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(No108)−1 第26回東大寺現代仏教講演会「真如親王 〜平安時代の大仏修復と天竺への旅〜」聴講記 その1 

 2007年10月20日に開催された講演会の聴講記。

 後半は、西山厚奈良国立博物館教育室長の講演。いつものように先生にいただいたレジュメの内容は白い枠囲みの中で表現する。



 真如親王(しんにょしんのう)といっても名前を知らない人、名前は聞いたことがあっても詳しくは知らない人が多いのではないでしょうか?

 5年前に東大寺では盛大に大仏開眼1250年法要が営まれました。
 開眼
(かいげん)とは字のとおり眼を開くことですが、仏像関係においては、別の意味があります。 仏像は造っただけでは、ただの「つくりもの」です。魂を入れて初めて「ほとけさま」になります。この魂を入れる儀式のことを開眼というのです。

 5年前の大法要の1250年前、すなわち752年の4月9日に聖武天皇による大仏開眼がありました。
 しかし、大仏開眼は752年の時だけではありません。実は明治までに4回行われているのです。

 聖武天皇による開眼が第1回目です。
 昨年、重源上人800年御遠忌がありました。東大寺は平氏に焼討ちを受けて炎上し、大仏も上半身がなくなりました。これを復興したのが重源上人です。重源上人の復興による開眼は1185年8月28日のことでした。

 東大寺は戦国時代にも焼かれました。この時、大仏を復興したのは江戸時代の公慶上人です。一昨年、公慶上人300年御遠忌がありました。公慶上人による開眼が1692年3月8日です。

 実は、もう一回、平安時代にも開眼があったのです。大ダメージを受けた大仏を修復した主人公が真如親王です。

 何しろ、いきなり大仏の頭が落ちたそうです。さぞ、びっくりしたことと思います。今ならクレーンで頭を持ち上げるのでしょうが、何せ平安時代にそのような重機はありません。なかなか苦労したようです。
 開眼は計4回。真如親王による開眼は861年3月14日のことでした。



 さて、私はこの金鍾会館でお話をさせてもらうのは、今日で5回目です。
 1回目は、聖武天皇のお話をしました。
 2回目と3回目は、公慶上人のお話をしました。
 4回目は、重源上人のお話をしました。
 そして、今日、5回目に真如上人のお話をするのです。
 今日でグランドスラムが達成されるのです。

(※ 石野注)

 グランドスラム達成の一言で場内バカ受け&大拍手


 真如親王の肖像画は、別添資料のとおりです。

 このようなお姿だったのでしょうか。



(醍醐寺「三国祖師影」)

 

真如親王年譜(その1)
年齢 西暦 年号 事象
01 799 延暦18 誕生。平城天皇の第3皇子。母は伊勢継子。
08 806 大同01 5月18日、平城天皇即位。天皇、藤原薬子を寵愛する。
11 809 大同04 4月13日、平城天皇譲位し、嵯峨天皇即位。
    4月14日、皇太子になる。※ 蹲踞太子
    12月4日、雙船に乗って旧平城京に入る。
12 810 弘仁01 9月6日、平城太上天皇、都を平城に遷すことを命じる。
    9月10日、人心騒動。
    9月11日、藤原仲成(薬子の兄)射殺。
    9月12日、平城太上天皇出家。藤原薬子自殺。※ 薬子の変
    9月13日、皇太子を廃される。 ※ 廃太子
14 812 弘仁03 7月6日、伊勢継子卒去(41歳)

 
 年表をつけました。年齢はすべて数え年です。
 実は、真如親王の生没年は確定していません。吉川弘文館の権威ある事典では「生没年不詳」とされています。
 しかし、最新の研究結果をもとに推定させていただきました。

 真如親王は、先ほどの講演にあった宗密弘法大師より年下です。

 より正確にいうと、空海より25歳年下です。空海について密教を学びました。

 真如親王は、平城天皇の第三子です。平城天皇は、都を京都に移した桓武天皇の皇太子です。平城天皇は、父桓武天皇が京都に移した都を再び奈良に戻そうとしました。それで、死後、平城京ゆかりの平城天皇というおくり名となりました。
 私は奈良が大好きなので、都を京都から奈良に戻そうとしただけで平城天皇は良い人なのではないか、と思います。
 教科書では、平城天皇はあまりよく書かれていません。しかし、短い間でなかなかいい政策を行ったと私は思います。

 真如親王の母は伊勢継子といいました。あまり身分は高くなかったようです。真如親王は後で述べますが、母方の伊勢一族とは、その後も深い関係を持ちました。

 真如親王8歳の時に、父が天皇に即位しました。
 平城天皇といえば、セットで語られるのが藤原薬子
(ふじわらのくすこ)です。
 もともと平城天皇は薬子の娘を奥さんにし、妻の母ということで薬子もついてきたのですが、その薬子と深い仲になってしまったのです。

 真如親王11歳の時、父平城天皇は弟に譲位しました。この弟が空海を重用したことで知られる嵯峨天皇です。
 そして、この譲位の時に真如親王は皇太子となりました。つまり、叔父さんが天皇がなった時に皇太子になったのです。

 その年の12月、平城太上天皇が旧平城京に入りました。それだけならよかったのですが、その時平城太上天皇はたくさんの役人も連れて平城京入りしたのです。京都にも奈良にも朝廷ができたような形になりました。いわば、ミニ南北朝状態となったのです。

