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陶磁器ゼミ(8) 美術史ゼミナール「中国の陶磁器」その6(番外編 発表 龍泉窯青磁について)

はじめに

 このゼミナールでは、先生の講義の後、受講生が、開講当初に選んだ陶磁器について鑑賞した結果を発表することになっている。

 ついに、いよいよ私の順番がまわってきた。
 発表日は、9月20日である。9月15日に、対象の陶磁器を見せていただけることになった。私は14日まで目のまわるような忙しさであったので、まさにぎりぎりセーフであった。

 当日は、思うように時間が取れなかったため、下記の内容からだいぶ省略して発表した。
 では、さっそく発表「龍泉窯青磁について」のはじまり、はじまり。




 龍泉窯青磁について(鑑賞レポート)


鑑賞作品データ

作品名称 青磁劃花 雲気文碗(せいじ かっか うんきもん わん)
生産地 浙江省 龍泉窯(せっこうしょう りゅうせんよう)
製作年代・世紀 元時代(13世紀)
サイズ 高さ:5.4cm 口径:12.2cm

 





1.選んだきっかけ
 具体的な鑑賞レポートに入る前に、なぜ、多くの館蔵品リストから鑑賞対象としてこの作品を選んだか、についてお話します。

(1) 「NHKスペシャル 故宮」における「北宋官窯の青磁」

 私が中国の陶磁器に興味を持ったのは、以前に「NHKスペシャル 故宮」という北京と台北の両故宮博物院(※注1)に収蔵された美術品を紹介する番組で、「北宋汝官窯の青磁」という青いやきものを観て、ああ、きれいだなと強い印象を受けたのがきっかけでした。

(2) 「緑」の青磁と「青」の青磁 

 「青磁」という言葉自体、意識するようになったのも、その頃からです。
 青磁も「青」い磁器と書きますが、実際には「緑」色のものがほとんどで、なかなか青いものはありません。 ※注2

 矢部良明(※注3)さんなどは、「緑」の青磁と「青」の青磁を峻別し、実用器としては「緑」の青磁が主流であり、「青」の青磁は、宋代の美学が要請したきわめて特殊な青磁だと位置づけておられます。 ※注4

(3) 雨過天青(うかてんせい)

 青磁における理想の「青」を表現するのに「雨過天青」という言葉があります。

 これは、後周の世宗こと柴栄という皇帝が、陶磁器の理想の色を尋ねられて、「雨過天青 雲破れる処」と答えた故事(※注5)に由来します。

 雨があがって、雲の切れ目からのぞく空の色とでも訳せばいいのでしょうか。

(4) 龍泉窯と砧青磁(きぬたせいじ)

 この「雨過天青」の青磁を追求したのが、北宋の徽宗(きそう。※注6)という皇帝です。
 徽宗が開かせた国立の窯が汝官窯です。
 汝官窯の青磁を三つ紹介します。

 まず、上海博物館所蔵の(※注7)です。
 鮮烈といってもよいくらいの「青」です。
 底の写真にご注目ください。高台の中に5つ、小さな目跡と呼ばれる支柱の跡がついています。
 裏面にも全体に釉をかけていますが、そのまま窯に置いて焼くと、高台の畳付(たたみつき)がくっついてしまいます。そこで、おそらく土で小さな三角帽子のようなものをつくって並べ、その先端部分に乗せて焼き、釉の欠損を最小限に抑えたものと思われます。 ※注8

 これは大阪市立東洋陶磁美術館所蔵の水仙盆(※注9)です。これも底面の写真がありますが、やはり六つの目跡が残っています。

 最後は、北京市故宮博物院所蔵の青磁三足洗(※注10)です。これも大変美しい「青」です。
 これは、裏面の写真がありませんが、裏返すときっと目跡があるのだろうと思います。

