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(No106) 特別展「美麗 院政期の絵画」鑑賞記 その2 

 2007年9月1日から同月30日まで開催された特別展に26日、参加してまいりました・・・・の続き。



【 第二章 説話絵と装飾経 】

★ 46.国宝 両部大経感得図  大阪・藤田美術館 ★

  画像は、藤田美術館HPで。 

 

★ 50.国宝 平家納経  広島・厳島神社 ★

 平家納経については、ここのHPで心配になるくらい画像が載っている。

 前期は序品、提婆品、法師功徳品。後期は神力品、薬王品、厳王品。

★ 55.国宝 金光明最勝王金字宝塔曼荼羅<第六塔>  岩手・大長寿院 ★


 

 

 ぱっと見ぃは、ただの宝塔の絵。
 しかし近づいて見てみると、その宝塔は金字の経文で構成されているのであった。

 よく「2ちゃんねる」とかであるアスキーアートの元祖といえるのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 


 


【 第三章 絵巻物の世界 】 

★ 61.国宝 信貴山縁起絵巻  奈良・朝護孫子寺 ★

 
前期展示は、以前京博「大絵巻展」で観た飛倉巻。後期は尼公巻。
 大仏殿の前に尼公の姿が複数描かれている。  門の前で合掌している姿、正面で寝っ転がってる姿、立ち去ろうとしている姿など。

 いわゆる異時同図法ってやつ。


 画像は、ここで。

 

★ 62.国宝 伴大納言絵巻  東京・出光美術館 ★

  図録の解説には「『宇治拾遺物語』〜にも収載されたいわゆる応天門の変を材料にした説話を絵巻に仕立てた。〜その説話は、伴善男が応天門放火の濡衣を政敵である源信に着せ〜やがて子供のけんかから真相が明らかになり、伴善男の悪事は露見して事件は解決する」とある。

 要するに貞観8年(866)3月に応天門が炎上した。応天門というと、平安京でも大内裏の中、朝堂院の正門である(場所は、ここのHPに詳しい)から、これは大事件である。

 そして大納言である伴善男(とものよしお)が右大臣藤原良相(ふじわらのよしみ)に対し、放火の犯人は左大臣源信(みなもとのまこと。なお、『往生要集』の僧都源信とは別人)であると告発。
 良相は逮捕のため兵を出し、源信の邸を包囲する。

 しかし参議藤原基経(ふじわらのもとつね。良房の養子)は父である太政大臣藤原良房(ふじわらのよしふさ)にこれを告げ、良房は清和天皇に源信の無実を奏上して、逮捕は免れた。

 と、同年8月に、今度は、下級役人である大宅鷹取が「伴大納言とその子である中庸らが応天門から立ち去り、その後に出火したのを目撃した」と告発した。

 本絵巻の別のところでは、これまた異時同図法で、(1)子供が喧嘩している場面、(2)大人が一方の子供を蹴飛ばす場面、(3)母親が蹴られた子供の手をひいて帰る場面などが描かれている。(「歴史探検」というHPではその場面が掲載されている)
 つまり、子供同士がたわいもないことで喧嘩をした。しかし、一方の子供が伴大納言の従者の子供であって、親が出てきて相手の子供を蹴飛ばした。
 蹴られた側の親は、当然伴大納言の従者に文句を言ったが、従者は大納言の威光を笠に着て、取り合わない。腹を立てた親は「俺は応天門の変の真相を知ってるんだぞ」と騒ぎ立てた。実は、この親、たまたま5ヶ月ほど前に伴大納言らの放火らしき現場を見かけたが、あまりに恐れ多いことなので黙っていた。それをばらされてもいいのかと腹立ちまぎれに公言したのがきっかけで、逆に伴大納言に捜査の手が及び、最終的に伴一族は流刑に処せられた・・・・というもの。

 子供の喧嘩が事件解決の発端ではなく、告発後に大宅鷹取の娘が伴大納言の従者生江恒山に殺されたのだとか出典により若干の異同はあるようだが、図録解説にいう「子供のけんかから〜」というのは上記のようないきさつである。

