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仏画(34)平成17年度美術史ゼミナール ギャラリートーク配布資料その2
1 はじめに 平成18年3月18日(土)、平成17年度の美術史ゼミナール「日本の仏教絵画」のしめくくりとして、来場者の方に対して展示作品を解説する「ギャラリートーク」を行った。
当日配布した展示解説資料のご紹介の続き。
第2章 密教絵画(後半)
金剛薩埵像(こんごうさったぞう) 鎌倉時代 田万コレクション
(作品解説)
密教思想において、金剛薩埵は菩薩の代表者とされています。大日如来の悟りを私たちに伝えるための、後継者として人格化された智慧の象徴が金剛薩埵です。
難しいお名前ですが、「金剛」は「ダイヤモンドの如く清浄堅固な存在」、「薩埵」とは「衆生(しゅじょう)」のことを示します。なお、「菩薩」とは「菩提(ぼだい。悟りを意味する言葉)薩埵」の略です。
清浄性を表す白い肌で、五仏の宝冠を頂き、右手には弘法大師と同じように金剛杵を胸の前に返して持ち、左手は金剛鈴(こんごうれい。金剛杵の柄が付いた鈴)を左膝の上で持ち、蓮華座に端座しています。
重要な尊像であるにもかかわらず、金剛薩埵を描いた仏画の遺例は非常に少なく、しかもこのように姿形の美しいのはたいへん貴重といえます。
鎌倉後期の作例。
頭のまわりにある輪は頭光(ずこう)、からだのまわりの輪は身光(しんこう)、さらに全体を円くおおっているのは円相光背(えんそうこうはい。大円相)といいます。
いずれもお像を荘厳するもので、密教尊像を描いた仏画の特色のひとつです。
愛染明王像(あいぜんみょうおうぞう) 室町時代 田万コレクション
(作品解説)
明王とは、如来の命をうけて、世の中で衆生の利益(りやく)のために働く使命をもち、多くは恐ろしげな姿をしています。
愛染明王は、愛欲の煩悩がそのまま菩提心であることを悟らせる明王で、赤い円相光背、真っ赤な身体で獅子冠をかぶり、一面三眼六臂(いちめんさんがんろっぴ)で、赤色の蓮華座に結跏趺坐(けっかふざ)しています。
額中に縦方向に開く第三眼は三界を見通すことを示し、六臂のうちの第一手には右に金剛杵、左には金剛鈴を持つことで、金剛薩埵と同体であることを表しています。第二手は弓と矢を、最上段の第三手は右に未敷蓮華(みふれんげ。蓮華の蕾)を持ち、左は金剛拳(握り拳)にしています。
蓮華座の下には宝瓶(ほうびょう)をおき、美しい石畳の上には宝瓶からあふれ出た七宝(しっぽう)が散りばめられていますが、これはどんな願いをも叶える、諸願成就(しょがんじょうじゅ)を表しています。
古代インドはもちろん、中国、西域にもみられないわが国独自の密教尊ですが、日本ではこの明王の信仰がたいへん盛んです。
室町前期の作例。
愛染明王のように、多くの明王は多数の顔や手や足を持つ、多面多臂の非人間的な姿をしています。なぜでしょうか? |
人間離れした異様な姿によって、超人的な力や性格がうまく表現されているのです。
また、ありったけの怒りを表した忿怒(ふんぬ)の表情は、精神の安らぎを与えるものではありませんが、悪を打ち破るという点では、まさに効果的でしょう。
会場で探そう!密教絵画クイズ(5)
この展示室のどこかもう1ケ所に、愛染明王のお像が出ています。それはどこでしょうか?