 北宋は、北に興った契丹族の王朝を打倒しようと、そのさらに北に興った女真族の王朝と結びました。
  ところが、軒を貸して母屋を取られるといいますか、遼は追い払ったものの、金に攻め込まれ、1126年、徽宗とその子欽宗は捕虜として連行されてしまいました。
  この靖康の変で北宋は滅び、欽宗の弟が江南に開いた王朝が南宋です。南宋は、北宋にならって官窯を浙江省に開きました。

 その南宋官窯の作品を二つ紹介します。

 青磁輪花鉢(※注11)、東京国立博物館所蔵の重文です。
 高台をよく見ると、わずかに胎土が見えています。南宋時代には、官窯といえども支柱を立て浮かせて焼くという面倒な方法はとらなくなったようです。  ※注12
 一面の貫入(※注13)が非常に印象的です。

 東洋陶磁美術館所蔵の青磁八角瓶(※注14)です。

 一方、実用器である「緑」の青磁を焼き、隆盛を極めていた龍泉窯は、同じ浙江省に南宋官窯が開かれたことに刺激を受けた(※注15)のか、「青」の青磁を焼き始めます。

 龍泉窯が焼いた粉青色(※注16)の青磁を砧青磁(きぬたせいじ。※注17)と俗に言います。
 龍泉窯の青磁を二つ紹介します。

 龍泉窯の青磁で国宝が2点あるようですが、その一つが大阪府和泉市の久保惣記念美術館所蔵の青磁鳳凰耳瓶(※注18)で、万声という銘がついています。

 また、これは有名な、東京国立博物館所蔵の青磁輪花碗(※注19)で銘を馬蝗絆といいます。

 平重盛が宋の寺院に黄金を寄進した時、返礼としてもらったもので、後に室町時代の足利義政に伝わり、割れたので代わりになるものを求めたそうです。
 ところが、中国は明にかわっており、もはやこのような名品の青磁はつくれないので、カスガイで継いで送り返してきました。
  馬蝗絆(ばこうはん)とはカスガイを(馬のように)大きな蝗(いなご)に見立てたものです。 ※注20

 青銅器は殷の時代が技術的にも美術的にも究極のレベルに達し、現代科学をもっても追いつけないと言われています(※注21)が、同じように、汝官窯の青磁の「青」を復元するのも、なかなか難しいようです。  ※注22

 青磁は、宋代が最高水準だと思うのですが、馬蝗絆は、そうした定評を象徴するようなエピソードだと思います。
 
 民窯ながら「青」の青磁に取り組んだ(※注23)ということで私は「龍泉窯」に思い入れがあります。
  この作品は「青」の青磁ではありませんが、館蔵品リストの中で唯一龍泉窯とされていたので、これを選ぶことにしました。 




 
2.第一印象

(1) スライドや鑑賞ケース越しに眺めるのと、実物を手に取った場合の印象の違い

 スライドで観たり、鑑賞ケース越しに眺めるのと、実物を手に取るのとでは、ずいぶん印象が違うものだな、と感じました。
 何となく、もう少し大きくて平べったいイメージを抱いていましたが、先生に箱から出していただく時、箱自体もずいぶん小ぶりだなという印象を受けました。

(2) 箱書きと現実の違い

 箱書き、正確に言うと箱そのものではなく、箱の上蓋を包む紙に書いてあったのですが、それには「砧青磁」と書いてありました。

 思わず大きな声で「これ、砧青磁じゃないですよね?」と先生に聞いてしまいました。その理由は、これまでの写真や説明でお分かりいただけると思います。要するに、色が違うのです。 ※注24





3.器形・手触り

(1) 「掌(てのひら)になじむ形」

 一言で言えば「掌(てのひら)になじむ形」と表現できると思います。ぜひ、皆さんも手に取ってみてください。

 胴の部分に刻まれた鎬文(しのぎもん)と相まって、両の掌で包み込むように持つと、実にしっくりとなじんで落ち着く感じがします。

 持ってみると、思っていたよりは、分厚さや重みを感じます。そのせいか、怜悧な美しさというよりは、親しみやすさ、暖かさを感じました。

(2) ユニークな形

 高台は、かなり小さめです。
  高台きわからなだらかに立ちあがって、腰から胴への鎬文の終わったところから逆に、はっきり角度をつけてすぼまっていき、口縁部でごくわずか反っています。
器形の違い(鑑賞作品は右)

