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陶磁器ゼミ(13) 美術史ゼミナール「中国の陶磁器」その8(明(1368〜1644)・清(1644〜1911)時代の陶磁器)Part3<清代の景徳鎮>

はじめに

 今回は明・清ということで、講義としては最終回。
 いつもどおり、先生の講義内容に、『中国陶磁の八千年』(著:矢部良明。平凡社。以下『八千年』と略記)を中心に注をちょこっと追加します。
 では、さっそくはじまり、はじまり・・・のPart3。



3.清時代の江西省景徳鎮窯陶磁について

(1) 各時代の特徴

※ 順治年間(1644〜1661) ※注1

康煕年間(1661〜1722)
注2
後期過渡期様式(※注3)を発展させた青花・釉裏紅・豆青釉、南京赤絵(※注4)や日本の柿右衛門・古伊万里を手本とした貿易用の五彩(※注5)、清初の四王呉ツ(ごうん)風の花鳥・人物の上絵付のある五彩などが特筆される ※注6
素三彩(※注7)も釉薬改良で華やかになる。
イエローホーソン(黄地多彩磁)・ブラックホーソン(黒地多彩磁)が登場 ※注8
明代を手本とした白磁や、銅紅釉・黄釉・緑釉・藍釉・月白釉など発色の安定した単色釉の作品が焼造される ※注9
吹墨法(※注10)を用いた豇豆紅桃花紅注11)の文房具や琺瑯彩(ほうろうさい。瓷胎画琺瑯。ヨーロッパの銅胎無線琺瑯の技術を陶磁器に応用。※注12)は、康煕後半の官窯磁器として特筆される。
雍正年間(1722〜1735) 宋代の官窯・哥窯・汝窯や鈞窯の倣製品、明代の紅釉・黄釉などを手本にした単色釉(※注13)は絶賛されている
精巧な筆致で花卉・山水図を表し五言・七言の題詩を書き入れた琺瑯彩(=古月軒注14)や豆彩(※注15)・粉彩(※注16)も歴代最高水準の作品が生まれ、秀麗なポリクロームの時代を形成
注17
乾隆年間(1736〜1795)
注18
針彫りのある夾彩、倣古銅器・倣木漆器などの陶磁器、西洋人物を主題とした琺瑯彩などがこの時代の特色
青磁や茶葉末(※注19)を初めとした単色釉の多用さには目を見張る
清時代後期 嘉慶(1796〜1820) 倹約を奨励して財政を緊縮したので、御器の生産量は減少
道光(1821〜1850) アヘン戦争などの外圧で国力は衰退。
寂園叟『匋雅』によると、時には精巧な作品も造られた
咸豊(1851〜1861) 太平天国の乱によって再び景徳鎮は破壊された
同治(1862〜1874) 御器廠が復興
光緒(1875〜1908) 許之衡『飲流斎説話』によると、康煕・乾隆期の倣製品に精巧な作品が焼造された。
慈禧太后(西太后)の堂斎銘「大雅齋」のある夾彩作品
宣統(1909〜1911) 袁世凱は1912年宣統帝を退位させ、政権を孫文の南京政府に委譲した。
清朝官窯陶磁の歴史が終幕


注1 西洋における万暦様式染付磁器のブームは1600年初頭にはじまって、少なくとも1680年代くらいまでは確実に続いた(『八千年』P409)

注1の2 順治帝は、1656年に第1回の、1661年には2回目の遷界令(鄭成功を弱体化させるための海禁令)を発令した。
 オランダは日本と修交していたので、中国磁器の代わりを佐賀県有田の伊万里焼に求めた。
 オランダ東インド会社が初めて伊万里に大量買付けしたのは1659年。芙蓉手に代表される万暦様式の染付磁器が中心だった。(『八千年』P409)

注2 康煕22年(1683)に重修された『饒州府志』には「康煕13年の変乱により、鎮の房舎が半ば以上も焼失し〜窯を業とする者は十に僅かに二、三にとどまる」とある。(『八千年』P425)

注2の2 『饒州府志』によると、康煕19年9月に御器焼造の命令がくだされて、徐廷弼を中心に、李廷禧蔵応選車爾徳の4人が派遣されることになった。
 よく康煕官窯を別に蔵窯と称するのも、御器焼造を実際にすすめる現場の取締役が蔵応選であったことに由来する(『八千年』P426)

注2の3 蔵窯の時期、1680年代は、いわば清朝官窯の黎明期にあたり、御器の文様や様式の創作に活躍した画家は劉源(『八千年』P428) 

注3 西欧の研究者は、明末・清初の1620〜60年代にトランジショナル・スタイルという過渡期様式を設けて、時代の推移を説明してきた。(『八千年』P408)

