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(No53) 国際シンポジウム 「北宋汝窯青磁の謎にせまる」聴講記 その5 平成22年3月13日(土)、上記シンポジウムを聴きに行った時のメモの続き。
今回は、「話し言葉」でなく、要約タイプとしたい。
汝窯の審美的特質 出川哲朗 大阪市立東洋陶磁美術館長
文献では、汝窯は常に高く評価されてきた。 明初の『格古要論』の汝窯の概念は的確と言える。 清時代の雍正年間には御器廠で汝窯の倣製品が焼造されていた。つまり、汝窯について、かなりはっきりとした概念規定がされていた。 清時代の乾隆年間には、汝窯について乾隆帝の題詩のついた作品がみられる。 一方、汝窯製品でも、鈞窯と認識されていた作例もある。 20世紀に入っても、青白磁を汝窯と認識したり、北方青磁とも呼ばれた耀州窯系の青磁が、臨汝窯で発見されたことから汝窯と認識されたこともある。 1936年に、イギリスのパーシバル・デイヴィッド卿は、故宮旧蔵の伝世品汝窯と『格古要論』、『陶説』などの記述をもとに論文を発表している。 汝窯製品がどのようなものであるかは、河南省宝豊県清涼寺汝窯址の発掘品と、これまで伝世品で汝窯と認識されていたものとの総体で、明らかにされるだろう。 本稿では、汝窯址の発掘品を踏まえて、伝世品に見られる汝窯の審美的特質を考察する。
一 概論
宮廷で用いられた什器には、金属器、漆器、玉器のほか、陶磁器も使用されている。 北宋時代の主要な陶磁器としては、定窯の白磁や景徳鎮窯の青白磁、越窯や耀州窯の青磁がある。 これらは、「貢磁」として宮廷の需要に応えていた時期のものである。 葉眞の『坦斎筆衡』には「定州の白磁には口縁に芒(きず)があるので使用に堪えず、ついに汝州に命じて青窯器を造らせた」とある。 また、陸游の『老学庵筆記』には「定器は禁中に入らず、惟汝器を用いる。定器は芒があるからである」という記述があるのは、逆に、汝窯の青磁が登場するまでは定窯の白磁が使用されていたことを示す。 また、宋時代の景徳鎮窯の青白磁は、「仮玉器」と呼ばれるほど評価が高く、宮廷でも使用されていたと思われる。
2 汝窯の時期 汝州の青磁は、五代末の越窯や耀州窯の系譜を受け継ぐ釉色である。 宋代では、これ以後、青磁が官窯製品となる。 『坦斎筆衡』には「宣政の間、京師に自ら窯をおきて焼造する。名づけて官窯という」という記述がある。 これを根拠に、これまで政和〜宣和年間(1111〜1125)に都に官窯と設置したと考えられている。 汝窯窯址である河南省宝豊県清涼寺窯址からは「元豊通宝」(1078〜1085)及び「元符通宝」(1098〜1100)が出土した。 汝窯とは、ここでは狭義の汝窯、すなわち「伝世品の汝窯を焼成した窯」を指している。 本稿では、宝豊県清涼寺窯のなかでも特に官窯区とされている出土品のうち、北宋晩期のものを考察対象とする。これは、これまで汝官窯、あるいは汝窯の官窯タイプなどとされるもので官窯としての性格をもつものである。
3 清涼寺窯汝窯の晩期の特徴 (1) 窯構造の変化 → 楕円形窯、小型化 最盛期の頃の汝窯青磁について、単に宮廷の規格を満たすという以上の、特別の要求(碧玉に似た天青色)があったと思われる。 もともと生産期間も短く、生産量も少なかったものと思われる。
5 清涼寺窯址出土品に見られる器型の多様性について
6 伝世品の器種 「紙槌瓶」、「胆式瓶」、「水仙盆」、「三足奩」、「三足洗」、「蓮花式碗」のほか洗や盤、盞托などで、そのうち「圏足洗」が30点を占める。 南宋の周密による『武林旧事』には紹興21年(1151)に、「酒瓶一対」、「洗一対」、「香炉一」、「香合一」、「香球一」、「盞四隻」、「盂子二」、「出香一対」、「大奩一」、「小奩一」を南宋の初代皇帝高宗に献上した記載がある。 河南省宝豊県清涼寺窯址出土品には文献記載に合致する器種もある。 また、清涼寺窯址出土品に似た造形、「奩盒」、「平底洗」、「紙槌瓶」、「玉壺春瓶」、「梅瓶」、「盞托」、「蓮花形香炉」、「合子」などが高麗青磁に認められる。
二 汝窯の釉色 汝窯の窯址からは石英と瑪瑙の原材料が出土し、周W『清波雑志』の「内に瑪瑙末ありて釉となす」という記述を裏付けた。 瑪瑙は石英と同じ二酸化ケイ素を主成分とするため、実際上は石英も瑪瑙も大差は無いが、釉に関する格別の努力がうかがえる。 清涼寺窯址で出土した天青釉とされる陶片の60%は月白色で、25%が淡青色であり、天青色と呼べるのは15%だった。(『宝豊清涼寺汝窯』) 汝窯はこれまで単層釉と考えられていたので二層釉が発見されたのは、南宋官窯の多層釉のルーツという点においても意義深い。
三 汝窯の開片(貫入) 汝窯の初期では開片は少ないが、成熟期の天青釉は溶融点が低く、開片が生じやすい。 ほとんどの汝窯製品には開片があり、大半は氷裂文であり、その他、網格文、魚鱗文などがある。 開片に注目されるようになったのは明代からと言われているが、開片を目指す萌芽は汝窯にあり、南宋官窯で方向性が決定的なものとなった。 汝窯以前の越窯や耀州窯は開片の少ない政治を目指していたが、汝窯は天青釉を求めたことから開片が生じやすくなり、成熟期では天青色の厚い釉と開片の出現があり、南宋官窯がこれをはっきりと継承した。 開片が積極的に評価されるようになったのは謝明良氏(「晩明時期的宋官窯鑑賞と「砕器」的流行」)によれば明時代晩期からで、これを極端に推し進めたのが哥窯といえる。 開片のない青磁製作の試みは、晩唐の法門寺出土品である越窯秘色青磁や五代の天青釉耀州窯青磁でなされているが、五代の王仁裕による『開元天宝遺事』では、既に、当時の宮廷に「乱糸紋」(開片)のある薄胎青磁の酒盃があったと記述されている。 清涼寺窯址出土品でも初期の、耀州窯的な作風の青磁には開片はほとんどない。 曹昭撰の『格古要論』(洪武20年:1387)では汝窯は淡青色で「蟹爪紋」(開片)のあるものが「真」で、「無紋」のものはさらに良いとしているが、出土品も伝世品も無紋のものはまれである。 開片はフラクタル構造(海岸線の形、木々の枝など自然界に存在する不規則な図形)をもっている。
まとめ この釉色の系譜は法門寺出土の秘色青磁にはじまり、五代の耀州窯(黄堡鎮窯)、後周の伝説的な窯である柴窯の「雨過天青」へ発展した。 汝窯の造形とフラクタル構造を持つ開片は、宋時代の精神性の高い理知的な美の結晶である。
前回の講演会でも出川館長は最後に登場し、時間がめちゃめちゃ「押して」いたのに律義に終了時間を守ろうとされたので、飛ばしまくった講演だった。 今回も、途中で通訳上のトラブルなどがあって、だいぶ予定時間よりずれていた。 ・・・・・・・・・いやぁ、何とかならないもんなんでしょうか。
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