 掌にはなじむのですが、口縁部近くですぼまっているとお茶を飲むには、ちょっと飲みにくい感じがします。
 そもそも、これは「茶」碗なのでしょうか。それとも、鉢なのでしょうか。 
 先生に用途を聞くと「おそらくお茶には使ったでしょうねえ。もし、何か食品を盛って使ったとしても、このようなものを使うなら相当裕福な家だったでしょうね」とのことでした。

 逆に口縁が反り返っているのは、端反形といった名称もあり、よく見かけますが、本作は碗としてはそれほどポピュラーな形ではないと思います。 ※注25




4.釉色

 釉の色は、淡いオリーブグリーンとでも表現すればいいでしょうか。色を言葉で表現するのは大変難しいのですが、灰色がかった薄めの青緑色という方が近いかもしれません。

 いわゆる「青」の青磁ではなく、「緑」の青磁の部類に属すると思います。




5.文様(内部)

(1) 雲気文

 この碗の内部の立ち上がり部分に描かれているのが雲気文という文様です。

 「広辞苑」には「雲気」は「雲霧の移動する様子」、「雲気文」は「雲気を表すという曲線構成の文様で、中国で盛んに用いられた」とありました。

(2) 技法と材料(箆) 

 文様を著わすのに用いられている技法は劃花(かっか、かくか)といいます。胎土の表面を(へら)で彫る技法です。
 その箆とは、どのような形状のものか、非常に気になりました。

龍泉窯雲気文碗  本作の雲気文は実に流麗で、まるで柔らかい筆先で軽やかに描ききったようです。それで、そのような表現ができるのは、どのような箆なのか?と想像したのです。
  柔らかくて細めの、竹のような材質なのでしょうか?どのような形をしているのでしょうか?


 雲気が渦巻いている波頭みたいな部分は、細い線が何重にもなっています。これは細い箆先で何度も彫ったのか、それとも櫛目というか、箆の先を簓(ささら)のようにほぐしたもので掻くようにしたのでしょうか?

 先生によると、箆そのものがほとんど伝わっていないので確たることはわからないが、材質は金属製だった可能性もあるとのことでした。

(3) わずかな凹凸

 器の内面を指の腹で触ってみてください。
 さすがに、太い線の部分は、ややくぼんでいるのがわかりますが、細い線の部分などではほとんど凹凸を感じられません。

 これは、東洋陶磁美術館所蔵の青磁刻花牡丹唐草文瓶(※注26)ですが、表面をご覧ください。角度のついた片切彫りで深く刻まれています。
 もちろん触ることはできませんが、見ただけでも凹凸が明らかです。

 一方、この作品のようにほとんど感じ取れないほどのわずかな彫りであっても、他の胎土部分に比べると釉が厚くたまることになり、結果として筆で描いたような文様が表されることになります。


(4) 漢代の雲気文

 なお、「雲気文」をインターネットで検索してみました。残念ながら、宋代前後の陶磁器のものは見つけられなかったのですが、漢代前後の瓦や、加彩土器、木棺、青銅鏡(※注27)の画像が見つかったので、ご覧ください。

 いずれの雲気文も、この作品に比べると画一的でパターン化しています。

 古伊万里の文様を紹介しているサイトがありましたが、そこに出ていた雲気文(※注28)がイメージ的には一番近いと思います。

(5) 見込中央部の円

 なお、見込、つまり、碗の内部の中央部に、細い線の円があります。
 茶溜(だ)まりというのでしょうか、轆轤(ろくろ)を回す時にできた円に釉がたまったもののようにも思えます。
 ですが、完璧な円でもないので、中央部がさみしいな、と感じた作者が、箆をくるり!と回してつけたもののようにも思えます。




