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(No108)−3 第26回東大寺現代仏教講演会「真如親王 〜平安時代の大仏修復と天竺への旅〜」聴講記 その3 

 2007年10月20日に開催された講演会の聴講記。

 後半は、西山厚奈良国立博物館教育室長の講演の続き。




真如親王年譜(その4)
年齢 西暦 年号 事象
63 861 貞観03 3月? 「諸国の山林を跋渉し、斗藪の勝跡を渇仰したい」と願い出る。
    6月19日 池辺院(超昇寺)を出発し、唐へ旅立つ。
池辺院→朱雀門跡→旧朱雀大路→羅城門跡→下ツ道→旧藤原京→巨勢寺
    7月11日 巨勢寺を発って難波津に着く。
    8月9日 大宰府に着く。
64 862 貞観04
(咸通3)
5月 船の建造が終る。
    7月 博多津を発つ。
    8月19日 遠値嘉嶋(五島列島)に着く。
    9月3日 総勢60人(真如、宗叡、恵蕚、伊勢興房ら)、唐へ向かって船出する。
    9月7日 中国明州に着く。
    12月 越州に行くことが許可される。
65 863 貞観05
(咸通4)
越州、杭州、揚州へ。さらに楚州、泗州へ。泗州の普光王寺に滞在する。
    4月 随伴して来た人々を明州から帰国させる。
66 864 貞観06
(咸通5)
2月 泗州から汴州へ。さらに洛陽へ(2月29日着)
    5月21日 長安に着き、西明寺に入る。
      円載、真如が長安に着いたことを奏聞する。皇帝懿宗、感嘆する。
仏教教義の疑問が解決せず、天竺に亙ることを決意する。天竺行きが勅許される。
67 865 貞観07
(咸通6)
1月27日 安展・円覚・秋丸と、広州から船で天竺に向かう。
    6月 宗叡・伊勢興房、李延孝の船で帰国。宗叡、真如から聖教を託される。
  876 貞観18 入唐僧の中瓘から「録記」が届く。「風聞、羅越国より至る。逆旅に遷化すと。」 ※ 羅越国=マレー半島の南端(シンガポールあたり)

 真如親王は、国家の一大イベントである開眼法要をみごとに成功させました。ところが、法要が終ってすぐ、奈良を出て日本中をまわりたいと申し出ました。
 そして、日本中・・・と言っていましたが、唐に行ってしまい、そのまま日本に戻ることはなかったのです。

「貞観三年(861)、上表して曰えらく、真如出家して以降(このかた)四十余年、三菩提(さんぼだい。無上の正しい悟りのことで、真理を悟った境地をいう)を企て、一道場に在り。窃(ひそ)かに以(おもん)みれば、菩薩の道を求むるに、必ずしも一致せず。或いは住し或いは行(ぎょう)じ、及(すなわ)ち禅じ及ち学す。而(しか)るに一事も未だ遂げざるに、余算(よさん。余生)稍(ようや)く頽(おとろ)え、願う所は諸国の山林を跋渉して斗藪(とそう。仏道の修行)の勝跡(しょうじゃく)を渇仰せむと」
(『扶桑略記』元慶五年十月十三日戌子条)

 出家して四十年、まだ何も出来ていない。余命も短くなった。余生は聖地を巡拝したい。そう申し出たのです。

頭陀親王入唐略記(ずだしんのうにっとうりゃくき)

貞観三年三月、親王、入唐を許さる。
六月十九日、池辺院(いけべいん)より発し、南行して、巨勢寺(こせでら)に御宿す。別当僧平海(へいかい)、徒衆を率いて、まさに迎えんとす。<平海は此れ親王の御弟子なり。>親王、甚だ卑下し、僧徒の迎候を要(もと)めず。此の寺に経歴すること廿日なり。時に七大寺の長宿の和尚(わじょう)、朝夕、鳩集(きゅうしゅう)す。
七月十一日、巨勢寺より出でて、難破(波)津を指す。名僧数十許(ばかり)人、逐い従いて相送る。大和国葛上郡(かつらぎのかみごおり)の旧国府(もとのこくふ)に到る。爰(ここ)に親王、馬を駐(とど)めて僧徒に揖謝(いっしゃ)して云(いわ)く、「此れ従(よ)りまさに却廻(きゃくかい)せらるべし」と。即(すなわ)ち僧徒、馬を下りて拝別す。皆な涙を垂れて云く、「僧、齢(よわい)暮れに傾き、再展すること何日か」と。親王答えて云く、「彼れ此れ好在(つつがなきや)。縁(えにし)に随いて相見ん」と。其の晩頭、難破(波)津に到る。便(たより)に大宰貢綿帰船二隻(だざいこうめんきせんにせき)を債(か)り得る。
十三日、船二駕(の)る。
八月九日、大宰府鴻臚館(こうろかん)に到着す。時に主船司(しゅせんじ)の香山広貞(かぐやまのひろさだ)、符(府)に申す。
(延文2年(1357) 賢宝書写 東寺観智院本)


