示が重要になってきます。
三つ目は需要量が少ないことです。
需要が多ければ大量生産をしなければならないのでパターン化するということです。
四条門流では先学を重要視しました。小浜の長源寺や本境寺は遠いようですが、福井と京都は鯖街道を通れば近い存在なのです。
123 日ン刪齦ユ首題本尊 桃山時代 天正18年(1590)は天文法難で堺に逃れた日上人が岡山の豪商来住法悦に与えたものです。(二人の関係については、ここのHPなどを参照)
京都の高瀬川を開発したのは角倉了以ですが、高瀬舟は、岡山の海運技術を応用しているとのことです。
最初はどうなるか、と思ったが、結局、なかなか面白い講演だった。
どうもお疲れ様でした。
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