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中国美術展(33) 講演「秦漢帝国の遺産」聴講記その2

1 概要

 平成18年10月19日から12月3日にかけて、京都文化博物館という場所で「始皇帝と彩色兵馬俑展」が開催された。
 関連行事で、11月5日には鶴間和幸教授の講演があるという。事前申し込みが必要だったが、無事当選通知をいただいたので、聴きに行った・・・・・の続き。


秦漢帝国の遺産 鶴間和幸学習院大学教授

始皇帝と兵馬俑

 『史記』秦始皇帝本紀には始皇帝陵と地下宮殿のことが記述されています。

 刑徒70余万人を動員したとあります。

 始皇帝は即位(13歳)直後から陵(墓)の造営に取りかかりました。

 「三層の地下水脈まで掘り下げた」という記述があります。これは、実際は地下30mくらいまで掘り下げたということです。
 なぜ、このように深く掘り下げるかというと遺体保存のためです。地下は温度が低く安定しているので、地上よりもずっと保存に適しています。

 木炭や粘土で外気を遮断する工夫も進んでいます。

  1972年に長沙馬王堆から女性のミイラが発見されました。なお、夫や子供の遺体は見つかっていません。その婦人のミイラは発見当初、まだ弾力を残していたというのは有名です。

(※ 石野注)
 『史記』第6始皇本紀には「始皇初めて即位するや酈山を穿ち〜天下の徒の送詣するもの70余万人、三泉を穿ち〜」とある。

 馬王堆に関しては例えばHP「ミイラの語りかけるもの」に写真まで載っている。


 銅で槨室
(かくしつ)を造り、そこに宮殿や官庁の財宝を納めました。

 また、弩
(いしゆみ)で矢を自動的に侵入者に対して発射する装置が設けられたと書かれています。これはもちろん、盗掘防止のためです。
 あとは、陵墓内部に水銀の河、海が設けられたとか、天文地理の壁画が描かれたとか、人魚の膏の燭台があったとか伝えられています。
 墳丘には植樹され、自然の山に見えるようにしました。

  (※ 石野注)
 前掲『史記』には、「銅を下し而して槨を致し、宮観百官の奇器珍怪、徙(うつ)し臧(お)きてこれを満たす。匠に機弩の矢を作らしめ、穿ち近づく所の者有らば、輒(すなわ)ちこれを射る。水銀を以て百川江河大海と為し〜上に天文を具え、下には地理を具う。人魚の膏(あぶら)を以て燭と為し〜草木を樹え以て山に象(かたど)る」とある。

 日本と中国の古墳には違いがあり、日本では山を掘って、棺などを埋めます。中国では、棺等を埋めてから、その上に土を積み上げ山にします。
 つまり、中国では、死後にしか山は造れないのです。

 始皇帝陵の墳丘の高さは45mから高いところでは約80mにも及びます。
 始皇帝陵は発掘されていませんが、最近、科学調査のメスは入っています。
 「揺感」というのは、リモートセンシングを中国語で表した言葉です。2002年に揺感と地球物理学が始皇帝陵の調査に導入されました。

 『史記』の記載にあるような地下宮殿がどうやら実際に存在するようなのです。
 地下30m、東西80m、南北50m、高さ15mに及ぶ宮殿があるようです。その宮殿は厚さ16〜22mの石壁で構成されています。

 兵馬俑はおよそ深さ5mのところにあったようですが、天井の木が腐り土中に埋まったようになっていました。

 当時は天から魂(こん)、地からは魄(はく)が生じ、人間の魂魄をつくる。死後、魄は地下に戻ると考えられていました。
 体がなくなってしまうと、魄が入る場所がなくなってしまいます。ですから、死後に蘇るためには、魄が戻る場所、つまり遺体を保存しておくことが必要だと考えられたのです。

 最近有名になった井真成の碑文にも同趣旨のことが書かれています。

 水銀は常温でも液体です。中国では黄河も西から東へ流れ、最終的に海に注いでいます。
 おそらく、始皇帝陵もそうした中国大陸全体の形を模したものになり、水銀の河が流れていたのでしょう。
 始皇帝陵のある場所は非常に水銀濃度が濃いという調査結果も出ています。

