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2006年4月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 4月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。


(511) 『お経の話』(著:渡辺照宏。岩波新書)

 大御所、渡辺先生の著作で、まえがきの冒頭で「読書なら”お経”が一番だ、と私は誰にでもいう。いくらでも読むものがあるし、内容も千差万別である。人間に関する問題ならたいてい何でも書いてる、といっても言いすぎではあるまい」とある。

 「お経の成立」という章では大乗仏教と密教をこう説明している。「(仏陀入滅後)保守的な上座部と進歩的な大衆部とに分裂した。〜(西暦紀元ごろに)この上座部にも大衆部にもあきたらないグループが新しく別に聖典を制作し、自分たちを”大乗”と呼び、古いものたちを”小乗”とけなした。これが大乗の起源である。この大乗仏教がさらにいくつかの派にわかれ、最後に密教に出現した」。
 ただ、これは従来の通説の紹介にすぎず、著者自身は統一された原始仏教から上座部・大衆部に分裂し、その後に大乗が現れ、密教に進化、といった整然とした進化を遂げたのではなく、仏陀生存中から大乗的な動きは既にあり、もっと輻輳した進化であったと主張している。

 「現在の仏教聖典」という章では訳経に功のあった人々を紹介しており、玄奘三蔵を一定評価しつつも「天才で努力家にありがちな自負や独断のきらいがないでもない。玄奘の伝えたものが当時のインド仏教のすべてであると見ることは正しくない」と断じる一方、あまり知られていない真諦(しんだい)などにも灯をあてている。

 また、密教を「仏教のうちでも神秘的直観と象徴的儀礼を重要視する傾向」とさらりと定義し、漢訳経典は便宜的に原文を改ざん・・・とまでは言わないが、修正、編集しており、原典を再現することは困難だが、チベット語聖典は逐語的翻訳である。また、セイロンに伝わるパーリ語聖典は、仏陀の教えが当時のまま現代に伝えられた貴重なものと考える向きもあるが、結局かつて並存していた一部派のひとつの伝承がたまたまセイロン島で伝承されていたにすぎないとする。

 また、「お経の形式と実例」の章では、仏教聖典の決まり文句の「如是我聞」に関連して、「百聞は一見に如かず」、「聞いて極楽、見て地獄」といった慣用句から「聞く」は「見る」より不確かな劣った行為のようにとられがち。が、インドでは学問は書物でなく師から弟子に口伝で伝えるのが通例なので、「読む」、「学ぶ」の代わりに「聞く」という言葉を用いる、という著述が新鮮だった。

 「大乗経典の性格」という章では、「大乗〜というのは、”偉大な乗りもの”という意味で、理想を達成するための手段がすぐれていることを示す。〜大乗に対立するものが”小乗”〜すなわち”いやしい乗りもの”と呼ばれる。これは大乗の人たちがつけた名で、自分から小乗と名のるものはいない〜代わりに”部派仏教”とか〜”分別説部”(セイロン等の仏教)などとよぶ方が穏当であろう」としている。

 続いて各経典に関する具体的な解説があった。
 『般若経』は、ともかく「プラジニャー・パーラミター」の素晴らしさが説かれているようだ。それが結局何なのかよくわからないのだが。有名な般若心経についても解説されている。
 『華厳経』は、鈴木大拙夫人は「世界文学の最高の作品のひとつ」と評価しているそうだ。
 『維摩経』は、在家だが弥勒菩薩すら言い負かされるほどの見識を持つ維摩を主人公とする戯曲風の作品である。
 『勝鬘経』は、勝鬘妃を主人公とする経文で、多くの大乗経典では女性の身のままでは浄土に往生できないとか、男子に変形してから仏陀になる等の制限が加えられていることに比すると非常にユニークである。
 『法華経』は、竺法護訳の『正法華経』鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』ジニャーナグプタ・ダルマグプタ共訳の『添品妙法蓮華経』という3種類の漢訳が現存する。舞台はグリドラクータ(鷲の峰)。仏陀は舎利弗に「便宜上”三乗”の教えを説く」といったが、舎利弗は仏陀の意図を察し、一乗を説いてほしいと願う。「三乗」が声聞、独覚など小乗の教えで、「一乗」が大乗の教え。仏陀が一乗を説くことを宣言するのが第2章の「方便品」。以下、火宅の譬えを説く第3章「譬喩品」、放蕩息子の譬えを説く第4章「信解品」等が続き、仏陀はシャカ国の太子として生まれ出家して悟りを開くはるか以前に既に仏陀であり常住不滅であると説かれるとのことである。
 浄土教経典としては、いわゆる「浄土三部経」である『無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』を根本聖典とする。このうち、『観無量寿経』の主人公は韋帝希夫人(いだいけぶにん)である。彼女は、マガタ国の頻婆娑羅王の妃で、阿闍世王子の母。阿闍世はデーヴァダッタに唆され父王を幽閉し餓死させようとするが、夫人が身体に蜜を塗りこっそりと与える。絶望した夫人に仏陀が極楽浄土に生まれる方法を説くもので、いわゆる当麻曼荼羅(たいままんだら)は、この内容を描いている。
 最後に密教経典について紹介される。不空が訳した『大楽金剛不空真実三摩耶経』は、通称『理趣経』という。「人間的な弱点である愛欲や欲望を否定するのではなくて〜すべてそのあるべき場所において肯定される。絶対的体験はここでは(多くの宗教文学において見られるように)性の歓喜にたとえられ」るそうだ。

