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中国美術展(26) NHK公開セミナー「シルクロードの謎〜幻の古代都市発掘秘話〜」聴講記その3

1 概要

 兵庫県立美術館で平成17年8月13日(土)から10月10日(月・祝)まで「新シルクロード展」が開催される。
 それに先がけ、NHK公開セミナーということで、大阪市鶴見区で「シルクロードの謎〜幻の古代都市発掘秘話〜」と題して、小島康誉(こじまやすたか)氏の講演が開催された。その聴講記最終回。



 続いて、いくつか壁画の写真を紹介された。聞き漏らしたのだが、後で修復作業の写真なども紹介されたので、ダンダンウィリク遺跡出土品だったのだろうか。


 この馬の絵をご覧ください。白くて、黒い模様がついているでしょう。こういう毛並みを”連銭葦毛”といいます。おもしろいことに、この連銭葦毛という表現が『平家物語』にも出てくるそうですよ。何でも木曽義仲の馬が連銭葦毛だったとのことです。
 ちょうど、この黒い模様が小判か何かのようですね。皆さんも、これでお金が貯まりますよ。(会場笑い)

 これは梵天ですね。顔が三つ、手が四本あって、その手に太陽と、月と、そしてこの手は鳥を持っていますね。

 この写真は脱衣婆(だつえば)です。この会場の中で三途の川に行かれたことのある人?あ、いらっしゃいませんか。まあ、人間誰しも1回は行きますんでね。(会場笑い)
 ちょっとわかりにくいですが、ここが頭、ここが足で、つまり裸になった人間をこう、持ち上げてますね。

 これは、犬というんでしょうか、狼というんでしょうか。ともかく獣頭人身像の絵ですね。これも手が四本あります。

 こちらの仏像の肩の所に、何か三角形のようなものが見えますね。
 さて、3問目のクイズです。さて、これは一体何を表しているのでしょう?



 スタインが1907年にミーラン遺跡で発掘したのが「有翼天使像」である。(画像は例えば、「飛天」というサイトで。)それで、翼かと思って挙手した。指名された方も「天使の羽根」と解答。
 小島氏は、「正解といたします。ただし、翼という意見が有力ですが、炎という意見もあり、正確には”まだ確定していない”というのが正解かもしれません」とのことだった。


 これがダンダンウィリク遺跡で発見した如来図です。この壁画はNHKの「新シルクロード」でも”西域のモナリザ”、”西域のモナリザ”として紹介されていますが、実はそれを命名したのは私なんです。
 ですから、そのうち巨額の考案料が振り込まれてくるのでは、と期待しているのですが、いまだに何の連絡もありません。(会場笑い)

 ”鉄線描”という言葉がありまして、東大寺の金堂の壁画がそうだと言われているのですが、現在ではどのようなものかよくわからない。この壁画のこうした輪郭の線は、鉄線描がいかなるものか現代に伝えるものといえるかもしれません。



 「西域のモナリザ」については、「新シルクロード」HPのこちらから。


 井上正教授は日本の仏教美術研究の第一人者ですが、その方が、これらの壁画を「屈鉄盤絲(くってつばんし)の如し。まさに西域のレオナルド・ダヴィンチの手になる歴代名画といってよい」と評されています。
 こうした部分(・・・と、別の絵画のあごの辺を赤いポインターで示しながら)は、力強くて、鉄の線を曲げたようですが、襟のこの辺りなどは、軽やかで、何というか糸がふわふわっとしたような感じです。

 この写真は現地から運んできた壁画を囲んで、どうやって保護していくか日中共同で論議しているところです。ここに並んでいるのが鉄付徳さん、張玉忠さん、馬世長さんら中国の学術界のトップの面々です。
 しかし、この辺をご覧ください。みんな、コップを持っているでしょう。私は怒ったんですよ。こんな所にお茶なんて持ってきてどういうつもりだ、もし壁画にかかったらどうするんだと言ったんですが、こぼさないから大丈夫だと平気な顔してるんですよ。(会場笑い)

