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(No69) 四天王の研究 パーツ研究 その2(下半身編)

  四天王が好きなんで、いろいろ研究してみた。

 



10.腹甲(獅噛)


獅噛  腹甲の部分には、「獅噛」といって、獅子が綱を噛んでいるデザインが多い。

鎌倉時代 12C末〜13C初
和歌山・金剛峯寺 広目天
   綱ではなく、獅子が幅広のベルトを噛んでいるようなデザインのもの。

鎌倉時代 13C
京都・青蓮院 兜跋毘沙門天
   獅子(獣面)が綱でもベルトでもなく、ワッペンのような薄いものを噛んでいる感じのデザイン。

奈良時代
奈良・東大寺法華堂 持国天
前垂  獅噛よりシンプルな、ただの「前垂れ」的なものも多い。

鎌倉時代 13C
京都・浄蓮華院 毘沙門天
 もっとシンプルなものとしては、ただの綱だけのタイプがある。
 腹「甲」というより、ただの着物のようである。

飛鳥時代
奈良・法隆寺金堂 広目天

 単純に「獅」噛というが、獅子ばかりではない。人面のようなものもあるが、例えば奈良・興福寺南円堂の広目天はワニのようなものが平伏している形だった。

 



11.天衣


なし  天衣(てんね)と呼ばれる薄手の衣が紐状に垂れるケースが多いが、軍装のみで全く天衣が絡まない例も多い。

天平時代 8C中頃
奈良・東大寺戒壇院 増長天
垂れる  無風状態というか、天衣がそのまま下に垂れ下がっているタイプ。

平安時代 12C
京都・宝生院 多聞天
翻(ひるがえ)る  天衣の端が派手にたなびいているものも多い。

鎌倉時代 12C末〜13C初
和歌山・金剛峯寺 多聞天
8の字  珍しいケースとしては、天衣の先が「8の字」形になっているものもある。

平安時代 10C
岩手・成島毘沙門堂 兜跋毘沙門天
前へ反る  法隆寺金堂の四天王はいろいろ特徴が多いが、天衣の端が前に反っているのもそうした特徴の一つ。

飛鳥時代
奈良・法隆寺金堂 広目天

 

 

 



12.裳(裙)


垂れ なし  裳(裙)の裾が全くといってよいほど垂れていない、実に軽快な服装のタイプ。

天平時代 8C中頃
奈良・東大寺戒壇院 増長天
垂れなし(スカート)   やはり特に垂れたところがないタイプなのだが、兜跋毘沙門天の特徴として金鎖甲でスカート状になっているものが多い。

鎌倉時代 13C
京都・青蓮院 兜跋毘沙門天 
裾 前垂れ(逆三角形)  裾の前の部分が(逆三角形の形で)垂れているのが大きな特徴となっている。
 法隆寺金堂の四天王などもこのタイプ。

平安時代 10C
岩手・成島毘沙門堂 兜跋毘沙門天
裾 短め   裳(裙)の後ろ裾が垂れてはいるが、それほど長くはないタイプ。

鎌倉時代 13C
京都・鞍馬寺 毘沙門天
裾 長め  裳(裙)の後ろ裾が地面に引きずりそうなくらい垂れているタイプ。
 本仏像のように左右いずれかに大きくたなびいているものと、ほぼ真下に垂れているものとがある。

鎌倉時代
奈良・興福寺仮金堂 持国天

 

 

 



13.袴

  いってみればズボン。
1箇所  袴の裾がふくろはぎの真ん中あたり。
 1箇所を紐くくり。

8C後半
奈良・唐招提寺金堂 増長天
2箇所  袴の裾がふくろはぎの真ん中あたり。
 2箇所を紐くくり。
 裾から足甲がのぞく。

鎌倉時代 12C末〜13C初
和歌山・金剛峯寺 広目天
脛甲入れ込み  ブーツのように足甲に袴を入れ込み、膝上で膨らんでいるように見える。

鎌倉時代 13C
京都・海住山寺 持国天
足首  袴の裾が足首あたりまであるように見える。

鎌倉時代
奈良・興福寺南円堂 多聞天
脛甲のみ  足甲のみが見える。

鎌倉時代 13C
京都・青蓮院 兜跋毘沙門天

 