 この事件の背景については、いろいろ取りざたされている。
 何せ、登場人物が時の権力者ばかりだ。
 清和天皇は別格として、良房(太政大臣)がNo1、源信(左大臣)がNo2、良相(右大臣)がNo3、伴善男(大納言)がNo4。
 伴善男は、かねてより源信をライバル視しており、応天門の変の少し前、864年にも源信に謀反の動きありと言い立てていた。
 伴善男は名門大伴家の末裔。なお、大伴氏は淳和天皇の姓が大伴であったため823年に伴に改姓していた。864年に大納言に昇任。大伴一族でも大納言まで昇任したのは730年の大伴旅人以来であった。何度か没落した大伴氏にあってここまでの顕官を極めたのは相当のキレ者であったと推測される。

 さて、伴善男は良相に「応天門は私が造営した。源信は私を呪って放火したのだ」と告発したという。

 源信の父は嵯峨天皇。814年に源姓を賜って臣下にくだり、以来嵯峨源氏と呼ばれる。857年に左大臣となっていた。何しろ天皇の息子なんだから、血筋の点では並ぶものがない。

 また、良相は藤原冬嗣の五男(良房は二男)で857年に右大臣になっていた。一度死んだが、地獄の裁判官になっていた小野篁(おののたかむら)が「彼はこの世に必要な人物」ととりなし、生き返ったという伝説が『今昔物語集』にのせられるほど衆望も厚かったようだ。娘が清和天皇に入内しており、良房とライバル関係にあったとみてもいいかもしれない。
 一説には、伴善男は良相に「源信を失脚させ、あなたが左大臣になり、私があなたの後任の右大臣に」と持ちかけたともされている。

 いずれにせよ、良相は太政大臣である良房に知らせず独断で源信逮捕に動いた。しかし、養子である基経の通報でこれを知った良房は、清和天皇に源信がそのようなことをするはずが無いと弁護し、無実とされた。清和天皇の母は、良房の娘である。天皇は、おじいちゃんの言いなりだったのかもしれない。

 良相としては、源信逮捕という大博打に打って出たというのに良房に引っくり返され、面目は丸つぶれ。翌867年には死んでしまった。
 源信も逮捕、処刑か・・・という瀬戸際まで追い込まれた精神的打撃が大きかったようで事件後には隠居し、869年には事故死した。
 流刑に処せられた伴善男を含め、終わってみれば、厄介の種であったNo2からNo4まで一掃され、良房の一人勝ち状態。となると、この事件の黒幕は・・・・というのが話題になっても当然であろう。


 長々と書いたが、要は、この絵巻は宗教的な伝説やメルヘンチックなファンタジー、あるいは華麗な文学作品などを題材にしたものではなく、きわめて政治的なドキュメンタリーだということ。今でいう写真週刊誌に近いような感じなのではないだろうか。

 私が観た時には、確か広げられた絵巻の中心部分に炎上する応天門が描かれ、その両側に、すさまじい熱気、熱風、黒煙を避けながら逃げ惑い、あるいは野次馬として逆に近づこうとする人々の姿が描かれていた。

 画像はここで。

★ 67. 沙門地獄草紙<剥肉地獄>  個人蔵 ★

 本展示会では数多くの地獄草紙、餓鬼草紙が展示されていた。
 横で観ていたおばちゃんが(私もおっちゃんだが)、「うわ〜。えらい残酷やなあ。こら、悪いことでけへんなあ」と横の多分ご主人と思われる人にしゃべっていた。

 沙門地獄草紙というのは、特に沙門(僧侶)でありながら罪を犯した者が堕ちる地獄を描いたものだそうだ。
 本作は、その内の一つ。
 そこに赤いマントを手にしたマタドール(闘牛士)のような鬼がいた。

 しかし、このマントは、(生前に動物の皮を剥いだことがある)僧侶から剥いだ皮なのであった。
 あな恐ろしや。

 こうした地獄草紙、餓鬼草紙のほか病草紙(やまいのそうし)というのも展示されていた。

★ 72.国宝 病草紙<二形の男・口臭の女>  京都・国立博物館 ★

 画像はここから。ある占い師の様子が女っぽいのでこっそり家で昼寝をしているところをのぞいたら、「ふたなり」(両性具有)であった場面が描かれている。

 口臭の女の絵もそうであるし、前期展示の眼病治療も、医師に眼に鍼を刺されて出血している様子を別の者たちがふすまの陰からのぞいて笑っている。
 病気や身体障害の症例を単に紹介するだけでなく、興味本位の嘲笑と差別感が主となっているのではないだろうか。