 これは、冨澤千砂子という方が模写している写真です。模写することによって、この絵がどんな順番で描かれたとかがわかります。

 これは、壁画についた泥などの汚れを、薬剤をつけて落としているところです。まあ、シンナーというか、アルコールみたいなものですね。それを筆につけて少しずつていねいに落としていくのですが、作業室はすごいにおいがします。

 これは安藤という教授が鑑賞しているところで、学者の先生は難しい表現をするのですが「画風は尉遅乙僧(うっちいっそう)のそれを思わせる」と表現しています。



 尉遅乙僧とは于闐国王族出身で、仏画に長じた画家である。 



 これからはオマケというか、今回の新シルクロード展では目玉の一つなんですが、楼蘭小河墓遺跡のお話をします。

 楼蘭小河墓遺跡は、1934年にベリイマンが発見しました。
 写真のこれはすべて墓標で、約300あります。伝説では”千の墓標”と言われているそうです。

 これが全体像です。東西が35m、南北は74mあります。
 この写真、棒のようなものが立っていますね。これは男性の生殖器を表しており、その下には女性が埋葬されています。それで、この先が広がったような(※ 昔風の炉端焼きの店で品物を乗せて客の前に出していた杓文字(しゃもじ)のような)形の墓標は女性の生殖器を象徴していて、その下には男性が眠っています。

 今まで160体くらいが盗掘にあっているようなんです。
 この写真が150体あまりを発掘した、その柩の様子です。こんなに積み上げてどうするんだ、そのまま埋めておけばいいじゃないか、とお思いになるかも知れませんが、先ほども言ったように、ここで発掘調査している向こうでは盗掘隊が待っているというような状況なので、早く掘り出して保護しないといけないようです。何でもミイラ一体で1億円ものお金で取引されているとのことです。

 ここで発掘されたものが、この木製人面なのですが、この写真をご覧ください。これは、その時の調査隊の隊長でウィグル族の人なのですが、どうですか、そっくりでしょ。
 全く偶然に撮っていたのですが、角度といい、表情といい、本当にそっくりなんで後でびっくりしてしまいました。(会場笑い)
 ちょっと彼の写真がピンぼけなのは、写した私の腕のせいでもあるんですが、ここは零下30度にもなりまして、デジタルカメラがうまく作動しなかったせいもあるんです。

 これは木製のミイラです。足には履(くつ)を履かせていますし、頭には毛まで植えられています。何のためにこのようなものを作ったのか、遠いところで死んで、死体が還ってこなかった人の埋葬の時にそうしたのか、真相はわかっていません。



 木製人面と木製ミイラは「新シルクロード展」HPのみどころその3で。


 あとは、「砂漠で調査する時に一番の問題は何でしょう?(会場より”砂”という回答あり)
はい、砂も非常に大きな問題です。カメラなどは、いくら気をつけていても、細かい砂が入り込んで何日かすると壊れてしまいます。
 確かに砂も難問なのですが、更に大きな問題というと、やはり水ですね。それでは4問目のクイズです。かつて私がニヤ遺跡の調査に行った時、総勢60人が3週間、砂漠で過ごしたことがありました。さて、その時、水をどれだけ運んでいったでしょう?」
という問題を出された。

 最初の人は500トンと答え、小島氏は壇上でがくっ!となっていた。次の人が「5トン」と答え、正解として景品をもらった。

 「正確には6トンです。私達は水洗トイレも、もちろんお風呂も使わなかったのですが、どうしてもこれだけは必要でした。何でも都会の人が1日で使う量の1/50しか1日当たりで使わなかったそうです。」とのことだった。

 最後の問題は、砂漠の真ん中の掘っ立て小屋に向かう調査隊員の後姿の写真で「どこへ行くところでしょうか?」というものだった。
 挙手して指名されたのは私。ところが、別の人が指名されていないのに「トイレ」といきなり答えてしまった。私もトイレだと思っていたので、「あなたの答えは?」と聞かれ、「私もトイレだと思います」と答えた。

 小島氏が「困りましたね。手を挙げられたのは、この方が一番でしたが、答えを言ったのは向こうの方が早かったし。どうしましょう?」と言うと、会場の誰かが「じゃんけんしましょう」と言い、小島氏も「じゃあ、お願いします」と言われた。

