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中国美術展(32) 講演「秦漢帝国の遺産」聴講記その1

1 概要

 平成18年10月19日から12月3日にかけて、京都文化博物館という場所で「始皇帝と彩色兵馬俑展」が開催された。
 関連行事で、11月5日には鶴間和幸教授の講演があるという。事前申し込みが必要だったが、無事当選通知をいただいたので、聴きに行った。


秦漢帝国の遺産 鶴間和幸学習院大学教授

  この展示会は、南さんと一緒にいろいろと準備してきました。

 

(※ 石野注)
 この南さんというのは、本講演会の司会もされた南博史京都府京都文化博物館主任学芸員のことだろうと思う。

 秦漢帝国というのはあまりなじみのない用語かもしれませんが、およそ2200年前の中国、王朝名でいうと、秦、楚漢、前漢、新、後漢のあたりをさします。

 秦は、BC221〜206。三代目の子嬰(しえい)で滅亡しました。子嬰は秦王で終わり、皇帝にはなりませんでした。

 楚漢は、BC206〜202。項羽劉邦が覇権を競った時期です。
 劉邦は、当初中国の西端漢中に追いやられていましたが、そこから盛り返し、有名な「四面楚歌」を経て逆転しました。
 項羽は楚の貴族でしたが、劉邦は農民出身です。王朝を築いていくにも、基準とすべきものを持っていません。ですから、秦にならうしかないのです。

 秦漢帝国の遺産と呼べるものがいくつかあります。

(1) 初めての統一帝国
 皇帝制が始まったのが秦です。中国二千年の原型がつくられました。
(2) 歴史書の編纂
 『史記』『漢書』などです。
(3) 西域との交通
 西域との交通で使われたのがシルクロードです。
(4) 紙の発明
 それまで文書は絹や竹簡に書かれていました。もともと絹地を紙と呼んでいました。
 竹簡の難点は何と言ってもかさばる点です。
(5) 印章の時代
 特に我が国で有名なのが、「漢委奴国王」の金印です。
(6) 漢字、律令、儒教、仏教
 いわゆる東アジアの源流といってよいでしょう。
(7) 兵馬俑
 兵馬俑はいくつか例はありますが、始皇帝のみが等身大の兵馬俑を造らせました。
(8) 長城の時代
 長城は戦国時代に始まりましたが、本格的に整備されたのは秦の時代です。
(9)黄河の治水事業
(10)黄金の時代
 当時は「黄金を賜る」という記事がよくみられます。



(”皇后之璽”の画像を表示。図録P104。HPではいのちのたび博物館HP京都文化博物館HP江戸東京博物館HPで)
 これは、別名を螭虎鈕白玉印
(ちこちゅうはくぎょくいん)といいます。印面の裏のつまみの部分には、螭虎(「螭」は、角のない黄色い「みずち」という龍。この龍と虎を組み合わせた想像上の動物)がかたどられています。

 こうした璽は、もともと封泥、すなわち竹簡を束ねる部分の粘土に押されたものです。

(※ 石野注)
 漢代では、公式文書である竹簡を送付する際、紐で縛った結び目に粘土を付け、官職印である璽を押した。こうして、勝手に開封・改竄されていないことを担保したのである。

 皇帝の玉璽は「皇帝六璽」といって6種類ありました。
(1) 皇帝行璽(諸事)
(2) 皇帝之璽(対諸侯王)
(3) 皇帝信璽(発兵)
(4) 天子行璽(対外国)
(5) 天子之璽(祭祀)
(6) 天子信璽(外国の軍)の6種類です。

(※ 石野注)
 図録P105には「『漢旧儀』によれば璽は白玉で螭(ち)の鈕(ちゅう。綬を通しつまむ部分)があり、印面は〜6種類あり〜皇帝の璽印は国内の官吏、諸侯王に使用し、天子の璽印は外交に使用した。
〜皇帝「信璽」は出兵や大臣を任命する文書、「天子行璽」は外国の王を冊封する文書に〜用いた」とある。
 また、同図録には印面を「田」の字に分け、その4箇所にそれぞれ字を刻するのは秦から前漢初期の印章の特徴、とある。


