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(No45) 大阪市立東洋陶磁美術館 「北宋汝窯青磁 考古発掘成果展」記念講演会 聴講記 

 平成21年12月5日(土)に、上記講演会を聴きに行った時のメモ。
 講演は午後1時30分なのに、整理券の配布は午前11時30分から。

 とりあえず11時30分に講演会の整理券をゲットして、講演会が始まるまでに特別展を見ることとした。その鑑賞メモは、ここ(前ページ)。

 講演会の会場である大阪弁護士会館と、特別展の会場である東洋陶磁美術館は堂島川をはさんで、すぐ向いなのである。
 

 



 講演会場は弁護士会館ビルの10階。

 

 

  10階のガラス越しに撮った写真が右上。赤レンガの建物が中央公会堂。その右奥、緑の丸屋根のある横長の建物は中之島図書館、さらにその右奥、茶色く四角い建物が大阪市役所。

 

 左上写真は、同じく10階のガラス越しに見下ろした東洋陶磁美術館。

 「中之島」というくらいあって、大川という川が中之島の「剣先」で二つに分かれる。上の写真でいうと美術館の手前を流れているのが堂島川で、向こう側を流れているのが土佐堀川ということになる。

 



「宮廷生活における汝窯と宋代官窯青瓷」          劉朝暉(上海・復旦大学文物與博物館学系副教授)

 冒頭に、今回の特別展の紹介があった。

(1) 2000年頃から計画を進めてきましたが、ようやく国外持ち出しの許可が出たので、今回の特別展が出来た。

(2) 中国国内でも数箇所で小規模に公開されたのみであり、国外ではもちろん世界最初。

(3) 美術品で、伝世品を含まず、出土品だけで構成される展覧会というのは違和感があるかもしれないが、きっと高く評価されると思う。

 

 続いて劉先生が1969年生まれということが紹介される。若いねんなぁ。

(東洋陶磁美術館所蔵の水仙盆の画像を表示した。画像を載せているHPはここ

 北宋の汝窯は「天青色」を初めて出現させたのが特徴です。 

 それまでは越窯の翠緑色に代表されるような緑気味が強いものでした。

(東洋陶磁美術館所蔵の南宋官窯八角瓶を表示。画像を載せているHPはここ

 これは南宋官窯ですが、釉色は汝窯の天青色に近いものです。ただ、釉の厚さは、南宋官窯の方が厚くなっています。

 南宋の葉眞『担斎筆衡』には「本朝以定州白磁器有芒不堪用、遂命汝州造青窯器。故河北唐、ケ、耀州悉有之、汝窯為魁」という一節があります。

 大意は、定州の白磁は「芒」があって朝廷の用に堪えられないので、汝州に命じて青磁を造らせた。耀州など河北の窯で悉くこれにとりかかったが、汝窯がその中でも魁になったというような意味です。

 ただ、なかなか汝窯の場所が判明しませんでしたが、現在では清涼寺の窯址がそれであろうと考えられています。 

 河南の清涼寺で窯址が発見されたのは1986年頃です。86年の学会で、清涼寺の近くの、ある工場長が見つけた陶片を紹介しました。それに上海博物館の館長が注目し、87年の10月から12月頃より河南文物考古研究所が試掘を始めました。

 試掘は計8回行われましたが、特に2000年の第6次発掘が重要です。この時に汝窯の中心焼造区が発見されました。

 「政和年間、京師に官窯がつくられた」という記事があります。これが北宋官窯と考えられます。
 政和年間は、宣和の代です。

 「京師」を地名と解するなら汴京(開封)ということになりますが、今のところ開封からは窯址は発見されていません。
 開封は長年の洪水で地下に埋もれてしまった都市です。汝窯が北宋の官窯という説もありますし、張公巷窯が北宋官窯という説もあります。

 南宋官窯は、修内司窯と考えられています。
 老虎洞窯址から修内司という銘のある轆轤の下に置くものが発見されました。

 これは古地図ですが、「修内司窯」の横に「萬松嶺」という地名が書かれていますが、これが老虎洞のことです。

 

 「郊壇下官窯」のあった場所は、今、博物館になっています。

 


 南宋の時代の周密『武林旧事』巻七では「淳熙六年三月十五日〜并是水晶玻璃、及天晴(一作天青)汝窯金瓶〜」とあります。
 これには、太上太后が聚景園に遊んだ時のことが書かれています。

 同著第九には「紹興二十一年十月、高宗幸清河郡王第〜清河郡王、臣張俊進奉〜汝窯酒瓶一対、洗一、香炉一、香合一、香球一、盞四只、盂子二、出香一対、大奩一、小奩一」とあります。

 高宗に臣の張俊が奉ったもののリストです。    

 

 


 お疲れ様でした。

 録音してはおりません(殴り書きのメモとおぼろげな記憶で勝手に再構成してます)ので、記録違い、記憶違いはご容赦ください。

 
  

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