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(No48) 大阪市立東洋陶磁美術館 「北宋汝窯青磁 考古発掘成果展」記念講演会 聴講記 その4 平成21年12月5日(土)に、上記講演会を聴きに行った時のメモの続き(完結編)。
周Wの『清波雑志』巻五には「汝窯宮中禁焼、内有瑪瑙末為釉、唯供御揀退方許出売、近尤難得」とあります。 釉に瑪瑙末が含まれているというのは、伝説か?と考えられたこともありましたが、発掘品の釉の分析で正しいことが分かりました。 皆さんは、今回の展示で、出土品と伝世品の釉色の差に驚かれたのではないでしょうか。 宮中で使われ、その選にもれたものは売りに出されるが、最近ではほとんど手に入らない・・・・といったことが書かれています。 また、陸游の『老学庵筆記』には、「古都時、定器不入禁中、惟用汝器、以定器芒也」とあります。 葉ゥの『坦斎筆衡』には、「本朝以定州白磁器有芒不堪用、遂命汝州造青窯器。故河北唐、ケ、耀州悉有之、汝窯為魁」とあります。 定窯は伏せ焼なので口縁部がざらざらしている。それで宮中では用いられなくなって、青磁の製造が河北などいろいろところで取り組まれたが汝窯がその魁となった・・・・と解されていますが、定窯で伏せ焼でないやきものが作れない筈はありません。 定窯のやきものは、その後も宮廷で使われ続けたと思います。 周密(1232〜1298)の『武林旧事』には、紹興21年(1151)に、16点の汝窯を張俊が高宗に進奉したとあります。 今に伝わる梅瓶は蓋があったのでしょうか?花瓶でしょうか、酒瓶でしょうか?『武林旧事』の「酒瓶一対」が梅瓶なのでしょうか? 徐兢の『宣和奉使高麗図経』(1124年)には「狻貎出香、亦翠色也。上有蹲獣、下有仰蓮以承之。諸器惟此物最精絶、其余則越州古秘色、汝州新窯器大概相類」とあります。 曹昭の『格古要論』(洪武20年:1387年)には「汝窯、出北地。宋時焼者淡青色、有蟹爪紋者真、無紋者尤好。土脈滋潤、薄甚難得」とあります。 清朝宮廷には少なくとも31点の汝窯器皿がありました。内務府清雍正、乾隆『活計清档』の雍正七年の条に「〜汝窯器皿二十九件(実三十一件)」という記事があります。 また、同書の乾隆十年の条に「〜汝釉猫食盆一件〜」という記事があります。この猫食盆とは、いわゆる水仙盆のことではないか、と考えられています。 台北故宮所蔵の、徽宗が描いたといわれる「文会図」には、盞と托や青磁のような器が描かれています。また、染付のような器も見えますが、そうなると北宋の時代のものではないのでは?という疑問もわきます。(「文会図」は、たとえばここで) 宋代の五大名窯といえば、汝窯、官窯、哥窯、定窯、鈞窯という認識が明末には出てきているようです。 ただ、鈞窯や、時には哥窯も宋代の窯ではないだろうと考えられています。 鈞窯は、『格古要論』では明初という認識です。 パーシバル・デイヴィット卿は、1936年に「汝窯論」を発表しています。朱琰の『陶説』や曹昭の『格古要論』などの文献研究を経たものです。 卿は色見の陶片に至るまで収集しています。 卿所蔵の中で釉色最良のものは、現在、大英博物館の自然光コーナーで展示されています。 現在、全世界をみても汝窯の伝世品と確認されたものは74点に過ぎません。そのうち、卿のコレクションは12点にのぼります。 当館所蔵の水仙盆は、覆輪がなされています。 誰かが『紅楼夢』に載っていると言ったので少し調べましたが確認できませんでした。しかし、卿の1936年発表の「汝窯論」では「水仙盆」という用語が使われています。
清涼寺では、民家を立ち退きさせて発掘調査をしました。 釉の分析結果によると60%が月白釉、15%が澱青釉となっていますが、同じ釉でも発色はそれぞれ全く異なっています。 元豊年間の馬蹄形窯炉が発見されています。4.6m×2.66mほどの小型の窯です。5行7列ほどしか匣址は残っていません。これでは、数段重ねたところで、一度に焼ける量は知れています。 哲宗から徽宗の代の楕円形窯は、1.7m×1.36mとさらに小型になっています。 満釉支焼が汝窯の特徴です。豆青釉や豆緑釉など耀州窯に近いものも見つかっています。 汝窯は色見を挿し座に挿して、こまめに色を見ながら焼かれました。 匣鉢に耐火土を一層塗り、密封性を高めているものもあります。また、石炭でなく薪で焼いています。 五代の頃のオリーブグリーンに近いものは、石炭で焼かれたものです。 汝窯でも、全体の中で天青色を示しているのは非常に少ないです。 また、汝窯は文様がないと伝世品の印象から一般にそう考えられていましたが、出土品をみると、文様のあるものも多く存在しました。 特に禁中で使うものは、陶範を使い、型やサイズを厳格に統一しました。
前回、「質問を・・・・・」と言われているのに、自慢話を延々と続けたおっさんA、一度質問をした後、司会者が、あと1名だけ・・・と言い、その最後の一人が質問を終えたのに、「関連だから・・・・・・・」と勝手にしゃべり始めたおっさんB(何と、このおっさんは、マイクを手元に持っていた。しゃべり終わったら、係員は、ちゃんとマイクを回収しておかないといけない)らのことを書いた。 要は、そのおっさんらのせいでやたら時間が押したのである。 ところが出川館長は、律義にも「終了時間」を厳守しようとした。 となると必然的に、内容は飛ばし飛ばしで、早口でまくし立てることになる。 あれから時間が経ち、私の記憶が飛んでしまったこと、メモが不備なこともあって、今回の内容もうまく意味が通らないところが多い点をお詫びしたい。
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