 呂后の玉印を見せてもらいに行った時のことですが、おもしろいことがありました。写真を撮ろうとした時、それならば・・・という感じで、陝西歴史博物館の職員が倉庫から本物を出してきたのです。
 このように、中国ではしばしば博物館等でレプリカを展示し、しかも複製品であることを表示しないことが多いのです。
 この玉印は、1968年、咸陽市韓家湾にて発見されました。
 非常に似たデザインのものに、中山王劉勝の墓から出土した、いわゆる1968年満城漢墓螭虎鈕玉印
(図録P104記載)があります。
 さて、この「皇后之璽」ですが、私はいささか疑っています。呂后はもっぱら皇帝の母として権力を握ったのであって、皇后でなく皇太后としての印ならわかるのですが、「皇后之璽」というのは本物か怪しいのではないか、と思っています。

 印刻には「陰刻」と「陽刻」の2種類があります。
 「陰刻」というのは、文字の部分を彫るものです。
 そして、「陽刻」というのは、文字の部分を残して、周りを彫るものです。この両者では、やや字体が違うのが通例です。

 秦漢の頃はどちらかというと陰刻が主でした。今、私たちが印章というと、朱肉に押して捺印し、字が朱で表現されるというイメージがあります。しかし、当時は封泥のため、粘土に押しつけることが主でしたから、陰刻の方が、字の部分が粘土に盛り上がって表現され、都合が良かったのです。

 (西安市沙坡漢墓出土亀鈕金印「王精」の画像を表示。図録P124)

 鈕
(ちゅう)は、もちろんつまむためにもありましたが、むしろ、綬(じゅ。紐)を通すためにありました。

橋鈕銅印章「長楽保印」の画像を表示。図録P156)
 橋鈕
(きょうちゅう)というのは、螭虎や亀、熊などをかたどったものではない、単純なアーチ橋のような形の鈕をいいます。
 この印章の特徴は、「長楽保」の3字は陰刻で、「印」という字のみ陽刻となっている点です。

(※ 石野注)
 先生から指摘されるまで気付かなかったが、確かに「長楽保」という3字の部分は全体が朱で文字の部分が白抜き。
 そして、右下の「印」という部分だけ、白地に、「印」という字が朱で表されていた。


 漢代では、印章は身分の証しでもあったので、印の材質や綬の色などにも細かい区分がありました。
 印材としては白玉が最上で、金銀銅が続きます。綬の色は赤から黄まで6種類でした。

 印材と綬は組み合わせが決まっており、赤→白玉、緑、紫→金、青→銀、黒→銅、黄→銅という感じになっていました。




 今回の展示会では、当時の竹簡にならって作った複製(竹簡レプリカ)を展示しています。
(図録P37記載)
 新たに作成した竹簡に、漢隷という漢代の隷書、すなわち司馬遷の時代の書体で書いてもらいました。
 130束で、『史記』の全体量くらいになります。
 1束に100枚の竹札が綴られています。

  1975年湖北省で大量の竹簡が発見されました。
 書体も秦漢の時代でかなり変化しました。

 山東省で出土した『孫子』の字体なども、史料として価値があります。

(※ 石野注)
 この辺、ノートの記載が足りず、意味がうまく通らない。
 1975年に湖北省で発見されたのが、いわゆる睡虎地秦簡。
 山東省で出土したというのが、1972年に山東省銀雀山の墓で出土した『孫子』の竹簡のことと思う。

