移動メニューにジャンプ

(No108)−2 第26回東大寺現代仏教講演会「真如親王 〜平安時代の大仏修復と天竺への旅〜」聴講記 その2 

 2007年10月20日に開催された講演会の聴講記。

 後半は、西山厚奈良国立博物館教育室長の講演・・・・・の続き。



 真如親王(しんにょしんのう)は、最後インドに行こうとして死にました。
 鎌倉時代には、虎に食われて死んだと伝えられるようになりました。

「昔、真如親王といふ人いまそかりけり。平城(なら)の御門(みかど)の第三の御子也。いまだ頭剃(かしらお)ろし給はぬ前(さき)には、高岳の親王とぞ申しける。飾りを落し給ひて後は道詮律師にあひて三論宗をきはめ、弘法大師にしたがひて真言をならひ給けり。
 「法門、ともにおぼつかなきこと多し」とて、ついに唐土(もろこし)にぞ渡り給ける。宗叡僧正とともなひ給けるが、宗叡は、「文殊の住み給ふ五臺山、拝まん」とて行き給ふ。親王は、ものならふべき師をたづね給けるほどに、昔、この日本(やまと)の国の人にて円載和尚といひし人の、唐にとどまりたりけるが、親王の渡り給ふよしを聞きて、御門に奏したりければ、御門あはれみて、法味和尚といふ人に仰せつけられて、学問ありけれど、心にもかなはざりければ、ついに天竺にぞ渡り給ひにける。
(中略)
 さて、やうやう進み行くほどに、ついに虎に行き遇ひて、むなしく命終わりぬとなん」
(『閑居友』慶政 真如親王、天竺に渡り給ふ事)

 真如親王は、中国からインドへ行こうとして死にました。なぜ彼はインドに行こうとしたのでしょう?

 どの本を読んでも、仏教教義を求め、中国でもわからないからインドに行こうとしたと書いてあります。

 インドまで行こうとした日本人は平安の末までみても、臨済宗の開祖栄西くらいです。平安時代では、おそらく真如だけといっていいでしょう。中国では満足できなかった。そんな単純なことではない筈です。
 もっとも真実は、絶対にわかりません。何も資料は残っていないのです。

 何かがあってこそ、誰も行かなかった、また行こうとも思わなかった所へ行ったのでしょう。そういう所に行こうとしたのには、何か理由
(わけ)がある筈です。

 私が初めて外国へ行ったのはインドです。仏跡を巡拝したのです。何故、私はインドに行こうと思ったのか。それは私にしかわからないことなのです。

「而して今、件の大仏は、すでに大破せられ、修理を須(ま)つ所なり。殆ど新造に及(いた)らん。仏の説く所を案(かんが)うるに、仏事を荘厳(しょうごん)し、旧物を修理するは、功徳を得る所、新造に勝ると。而して独り官物を用い、以て充て給えば、恐らくは弘済(ぐさい。ひろく世の人を救うこと)の本願に乖(そむ)かん。望み請うらくは、天下(あめのした)の人を令(し)て、一文の銭、一合の米を論ぜず、力の多少に随(したが)い、以て加え進むることを得しめん」
(『文徳実録』斉衡二年九月甲戌条)


  さて、大仏復興に話を戻しましょう。

 新たに造るよりも、旧来のものを修理する方が尊いと考えられていました。
 また、国家事業として造ってしまうと弘済の本願に背くであろうと考えています。

 真如親王は一文の銭、一合の米を論ぜずとしています。寄進において、金銭や米の量の多少は問題ではないということです。

 聖武天皇の大仏造立の詔では、「一枝の草、人把の土」としています。一本の草、一握りの土、それが何の役に立つでしょうか?何も役にはたちません。しかし、聖武天皇は、そういう人と大仏を造りたかったのです。それが一番大事なことではないでしょうか?
 大仏を造ろう、手伝いたい。力も金もないが、そういう気持ちを持った人と造りたい。
 なぜ大仏を造るのか。詔にはすべての動物植物共に栄える世の中を造りたいとあります。そのためには、そうした造り方しかない。それは華厳思想にも通じるものです。

 重源上人は「尺布寸鉄、一木半銭」。布の端切れ、釘一本、木一本、銭半分。公慶上人は「一針一草の喜捨」。皆、同じ考え方です。これが大仏です。これでなかったら大仏ではない。とても大事なことだと思います。

「又、性(さが)に巧思有り。凡そ制作する所、皆、人意に出(まさ)る。嘗て東大寺の大毘盧舎那仏仏像の頭、断ちて地に堕つ。朝廷、工匠を召集し、鎔鋳(ようちゅう)を経営す。勅して親王に検校せしめ、其の処分を取ら令(し)む。巧夫、早く畢(おわ)るは、親王の力(はたら)きに有るなり」
(『東大寺要録』巻第十)

 
 記録には、真如親王は「性に巧思あり」とあります。何でもうまくできたのです。後に重源上人が勧進に抜擢されたのと似ています。重源上人も器用な人でした。

 真如親王による開眼大法要で盛大に法会が営まれました。記録が残っているので、読んでみましょう。

「処々(ところどころ)の装飾は、観る者厭(あ)きて抛過(ほうか)する能(あた)わず。・・・・・大唐、高麗(こま)、林邑(りんゆう)等の楽は、鼓鐘を陣に肆(つら)ね、糸竹(しちく。琴や笛、笙など)を方(ほう)に羅(つら)ぬ。先ず内舎人(うどねり)の端貌なる者廿人をして倭舞(やまとまい)を供(つかまつ)らしめ、次に近衛の壮歯(壮年)なる者廿人は東舞(あずままい)、後に梵唄(ぼんばい)響きを接し、衆楽逓奏す。大仏殿の第一層上に棚閣(ほうかく。楼閣)を結構し、更に舞台を施して、天人天女の彩衣霓裳(さいいげいしょう。色彩の美しい衣裳)、音伎(おんぎ)空に聒(かまびす)しく、以て一天に移る。南北両京(平城旧京と平安京)の貴賤の士女、街に充ち、陌(みち)に塞りて聚観(しゅうかん)せざる莫(な)く、足を躡(ふ)み、肩を翕(あわ)せて、人顧みるを得ず」
(『三代実録』貞観三年三月十四日戌子条)

・・・・・・・・・何だかわからないけど、賑やかなのはわかりますね。

 年譜の827年の記事によると、大仏の頭は6寸ほど西に傾いていたとあります。西の方といえば、右に傾いていたことになります。

 857年には、宇佐八幡宮の神託をいただきに行ったとあります。宇佐八幡宮は東大寺の鎮守さんです。

 62歳の時には、すべて真如の指示通りにせよとの詔が出たとあります。完全な信頼を得ていたことがわかります。
 そして、64歳の時、861年3月14日に開眼会が行われました。その時、同時に諸国で無遮大会
(むしゃだいえ)をせよ、その大会で授戒をせよと命じています。
 無遮大会とは、限りない施しをする行事です。

 また、その時、日本全国で法要の前後10日間、殺生を禁断しました。仏教では殺生しないことが一番大事です。

 諸国の国分寺・国分尼寺で全国でも同じ日に法要をやれ、そして、なぜこういうことをやっているのかを説明せよと命令しています。
 これは非常に大事なことです。説明しなかったら、ただのイベントで終ってしまいます。意義を説明させたことが大事なのです。


 すべて任されていたのですから、こうしたことはすべて真如親王の意向によるものでしょう。


 


 どうもお疲れ様でした。

 
  

inserted by FC2 system