 さすが渡辺氏という感じで、膨大な内容をコンパクトかつごくオーソドックスにまとめてある。

★★★☆


(512) 『大乗経典を読む』(著:定方晟。講談社現代新書)

 「大乗の智恵と慈悲」という序章で、いろいろ基本概念の説明がある。
 「小乗は小さい乗物を意味し、自分の悟りだけを追求する利己的な仏教をさし、大乗は大きい乗物を意味し、自分の悟りと他人の悟りを追及する自利・利他の仏教をさす。
 仏教の歴史の初期には小乗仏教がおこなわれ、西暦紀元の始まる頃に、それを批判するかたちで大乗仏教が出現した。小乗仏教はこんにち東南アジア(スリランカ、ミャンマー、タイ)に存在し、大乗仏教は東アジア(中国、朝鮮、日本)に存在する。
 小乗・大乗の呼称は大乗教徒が作ったもので、東南アジアの仏教徒はこれを認めない。
〜小乗仏教の修行者は、「声聞(しょうもん)」や「独覚(どっかく)」(縁覚:えんがく、辟支仏:びゃくしぶつ)と呼ばれる。
〜声聞や独覚は衆生の悟りに無関心であったから、これに不満を抱いた仏教徒たちが、やがて菩薩と自称し〜衆生のために奮闘する
〜「般若」は智恵を意味する。具体的には空(くう)の思想をさす〜無我とはいかなるものにも我(実在)がないことを意味するのだと説いた。
〜「永遠の仏(久遠仏:くおんぶつ)」について。小乗教徒は、仏(シャカムニ)は80歳で〜死んだと考えている。〜大乗教徒は〜仏は永遠に生きていると考える」。

 大乗の重要な特徴が「智恵」と「慈悲」の二つの徳目だとし、まず智恵について、それを示す経典は『般若心経』『中論』であり、前者のエッセンスは「色即是空・空即是色」であって、「一般にひとはものに実体があると考えているが、そのようなものはない、という教えである」と解説している。また、龍樹菩薩著の『中論』では「原因からなる結果もなければ、原因からならない結果もない。結果がないから、原因とか無原因とかもない」と結論付けているそうである。何のこっちゃ?

 また、慈悲の「慈」とは「人に喜びを与えること」で、「悲」とは「人の心から苦しみを除くこと」。「ブッダが創造神か万能神であったなら、ブッダに「悲」はなかったろう。なぜなら、世に不幸なるものが存在するなら、かれは同情するまでもなく、それをなくしたであろうから。不幸をなくすことができないところに「悲」がある」としている。
 さて、本書は以下、著者が時代に合うよう改作した大乗経典が紹介される。

 まず智恵の経典として、空の教えを説く『阿闍世王経』と在家の悟りを説く『維摩経』を紹介する。
 続いて慈悲の経典として、まず『法華経』の「方便品」と「如来寿量品」を中心に紹介する。驚くのが第20章の「軽んじません男」。はるか昔、「軽んじません男(常不軽)」という男がいて、経典も読誦せず、することといえば人に敬礼して「軽んじません」と言うばかり。しかし、この男こそが今の仏陀だそうだ。しかし、「軽んじません男」ってネーミングがなあ・・・。
 あとは悪人の成仏として『涅槃経』、念仏の救いとして『無量寿経』である。

 本書は経典内容の概説にとどまらず、一応経典そのものの改作なのでより詳しい内容に興味がある人には適していると思う。ただ、いかにも新書サイズに収めるにはやや荷が重いようではあるが。


★★★


(513) 『国家の品格』(著:藤原正彦。新潮新書)

 すごいベストセラーと聞くので、どんな内容かと思い、買ってみた。売れるのもうなづける。講演を文章化したものなので、話し言葉で読みやすい。
 また、おぢさん世代の琴線に触れるような内容が多い。
「究極の競争社会、実力主義社会はケダモノの社会です」。
「会社は、言うまでもなくそこで働く従業員のもの〜ほとんどの株主は値上がりによるキャピタルゲインを狙っているのであり、その会社には何の愛情も持たない〜『会社は株主のもの』は恐ろしい論理なのです」。