(解答は次のページ) |
不動明王二童子像(ふどうみょうおうにどうじぞう) 室町時代 田万コレクション(高野山伝来)
(作品解説)
明王の代表者、不動明王は、人間と同じく一面二臂の姿ですが、大日如来の化身(けしん)として、悪を懲らしめ、善に導くために、恐ろしい姿を仮にあらわした存在です。
悪を焼き尽くす火焔を背に、青黒い身体で、右手に智剣、左手に羂索(けんじゃく)を持ち、髪を左に一本弁髪(べんぱつ。おさげ)にし、盤石の上に立っています。
羂索は一種の投げ縄で、先端におもりをつけており、右手の剣でさまざまな邪念、煩悩を断ち、羂索でそれらを捕らえ、縛り上げ、善心を起こさせて仏の世界に引き揚げることを示しています。
向かって右に白い体の矜羯羅童子(こんがらどうじ)、左には赤い体の制吒 迦童子(せいたかどうじ)の二少年を従えています。
高野山伝来で室町前期の作例。
矜羯羅童子、制吒 迦童子とは、どのような存在なのでしょうか? |
「コンガラ」は、インドの古語で「キンカラ」(何をいたしましょうか、という意味)から、「セイタカ」は、同じく「チュータカ」(そばに仕えて世話をする人の意味)に由来しています。
不動の変化身(へんげしん)であって、矜羯羅童子は恭敬小心者、制迦童子は悪性者といわれますが、二人とも不動明王のそばに控えて、正邪両面からいろいろの仕事を手伝う少年です。
お不動さまのお体の色としては青黒いもの(青不動)が最も多いのですが、この肌の色は何を意味するものでしょうか? |
このほか黄不動、赤不動とよばれる不動明王も有名です。とくに人間離れした青黒い肌は、悪を威嚇し調伏(ちょうぶく)する忿怒形を強調するものです。
その故郷インドでは、忿怒神はおおむね青黒色で表されるので、その名残りをとどめているともいえるでしょう。
地蔵菩薩二童子像(じぞうぼさつにどうじぞう) 室町時代 田万コレクション(東楽寺伝来)
(作品解説)
平安時代末期以降、末法(まっぽう)思想の影響を強く受け、地獄・極楽の思想が浸透するにつれて、死後の冥土(めいど)にも救いの手をさしのべるお地蔵さまが、人々の篤い信仰を集めました。
念仏さえ唱えずに地獄に堕ちてしまった永劫(えいごう)の罪人をも救う、ただひとりのほとけがお地蔵さまであり、菩薩でありながら身を飾ることなく、頭を丸め、墨染めの衣を着て、親しみやすいお坊さんの姿をしています。
右手に持つ錫杖(しゃくじょう)は、諸国を遍歴する杖であり、地獄の責め苦に苦しむ衆生を救うことを示しています。
左手には願いを叶える宝珠を捧げ、蓮華座に穏やかに坐るのは通常の姿ですが、この絵では、本来は「延命地蔵(えんめいじぞう)」の眷属(けんぞく。家来)である白い体の掌善童子(しょうぜんどうじ)、赤い体の掌悪(しょうあく)童子の二人を従えています。これはお不動さまの二童子と同体で、地蔵信仰(浄土教)と不動信仰(真言密教)との融合がうかがわれ、興味を引きます。
東楽寺(兵庫県)伝来で室町後期の作例。
幼児の延命を守護するほとけとして日本で信仰されたお地蔵さまで、掌善、掌悪二童子を従え、正式には「右膝を立て、そのひざがしら膝頭にみぎひじ右肘をついて指を軽くほお頬に添え、左手に錫杖をとり、左足を台座から踏みおろした姿」につくられています。(しかしこの絵では、二童子を従えながらも、端座する通常の坐像で表されています。)
密教クイズ解答(5)
「覗きケース」の中に展示された「覚禅鈔(かくぜんしょう)」に、愛染明王の図像が出ています。 |
第3章 垂迹絵画
荼吉尼天曼荼羅(だきにてんまんだら) 室町時代 本館蔵(田万コレクション)
(作品解説)
中尊を弁財天(べんざいてん)、荼吉尼天(吒 枳尼天)、象の姿をした歓喜天の三面とする神仏習合の絵で、室町時代に描かれました。
中央面の弁財天は日本では水の神とされることから、頭上には人頭蛇身の宇賀神(うがじん)が置かれ、さらに周囲には、眷属の十五童子が描かれます。
右面の荼吉尼天は、本来人を食う恐ろしい仏なのですが、ここでは穏やかに描かれていることが特徴です。また荼吉尼天は、日本の霊狐信仰との関わりを持つことからも、画中に狐がたくさん描かれています。
その他、下辺中央にいる男女神(陰陽道:おんみょうどうの式神:しきがみ)や、両脇の天狗(てんぐ)など、仏教と神道、道教などに加え、日本土着の信仰が複雑にからみあった、非常に珍しい曼荼羅です。
