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中国美術展(27) 新シルクロード展記念講演会「シルクロード〜楼蘭・小河墓の謎」聴講記その1

1 概要

 兵庫県立美術館で平成17年8月13日(土)から10月10日(月・祝)まで「新シルクロード展」が開催されている。
 9月23日にNHKエグゼクティブプロデューサーの井上隆史氏による「シルクロード〜楼蘭・小河墓の謎」という記念講演会が開催された。その聴講記の第1回。



 本日のお話のタイトルは、「楼蘭・小河墓の謎」というんですが、実は小河墓は楼蘭から、かなり離れています。
 でも、TV屋としては、やはり楼蘭を前面に出したいんですね。

 楼蘭といえばシルクロードの中でも敦煌とならんで最も有名な地名なのですが、同時に最も謎に満ちた地名でもあります。井上靖さんとお話したことがあるのですが、「楼蘭の謎というのは、第2のヘディンスタインが現れて、新たな発掘をしないと明かすことができないでしょうね。それでも無理かもしれません」とおっしゃっていました。

 1980年、前回の「シルクロード」の時に、NHKの取材班は入っておらず、中国側しか入っておりません。
 2002年に民放で椎名誠氏などが入ったのですが、2004年に楼蘭へ再取材しようとした時には取材許可がおりなかったのです。理由を聞いたのですが「軍事機密だ」としか答えません。

 敦煌まで引き揚げて、楼蘭の方を眺めていますとたくさんの攻撃用ヘリが飛び交っているのが見えました。どうやら大規模な軍事演習があったようなのです。
 噂では、ロプノールのあたりで核ミサイルの着弾演習をしていたのではないかとのことでした。スタッフの中には日本に帰ってから髪の毛が抜けるのではないかと心配していた者もいましたが、それは大丈夫だったようです。

 何せ軍の管轄下にある地域なので、何があるかわかりません。そうかと思うと、時期によると観光ツアーで一般の方が簡単に行けたりもするのです。

 楼蘭王国は紀元前2世紀頃、前漢の時代に栄えたのですが、いつ出現したのか、そもそも楼蘭人とは何者なのかもよくわかっていません。
 北京大学にリー・メイスンという教授がいて、けっこう大胆なおもしろい学説をぽんぽん提唱するので私は大好きなのですが(会場笑い)、彼が楼蘭は美人が多かった。きっと混血が多かっただろうと言っています。

 さて、楼蘭近辺は、先ほども申し上げたとおり、日本人取材班は調査が禁止されたのですね。それでは、どうやって映像を撮ったか、と言うと、日本人が入ることは許されなかったので、日本製のハイビジョンカメラだけを現地に入れたのです。取材班の中の中国人スタッフ2名が、カメラとともに現地に通算6ヶ月ほど入って発掘作業のすべてを撮影してもらったのです。



 ここからは会場の照明をおとし、NHK新シルクロードの楼蘭の回の映像を流し、松平定知氏のナレーションをそのまま流したり、音声を止めて井上氏自ら裏ナレーションを入れたりする展開となった。


(松平氏)楼蘭は、財宝を持ち去ろうとすると呪いがかかると考えられていた。
 タクラマカン砂漠で、楼蘭はシルクロードの主要ルートである天山南路と西域南道の分岐点に位置します。


(井上氏)小河墓遺跡は楼蘭から西に100km以上入ったところ。
 砂漠を進むには専用のトラック2台を用います。ベンツの丈夫なトラックです。


 この辺の砂丘の感じは、NHK新シルクロードHPのビジュアルアーカイブス「楼蘭」で、シーン01が最適と思う。


 ヤルダンというのは、風で地表が削られ深い谷のようになった奇怪な地形のことです。魔鬼城とも龍城とも呼ばれます。一度迷い込むとなかなか出てこれません。


 ヤルダンは、さきほどのページでシーン02を。


 小河墓遺跡は、小高い丘にあり、周りは昔は湿地とか草原であったと考えられています。
 立ち並んでいる柱は胡楊という木で、相当な大木です。ただ、現在、周りには林などはありません。こうした柱は八角や十角に加工されています。