6.文様(外部)

(1) 鎬文(しのぎもん)

 箱書きには「鎬文茶碗」という表現もありました。
 要は縦方向に細長く並ぶ文様、この場合は縦の蓮弁文のことです。

(2) 技法

 装飾技法には、劃花や刻花のほかに、型抜きなどで別に作っておいた文様を貼り付ける「貼花(ちょうか。※注29)」、型押し(スタンプ)で文様をつける「印花」(などがあります。

 先生に、この鎬文はどのようにして付けたものでしょう?と聞いてみました。
 けっこう文様が規則的なので、型押しや貼り付けの可能性もあるかも?と思ったのです。先生のご意見は「まあ、彫ったものでしょうね」ということでした。 
 
 そう言えば、完全に同じ形ではないようにも思えます。ただし、おずおず、ちまちまと彫ったものではなく、手練の技で、すっ!すっ!と一気に削りだしたものと思われます。
 
(3) 釉

 ちなみに広辞苑では「鎬」の説明の一つに「(建築の細部で)中央が高く両方へ低くなっていること」とあり、鎬彫りの断面図なども載っていました。

 「鎬」ですから、尾根というか稜線の部分を境に、両側に角度がついています。そのいわば山麓部分には釉がたまって色が濃くなっています。

 これが青白磁であれば「影青」(いんちん。※注30)と呼ばれるところだな、と思います。



7.時代

(1) 砧青磁、天龍寺青磁

 作品リストの年代欄には、「元時代 13世紀」とありました。しかし、箱書きには、「宋代」とあります。砧青磁と書いてあるから、当然そうなるのですが。

 おおまかに言うと、龍泉窯は、「緑」の青磁を焼く窯からスタートし、南宋時代に砧青磁という青の青磁を焼き始めました。
 そして、時代が明代に下ると、俗に天龍寺青磁(※注31)と呼ばれる黄緑色の青磁が焼かれます。

 本作品は、少なくとも宋代の砧青磁でないと思います。と言って、天龍寺青磁でもないように思いますが、釉の色からも、宋代よりは元代に近いような気がします。

(2) 新安沈没船

 先生に、なぜ元代と判断されたか、根拠を聞いてみました。それは、元代の「新安沈没船」(※注32)の引き揚げ品に、これと似た様式のものがあるからだ、とのことでした。

 ただ、先生は、元代の沈没船に積まれていたからといって、製作年代も元代と限定されるわけではないので、宋代(末期)の可能性も否定できないともおっしゃいました。
 
(3) 元時代の陶磁器の特徴

 あと、時代を感じさせるのは、装飾方法や外見です。

 元時代の陶磁器の特徴として、全面を文様で埋め尽くそうというような盛んな装飾意欲(※注33)が挙げられます。

 龍泉窯も、砧青磁のように、無文様で、専ら釉の色合いだけを尊ぶ時代から、天龍寺青磁では、劃花や印花、透かし彫り、また、鉄絵具を上からさす、いわゆる飛青磁(とびせいじ)といった様々な装飾が施されるようになりました。

 本作品でも外面は鎬文が彫られていますし、内部には雲気文が彫られています。特に、内面の中央も、空けずに円を入れたあたりが、っぽい感じがします。
 また、胎土が分厚めなところもという感触を強めさせます。

 なお、先ほど龍泉窯の国宝が二点あると言って、万声を紹介しました。

 もう一点が、東洋陶磁美術館所蔵の飛青磁花生(※注34)です。
 左の、万声と同形の鳳凰耳花生と比べると、釉の色が粉青でなく、黄緑味が強いことがおわかりだと思います。

 飛青磁花生の畳付部分を見ていただくと、汝官窯などと違い、かなり釉が削られ、横から見ても釉の剥ぎ取りがはっきり認められます。 ※注35 



8.その他

 専門的な知識もないのに、わかったようなことをいろいろ申し述べてきましたが、本で読んだことしかなかった、あこがれの龍泉窯の作品を、間近で見るどころか、触ったりすることができました。
 たいへん感動しましたし、このような機会を与えてくださったことに本当に感謝しています。