荼吉尼天とは、あまり聞き慣れない名前ですが、どのような仏神なのですか? |
荼吉尼天とは元々インドでは人を食らう神でした。
こうしたインド発祥の神々は仏教に取り入れられ、その後日本に伝来すると、日本土着の信仰の影響を受け、更に様々に変容していきました。
室町時代のこの曼荼羅は、そういった神仏習合や民間信仰が複雑に絡み合って描かれています。
たくさんの仏や動物が描かれていますが、どんなつながりがあるのですか? |
狐にまたがる中尊は、弁財天、荼吉尼天、歓喜天の三面からなります。弁財天は蛇神とされていることから、その頭上には身体が蛇で、頭が老人の姿をした宇賀神(日本の蛇神)を戴いています。
そして画中には多くの蛇が描かれています。また周囲には、弁財天の眷属である十五童子が配置されています。
荼吉尼天はまた、大黒天の眷属夜叉(けんぞくやしゃ)でもあることから側には大黒天がおり、また稲荷信仰(いなりしんこう)とかかわりを持つことから狐が多く描かれています。
下辺の男女は陰陽道における式神であり、両脇には修験道(しゅげんどう)の天狗が配置されています。また弁財天の上に北斗七星が描かれています。
このように画中からは、様々な信仰の習合を見出すことができるのです。
春日社寺曼荼羅(かすがしゃじまんだら) 鎌倉時代 本館蔵
(作品解説)
鎌倉時代に描かれた神仏習合の曼荼羅で、興福寺(こうふくじ)と春日社の景観を併せて描いています。
この絵で特徴的なのは、興福寺から春日大社へ、絵全体が一定方向に連続した向き(西から東)で描かれており、当時の絵師は想像によって描いていたにも関わらず、まるで空から全景を眺めたかの様に忠実な配置で描いている点です。
また、背景の景観描写には「やまと絵」の技法が使われているのも特徴の一つです。
そして最近の発掘調査では、興福寺の東西回廊に楽門(がくもん)が存在していたことが明らかになりましたが、それがはっきりと描かれた(下辺中央)絵としても注目されています。
6世紀に伝来した仏教は、奈良時代から次第に日本古来の神々と習合していきました。それに伴って、本地である仏と共に、その化身としての神(垂迹)も、その姿が描かれるようになりました。また、この絵のように、社殿とそれを取り巻く神域の景観を俯瞰的(ふかんてき)に描く作例もあり、宮曼荼羅(社寺曼荼羅)と呼ばれています。
本図は鎌倉時代に制作された神仏習合の曼荼羅で、三笠山の麓に春日大社、手前に興福寺が併せて描かれています。
「日本古来の神々は仏(本地=ほんじ)の化身(けしん。垂迹=すいじゃく)であり、仏と神が一体となって衆生を救済する」という本地垂迹思想が、この絵の背景にあります。
春日大社も興福寺も奈良時代から長く威光を放ってきましたが、当時は社寺に参詣するのは容易ではなく、そこで居ながらにして遠方の神仏を礼拝するために、このような曼荼羅が多く描かれました。
実際の参詣に代わるものですから、架空の姿ではなく、境内の建物が忠実・細密に描かれました。
仏の姿そのものを描く仏画や本地仏曼荼羅に比べ、風景画の性質も有する宮曼荼羅は、自然そのものに神が宿るという日本人の宗教観が色濃く反映され、またその景観は、日本の伝統的な「やまと絵」の技法で描かれています。
第4章 その他の絵画
法華経 巻第二 平安後期 本館蔵(田万コレクション)
(作品解説)
紺色の料紙に1行17字の経文が金字で書写されています。見返し絵(経典の表紙裏の経絵)は金銀泥にて中央に釈迦説法図が描かれ、上部に霊鷲山(りょうじゅせん)が配されている典型的装飾経の一つです。
8巻からなる本法華経の見返し絵は高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)蔵・紺紙金字法華経の見返し絵に類似し、釈迦三尊を中心として菩薩や僧形が集会し、経典に説かれる意味や内容も描かれています。
霊鷲山とはインドのマガダ国にある山で頂峰が鷲の形をしていることから名付けられ、釈迦が法華経や般若経などを説いた所といわれています。
法華経は二十八品(ほん。28章)からなり、通常8巻に分けられています。
この法華経8巻を供養(くよう)する代表的な仏事に法華八講があります。これは経典内容の解説を聴きながら法会(ほうえ)の参加者が写経の功徳(くどく)を分かち合うという会で、貴族間では積善(せきぜん)のため装飾の工夫を凝らした法華経を奉納することが大いに流行しました。
