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中国美術展(31) 講演「旅順博物館所蔵大谷探検隊資料の日中共同研究をめぐって」聴講記その2

1 概要

 先日地下鉄に乗っている時、車内広告でふと、上海新天地で「大谷探検隊と中国」という龍谷大学前学長の講演があるという記事を見かけた・・・・・・の続き。


 IV 旅順博物館との共同研究について

 さて、共同研究を持ちかけたのですが、なかなかOKをもらえませんでした。相手方は警戒していたのです。日本の研究者は、少しも還元してくれない。自分たちだけで研究して、勝手にさっさと学会に発表してしまう。これは日本の学者がよく国際的に批判される点です。
 それと、「もともと日本が集めたものだ」と言って、返さなくなるんじゃないか。それも警戒していました。
 ところで、大連市と京都府の亀岡市が姉妹都市提携を結んでいたとかで、旅順博物館の文物が初めて日本で公開されることになりました。

 そこで、この出展のことを引き合いに出して私達にも共同研究させてくださいと言ったところ、旅順博物館の館長が、この展覧会の主催者の京都新聞社は、うちに8回足を運んだと言ったのです。

 それで私はカチンと来ました。いや、怒ったというより、この人はそういう面を評価するのだなと気付いて、それから8年間、通い詰めました。大谷探検隊のことは、どうしてもうち、龍谷大学がやらなくちゃいけないんですと説得し続けたのです。

 とうとう向こうが根負けして「上山さん、あなたももう定年でしょう」などと言い出したのです。勝った、と思いましたね。

 うまい具合に、申請していた国の研究補助金もおりることになりました。ちょうど4年前です。 
 

(右写真は、会場である上海新天地の階段室。
 突如、兵馬俑が出現。

 各階、壁のところには写真のような京劇臉譜が) 

(※ 石野注)
 上山先生が会場で配布された資料では「2002年、日本学術振興会科学研究費補助金『中国旅順博物館所蔵新疆出土文物に関する総合的研究』〜を申請して採択された。ここに至るまでほぼ11年間の準備期間を要した〜研究の対象は『藍冊』と称する52冊のアルバムその他に保存されている仏教経典断片である〜」とある。
 

 藍冊そのものの持ち出しは許されませんでしたが、高精度のデジタル写真を撮ることができて、それで同定作業に入ることができたのです。

 この同定作業とは、ある断片の文字をみて、それがどういうお経のどの部分か調べる作業をいいます。
 この作業は、それまでは、断片で「○○菩薩」というような字句があれば、『大蔵経』というありとあらゆるお経を収めた書物を繰りまして、どこに出てくるかを探す。まるで、砂場で小さなガラス粒を拾うような気の遠くなるような作業を繰り返すしかなかったのです。

 ところが、強力な味方が現われました。それはコンピューターです。『大蔵経』がデータベースになりまして、4文字あれば完全に○○経のどの部分ということが検索できるようになったのです。

 お金、コンピューター技術の進歩、中国側の許可。この三つが揃って研究が一挙に前に進んだのです。

 「共同研究」だから、ということで、中国側はこちらに全ての資料を任せるのではなく、半分ずつ分担しようと提案してきました。
 私は、内心では「どうせ、すぐ音を上げて、こちらに任せてくるだろう」とタカをくくっていました。その頃、旅順博物館には、全くコンピュータなどはなかったのです。

 しかし、向こうの館長は偉かった。きっちり予算を取ってきてコンピューターを整備し始めたのです。その頃、龍谷大学では、旅順博物館の職員を招いてコンピューター研修を行ないました。うちでコンピューター技術を学んだ職員が、旅順に帰って、他の職員にコンピューターを指導していくのです。

 こちらに研修に来たのは、旅順博物館でいくと事務員にあたる職員です。通常、中国という国は階級がはっきりしていて、学者、研究者でない事務員が外国にまで行って研修を受けさせてもらったり、研究に従事したりすることはないのですが、旅順博物館は違いました。これも、旅順博物館の館長の偉いところだと思います。