 それでは、これで私の発表を終わります。ご清聴どうもありがとうございました。



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<資料編>
注1 「故宮博物院は二つある。
 一つは北京市天安門広場の北側に建つ紫禁城(しきんじょう)、もう一つは台北市郊外の山あいにある故宮博物院である。
〜紫禁城の宝物は〜蒋介石率いる国民党の手で台湾に運ばれた。
〜不幸な歴史によって、皇帝のコレクションは二つの都市に離ればなれになった」→『故宮 至宝が語る中華五千年』(著:陳舜臣ほか。NHK出版。以下『故宮』と略記)第1巻P60 

注2 「青」信号といってもランプは緑色であることが多いのと似ている気がします。(関係ないか?)

注3 やべ よしあき。東京国立博物館陶磁室長。『中国陶磁の八千年』の著者

注4 「青磁には緑の青磁と青の青磁があった。
〜緑の青磁が実用性を主な目的としていたのに対して〜青の青磁は宋代の文化人が唱道してやまない「深奥の美」に応えて焼造された趣味性の高い特殊な青磁」→『中国陶磁の八千年』(著:矢部良明。平凡社。以下『八千年』と略記)P203
 

注5 「雨、そしてやがて訪れる太陽。自然の移り変わりのなかで生まれる微妙な色に、徽宗は着目した。
 雨上がりに雲が微かに破れ、そこから広がる湿りけを帯びた青。その色を陶磁器に写したいと願ったのである。

 この青は、清の時代に書かれた『陶説』によると、五代最後の王朝・後周の世宗、柴栄(さいえい)によって語られた言葉として登場する。
 柴栄が臣下からどのような色の磁器が望ましいか聞かれて、「雨過天青 雲破処」(うかてんせい くもやぶれるところ)と、答えたというのである」→『故宮』第3巻P228

注6 1100年に即位した徽宗は、風流天子という別名を持っています。
 唐の太宗や清の乾隆帝など、権力と財力をふるって美術品を収集した皇帝は多いですが、徽宗はコレクターだけでなく、画家としても書道家としても超一流で、特に書道では痩金体(そうきんたい)という字体を創設したことで有名です。

注6(その2) 「雨上がりの空を写した青磁は汝官窯(じょかんよう)青磁と呼ばれる。
 全世界で60点ほどしか現存しないという貴重な青、その色は多くの人を魅了してきた。
 10年ほど前、ニューヨークのサザビーズで競売にかけられたところ、小品であるにもかかわらず2億円近い値段がつけられたという。

 汝官窯青磁は、長らく幻の青磁と呼ばれてきた。徽宗在位中の25年間だけ焼かれ、忽然と消えた。そして、窯跡も製法も長らくわかっていなかったのである」→『故宮』 第3巻P228

注7 青磁盤(せいじばん)→『上海博物館 中国古代陶磁館』(図録) 汝官窯

注8 「北宋汝官窯の〜高台をすべて釉でおおいつくし、高台の内側に小さな支柱をたてて、匣鉢(さや)のなかで焼く手法は、そのまま五代・北宋初期の越州窯の技術を受けてはいる」→『八千年』P210

注9 大阪市立東洋陶磁美術館HP 青磁水仙盆(せいじ すいせんぼん)→『東洋陶磁の展開』(大阪市立東洋陶磁美術館図録) 汝官窯 北宋(10〜12世紀) 幅22.0×15.5cm 