 810年、平城太上天皇は都を奈良に遷すよう命じました。嵯峨天皇もさすがにこの動きは黙視できず、軍勢を差し向け、封じました。
 9月11日に薬子の兄、藤原仲成は射殺
(いころ)され、翌12日、平城太上天皇は出家し、薬子は服毒自殺しました。わずか数日でこのクーデターは鎮圧されたのです。

 これを俗に薬子の変と呼びますが、首謀者は平城太上天皇なのです。
 このせいで、真如親王は9月13日に皇太子を廃されました。

 

真如親王年譜(その2)
年齢 西暦 年号 事象
24 822 弘仁13 1月7日、四品を授けられる。この年、出家。東大寺に住する。※ 太子禅門 
道詮(三論宗/聖徳太子を尊崇し、上宮王院を修造/797〜876)に学ぶ
26 824 天長01 7月7日、平城太上天皇崩御(51歳)
27 825 天長02 11月23日、平城旧宮の西宮を平城太上天皇の親王の意のままに任せるという勅が出る。
この年、空海から灌頂を受けるという。 ※ 皇子禅師
29 827 天長04 2月、大仏の破損状況が調べられる。頭は西の方に6寸ほど傾いていた。
8月、大仏のうしろに小山を築造する工事が始まる。
37 835 承和02 このころ、超昇寺創建されるか?
38 836 承和03 このころには、空海から伝法印可を蒙った高僧として知られていた。

 24歳で出家されました。東大寺で修行されたようです。三論宗を学びました。空海の『十住心論』では三論宗は第7番目にランクされています。ちなみに天台宗が8番、華厳宗が9番で、トップ(10番目)にランクされているのが真言宗です。

 26歳で父を失いました。母はそれより前に亡くなっています。

 27歳で、空海から灌頂
(かんじょう。主に密教における正当な継承者と認める儀式)を受けました。当時は宗派の垣根があまりなく、天台、真言の両方を学ぶ人もいました。特に南都仏教は、宗派の境が少ないのが美点です。

 38歳の時には、既に高僧として知られていたようです。弘法大師の弟子の中でベスト8を選んだ時に入っていたそうです。空海門下のエリートということですね。
 ただ、当時は「真如」という名前ではなく、「真忠」という名前でした。


真如親王年譜(その3)
年齢 西暦 年号 事象
57 855 斉衡02 5月23日、大仏の頭が落ちる。
    9月28日、真如と藤原良相、大仏の修理について奏言する。 ※ 一文の銭、一合の米を論ぜず
58 856 斉衡03 5月25日、清原岑成、聖武天皇陵において策命を奏する。 ※ 国家の事、繁く故障多く
59 857 天安01 10月29日、宇佐八幡への奉幣使、進発する。
62 860 貞観02 4月8日、供養大仏会のことはすべて真如に聴きて処置せよとの詔がでる。
    10月15日、旧平城京の中の水田55町4段288歩を不退寺と超昇寺に施捨する勅許を得る。
63 861 貞観03 3月12日、斎部文山(修理東大寺大仏木工)、従八位下から従五位下に昇進する。
    3月14日、大仏開眼会をおこなう。あわせて諸国において無遮大会をおこなう。
開眼師は恵運(東大寺/798〜869)、咒願師は明詮(元興寺/789〜868)、導師は恵達(薬師寺/796〜878)
「諸国の山林を跋渉し、斗藪の勝跡を渇仰したい」と願い出る。←3月か?


 真如親王が38歳頃から57歳になる頃までの記録は残っておらず、空白期間となっています。

 855年の5月23日、大仏の頭が落ちたといわれています。突然、自然に落ちたといわれているのです。
「御願として造り奉り給へる東大寺の盧舎那仏、時代(とし)久しく経(ふり)にたれば、自然(おのずから)に毀(こぼ)ち損(そこな)いて、去(い)にし五月廿三日を以て、頽(くず)れ落ち給えり」
(『文徳実録』斉衡二年七月戌申条)

 5月23日当日には何も天災はなかったようですが、その年の4月には1回、5月には2回、大きな地震があったようです。
 築造後約100年、重なる地震で首の部分にダメージがたまっていたのでしょうか。

 9月28日に藤原良相に修理の責任者に命じられました。なぜ真如が抜擢されたのかは不明です。

 この講演を引き受け、資料を調べようと奈良県立図書情報館へ行きましたが、真如親王の本は「ふるさとコーナー」においてありました。私は「奈良大好き」人間なので、真如親王が「奈良の人」なんだと思うと嬉しかったです。


「(高丘)親王は、天推国高彦(あめおしくにたかひこ)天皇の第三子なり。大同の年の末、少(わか)くして儲弐(ちょじ。皇太子)に登る。世の人、号して蹲踞(そんきょ)太子と曰う。遂に時の変に遭いて位を失う」
(『続日本後記』承和二年正月壬子条)

 真如親王は、幼い頃「蹲踞太子」(そんきょたいし)と呼ばれていました。うずくまった太子というのはどういう意味なのか、諸説ありますが、よくわかりません。

 「時の変」とは、いわゆる薬子の変で、これにより皇太子を廃されました。
 藤原薬子は、あまり良く言われません。娘が皇子に嫁いだのに皇子と深い仲になり、皇子が(平城)天皇になってからもいい仲を続けたことが道徳的にも批判されています。
 しかし、私は好きです。きっと魅力的な女性だったことだろうと思います。

 平城天皇は真如親王を可愛がっていました。3人で時を過ごすことも多かったと想像されます。

 真如は薬子から多くを学んだでしょう。真如親王に関する本で断然素晴らしいのは、澁澤龍彦『高丘親王航海記』です。ただし、これはフィクションです。


 


 どうもお疲れ様でした。

 
  

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