 私も彼らに対する接し方は配慮しました。通常、こういう共同研究だと、こちらは東京大学、向こうは北京大学の教授などを持ち出し、権威付けを図るのが通例なのですが、私は徹底して、旅順博物館の館長と職員を立てました。
 そのせいか、共同研究をスタートさせるまでは苦労しましたが、それからは実に稔りがあったと自負しています。

 人と人との交流というのは、草の根というか、結局こういうことなのかな、と思います。
 
 

 


 V 大谷探検隊が収集した文物について

 先ほども申し上げたとおり、藍冊に収められた経巻の断片について、次々にどのお経か同定作業を続けながら、時代順にも整理していきました。

 経巻の字体にも時代の変遷があります。隷書などはだいたい400年頃によく使われた字体です。そうした字体で並べていくと、ちょうど、その時代に流行していた経典、古い時代だと『摩訶般若経』とか、そうした経典の変遷とも時代的にぴったり合うことが分かりました。

 これは元康六年(296)に書写したという奥書がある非常に珍しい経巻の一部です。竺法護訳の経文ですが、時代が確認できる限りではおそらく世界最古の経文と考えられます。
 これは、実はこれまで写真が残っているだけで、実物が確認できませんでした。そうなると、史料価値はほとんどないのです。写真だけでは偽造の疑いが晴らせませんから。
 ところが、今回の研究で、この元康六年書写の経巻断片とぴったりあてはまる、他の断片が多数確認できました。そうなると、おそらくこの元康六年書写経巻は実在したと考えることができるようになったのです。

 これは李柏文書と呼ばれる書簡です。五月七日という日付が記されています。時代は前涼の大元五年(328)年と考えられています。

 これは、李柏文書の用紙の拡大図です。写真でもわかるように、植物の繊維が残っているのがはっきり見えます。
 よく紙は蔡倫が発明したなどと言われますが、彼は紙を改善して実用化したというべきで、いわゆる「紙」と呼べるものは蔡倫よりずっと古い時代からあったと考えられます。


(※ 石野注)
 画像については龍谷大学HPで 重文 李柏尺牘稿 。また、同じく「標本カテゴリ」で「漢文古文書」をクリック。

 『西域 探検の世紀』(著:金子民雄。岩波新書)によると、「瑞超が楼蘭で得た最大の成果は仏典ではなく、四世紀中葉、西域長吏であった李柏の書いた手紙の草稿を発見したことだった。この二葉の文書は、のちに李柏文書として大変有名になる〜手紙の内容というのは、正確な年代は不明だが五月七日付で、前涼王国の西域長吏として楼蘭に進駐して来た李柏という人物が、焉耆(えんき。カラシャール)王に宛て、五月ニ日にこの地(「海頭」)に到着したという知らせだった」とある。


 トルファン木版経典。これは9世紀頃の木版刷りの経典です。

 ソグド語、コータン語、西夏語など様々な文献が出土しています。

 マニ経に関する文献です。

 これは表に漢文が書かれ、裏にはウィグル語が書かれた文献で、このようなものがたくさん出土しています。これは、当時紙は貴重なものだったので、経典など漢文が書かれた紙の裏もしっかり再利用したものなのでしょう。

 これは「誓願図」という仏教絵画ですが、仏を様々な人種の者が取り巻いているところを描いています。


 これは善導大師『阿弥陀経』です。


(※ 石野注)
 龍谷大学HPで「標本カテゴリ」の「トルファン・クチャ古写経」をクリックすると裏にウィグル語が書かれた経文の画像を観ることができる。
 また、各種言語の文書については、同じく「標本カテゴリ」から「西域古語写経・古文書類」をクリック。

