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中国美術展(25) NHK公開セミナー「シルクロードの謎〜幻の古代都市発掘秘話〜」聴講記その2

1 概要

 兵庫県立美術館で平成17年8月13日(土)から10月10日(月・祝)まで「新シルクロード展」が開催される。
 それに先がけ、NHK公開セミナーということで、大阪市鶴見区で「シルクロードの謎〜幻の古代都市発掘秘話〜」と題して、小島康誉(こじまやすたか)氏の講演が開催された。その聴講記の続き。



 これらの写真が、西域南道の仏教遺跡です。
 ニヤ遺跡、ミーラン遺跡、ローラン遺跡などですが、いずれも日干し煉瓦で仏塔が築いてあるのが特徴です。



 この辺の雰囲気を探るにはNHKスペシャル「新シルクロード」のここなんかではどうだろう。
 また、「中華遊」という旅行社サイトのニヤ遺跡ミーラン遺跡ローラン遺跡などもどうぞ。


 一方こちらが、西域北道に位置する仏教遺跡の写真です。
 キジル千仏洞、クムトラ千仏洞、ベゼクリク千仏洞など断崖を利用した千仏洞が多いのが特徴です。

 さて、これはキジル千仏洞の天井近くの壁画で、あの青い所にはラピスラズリが使われているのですが、そこに”飛天”が描かれており、その飛天が五弦の琵琶を持っています。
 さて、2問目のクイズです。今、世界で1箇所だけこのような五弦の琵琶が遺されている場所があるのですが、そこはどこでしょう?


 私も解答は分かっていたが指名されなかった。答えは正倉院である。
 この正倉院五弦琵琶については、例えば「諏訪緑的世界」というサイトのここで写真を載せておられる。

 先ほどの旅行社サイトでキジル千仏洞クムトラ千仏洞をどうぞ。

 ベゼクリク千仏洞については、新シルクロードHPのここでも紹介しているし、「シルクロードの写真集と旅行記」というサイトのここで写真を載せておられる。


 これは、ケリヤ河という河の写真ですが、”11月でも水量豊か”とコメントをつけています。
 一体何のことだ?とお思いかもしれませんが、あの辺の河は崑崙山脈の雪解け水で流れているので、ニヤ河などは、5月には早くも干上がってしまうのですが、ケリヤ河が11月なのにたくさん水があるのに驚いたというわけです。


 『シルクロード第4巻 流砂の道』(日本放送出版協会)でも井上靖氏が「町を出たところでケリヤ河の橋を渡る。流れは少ないが、川幅は広い。やはり大河である。〜やがてニヤ河の橋を渡る。〜川筋をすっかり小石の原が埋め〜水が殆どない〜」と書いておられる。

 これは駱駝(ラクダ)の写真です。”総勢31名、駱駝41峰”と書いてます。あれ?勘のいい人は、「坊主、字を間違ったな」なんて顔をしておられますね。あれは、駱駝41頭の間違いだろうと。


 私は、駱駝のこぶを山の「峰」に例えたのだろうと思って、思わず手で「二こぶ」の曲線を描いてしまった。私は前から2番目の席に座っていたので、小島氏は、その仕草を目敏く気付かれて、

 あ、こちらの方は理由もお分かりみたいですね。中近東の辺の駱駝は一こぶですが、中国のあたりじゃ二こぶなんで、中国ではそれを山の峰になぞらえて、一頭、二頭でも間違いじゃないんですが、”〜峰”という数え方をするんです。
 これは覚えて帰ってください。
(会場笑い)

 それでは、会場の皆さんの中で駱駝に乗ったことがあるという方は手を挙げてください。(何人かが手を挙げ、指名された方は「鳥取砂丘で乗りました」と答えた)
 敦煌?あ、鳥取ですか。あれは観光用に最初から座席が設けてある駱駝ですね。ああいう駱駝は、30分やそこら乗ってもどうということはないんですが、現地の駱駝は、荷物を載せるだけで嫌がって暴れるんで3時間くらいかかるんですね。
 最近の駱駝はあまり働かないから、荷物を載せられるだけで嫌がるんです。
(会場笑い)
 荷物を載せたら、そこにスペースを作って、そこに人間が乗るんで、それは大変です。

 さて、駱駝41頭のキャラバンというと、こんな感じです。

(画面一杯の横長の砂漠。そこへジグザク状に駱駝の隊列が延々と連なっている。会場から驚嘆の声)
 3日間で進んだ距離が直線距離で33km。駱駝が歩んだ距離でいくと50km。一般的に駱駝が進む距離は直線距離の1.5倍といわれています。あ、もちろん、駱駝は真っ直ぐだって歩けるんですよ。しかし、砂漠にはいろいろ砂丘というか、アップダウンがありますから、真っ直ぐ突っ切ったら距離は短いかもしれないけど、丘に上ったり、谷に下ったりで大変です。駱駝は勝手に楽な道、楽な道を選びますから、どうしてもこんなジグザクになるんですね。


 『徹底ガイド NHKスペシャル 新シルクロード』(NHK出版)の「熟年ラクダ隊タクラマカン砂漠を行く」という記事にも「ラクダが荷積みを嫌がって暴れるため思うようにはかどらず、出発までに5時間以上かかることもあった」とある。 


 ダンダンウィリクは、地表散布遺物が少ないのが特徴だと思います。ニヤなどは、けっこう砂の上に現れていたのですが。

 スタインは、ダンダンウィリクは、8世紀頃に遺棄されたのではないかとしています。

 私達は、おもしろいものも見つけました。この写真は、先ほどボスハードという人物がここを踏破したと言いましたが、彼がここに埋めた1927年12月9日付けの新聞です。
 この写真は、紙に”博斯喀”と書いてありますが、これはボスハードという名前の中国の当て字で彼の名刺です。
 また、これは固形燃料の包み紙ですが、ここに”将来、ここを訪れた者がこれを発見することを願う”と英語で書かれていて、1928.3.25という日付けが入っています。

 こういうことをする人はけっこういるんですね。名前は言いませんが、日本のある教授が、無許可で発掘調査をして、そこに自分のポラロイド写真にサインして埋めたんですが、それが発見されて大問題になったことがありました。
 こういうことしても、後日必ず見つかってしまうんですよ。


 まだ、美術品の関係や楼蘭小河墓の関係が残っているが、ここでいったん切ることとする。続きをお楽しみに。
 それでは、皆さん、お疲れ様でした。

 

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