注10 青磁三足洗(せいじさんそくせん)→『宋磁の美』(小学館)
 汝官窯 北宋(12世紀) 高さ3.6cm 口径18.5cm 北京市 故宮博物院

注11 東京国立博物館HP 青磁輪花鉢(せいじりんかはち)→『宋磁の美』
 官窯 南宋(12〜13世紀) 高さ9.1cm 口径26.1cm 重文 

注12 「南宋官窯は北宋汝官窯と同じ高台造りを守り、総釉の施釉法もつづけながら〜高台の畳付の部分をほんの少し釉剥ぎして、直接匣鉢に立てて、支柱を省略する焼造法を導入している」→『八千年』P210

注13 「南宋王朝は臨安の近郊に官窯をひらき、伝統にしたがって超絶の技巧をもって清冽なる青磁を焼造させた。
二重貫入とよばれる複雑に貫入がはいった清浄無垢、澄みわたる幽邃な青磁釉のかかった焼物は、かつての研究者・愛陶家が夢にえがいていた姿そのものであったにちがいない」→『八千年』P200

注13(その2) 「青の青磁が北宋時代の11世紀から12世紀にかかるある時期に、官窯でつくりはじめられたらしい
〜南宋官窯は〜雨過天青を地で行くような、すばらしい青の青磁を確認することができた。〜
 素地のガラス化が進んだ灰白色の磁胎ではなく、ほとんどが黒い胎色を示している。
 これに天青色の青磁釉が、おおい場合では三層にも重なって厚く掛けられている。
 したがって、当然のことながら、釉と胎土との収縮率はおおいに異なるから、焼成後にヒビ割れ、いわゆる貫入が釉面をはしることになる」→『八千年』P207

注14 大阪市立東洋陶磁美術館HP 青磁八角瓶(せいじはっかくへい)→『宋磁の美』 官窯 南宋(12〜13世紀) 高さ16.7cm 胴径17.3cm 

注15 「越州窯の一窯として発祥した龍泉窯が南宋官窯の青磁を手本にして、粗雑な一般の青磁器皿とちがった、俗にいう粉青(ふんせい)色の青磁を完成させた。
 それが砧青磁であり、砧青磁はあまたある龍泉窯のなかでも、大窯、渓口窯をはじめとして、主力の窯でのみ焼かれたもののようだ」→『八千年』P200

注16  梅子青と粉青→『故宮』第3巻P306
(1) 梅子青(ばいしせい)=わずかに緑がかった青
青磁袴腰香炉(せいじはかまごしこうろ)(龍泉窯。上海博物館蔵)高さ11cm。

(2) 粉青(ふんせい)=明るく澄んだ青
盤口鳳耳瓶(ばんこうほうじへい)(龍泉窯 台北故宮博物院蔵)高さ25.5cm。
 梅子青に比べ、より純粋な青に近い色合いで、青磁がたどり着いた一つの到達点といわれている。

注17 「中国の龍泉窯の青磁の一種に対するわが国での俗称。
 東山慈照院にあった花生が絹を打つの形に似ていることから、この名が出たといわれる。
 宋代に花開いた中国の青磁の中心地が龍泉窯であり、その初期の粉青色の青磁を呼ぶ語となった。重文指定の「青磁鳳凰耳花生」はその代表作品のひとつである」→『陶磁用語辞典』(著:野村泰三。保育社カラーブックス)P44


注18 青磁鳳凰耳瓶 銘 万声(せいじほうおうみみへい めいばんせい)→『宋磁の美』 龍泉窯 南宋(12〜13世紀) 高さ30.7cm 口径11.0cm 国宝 大阪府和泉市久保惣記念美術館★公式サイトに画像あり

注19 東京国立博物館HP 青磁輪花碗 銘 馬蝗絆(せいじりんかわん めいばこうはん)→『宋磁の美』
龍泉窯 南宋(12〜13世紀) 高さ9.6cm 口径15.4cm 重文 

注20 日本に伝わる青磁茶碗を代表する優品である。

 江戸時代の儒学者、伊藤東涯が記した『馬蝗絆茶甌記』によると、平重盛が宋の育王山に黄金を寄進したとき、住持仏照禅師から返礼としてこの茶碗を贈られ、その後、室町時代の将軍足利義政の所持するところとなったが、ひび割れが生じたため代わるものを中国に求めた。
 しかし、明時代の中国にはもはやそのような名品の青磁は作れないため、鉄の鎹(かすがい)でひび割れを止めて送り返してきたという。
 この鎹を大きな蝗に見立てて、馬蝗絆と名づけられた。