 龍谷大学がHPでベゼクリク千仏洞壁画の誓願図の復元資料を公開している。

 善導大師とは、調べた限りでは唐代の浄土教の大成者で、法然は善導大師の教えにふれ、浄土宗を開いたそうである。先生の解説が、善導大師自らが書かれた経典という意味か、どうかは聞き漏らした。
 なお、『大谷探検隊 シルクロード探検』(白水社)所収の「大谷探検隊の概要と業績」(著:大谷光瑞)では、収集品のうち重要なものとして「西晋の元康六年書写の跋がある諸仏要集経〜善導大師の阿弥陀経跋語があり〜」となっている。



 法隆寺に伝わる「四騎獅子文錦」と同じデザインのものを大谷探検隊は持ち帰っています。

 また、聖徳太子が記したと伝えられる勝鬘経と同じ内容の文書も敦煌で発見されているのですが、日本では聖徳太子というと大変なスーパースターですので、彼がカンニングした、とはなかなか公言できないので、研究が進んでいません。

(※ 石野注)

 錦織について、お話ではあまり詳しい説明はなかったが、当日配布された資料に載っていたので、抜粋を紹介する。

龍村平蔵(第二代)は、大谷探検隊将来の『花樹対鹿錦』の断片が、法隆寺夢殿の『四騎獅子狩文錦』と左右対称の図柄や織技などが近似している点に着目。法隆寺錦の図柄となっている騎士が冠の特徴からササン朝ペルシア(226〜651)の王、コスロオ二世(589〜628在位)であるところから、この錦がこの王の頃、ペルシアからの注文で長安で織られたものであること、アスターナ墳墓より出土した『花樹対鹿錦』も同じ頃、同系統の工場で織られたことを考証。一方は隋の煬帝(604〜617在位)の治世、遣隋使として中国に渡った(607、609)小野妹子を介して飛鳥に届き、いま一方は折りしも長安にいた(609〜612)高昌国王麹伯雅が持ち帰ったものであろうと推定し、飛鳥(奈良)〜長安〜トルファン〜ペルシアを結ぶ古代東アジアの文化交流の実態を明らかにした。

 両方とも片流れ三枚綾地の横錦。織りの設計者は千差万別であるが、両者は糸の組み方が同じ。経糸の密度と緯糸の密度も両者同じ。これは偶然ではありえない」とある。 

 花樹対鹿錦については、HP「龍村美術織物」にて。
 また、法隆寺に残る「四騎獅子狩文錦」については、HP「あかい奈良」取材日記で。




 VI 大連図書館主催 講演会について

 筆者は旅順博物館に通ううちに大連図書館長などと親しくなったようで、講演を依頼されたそうだ。



 外国でもそうですが、講演は客層に合わせてテーマを選ぶことが重要です。
 私は今回のテーマとして「仏教が日本の思想に及ぼした影響」ということを選びました。

 モチーフとした1点目は聖徳太子です。彼の「和を以って貴しと為す」というのは、少し前まではどこの学校の校長先生の部屋でも額に入れてありました。
 これは日本人の根本思想といっても良いのです。

 例えば皆さんが団体旅行に行って、何らかの理由で旅程が変更になったとします。もし、その変更で省略されてしまった行き先が、あなたが特に行きたかった目的地であった場合、あなたは、あくまでもその変更に反対するでしょうか?
 「私はかまいませんから、皆さんがよろしいように」と自分を殺してでも、全体のことを考えないでしょうか?また、変更された場合、旅費の返還などを求めるでしょうか?
 その辺が日本の「和を以って貴しと為す」の精神です。そのような場合の中国人の自己主張というと、すさまじいものがあります。

 2点目は禅宗の影響です。中国人などが心魅かれる日本の仏教寺院というと、不思議に、庭園などのある禅宗寺院だそうです。ちょっと、そこに合わせすぎたかもしれません。
 禅宗は老荘思想にも通じます。
 例えば生け花です。中国のホテルにも花は飾っていますね。しかし、玄関ロビーのところに大きな花瓶に豪華な盛り花をして、ただ、それだけです。他にはありません。
 日本は違いますね。トイレなどにも一輪挿しが飾られてたりします。これは自然を取り入れるという思想なんです。