 

 



14.脛甲


脛部分  これは脛甲の本来目的と思うが、足の前の部分、いわゆる「向こう脛」、「弁慶の泣き所」をカバーするためか、前にリベットのようなものとかで補強されている例が多い。これは特にその補強部分がダイナミックな事例。

平安時代 10C〜11C
岩手・藤里毘沙門堂 兜跋毘沙門天
横の小判型切れ込み  これは脛甲とは上記の脛部分補強と切れ込みのどちらかである、という意味ではない。前面が補強され、かつ横部分は小判型に空いている脛甲も非常に多い。
 この切れ込みは何のためにあるのだろう?全部覆っちゃうと重いし、蒸れるから空けているのだろうか?

鎌倉時代 文治5年(1189)
神奈川・浄楽寺 毘沙門天
切れ込みからのぞく文様  この切れ込み部分にきれいな文様がついている例も多い。これは、この切れ込みから下の袴が見えているのだと思う。わざわざ、この小判型部分にメダリオンみたいな飾りをつけているとは思わないのだが、どうなんだろう。

鎌倉時代 13C
京都・海住山寺 持国天

 横の小判型切れ込みについては、上例の浄楽寺のそれのように小判型でまるまる空いている事例も多いが、斜めに「帯」が走っている事例もある。
 空白部分の補強なのか、飾りなのか?
 同様に、編み上げ靴みたいに小判型切れ込みのところに細いラインが稲妻状に交錯している事例もある。

 

 



15.沓


甲に飾り   沓(くつ)であるが、現在の靴のように甲の部分に飾りがあるものが多い。

鎌倉時代 13C
京都・青蓮院 兜跋毘沙門天

甲に飾り  これは袴の裾が足首の辺まで伸びているが、その下から甲の部分の飾りというかバックルみたいなものがのぞいている。

鎌倉時代 12C末〜13C初
和歌山・金剛峯寺 広目天
特に特徴なし  特に甲の辺に飾り等のない、何かつるんとした感じの沓もけっこうある。しかし、これは元々飾りがあったのに磨耗しているケースもあると思う。

鎌倉時代 12C末〜13C初
和歌山・金剛峯寺 多聞天
裸足にサンダル  沓じゃなく、裸足にサンダルのようなものを履いているものもある。足の指が見えているのだ。

鎌倉時代 14C
奈良・興福寺 護法善神扉絵 持国天
藁の編み上げ靴? (参考)  わかりやすい画像がないのだが、興福寺南円堂の多聞天の沓は「筋」がたくさん入っていて、何か藁の編み上げ靴みたいに見えた。

 左はそのイメージに近いもの。この写真は岩手県の雑貨屋盛岡ござ九のHPより。

 上記で「特に特徴なし」とあげた例だが、写真からは飾りなしのように見えたのだが、現物は飾りがあるかもしれない。

 また、「裸足にサンダル」は、仏「像」ではなく仏「画」の例だが、私が知る限りでは北円堂でもサンダル姿の四天王がいた。
 上掲の扉絵でも四天王のうち持国天と増長天が裸足・サンダルで他の多聞天・広目天は「沓」だった。で、北円堂では確か持国天と多聞天が裸足・サンダルで、他の広目天・増長天が沓だったと思う。四体ともサンダルという例はないんだろうか?

 



16.右足


 右足についても掲載しようかな、と思ったが、これまでもいくつか足の画像は出ている。

 要するに右足と左足の組み合わせの関係で、大体、真っ直ぐ下に伸ばすか、膝を曲げるか、「休め」の姿勢みたいにやや足先を開いて斜め前に出すか、その辺のバリエーションである。

 よって画像は省略する。

 



17.左足


 と、いうことで左足も同様に省略。

 



18.邪鬼

 邪鬼はまず単体か、複数か。そして、うつぶせか仰向けか。その上で頭が前を向いているか、向かって右か左か・・・・などで分けてみたい。

(1) 単体
ア うつぶせ
(ア) 頭が前
  飛鳥時代
奈良・法隆寺金堂 広目天
  同じような邪鬼だが頭にとんがった角が生えている。もっとも他の鬼も元々生えていたのかもしれない。