 兵馬俑は西安で農民が井戸を掘っていて、たまたま実物大の腕等を掘り出し、この世紀の大発見につながりました。その時井戸を掘っていたのは楊という苗字の人だったそうですが、二人ほどいて、どちらが本当の第一発見者か、楊さん同士で争っているようです。
 先日も、楊さんのサイン会がありましたが、8000人も集まる大盛況だったそうです。



 黄土の性状についてご説明しますと、秋の驟雨の時期には粘土状になります。黄土の大地は乾燥しきっているようでも、1mほど掘ると、良質の粘土が出てまいります。
 乾燥している時の手触りはちょうど小麦粉のようで、非常にきめ細かいものです。
 この黄土を型にはめて上から突き固めていくのが伝統的な「版築」工法ですが、黄土はこうすると、焼かなくても非常に固く、水をはじくようになります。

 兵馬俑は中は空洞になっています。厚みは2〜3cmくらいです。
 中を空洞にしないとあれだけ大きいものは乾燥しません。馬などは腹の部分に穴があいていたりします。
 兵馬俑は焼いた上に木漆を塗っています。そうすると黒くなります。その後、顔料(岩絵の具)で色をつけます。顔料というのは、金属などを膠で溶いたもので、これを重ね塗りします。
 顔なども白の下地を塗った上に、白に朱や黄を混ぜて作った「肌色」を重ね塗りしています。
 緑などは孔雀石などを使っています。

 跪射俑の靴の裏には滑り止めの文様までが刻まれています。唇は赤めです。
 戦国時代の秦の兵馬俑について言えば、秦は中国でも西方に位置する国で、特に西方の影響を色濃く受けていることが考えられます。
 また、等身大の像を大理石で彫るのはアレキサンダー大王の軍がインドへ進征した時の影響が考えられます。

 趙武霊王(BC329〜299)は騎射戦術を採り入れるため胡服を導入したことで有名です。

 秦都咸陽や長安付近には上林苑という動植物園がありました。

 水禽坑は、青銅製のツル、ハクチョウ、ガンなどが出土しました。

 越冬のため南下した水鳥の姿でしょう。このガンは、サカツラガンという種類です。

 人俑は今回、楽士俑と呼ばれていますが、前回の中国国宝展では船漕ぎ俑と呼ばれていました。楽器ではなく、オールを持っているとみたのです。
 たくましい力士俑は、百戯俑とか雑技俑と呼ばれます。

 漢代の皇帝陵は、前漢14代のうち高祖、景帝、武帝ら9代の陵が渭水北岸にあり、文帝、宣帝2代の陵が渭水南岸にあります。

 陵の形は覆斗型
(※石野注 四角錐の上部を平にした形)です。

 漢の高祖の陵は、皇后陵と東西に並んでいます。

 高祖の長陵は東西153m、南北135mで、呂后陵は東西150m、南北130mです。

 秦の始皇帝から前漢武帝まで、陵の周りに陵邑という都市を築きました。
 秦漢の兵馬俑を比較すると、漢代の兵馬俑は秦の兵馬俑に比べ個性がないといえます。特色やモデル等がないのでしょうか。型押しで同一物を量産したのでしょう。
 漢代の馬に乗った俑を見ると、鐙
(あぶみ)が未だ発明だということがわかります。

 秦代の兵馬俑では漆
(うるし)を塗りました。漆は乾燥に弱いのが弱点です。漆が剥げ落ちると彩色も全部剥落してしまいます。

 裸体俑では土の胴体に、木の腕を後で差しました。木製の腕は腐朽して残っていません。

 漢代の兵馬俑の特徴としては、表情がおだやかだという点があげられます。東は江蘇省、西は西方の遊牧民族まで様々です。

 家畜俑では、豚などは密集して二段重ねになっています。
 『史記』巻129貨殖列伝では、家畜が貴重な財産だという記述が載っています。



 いつものことですが、録音はしてないので、ええ加減なメモとおぼろげな記憶による勝手な復元です。
 しかもだいぶ時間も経過していますので誤りも多いと思いますがご容赦ください・・・・・というのがいつもの弁解セリフだが、今回はとりわけひどいですねえ。

 鶴間先生、まことに申し訳ない。

 

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