 漢代の画像石に描かれた文官は、竹簡を束ねたものを胸前で持っています。

 『史記』の作者は太史令である司馬遷(BC145〜87)です。執筆された当時は『太史公書』と呼ばれました。字数は52万字以上、正確には52万6500字に及びます。

 扱っているのは、黄帝から漢の武帝の時代までです。 
 また、構成は本紀、表、書、世家、列伝から成ります。

(※ 石野注)
 「本紀」とは、帝王の事跡であるが、項羽にも本紀が立てられている。
 「表」は、各種年表。
 「書」は、儀礼、音楽など8種の事項に関する記述。
 「世家」(せいか)は、諸侯の家の歴史。
 「列伝」は、個人の伝記であり、『史記』は、本紀と列伝とで構成されるため「紀伝体」と呼ばれる。

 木版活字により慶長年間に印刷された『史記』(図録p36)が展示されています。

 これは、安田靫彦が描いた《鴻門の會》の絵
(図録P188)です。

 一番右端に座っているのが項羽です。この頃の人物は地面に座っているのが特徴です。椅子の時代は、南北朝頃からとなります。項羽は、東向きに座っています。
 項羽の横で玉玦を掲げているのは、参謀の范増です。
 その横で刀を掲げているのは項荘(項羽の従兄弟)です。

 奥に座っているのが劉邦で、項荘の刃から劉邦をかばうように立ちはだかっているのが項伯(項羽の叔父)です。
 また、左端で盾と剣を持って走りこもうとしているのが樊噲(ハンカイ)で、入り口付近で樊噲を招き入れるような格好をしているのが張良です。

 これほど細かく再現できるのは、鴻門の会の様子が『史記』に詳述されているからです。

(※ 石野注)
 『史記』項羽本紀には、こう記載されている。
項王項伯は東嚮(とうきょう)して坐し、亜父(あほ)は南嚮して坐す。亜父なる者は、范増なり。沛公は北嚮して坐し、張良は西嚮して坐す。范増数(しば)しば項王を目し、佩(お)ぶるところの玉玦を挙げて〜。項荘、剣を抜き、起(た)ちて舞う。
 項伯も亦た剣を抜き、起ちて舞う。常に身を以て沛公を翼蔽す。
、遂に入りて、帷(とばり)を披(ひら)き、西嚮して立ち、目を瞋らせて項王を視る」とある。

 『史記 二』(田中謙二・一海知義。朝日新聞社)P198には「中国の建物は古来南向きに造られ、南向きの正面席には、天子が座る。だから、天子になることを『南面』、臣下として仕えることを『北面』という。ここでは、その上席に亜父范増をすえた。『亜父』とは、父につぐものという意。老年者に対して敬意をしめすとともに、范増がブレーン・トラストとしていかに尊敬されていたかがわかる。また、古代では東むきの席は、つねに優位をしめす。この際、項羽沛公とは対等関係であり、しかも沛公は項羽の客でさえある。ところが、会見の席次の優位は、項羽がわで独占されてしまった」とある。 

 これは横山大観が描いた《屈原》の絵(図録P186)です。この屈原は、横山大観の師である岡倉天心に似ていると言われています。

(※ 石野注)
 図録P187には「大観が描いた《屈原》は、当時東京美術学校を放逐された岡倉天心の姿に重ね合わせて描いたといわれている」とある。

 上掲写真は岡倉天心。

 


 これは金餅(図録P121)です。
 一斤というのは、一寸立方(23mm)で、重さは250gです。
 一斤の金餅で1万銭(青銅)がつくれたといわれています。

 漢代の記事には、「臣下に○万斤の黄金を与えた」といった記述が頻出します。

(※ 石野注)
 図録P124には「黄金の時代」というコラムで「漢代は黄金が大量に臣下に与えられた。〜金餅ひとつは漢代当時の1斤にあたる。〜『史記』には皇帝が臣下に黄金を賜与する記事が多い。高祖が流れ矢に当たって病気になったときに、治療にやってきた医者にただ金50斤を与えて帰らせたという。〜1金は1万銭に相当する」とある。

 


 いつものことですが、録音はしてないので、ええ加減なメモとおぼろげな記憶による勝手な復元です。
 しかもだいぶ時間も経過していますので誤りも多いと思いますがご容赦ください。

 

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