 また、「どんな論理であれ、論理的に正しいからといってそれを徹底していくと、人間社会はほぼ必然的に破綻に至」るとある。
 そして、その例として、アメリカで「アメリカの国民は社会に出たら必ずタイプを打つ。だから、高校の間にタイプを勉強することは有用である」と考え、英語(つまり、彼らには「国語」)の時間にタイプを教えているうちに「海軍の新兵さんの25%が武器の取扱書を読めなくなっ」たという事例があげられている。
 日本でも「ゆとり教育」の一環で、国際人を育てるため、「全国の9割以上の小学校で英語が教えられてい」るそうだ。そして、筆者に言わせると「小学校から英語を教えることは、日本を滅ぼす最も確実な方法で」あるという。その理由として「国際的に通用する人間になるには、まずは国語を徹底的に固めなければダメです。表現する手段よりも表現する内容を整える方がずっと重要なのです。〜そして内容を豊富にするには、きちんと国語を勉強すること、とりわけ本を読むことが不可欠なのです」とある。

 ここは私も経験があるので賛同する。私は、もう20年近く前の話なのだが英会話を勉強していたことがあった。英会話スクールではなく、同じ職場の何人かで個人的に東欧人女性にレッスンをお願いしていた。
 仕事の後、会議室を借りて2時間ばかり英会話を習う。そして、その後は、メンバーとそのルワナという女性とで飲みに行っていた。ルワナの勘定はメンバー持ち。つまり、食事代こみみたいなものだったので、レッスン料はかなり安かったと記憶している。

 さて、一緒に勉強していたメンバーには、英会話がとても上手な若い女性もいた。私などは発音も悪く、あまり英単語などの知識もない。だから型にはまった正規のレッスンの時は劣等生的存在だった。からきし、その若い女性に歯が立たないのだ。
 ところが、レッスンが終わり、少しお酒が入ってからのフリートークでは立場が逆転した。酒の席の会話だから話題は何が飛び出すかわからない。お酒で気分もリラックスしてるものだから、気がつくとその女性と、口角泡を飛ばす勢いで「トーキングヘッズは、ディビット・バーンよりティナ・ウェイマスが渋いよな」「そうそう、ベース弾きながらトンボ切ったりして」なんて話をし始めている。
 ふと、気がつくと、その若い彼女は黙ってしまっていた。私はどちらかというと「意余って言葉足りず」だったのだが、彼女は、表現するための英文法や英単語の知識はあるものの、表現したい「内容」がなかったのだ。

「私は『卑怯を憎む心』をきちんと育てないといけないと思っています。〜『法律違反だから万引きしない』などと言う子供は、誰も見ていなければ万引きします。〜大人になってから、法律に禁止されていないことなら何でもするようになる。」なども「うまい」なあ。

 それから、これまた、いかにもおぢさん世代に受けそうなジョークも散りばめられている。
「いちばん身近で見ている女房に言わせると、私の話の半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷とのことです」。
「例えば『男が女をぶん殴っちゃいけない』と言ったって〜現実には、ぶん殴りたくなるような女は世界中に、私の女房を筆頭に山ほどいる」など。講演会場での笑い声や思わず巻き起こる拍手など、受け具合が眼に浮かぶようだ。

★★★☆


(514) 『仏像』(著:久野健。学生社)

 ずいぶん昔の本だが、非常におもしろかった。筆者は、X線等で仏像内部を調査することの草分け。
「X線で仏像をさぐる」という章では「よくばって短時間にたくさんの仏像を撮影するために、白血球がいちじるしく減ってしまう」とか「今日では、コバルト60から出る強力な放射線をよけるため、滑車につけた長いひもで操作するようになったが、その日は〜いせいよくコバルト60のふたをとって退避した。露出時間は、約15分だった」とかある。大丈夫だったんだろうか?

 「広隆寺弥勒菩薩の指」という章では、昭和35年に某大学生が菩薩に接吻しようとして菩薩の指を折った事件が書かれていた。
 筆者はこの事件に先立つ昭和31年にX線調査をしていたそうだ。後藤良という木彫家が、あの菩薩の右手はブルーデルの彫刻の手を知っているものでなければできない。おそらく、明治・大正期に仏像修理に活躍した明珍恒夫氏が作ったものだとの説を唱えた。しかし、著者の調査により、頬づえをつく右手まで本体と同じアカマツの一木から刻み出したことがわかり、後藤説の誤りが証明された。
 広隆寺は推古天皇11年あるいは30年(621)に創設されたと伝えられるが、初めは九条河原里にあり、後に今日の太秦に移ったそうだ。「こうした移転のさいや、またその後の火災にも、指もおれずに伝わったということは、まさに奇蹟」と書いているが、それが阿呆な学生のイタズラで折れてしまったのである。(この章の収録画像は、大阪野中寺弥勒)

