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上海旅遊記(14) 蘇州編Part4(寒山寺編)
さて、蘇州最後の観光地寒山寺に着く。
車を降りたのは、私と長男、次男のみ。
(我が家の通称でいくと、3本6タマ組。よく嫁さんに「3本6タマグループで先、お風呂入ってしもて」などと言われる。お下品で失礼しました)
寒山寺正門前の橋(右写真)
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漢詩「楓橋夜泊」で有名な橋である・・・と思っていたのだが、どうも違うらしい。
寒山寺すぐ前の橋は、江村橋というそうだ。
1979年には、日本のTV局もまちがってこれを楓橋と紹介したそうだから、私が間違えても仕方あるまい。
この漢詩というのは、張継(720頃〜780頃)の作によるもの。
月落烏啼霜満天 江楓漁火對愁眠
姑蘇城外寒山寺 夜半鐘聲到客船
月落ち烏(からす)啼(な)いて霜(しも)天に満つ
江楓(こうふう)漁火愁眠(しゅうみん)に対す
姑蘇(こそ)城外寒山寺
夜半(やはん)の鐘声(しょうせい)客船に到(いた)る
人口に膾炙した詩だが、論争が多いことでも知られている。
(論争その1)「烏啼山」はあるのか?
昭和44年に朝日新聞紙上で、この詩は「月は烏啼(山)に落ち〜」が正しいという投書があって以来、わずか半月で44通もの投稿があったそうだ。
寒山寺は平地にある。この近くの山というと、先ほど訪れた虎丘のある霊岩山までない。よって、ここは素直に「月落ち烏啼いて」の方が無難なようだ。
(論争その2)「江楓」とは何か?
中国で、単に「江」といえば長江(揚子江)。ここ蘇州で長江の岸辺の楓が見える筈がないという説がある。
いや、単に川べりの楓と訳せばよい、というのが一般的だ。
しかし、月も落ちた夜中に対岸の楓に漁火が映えているのが見える筈がないではないかという意見もある。
清の学者愈樾(ゆえつ。1821〜1906)は「宋龔明(そうきょうめい)の中呉紀聞には江村漁火となっている」と考証しているそうだ。
地元では、「江楓」とは、江村橋と楓橋のことで、張継は科挙試験に落第して故郷の襄陽に帰る途中、この橋の間に船をとめ、一泊した。これからどうしたらいいか、憂鬱なものおもいで眠れないので「愁眠」なのだ、という説も有力らしい。
もっとも、これは作為的に過ぎる気がする。
なお、そもそも楓橋は「封橋」といったそうだ。
「封」と「楓」は同じ音(フォン)なので、張継が書き間違えた。
当時、この川岸に櫨(はぜ)の木が植えられていた。櫨はウルシ科で秋には紅葉するので、詩人が楓と取り違えたのだという。
しかし、封橋より楓橋の方が風流なので、後人も楓橋と呼び習わすようになり、しかも、詩も有名となったので名実とも楓橋になるよう、櫨を楓に植え替えたという。
こうなると、いったい何が真実やらわからない。
(論争その3)夜中に鐘は鳴るか?
これは文句をつけたのが大物。
宋代の欧陽脩が『詩話』で「好句を貪(むさぼ)り求めて、理、通ぜざるところあり〜其れ如(も)し三更(夜半)ならば、是れ鐘を打つの時にあらず」と評したのがきっかけ。
寺廟のしきたりでは「暮の太鼓、朝の鐘」というから、夜中に鐘は鳴らさないというのだ。
しかし、古来、呉中(蘇州近辺)では夜中に鐘を鳴らす習俗があったらしいし、唐代の他の詩人もこうした表現をとってるというから、どうも、欧陽脩に分が悪いようである。
※ 参考文献 『江南春行』(朝日新聞取材班。徳間文庫)、『漢詩名句 はなしの話』(著:駒田信二。文春文庫)、『漢詩の旅』(著:秦泥。徳間文庫)
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寒山寺の正門前。(左写真)
壁に「寒山寺」と大書されている。
あ〜、わかりやすい。
ちょっと、わかりやすすぎる気がする。
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寒山寺といえば、何と言っても「寒山拾得」。(右下写真)
森鴎外の小説『寒山拾得』で有名だ。
南北朝梁の天監年間(502〜519)に建立され、当初は妙利普名塔院と称したが、唐の貞観年間(627〜649)に寒山と拾得という二人の僧侶が住むようになって、寒山寺と呼ばれるようになったそうだ。
先ほどの漢詩「楓橋夜泊」を刻んだ石碑もあった。
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さて、とある建物の屋根の上に、何やら像が乗っていた。
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よくよく見ると、どうやら西遊記ご一行様のようだ。
一応、アップで写真を撮ったので載せておく。 |
趣きのある鐘撞堂。(右下写真)
お金を払えば撞かせてくれるらしい。
私は撞かなかったが。
ネットで撞いた人の体験談などを読むと、日本の鐘ほど厚みがないせいか、音は軽めであったという感想を述べている人が多かった。
いずれにせよ、ああ、これが張継が耳にした鐘の音か、と感慨にふけりたいところだ。
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残念ながら、鐘に鋳込まれた銘によると、その鐘は清末の光緒32年(1906)、江蘇巡撫陳虁竜(ちんきりゅう)が寒山寺を再建するときに鋳造したとあるそうだ。
「1回撞けば10年若返る」とか、鐘の音を聞くだけでもご利益があるとかで、特に大晦日には多くの観光客で賑わうとのことである。
さて、私としては、かなり満足して車に戻ったのだが、ついに長男までお腹が痛いと言い出した。ひとり倒れ、またひとり倒れ。八甲田山か、203高地か。(←たとえがやたら古いね)
食事が原因なら、間違いなく私が一番大量に食べていると思うのだが。みんな疲れが出てきているのだろうか。
呉さんとは、ここでお別れ。私たちは、呉嬢と一緒に上海に戻った。
車中でけろっとしているのは、私と末っ子だけ。「中国」で頭がいっぱいのチャイナ親父と、頭ん中な〜んにも考えてないたけしの二人ってのは何かの偶然だろうか。
夕食は「陶陶」という瀟洒な雰囲気の上海料理レストラン。
店名は『詩経・王風・君子陽陽』が出典と『歩き方』に出ていた。
海音寺潮五郎氏の訳文(中公文庫)では「君子陶陶〜」(わが友は 心のびのび〜)とある。
嫁さんと長男はほぼ復活したのだが、長女がまだ本調子ではなかった。呉嬢がとても気をつかってくれて、私らが食事を続けられるよう、トイレについていってくれたり、ずっと付き添ってくれてありがたかった。
帰り、レストランの前の駐車場は、もうこれ以上はないってくらい、各自が車を思いのまま勝手に駐車していた。
単純に早く来た車は奥に並べ、次に来た車は全く通路とか入れ替わりスペースとかは考慮せず、適当にその手前に駐めている。
完全に前をふさがれ、どうやって出るのだろうか。それとも、奥は店の従業員の車とかなんだろうか。
新しく入ってきた車は、早くスペースを空けろ〜い!とばかりにクラクションを鳴らしまくる。
うちは范さんと呉嬢で予め手配してくれていたのか、玄関前に車をまわしてくれていたのでスムーズに出れたが、「ひとごとながら、よその車は、こりゃ外に出るまで一仕事だぞ」と思いながらホテルへの帰路についた。
さて三日目も暮れた。ホテルの部屋でのんびりする間もあらばこそ、末っ子たけしの召集がかかる。
3本6タマ組でプールに行って(北京の時と違って、上海ではプールは有料であった)くたくたになって床についたのであった。
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