注21 「殷の青銅器は美術工芸の極致といわれ、その高い技術力は後世にも真似のできないほど突出してすばらしかった」→『故宮』第1巻P166


注22 「どうすれば「天青」の青が生まれるのか?
 朱さんは、清涼寺の青磁の破片の成分を徹底的に分析し、8種類の成分からなっていることをつきとめた。
 清涼寺の瑪瑙鉱で採取した瑪瑙のほかは、白長石、青灰、黒長石などを混ぜあわせるという。〜
 20年復元に取り組んできた朱さんは、現代の科学をもってしても再現できない、とても不思議な青だという。

 かつて、清の乾隆帝もこの青磁を復元しようと何度も挑戦したが果たせなかった。徽宗の青はいまもなお幻の青磁なのである。
 それは、絶大な権力をもった皇帝が富のすべてを傾けて初めて生みだすことができた、いまもなお再現不能な美であった」→『故宮』 第3巻P230

注23 龍泉窯で、なぜ「青」の青磁が焼けたのか。それには、いくつかの要因があったようである。

「南宋の中ごろ、都市には豊かな教養を身につけた商人などの資産家が集まり〜都会の知識人たちは豊かな時代に合った磁器を求めていた。
 そうした求めに応じて新しい青磁を生み出したのが、龍泉窯だった。」

(1) )の使用と還元炎焼成
「 龍泉は、浙江省の杭州から南へおよそ300キロ、福建省との省境に近い、深い深い山の中にある。
〜燃料には薪が使われている。
〜薪は石炭ほど多くの酸素がなくても燃える。
酸素が少ない状態にして薪を燃やすと、薪は釉薬に含まれている鉄の化合物から酸素を奪い、酸化第一鉄に変える。
 酸化第一鉄が青を発色するため、磁器が青みを帯びるのである」

(2) 温度調節
「磁器を焼くとき、空気の量とともに大切なのは、温度の調節である。
色見は、予め窯に磁器の破片を置き、火が回ったところで取りだし、その焼け具合で温度を調節する技術である。」

(3) 多層釉
「釉薬を厚くすれば、肌がなめらかになり、色に深みを出すことができるが、焼きあげるとき、釉薬の重みで流れ落ちてしまう危険性がある。
 龍泉窯の陶工たちは、もみがらの灰を混ぜることで高温でも流れにくい粘り気のある釉薬を作りだしたといわれている」

(4) 気泡
「釉薬を拡大して見てみると、なかには大小さまざまな形をした気泡がある。
 この気泡に光が反射し、透き通った色合いを見せる」
→『故宮』 第3巻P302〜

注24 私は、簡単に砧青磁ではないと断じてしまったが、受講者の中には「これ、一昔前なら、十分砧青磁で通用したんじゃないですか」という意見もあった。
 私は、美術館の図録などでしか砧青磁を知らない。
 いわば世界でもトップクラスの砧青磁しか知らないことになる。世間一般でいわれている砧青磁というのは、もっと幅広いものなのかもしれない。

注25 前述の『陶磁用語辞典』P106に記載された「茶碗の種類」によると、口の方へすぼまっている茶碗には、鉄鉢、俵形、鉢の子などがあるようだ。その中でも俵形が比較的近いように思える。
 
注26  大阪市立東洋陶磁美術館HP 青磁刻花牡丹唐草文瓶(せいじこっかぼたんからくさもんへい)→ 『宋磁の美』 耀州窯 北宋(11〜12世紀) 高さ16.7cm 胴径17.3cm 重文 