★ 77.国宝 辟邪絵  奈良国立博物館 ★

 画像はここここから。

 辟邪とは邪悪な鬼などを避ける(やっつける)ものである。地獄草紙では、鬼が人間を切り刻んだり、食ったりしていたが、辟邪絵では鬼の方が、天刑星という鬼神や神虫という化け物に引き裂かれて食われたり、鍾馗さまに下あごをつかまれ、目の玉をぐりぐりとえぐられたりしている。
 鬼に同情したくなるくらいである。
 栴檀乾闥婆(せんだんけんだつば)という神将は、三叉の矛で鬼どもの首をはね、突き刺している。

 まるで、チビ太のおでん状態である。

 前回の鑑賞記の冒頭で本展示会のチケットを載せたが、そこで弓をひいている毘沙門天も、ここの辟邪絵の一つ。辟邪絵の中では一番おとなしい。


★ 79.国宝 華厳五十五所絵巻  奈良・東大寺 ★

 画像はここで。東博所蔵のものはここで。

 『華厳経』入法界品に説かれる、仏教を志した善財童子が各地の善知識を訪ね歩くさまを描いたもの。合掌している童子の姿が非常に可憐で、好きな作品の一つ。


★ 80.国宝 華厳宗祖師絵伝  京都・高山寺 ★

 画像はここで。何といっても船の下の龍がめちゃくちゃインパクト大。新羅から義湘という僧が唐へ留学に来る。彼に惚れた善妙という女性が告白するが、私は仏法を修行する身と拒絶される。
 善妙は、義湘のために諸道具を調え、箱に詰めるが、彼の帰国に間に合わず渡すことができなかった。善妙は嘆き悲しみ、箱を海に投じ、自らも海に身を投げた。確か会場では、周りの者が止めたが間に合わず、海に飛び込んでしまうシーンが展示されていた。
 その箱は流れ流れて、義湘の乗る船にたどり着き、善妙は龍に身を変えて、船を無事新羅まで送り届けるのであった。

 以前も書いたが、途中まで似たような話なのに、ラストが安珍・清姫とえらい違い。

 


【 第四章 白描の絵画 】 

 
★ 99.重文 五部心観  和歌山・西南院 ★

や、

★ 105.重文 別尊雑記  京都・仁和寺 ★

は、仏画ゼミナールの時もよく話題に出ていた。図像集として非常に資料的価値の高いものである。こうした図像集は黄色く変色している場合が多かった。
 その理由は、紙に油を塗って図像集に載せる。油を塗った紙は、ちょうどトレーシングペーパーのように半透明になり、忠実に元の図像をなぞることができる。そのため、その紙の油が図像集についてしまって黄変することが多いとのことだった。


★ 115.重文 公家列影 京都国立博物館 ★

 画像はここから。現代でも通じるような、いわゆる「イケメン」タイプもいるが、どちらかというとふくよかなタイプが多い。
 上記HPで拡大して、じっくり一人一人ご覧になるのも一興と思う。「いくら何でも、こらアカンやろ」と思われるご面相の方もいらっしゃる。

 

 

 
 



【 第五章 藤末鎌初のほとけ 】 

 「平安時代末期、治承4年(1180)の平重衡の南都焼打を契機にして、その後12世紀初頭、ここでは承久3年(1221)の承久の乱ごろまでの時代を、仮に藤末鎌初と呼ぶ」としているが、あまり明確な特色は感じられなかった。

  鮮明な絵が少なくて強い印象が残らなかったのかもしれない。

★ 125.重文 蓮池図 奈良・法隆寺 ★

 これは、展示の最後にあったし、大きい(縦180、横247.4)ので、とりあえず印象に残った。

 
 


 どうもお疲れ様でした。

 
  

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