 太平洋戦争後、占領軍が日本の旧家などを宿泊先に接収した場合、丹精した庭の苔を剥ぎ取り、灯籠をペンキで塗ったといいます。
 日本人にとっては「苔」は自然そのものであり、わびさびの象徴です。しかし、欧米人にとってはジメジメした苔など雑草でしかありません。

 家の中に自然を取り入れるという思想から、床の間をしつらえるようになったのです、とお話しすると、聴衆の皆さんの中から「ああ、それで旅順で昔、日本人が住んでいた家はどこも床の間があったのですか」と納得していただけました。

 いろいろ質問が出た中で「日本が、日本人古来の心を失わずに高度経済成長できた秘訣は?」という質問がありました。中国も、高度成長の陰で、貧富の差の拡大や人心荒廃には悩んでいるそうです。

 文化大革命では儒教など古い思想は排斥されましたが、このような荒廃した世相になった原因として儒教が廃(すた)れたから、と考えている人は多いようです。

 大連図書館長は「博文書院」という一室を拵(こしら)えて、論語の研究などに勤(いそ)しんでいるそうです。一昔前の文革当時ならとても考えられないことです。

 日本では福沢諭吉が外国文化の盲信的取り組みの嚆矢と言ってよいかもしれません。お札になったほどの偉人ですが、日本人のアイデンティティの保持という面ではいかがなものかと思われます。

 さて、中国人は、自分の国が日本に恩恵を施した典型例として鑑真を非常に誇りに思っています。
 日本では鑑真はどのように評価されている?とよく聞かれ、唐招提寺などを例に出し、非常に尊敬されていると答えるようにしています。

 中国はとにかく、明日にでも(国が)潰れるんじゃないか、という危機感を持っています。

 中国の本屋で外国書籍のコーナーを見ると、鈴木大拙の禅に関する本が前面に並べてあったりします。

 中国ではかつての「生めよ殖やせよ」ではなく、一人っ子政策がとられています。その結果が昨今の受験戦争です。
 先日、ある大きな駅前のターミナルでプラカードを持った若者がたくさんいるので政治デモか何かかと思ったのですが、何とそのプラカードはすべて「家庭教師します」という看板でした。それほど受験戦争は激化しているということです。

 日本も今後、中国のそうした現実的事情に即して外交していくことが必要だと思われます。




 

 VII 会場からの質問

 先生は午後4時には別の用事があるとのことで、時間の許す限り質問コーナー。

(1) 古い紙のお話がでましたが、墨については何かおもしろいことはありましたか?

(回答)
 墨というのは非常に資料価値があり、墨でその文物の場所や年代がわかります。

 墨をするのに使った水で、当時、その水がどの程度硫黄分を含んでいたか、とかいろいろな情報がわかったりします。

 また、清朝の頃になると、紙をすく時や墨にいろいろな添加物を加えたりするようになります。それは技術の進歩と言ってよいのですが、そのおかげで、その混ぜ物があるかどうかで古いものか近現代のものかわかる、つまり、昔の本物か後代の偽造か判別する助けになったりするのです。

 他にもあったのだが、何だか身内ネタみたいで、内容がよくわからなかったので省略する。なお、その身内ネタを質問された婦人は、目も鮮やかな水色の服を着ておられた。

 この女性は、以前小島康誉さんの講演を聴いた時に小島氏が「青の姫君」と呼んでおられた安田順恵さんではないかな、と思ったのだが、その時はお名前とかも覚えていなかったので(「シルクロードで何とかさんが講演した時に言ってた、かんとかさんじゃないですか?」なんて失礼な聞き方は、さすがに私もできなかった)確認はしていない。

 


 それでは、皆さん、お疲れ様でした。上山先生、ありがとうございました。いつものことですが、録音はしてないので、ええ加減なメモとおぼろげな記憶による勝手な復元です。誤りも多いと思いますがご容赦ください。

 

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