 「白鳳時代の謎」という章では、第二次大戦までは白鳳時代抹殺論、すなわち、美術史上は、白鳳時代前期(孝徳朝から天智朝まで)は飛鳥様式に近く、後期(天武朝から文武朝まで)は天平時代の萌芽とみなせるから白鳳様式の独自性を認める意義がないという説が優勢だったとある。
 一方、筆者は、あどけなさ、童顔形、蛇行曲線などの特徴を持つ白鳳様式の独自性を認める立場である。
(前章の収録画像は法隆寺百済観音。本章は薬師寺聖観音、辛亥年銘観音像、法隆寺釈迦三尊脇侍、観心寺観音像、興福寺仏頭、鰐淵寺観音像、東大寺三月堂日光菩薩像、鶴林寺観音像、法隆寺伝薬師脇侍金銅仏、法隆寺天蓋楽人像、法隆寺六観音像、深大寺釈迦像、新薬師寺香薬師像、法隆寺夢違観音像、薬師寺薬師三尊)

 「貞観木彫誕生の秘密」という章では、タイトル通り貞観時代になって木彫の仏像が急増した理由を考察している。
 有力説は天平後半から流行した木心乾漆像の乾漆が次第に薄くなって木彫に移行したという説と、唐招提寺で天平末年頃に制作されたと伝えられる木彫の影響という説の二つであったが、筆者は双方を否定する。
 また、金箔や彩色のない白木の像が生まれた理由について、檀像(白檀など香木をつかった彫刻)の影響も認めつつ、主要な要素ではないと断じる。
 筆者が理由としてあげるのは、大寺院による都市仏教から山岳仏教への移行に伴う仏像の簡素化と、延暦年間における造東大寺司・造法華寺司の廃止、すなわち官営造仏所の解体によって多くの人手を要する乾漆像の制作が困難になったことの2点である。
(前章では、法華寺維摩居士像、東大寺戒壇院広目天像、聖林寺十一面観音像。本章は東大寺三月堂月光菩薩像、神護寺薬師如来像、日光菩薩像、唐招提寺不空羂索観音、唐招提寺鑑真像、法隆寺九面観音像)

 「乾漆とナタ彫の旅」という章では、その前の「ナタ彫の話」という章と合わせて、ちょうど愛知県のあたりで文化圏が分かれると論証している。すなわち、ナタ彫像は関東、東北に多いが愛知県より西には存在しない。逆に乾漆像は奈良を中心とした近畿圏に多く、愛知県より東には存在しないそうである。
(前々章では東大寺三月堂執金剛神像。前章では宝城坊薬師三尊像、弘明寺十一面観音、近江金剛輪寺本尊、茨城県小山寺十一面観音、岩手県天台寺聖観音、高岡市射水神社二上神像。本章では東観音寺二天像、長興寺聖観音像、甚目寺観音像)

 「運慶様式の成立」という章では、まず前章「運慶の発見」で胎内の銘札や墨書から浄楽寺の阿弥陀三尊像等を運慶作と解し、それらとの類似性から願成就院の諸像、さらには高野山の八大童子も運慶作ではないかとしている。
 そして、これまで運慶の確実な遺品は25歳当時の円成寺大日如来のあと、50歳過ぎの東大寺南大門仁王像まで空白期間だったと考えられていたが、その空白を埋める、30代後半脂ののりきった盛りの作品が願成就院の諸像であるとしている。
 さらに、いわゆる運慶様式とか鎌倉新様式などといわれる精悍で豪放な作風が生まれた背景には、興福寺を炎上させた平氏への反感が一契機となった関東武士への接近がある。すなわち、そうした武将の意向への「迎合」が、従来の藤原貴族や貴族的僧侶の注文による造仏と全く違った方向性を生んだと考察している。
(前章では浄楽寺阿弥陀三尊像、同毘沙門天像、同不動明王像、願成就院阿弥陀如来像、同毘沙門天像、同不動明王像、円成寺大日如来像、興福寺世親像、東大寺南大門仁王像。本章では、東大寺金剛力士像、興福寺金剛力士像、興福寺無着像、円成寺大日如来像、長岳寺阿弥陀如来像、同勢至菩薩像、横蔵寺大日如来像、願成就院阿弥陀如来像、来迎寺阿弥陀如来像、峯定寺毘沙門天像、橋本家毘沙門天像、東大寺多聞天像、願成就院毘沙門天像、浄楽寺毘沙門天像、雪蹊寺毘沙門天像、芸術大学蔵毘沙門天像、大覚寺不動明王像、峯定寺不動明王・二童子像、願成就院不動明王像、同両脇侍、浄楽寺不動明王像)

★★★★


 


  なかなか読んだ本に書評が追いつかない状況が続いてます。

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