 立っていただけますか、と促され、相手の方を見るとかなり年配の男性である。
 それで「じゃあ、お譲りします」と言ったのだが、小島氏は「まあ、そうおっしゃらずに。せっかくですから」ということなので、仕方なく向き合うと、相手の男性はやる気まんまんで「じゃんけん!」と手を振っている。申し訳ないのだが私が勝ってしまった。
 これ以上遠慮するのも変だし、これもご縁なので、ありがたく最後の景品、『西域 探検の世紀』(著:金子民雄。岩波新書)をいただいた。

 また、こうした遺跡調査の時、お墓・トイレ・ゴミ捨て場の三つが、いろいろな遺物が見つかったり、過去の生活状況がわかったりするので注目される。それだけに、遺跡と調査基地とが混同されてはいけないので、調査班が使用したトイレやゴミ捨て場は位置などもしっかり記録しておくそうである。

 最後に新シルクロード展(神戸会場)に是非来ていただきたい、営盤遺跡のミイラなど、現在中国ではミイラは海外持ち出し禁止になっているところ、2年越しの交渉でようやく出展の了承を得た。そのほか、世界初公開の逸品が数多いので、という宣伝をされた。

 最後の最後に、画面に「日中友好→日中理解→日中共同」と映し出し、合掌されて講演は終わりとなった。

 
 



 その後、3人の方と質疑応答された。

Q1「こうした調査の際の費用分担は、日中間できっちり決まっているのでしょうか?」
A1「さすが大阪ですね。これまでいろいろな会場で講演をしてきましたが、お金の関係での質問が出たのは初めてです。(会場笑い)
 簡単に言いますと、私が修復保護事業を始めた80年代といいますと中国もまだ貧しい時代でした。ですから、日本の方が、ほとんど持ち出すというような状況でした。
 ところが、最近では中国も豊かになっていますし、文化財の保護に非常に力を入れるようになってきていますので、逆に、中国側の方でほとんど負担してくれるというようなことが多くなってきています。」

Q2「先ほどのお話の中で、以前は西域南道はニヤやダンダンウィリクといった遺跡を縫った道と考えられていたが、現在では、ほぼ現在残っているのと同じ道だと考えられているとのことでした。
 それであれば、メインの道沿いではないそうした遺跡はどのような位置づけだったのでしょう?」
A2「以前は細い川などがあって、現在の遺跡に行くのにも今ほど困難ではなかったと考えられます。
 ですから、私は、こうした遺跡は、仏教関係の遺品も多いことから”仏教聖地”という位置付けで、生活上の都市から、宗教上の理由でお参りに出かけるような場所ではなかったか、と考えています。」

Q3「先ほど、砂漠の真ん中でたくさんの柱が立っていたり、発掘された柩が積み上げられたりしていた写真がありましたが、そうしたものに使う木材はどこから運んできたのですか?」
A3「そうした木材として使われている木は、ほとんどが胡楊(こよう)と呼ばれる木でした。ポプラの仲間と思いますが。
 それで、そうした胡楊などは、現在でも砂漠で少しでも水がある所ではけっこう植わっているんですね。ですから、以前は、そうした遺跡の周りにもある程度生えていて、そりゃあ”まち”から運んだものも多少はあったかもしれませんが、ほとんどは、そうした遺跡の周りの木を利用したんだと思います。」


  


 聴講記でお分かりかと思うが、景品つきのクイズを出したり、いろいろ聴衆に問いかけたり、会場の笑いを誘う冗談を言ったりで、厭きさせない工夫をふんだんにこらした楽しい講演であった。

 小島氏は、講演の中で「ダンダンウィリクの調査は、当初は2001年に行く筈だったんですが、その頃アフガニスタンとかで国際情勢が不安定だったので、中国側から万一のことがあっては、と止められたんです。私は、日本では、ただの変な坊主ですが、向こうではけっこう大事にされているんです」と笑わせていたが、本当に新疆では奨学資金事業を興すなどして、非常に尊敬されているようである。

 いつものことであるが、正確にテープ起こししているわけではないので記憶誤りも多いと思うが、お許しいただきたい。また、ふんだんに写真を紹介されているので、イメージがお伝えしきれないのが残念である。

 それでは、皆さん、お疲れ様でした。

 

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