鳥羽上皇らによる「久能寺経」や平清盛一門による「平家納経(へいけのうきょう)」は著名で、国宝です。
また、奥州藤原氏による「中尊寺経(ちゅうそんじきょう)」(法華経を含む一切経)も国宝や重要文化財に指定されています。
このほか、四天王寺蔵の「扇面法華経冊子」(国宝)は巻物ではなく、扇面形の下絵がある料紙に法華経が書写されています。
覚禅鈔(かくぜんしょう) 紙本白描 15巻の1 鎌倉時代 本館蔵
(作品解説)
金胎房覚禅(こんたいぼうかくぜん)が1176年から約40年間かけて、収集・抄録した真言密教の諸尊図像集で、百巻抄ともいいます。およそ126巻からなり、法流にとらわれず、諸派のあらゆる史料を広く蒐集したもので、300余種の図像を収載しているので、密教図像研究の基本的資料として必見のものとされています。
その特色は、異色の図像を多数収集していることと、図像そのものの本質のみを抽出して、より簡潔に、より自由に転写しようとする態度にあると評価されています。
多数の伝本が存在していますが、愛染明王の図像をおさめた本巻には永仁7年(1299)の奥書があり、鎌倉後期の基準作例としても貴重です。
このような密教の諸尊図像集はなぜ編集されたのでしょうか? |
密教では尊像の姿や持ち物に関する細かい規定があり、それを示す図像が重要視されました。例えば阿闍梨(あじゃり。師範たるべき高僧)の資格として図像に習熟していることが求められたりしました。
一方、平安後期になると密教も諸家諸流に分岐し、それに伴って諸尊の図像も複雑多様化してきました。
そこで、図像をいかに忠実に後世に伝承するかという目的と、種々の図像を蒐集・分類することで自己の流派への認識を高める目的で図像編集への機運が高まったため編集されました。
まず空海、最澄(さいちょう)、円仁(えんにん)、円珍(えんちん)らの請来図像が伝承・転写されました(弘法大師「仁王経五方諸尊図像(にんのうきょうごほうしょそんずぞう)」、円珍「五部心観(ごぶしんかん)」など)。平安末期には恵什(えじゅう)が「十巻抄」、心覚(しんかく)が「別尊雑記(べっそんざっき)」において多様な尊像を編纂しています。
こうした風潮の掉尾(とうび)を飾るのが「覚禅鈔」です。百科事典的に広範な分野にわたる内容は真言密教随一と称えられています。
ということで、無事ギャラリートークも盛況のうちに終えた。
実は、先生からは、座ってられる講演会なら1時間半とか2時間でもいけるけど、立ちっぱなしを強いるギャラリートークは30分程度が最適、私らプロでも50分が限度、と聞いていた。
ところが、勉強したことはすべて伝えたいという思いもあり、トータルでは1時間半を超えてしまったのだ。しかし、熱心な方数名は、最初から最後までつきあって下さった。そして、最終展示の解説をしたEさんのところでは聴衆どうしの会話もはずむという実にいい雰囲気になった。
先生を囲んで、その日の夜は反省会という名目の宴会(打ち上げ)をやったのだが、解放感と達成感があって、実に盛り上がった。
その時の話題で盛んに出たのが、展示の大変さであった。
これまで何の意識もしなかったが、この仏画ってやつ(多分、洋画、日本画、中国絵画、書などでも一緒だろうが)、単に並べたら終わり、ではないのだ。
とりあえず仮設置して、後で、右に傾いてないか、左はどうか、上下関係はどうか(観衆の視線の位置に対して絵の中心がすわっているか)、そして、絵と絵の間隔はどうか、展示ケースではガラスが何枚か区切られているのだが、その仕切り部分をどこに持ってくるか微調整する事項がやたらあるのだ。 |
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キャプションや作品名の立て看板をどこに置くかとか、照明の具合(絵の保護には暗い方がいいが、観やすさとの兼ね合いをどうするか)など、そのほかにも調整すべきことはいっぱいある。
(右上写真は、そんな展示にがんばっているとこ)
何にせよ、人さまに観てもらおうと思ったら、なみやたいていのこっちゃないわけです。
それでは、皆さんごきげんよう♪
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