 平城京旧跡のすぐ北に「さき池」
(※ 石野注 聴いている時は漢字がわからない。多分「佐紀池」で良いと思う)があり、佐紀神社があります。
 佐紀神社の横に真如が創建した超昇寺がありました。超昇寺は、池の横なので池辺院とも呼ばれました。

 ここはもと、真如親王の父、平城天皇が住んでいた場所です。
 明治の廃仏毀釈の折に廃寺となりました。

 巨勢寺に20日間ほど滞在しました。ここは平海という弟子が住職をしていました。平海は大勢で真親王を出迎えようとしましたが、親王はそれを断りました。親王はそういう人なんでしょう。

 頭陀親王というのは、真如親王の異名の一つです。頭陀親王入唐略紀というのは、親王に随行していた伊勢興房
(いせのおきふさ)が書いた記録で、このおかげで親王のことがわかります。
 伊勢興房というのは、その名字からわかるように、親王の母伊勢継子の一族です。

 唐に向けて出発した60人のうち15人が伊勢一族でした。

 巨勢寺滞在中、奈良の七大寺、東大寺、興福寺、元興寺などの高僧が真如親王の話を聴くためにやって来ました。真如の話が聴けるのはこれが最後と思われたからです。

 巨勢寺を出発した時、そうした高僧が送るためについて来ました。再び会えるでしょうか?と尋ねた高僧たちに対し、縁があれば・・・と答えました。

 さて、当時、九州諸国では「わた」を税として、隔年、都に税として22.5トン船で運んで納めることになっていました。「綿」というのは、絹のことで、「まわた」、「きぬわた」と呼びます。
 難波津で、その帰り船に乗せてもらうことができました。どうも、真如はこの船のことは予め知っていたようで、巨勢寺に20日間滞在したのも、この船を待つためだったようです。

 7月13日に難波津を出発して8月9日に大宰府に着きました。けっこう日数がかかっていますね。いろいろな所に寄港するからでしょう。
 泊まるのは大宰府鴻臚館です。これはいわゆる迎賓館ですね。外国から来た使節も宿泊しますし、外国へ行く人も宿泊します。
 真如親王は当時、日本でも非常に有名な存在でしたから、いろいろな役人が次々に挨拶に来たようです。巨勢寺で大勢の出迎えを断った親王ですから、そのようなことは煩わしかったようで「我が願み、これにあらず。早く去るべし」と早々に鴻臚館は引き払ったようです。

 862年5月に、造らせていた船が完成し、9月3日に唐に向け出発し、7日には着いています。航路は順調だったようです。
 

 着いた明州というのは、今でいう寧波(ニンポー)で、昔から日本と関わりが深い場所です。

 今年の3月31日、私
(西山)も寧波を訪れました。

 明州から越州、そして杭州に行きました。そこから運河で船に乗りました。蘇州から揚州へ行きました。揚州は鑑真の故郷です。
 楚州の先で運河は二筋に分かれますが、真如一行は泗州、汴州をたどるルートを通り、その後は馬で旅を続けました。真如親王は、乗馬が得意だったようです。
 鄭州から洛陽に着き、863年5月21日に長安に着きました。

入唐五家

 平安朝の初期入唐して秘密の法門を伝えし、安祥寺恵運・禅林寺宗叡・法琳寺常暁・霊厳寺圓行・真如親王の五家を称す。
 真如親王は貞観四年七月宗叡等と共に入唐し、法全阿闍梨を拝して受法せしが、唐の咸通七年正月(貞観八年。講師の注によると咸通「六」年、貞観「七」年の誤り)老躯を提げ、広州を発して遥かに天竺に渡らんとす、その後の消息詳ならざるも入竺の途中羅越国にて薨ぜられしという。
 されば法門請来の事なし。他の四家は皆帰朝して法門を請来し、その請来録現に流布せり。

(『密教大辞典』)
入唐八家

 平安朝の初期、入唐して秘密の法門を学びし八師を云い、東密にては空海・常暁・圓行・恵運・宗叡の五家、台密にては最澄・圓仁・圓珍の三家を云う。
 これ等八家は何れも表を朝廷に上り、その請来せる法門・図絵・道具等を奉進せり。
 元慶九年正月安然はこれ等八家の請来目録を合糅して、諸阿闍梨真言密教部類総録二巻(八家秘録)を作れり。

(同)


 入唐五家にある恵運とは、大仏開眼法会の時の開眼師です。宗叡は、真如に同行した人物です。事典には真如は何も持ち帰っていないとありますが、宗叡は帰国の前に真如から大毘盧舎那経義釈、六波羅蜜経書など経典24巻を託されています。

 宗叡は五台山にお参りし、長安で合流しました。
 長安では西明寺に入りましたが、そこには日本から長期留学中の僧円載がいました。円載が、皇帝懿宗に真如が長安入りしたことを報告して感嘆されたとあります。
 空海は中国で恵果に師事していました。恵果の住んでいた青龍寺に連絡がいっており、既に真如の存在は長安で知られていたようです。


 


 どうもお疲れ様でした。

 
  

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