飛鳥時代
奈良・法隆寺金堂 増長天
  平安時代 10C
滋賀・延暦寺 広目天

(1)−ア 
(イ) 頭が向かって左
  鎌倉時代 文治5年(1189)
神奈川・浄楽寺 毘沙門天
  鎌倉時代 13C
京都・浄蓮華院 毘沙門天
  鎌倉時代 13C
京都・霊源院 毘沙門天
  鎌倉時代 13C
京都・鞍馬寺 毘沙門天
  天平時代 
奈良・東大寺戒檀院 多聞天
  鎌倉時代 12C末〜13C初
和歌山・金剛峯寺 多聞天
  同上
  鎌倉時代 12C
京都・海住山寺 多聞天
  平安時代 9C初
奈良・興福寺東金堂 持国天
  平安時代 9C
岩手・黒石寺 持国天
  鎌倉時代 13C
京都・海住山寺 持国天
  白鳳時代 7C後半
奈良・当麻寺金堂 広目天
  平安時代
奈良・興福寺東金堂 広目天
  鎌倉時代 
奈良・興福寺仮金堂 広目天
  天平時代 延暦10年(791)
奈良・興福寺北円堂 増長天
  鎌倉時代 12C末〜13C初
和歌山・金剛峯寺 増長天

(1)−ア 
(ウ) 頭が向かって右
  平安時代 12C
京都・宝生院 毘沙門天
  平安時代 延暦10年(791)
奈良・興福寺北円堂 多聞天
  平安時代 10C
滋賀・延暦寺 多聞天
  鎌倉時代
奈良・興福寺仮金堂 多聞天
  天平時代
奈良・東大寺戒檀院 持国天
  鎌倉時代
奈良・興福寺仮金堂 持国天
  天平時代
奈良・東大寺戒檀院 広目天
  平安時代 延暦10年(791)
奈良・興福寺北円堂 広目天
  鎌倉時代 13C
京都・海住山寺 広目天
  平安時代 9C
岩手・黒石寺 増長天
  鎌倉時代
奈良・興福寺仮金堂 増長天
  鎌倉時代 13C
京都・海住山寺 増長天

(1) 単体
イ 仰向け
(ア) 頭が前
    現在まで確認できず  

(1)−イ 
(イ) 頭が向かって左
  天平時代 8C中頃
奈良・東大寺戒檀院 増長天

(1)−イ 
(ウ) 頭が向かって右
  平安時代
奈良・興福寺東金堂 多聞天
  平安時代
奈良・興福寺東金堂 増長天

 

(2) 複数

ア 
  弘仁・貞観時代 承和6年(839)
京都・東寺講堂 持国天
鎌倉時代
京都・大覚寺 毘沙門天
  鎌倉時代 文治2年(1186)
静岡・願成就院 毘沙門天

イ 兜跋毘沙門天
  9C(唐)
京都・東寺
  平安時代 9C
福岡・観世音寺
  鎌倉時代 13C
京都・青蓮院

 これまで何度か出てきた兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)とは、西域風の毘沙門天のことで、服装にも特徴がある(スカート風の金鎖甲)が、足元にも大きな特徴がある。
 地天女の両掌に支えられ、両脇に毘藍婆(びらんば)、尼藍婆(にらんば)を配することが一般的である。



19.岩座


  鎌倉時代 13C
京都・福林寺 毘沙門天
  鎌倉時代
奈良・興福寺南円堂 持国天
  鎌倉時代
奈良・興福寺南円堂 増長天

 

 



20.全体姿勢


直立  飛鳥時代の仏像の特徴として「正面観照性」がある。これは正面から観ることだけを想定し、真正面を向いて直立不動の姿勢をとることで、四天王も例外ではない。

飛鳥時代 
奈良・法隆寺金堂 広目天 
「く」の字  腰をぐっ!と右に切った、正面から観ると「く」の字型の四天王

鎌倉時代 12C末〜13C初
和歌山・金剛峯寺 多聞天
逆「く」の字  逆「く」の字型の四天王もある。
 本像は上掲の多聞天と同じく快慶作と伝えられる四天王像だが、私が知る限り一番カーブがきつい四天王だと思う。

鎌倉時代 12C末〜13C初
和歌山・金剛峯寺 増長天

 

 


 

 どうもお疲れ様でした。

 
  

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