注3の2 ヨーロッパに輸出された干支名をもつ染付の一群は、ヨーロッパの研究者たちの間でトランジショナル・スタイル(過渡期様式)とされているもので、英国のメドレー女史は丁丑銘は1637年、癸卯銘は1663年と比定しているが、60年繰り下げて1697年から1723年の作とするのが妥当であろう。
 トランジショナル・スタイルは明から清への過渡期様式として捉えられてきたが、明末期の天啓・崇禎の名残は姿をかくして、純なる康煕様式が樹立している。
 トランジショナル・スタイルはまさに絵画的意匠表現の典型であった。(『八千年』P422)

注4 江戸時代の古い箱書きは、いま問題にしている磁器の輸入景徳鎮磁器をすべて南京手として扱い、いま言う古染付南京赤絵の区別はない。
 江戸時代にはすべてが一括されて南京染付であり、南京赤絵であったもので、古染付なる概念は明治以降に設定された
 いまは、およそ古染付のつぎに舶来された景徳鎮磁器として南京染付、南京赤絵が捉えられており、だいたい1640〜60年ぐらい、まさに清朝初期の順治年間の作と推測されている。(『八千年』P412)

注4の2 1650年代で本格的な輸入はおわった。わが国に残っている明末・清初の輸入磁器は1620〜50年代の作と判断される。(『八千年』P412)

注4の3 明朝のごくごく末から清朝の初頭の作とみてよい南京手では粗雑な小品が輸入陶磁の中核をなしていた。
 文様の描き方(モチーフ)に祥瑞と近いものがあり、細い線描きを鋭くほどこして、画面には余白をあまり残さない構図、バイオレット・ブルーにあざやかに発色した染付、青海波(せいがいは)、四方襷、毘沙門亀甲、七宝繋、桧垣文をはじめとする幾何学文様のゆたかな組み合わせ、高台にみる釉剥ぎの特色、黒胡麻をふくむ白色で固い素地など、両者の類似点ははなはだ多い。(『八千年』P413)

注4の4 染付に色絵を加えた、俗にいう色絵祥瑞(いろえしょんずい)は典型的な南京手といってよい。
 色絵祥瑞すなわち南京赤絵の上絵具をみると、明代景徳鎮窯の色絵具とは一変して、明晰な印象をつよく与える
 細密画法を用いて、文様はきりりと黒の細い輪郭線でくくられるのがそれまでにない工夫であった。(『八千年』P413)

注5 18世紀の前半、伊万里焼の金襴手や柿右衛門様式の色絵の模倣品がつくられ、西欧に伝世している。(『八千年』P424)

★ 東京国立博物館HP 手桶形茶器 (清 17世紀)
★ 東京国立博物館HP 五彩仙姑図大皿 (康煕)
★ 東京国立博物館HP 青花木蓮文瓶 (清)

注6 1660年代には万暦様式独特の縁取り文様を取り払ってしまって、たっぷりと空間をつかった山水人物図、楼閣人物図、武闘図、高士図などが目立ってくる。
 1680年代になると康煕様式が確立した〜繊細で丹精込めた線描やていねいな濃(だ)み染めは、画風が温容となってきた。(『八千年』P418)

注6の2 清朝色絵磁器における特色ある構図法は、一つは主題の周囲に何もかかずに余白をたっぷり残して、あたかも一幅の絵画のように描く場合、そして窓絵の場合、そして地文つぶしの場合である。(『八千年』P420)

注6の3 万暦にはじまる染付・釉裏紅併用技法の一手を日本では俗に線香手とよんできた。(『八千年』P418)

注7
 素三彩とは白磁胎に透明釉をかけずに焼成して、無釉のビスケット素地をつくり、その表面に色絵用の絵具で文様を描いて錦窯で焼きつける技法である(『八千年』P395)

注8 ホーソンとは英語で山査子(さんざし)のことで、地色を黒、黄、緑などで塗りつぶした一群のタイプの愛称となった。(『八千年』P443)

注9 康煕官窯が単色釉磁へ示す執念はすさまじいものがあった。その象徴的な存在がいわゆる郎窯(ろうよう)であろう。
 康煕44年から8年間、巡撫の職にあった郎廷極が直接焼かせた郎窯
 なぜか後世銅呈色の単色釉磁を郎窯とよぶようになった。
 郎窯の銅釉磁は器に年款を書き込まないのが通例である。(『八千年』P437)

注9の2 郎窯の紅釉は、西洋人が牛血紅とよび、やや黒味がかった紅祐で、光沢はつやつやとして鏡のような輝きをもち、細毛状の裂文がところどころに現われている。(『八千年』P438)

注9の3 郎窯の変種に一命蘋果緑(ひんかりょく)とよばれる緑郎窯がある。いわゆるアップルグリーンである。(『八千年』P438)

注9の4 康煕在銘品の単色釉磁で烏金釉は鏡のように光沢をはなつ黒褐釉で、不純なコバルトを含むマンガンと紫金釉を混ぜてつくられる。(『八千年』P438)

注10 釉を霧吹きか何かで素地肌にかけて、独特の濃淡をあらわす、古くは明の嘉靖官窯ですでに試みられていた釉法であった。(『八千年』P439)