 こうした木材を加工するには当然金属製の刃物が用いられたと考えられますが、何故か現地では、青銅の塊などは出土するものの、金属器の類いはこれまで一切発見されていません。



 小河墓遺跡の全景は、さきほどのページのシーン03を。また、胡楊の柱は、同シーン04を。  
 



 彼が探検隊の隊長、イディリス・アブドゥラスル氏です。
 中国政府も最近は遺跡の調査に大変力を入れており、中国でも有力な学者が集結してきました。


 隊長の顔は、NHK新シルクロードHPのビジュアルアーカイブス「楼蘭」のシーン05で。


 前回の「シルクロード」で紹介した楼蘭の美女は約3400〜3800年前のものと考えられています。
 小河墓遺跡を最初に発見したベリイマンは、木像は、遺跡を守る守り神のように立っていたと記録に残していますが、私達が発見した時には倒れていました。
  小河墓遺跡は土器が発見されておらず、楼蘭より古い3000〜4000年前の遺跡と考えられているのですが、決定的な証拠はありません。

 私達が発掘を開始したのが2004年1月1日。現地入りしたのは2003年のクリスマスでした。現地の中国人にとってめでたいのは旧正月の春節ですから元旦といっても特に感慨はありません。
 タクラマカン砂漠というと、面積では日本の9割ほどに当たります。我々はタクラマカン砂漠でも最古の文明に触れるかもしれないのです。

 この写真は現地の蜃気楼です。
 このように、いかにも道の先には谷や緑、オアシスがありそうに見えます。そこで、急いで先を歩を進めると、そこには何もない。絶望した旅人、商人は命を落とすこともあったでしょう。
 しかし、こうした蜃気楼は昼前には消えてしまうのです。


  


 小河墓遺跡では、墓標に2種類あります。
 棒状の柱。中国の学者は、これを男性器の象徴としているのですが、先端が赤く塗ってあります。その下には女性の遺体が埋葬されています。
 そして先端の広がった、我々は相撲の軍配と言いますし、中国の学者は舟のオールと表現しますが、そうした墓標は先端が黒く塗られ、女性器の象徴と考えられており、その下には男性の遺体が埋葬されています。

 おもちゃの弓が発掘されました。こうした弓は、男性のミイラが眠る墓標に立て掛けられていました。
 柱の根元に牛の頭骨がありました。これは、どうやら当初は紐で柱の上の方に牛の生首が掛けられていたようなのですが、後に紐が腐食して根元に落ち、白骨化してしまったものと思われます。しかし、高い柱の上に牛の生首って、なかなか強烈な光景ですね。

 いわゆる舟型の棺が発掘されました。
 こうした棺の上には、牛の毛皮が掛けてありました。その皮にははっきりつなぎ目があり、一つの棺に三頭分の皮が使われていたことがわかります。
 300の棺があれば、およそ1000頭もの牛が皮を剥がれたことになります。



 舟型棺の画像は、NHK新シルクロードHPのビジュアルアーカイブス「楼蘭」のシーン06で。

 ここで、井上氏はいったん裏ナレーションをやめ、番組の音声を流した。イディリス隊長が棺の上の皮を取ろうとするのだが、なかなかはずれない。「慎重に、慎重に」という隊長の指示が飛ぶ。なぜ、これほど皮が取れにくかったか、と言うと・・・・・


 棺には赤い痕がついています。これは血糊(ちのり)です。どうやら、棺の横で牛を殺して皮を剥ぎ、いわば血のしたたる毛皮をかぶせたようなのです。
 放映当時、3000年以上経っているにもかかわらず、この棺が新品同様であることから、あれはNHKのヤラセで、最近作ったものではないか、などと言う人がいました。

 いくらNHKでも、そんな手間のかかるヤラセをするわけがない。(会場笑い)

 これは、砂漠の乾燥した風土ももちろんですが、まさに血「のり」でぴっちりと密封していたことが幸いしたのではないかと言われています。 



 さて、いよいよ棺を開けるのだが、少し長くなってきたので、この辺でいったん切らせていただきたい。

 それでは、皆さん、お疲れ様でした。

 

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