注27 (1)雲気文円瓦当(秦・漢代) 
(2) 雲気文鐘(壷) (前漢)
(3) 雲気文木棺(漢〜晋 楼蘭故城以北墓葬品)
(4) 方格規矩雲気文鏡(後漢前期)

注28 古伊万里にみられる「雲気文」

注29 貼付文(はりつけもん)ともいう。
 なお、中国語で「花」というのは、”flower”という意味の他に、「飾る」とか「文様」という意味もあるようだ。
 
注30 「白色半透明の精巧な薄いボディーに、淡青色透明の釉薬を掛け焼成したもの。
 いんちん
という名称はこの種の器には、陰刻、陽刻が多く施してあり、その文様に釉薬がたまり、それが薄青く見えるところからきた」→『陶磁用語辞典』

注31 「青磁の面でも「雨過天青」と言われた砧青磁は、元代において大きく変化を見せている。
 胎が分厚く、緑色がかった青色となり、その形も壷の場合、胎が三段に区切られ、文様が過多と思われるほどに彫られ、口辺が開き、裾が外に張ってくる。

 宋代の砧青磁に比べ、元に至っての大型化、大量生産による原料の不足から、その精度は低下したものと見なければならない。この時代の青磁を、日本で天龍寺青磁と呼んだ。

 天龍寺青磁の名の起こりは、室町時代に天龍寺船によって将来されたとも、また夢窓国師が請来して天龍寺に伝えたから、とも言われている」→『中国古陶磁』(著:小松正衛。保育社カラーブックス)P125


注31(その2) 「しだいしだいに釉も造形も衰えながら、砧青磁は元・明代を通じて焼きつづけられる。
 とくに純良な青味をすっかり失って透明度がましてしまった青磁は、日本で七官手と呼びならわしてきたものである。
 かつて小山富士夫氏が、龍泉窯青磁の展開を砧・天龍寺・七官にわけて説いたが、この見解はすでに過去のものとなった。
 まず龍泉窯は緑の青磁から出発し、この系列に天龍寺青磁があり、官窯系の青の青磁系列に砧・七官青磁が属すると見るのが妥当である」→『八千年』P212

注32 (長崎県立対馬歴史民族資料館HPより)
 韓国全羅道新安の海底から引き上げられた元の貿易船(1323年、元の慶元から日本に向う途中、高麗沿岸で沈没した)に積み込まれていた22,000点に及ぶ全遺物のおよそ半分が、龍泉窯青磁で占められていたことを考えれば、その焼成活動の盛況ぶりと、日本などのこの中国青磁に対する需要の大きさがしのばれる。

注32(その2) 「龍泉窯がいつ頃から天龍寺手とよばれている元様式を樹立するのであろうか。
〜韓国全羅南道新安郡智島面の沖合の元船からは、至治3年(1323)銘木簡とともに多数の酒海壷、花瓶をはじめとする天龍寺手青磁が引きあげられているし、英国のデビッド・ファンデーションには泰定4年(1327)銘のみごとな青磁大花瓶が収蔵されている。
〜いまのところ、1200年代に元様式が確立していたことを証明する資料はなく、1300年前後がその成立期であったとみて自然である」→『八千年』P279

注33  「元様式の特質は〜一言でいって「大作主義」と「加飾主義」の二要素に要約することができる」→『八千年』P274

注33(その2) 「元代の陶磁は、前代に比べて、すべて大型となり、胎が分厚く、重量感溢れる、野性的なものに変化した」→『中国古陶磁』P124

注34 大阪市立東洋陶磁美術館HP 飛青磁花生(とびせいじ はないけ)→『東洋陶磁の展開』
龍泉窯 元(13世紀〜14世紀) 高さ27.4cm 国宝 

注35 「龍泉窯の砧青磁では釉の剥ぎ取りの部分をさらに拡大して、側でみていても、釉の削り落しが眼に写るまでになっている。
 その削り落しも南宋から元になるに従って、かなり露骨になっていく」



 それでは、次回のゼミ受講録まで、ごきげんよう♪

 

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