注11 この銅釉の系列に桃花紅ピーチ・ブルーム)がある。
 これは桃の花が緑の枝葉のなかに咲いたように、緑と紅が一つの釉で色替りであらわされる絶妙な作品で、きまって器底に染付で「大清康煕年製」の6字の年款が記されている。(『八千年』P438)

注12 石英砂を焼いて粉にして鉛と合わせると軟らかい玉のような美しい琺瑯ができあがり、この白色琺瑯を基礎にして、銅で緑、金で紅色、アンチモニーで黄色など、自由自在の色を出すことができる。
 この粉彩洋彩とも呼ばれたとおり、西洋の琺瑯の技術を導入した景徳鎮窯が発明した上絵付法であった。(『八千年』P445) 

注12の2 康煕粉彩といえば、「康煕御製」の粉彩銘をもつ、花卉や花蝶を描いて地を塗りつぶす小碗は俗にパレス・ボウルと呼ばれて珍重されている。(『八千年』P446)

注13 おそらくコバルト呈色かと推測される、俗に年窯(ねんよう)とよばれる天藍釉は、青磁ほどの雅味はないが、つやつやとした光沢をふくんで抜けるような淡白さである。(『八千年』P457)

注13の2 雍正官窯の紅釉で特徴的なのは、銅紅釉の地にコバルト釉をまぜ合わせて藍白釉をたらしこんだ、俗にいう火焔紅(かえんこう)が試みられている点である。(『八千年』P458)

注14 雍正官窯を象徴する製品といえば、いわゆる古月軒(こげつけん)につきるであろう。
 古月軒は康煕にはじまった粉彩の一種であり、精緻をもって鳴る清朝官窯のなかでも、超絶的技巧をあますところなく披露した絵付磁器の珠玉といってよい。(『八千年』P454)

注14の2 古月軒の名称に関する説(清朝末期)
(1) 古月軒は乾隆時代に禁中にあった軒の名で、その磁器を描いたのは金成という画家であったという説
(2) 胡という姓の絵付師が制作したもので、「胡」を分解して「古月」と称したとする説
(3) 古月軒という軒に歴代官窯の名作が収蔵されていたことに因むという説(『八千年』P454)

注14の3 古月軒は十数センチの皿や碗が中心で、端反り(はたぞり)になった口縁と薄い高台につくった形は明らかに明初の官窯磁器を手本としている。
 水注、花瓶、壺などのいわゆる袋物は乾隆年間の古月軒である。(『八千年』P454)

注14の4 琺瑯彩とは清時代の内務府造辧処の琺瑯作で絵付、焼成された粉彩磁器をさす。
 技法としては粉彩磁器と全く同じだが景徳鎮窯で製作された粉彩磁器と、北京の琺瑯作で宮廷用に製作された琺瑯彩とは位置づけが異なる。
 「古月軒」と呼ばれるものは琺瑯彩の俗称である。(『英国デイヴィッド・コレクション』図録用語解説)

★ 東京国立博物館HP 粉彩牡丹文瓶 (雍正)
★ 東京国立博物館HP 粉彩梅樹文皿(琺瑯彩 古月軒) (雍正)

注15 粉彩とともに雍正官窯の特色ある作品は豆彩(とうさい)であろう。
 豆彩とは豆色の淡い緑色がとくに眼につくところから名付けられた名称で、このほか闘彩は使われている上絵具が互いに闘っているような強烈な対比を呈しているところから名付けられたし、その色合いが互いに調和しているところから逗彩ともいうと伝える。

 豆彩は成化の官窯があみだした色絵の一法で、手にまかせて上絵付が走らないようにあらかじめ細い染付の輪郭線をひいておく手法(『八千年』P455)

★ 東京国立博物館HP 豆彩束蓮文鉢 (雍正 )

注16 雍正年間に粉彩画をおこなう名手に譚栄(たんえい)、鄒文玉(すうぶんぎょく)をはじめ10名以上が北京におり、景徳鎮から白磁胎に上絵付していた。
 その工房を琺瑯作といい、内務府造辧処に所属していたという。(『八千年』P455) 

注17 雍正官窯を支配したのは、一人は年希尭(ねんきぎょう)であり、いま一人は唐英である。
 『乾隆浮梁県志』に引用されている唐英の著『陶政示論稿自序』によると、景徳鎮に赴いた雍正6年当時は、陶技について全く無知だったが、陶工と同食すること3年にして、正統の具体的な工程を学んだ。(『八千年』P448)

注18 明初の永楽・宣徳の官様染付磁器がさかんに写され、本歌では自然にうまれるコバルト顔料の濃淡を、乾隆官窯ではわざわざ筆で濃淡をつけている。(『八千年』P460)

注19 茶葉末(ちゃようまつ)は鉄釉の一種で、釉中にふくまれる鉄がケイ酸と化合して結晶がつくられ、失透性の黄緑色を得る釉技であり、日本では蕎麦釉(そばゆう)とも称している。(『八千年』P458)



 
 それでは、次回のゼミ受講録まで、ごきげんよう♪

 

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