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青銅器(26)平成16年度美術史ゼミナール「中国の青銅器」第11回その2
1 はじめに 青銅器ゼミの10回目は、礪波護先生の講演会のため、休んでしまった。
今回は、いよいよ最終回、第11講で、ギャラリートークを行なう。
前回は「準備稿」であったが、今回は本番編。
2 私の担当ケース
概ね戦国から漢代の青銅器について、6点をご紹介します。
(1) 青銅 銀錯 雲気文 鏊 (せいどう ぎんさく うんきもん ごう)
青銅器の命名の仕方については、昨年5月のゼミで先生の方から講義がありました。
具体的には、材質、装飾技法、文様、器形名の4部構成で、本器はまさにその通りになっています。
青銅とは、既に前回に説明もありましたが、銅と錫の合金です。
銅に比べ、錫は融点が低く、高価です。錫の割合が多いほど、白く硬くなります。
戦国時代の『周礼』(しゅらい)「考工記」という書物に、銅と錫の比率についての記載があります。
楽器の鐘(しょう)や祭祀用の鼎については、硬度はそれほど必要ではないので、金色の輝きを重視して、錫は6分の1。
武器の場合は、色合いより硬度が重視されるので、斧(斧斤=ふきん)は5分の1、矛(戈戟=かげき)は4分の1、剣(大刀)は3分の1、鏃(やじり。矢)は5分の2と、錫の割合は20%から40%とされています。
太陽光線を集め火を起こす用途の場合は錫が50%とされています。この場合はもちろん硬度よりは白銀色の光沢を重んじたものです。
銀錯の錯(さく)とはいわゆる象嵌(ぞうがん)のことだと講義の資料にありました。象嵌とは、本体に別の材質のものを嵌め込む装飾技法です。
現在では、どこが銀錯なのか、判別は難しいところです。
大阪市立美術館のHPにおける説明文では「もとは銀象嵌で飾られた精密な雲気文」とあります。
雲気とは、『広辞苑』によると、雲や霧の流れる様子とあります。雲気文とは、そうした「雲気を表わす、曲線による構成の文様」をいいます。
最後に「鏊」(ごう)」というのが器の形の名称です。調理用の浅い鍋なのですが、類例の少ない器形で、ゼミでいただいた泉屋博古館廣川守学芸員作成の資料「先史・殷・周の器形と名称」、「秦・漢の器形と名称」にも載っていません。
『大阪市立美術館蔵品選集』には「足の下で薪や炭を燃やし、肉や魚を炒める鍋」とあります。同HPでは「フライパン」という表現がとられていますが、片手型の持ち手がないので、焼肉用のホットプレートとか、ジンギスカン鍋の方が近いでしょう。
側面には、遊鐶が連なった鎖につながれた耳がついています。鎖全体にも雲気文が施されています。なお、「遊鐶」とは、その名のとおり、遊びのある、自由に動く輪のことで、逆に固定された輪は「不遊鐶」といいます。
→桑山美術館(名古屋市)所蔵の青磁不遊鐶花入(明代初期)参照
HPの解説文では、調理後はこの耳を金具で持ち上げ食卓に供したのではないかとされています。
三本の足は、すらりと伸びた動物の脚の形をしており、付け根部分には獣面があり、また先端は偶蹄、つまり二つに分かれた蹄の形をしています。
ちなみに、京都女子大学松井嘉徳先生の講演によると、鼎の例でしたが、夏王朝又は殷王朝の初期においては脚は尖っており、殷墟期、つまり殷王朝後期では円柱状の脚が多く、蹄の付いた蹄足の鼎が現れるのは西周中期以降だそうです。
鏡が置かれ底面が見えるように展示されていますが、三つに分かれた笵の分かれ目が顕著です。
戦国時代の作と考えられており、美術館HPの解説では、緻密な銀象嵌やスマートな足の部分に繊細で優美な戦国時代の青銅器の特徴がよく表れているとされています。
『大阪市立美術館蔵品選集』(以下、『選集』)P247所収。大阪市立美術館サイトの画像はここ。
なお、集「爐」と名づけられた戦国晩期の器はここ。
(2) 青銅 銅錯 雷文 鍑 (せいどう どうさく らいもん ふく)
釜に似た、口の大きな器で、やや口はすぼまった形をしています。
前回、「鍑」についていろいろご質問があったそうなので、簡単にお話します。(石野注 先月もギャラリートークがあり、ここはMさんという女性の方が解説されたようだ。私は礪波教授の講演会に行ったために欠席したので、その時、どんな質問が出たか、なつのなかさんに教えてもらっていたのである)
鍑(ふく)の定義については、先ほど紹介した廣川守氏の資料では、「深い直線的な胴の下部が急にすぼまった身に、圏足のついた器」で、肉などを煮炊きする北方民族特有の器とありますが、本件の器形とは明らかに異なります。
本器に対する説明としては、『選集』の「口がすぼまり腹部が丸い三足器を鍑という」の方が近いのですが、そうすると、いわば鼎の一類型のようなものでしょうか。
『選集』には、「上に甑(こしき)を重ねて火にかけ、蒸し器として使用した。また、後代には湯を沸かして喫茶の用に供することもあった」とあります。
そうすると、殷周代に多用された、三本の袋足がつく「鬲」(れき)とか、戦国時代中期以降に鬲に代わって用いられるようになった「釜」(ふ)に用途は似ていることになります。
そう言えば、子供の頃読んだ「文福茶釜」という絵本で、狸が茶釜から足を出していた絵に似ている気がします。
(石野注 この後、再度、器名で「鍑」が適当か否か、論議があったのだが省略する)
胴部に、三本の横帯状に雷文が施されています。
「雷文」とは、『広辞苑』では、「方形の螺旋状文様。〜数個連続するのが特色〜卍繋ぎ、紗綾形(さやがた)、稲妻模様などともいう」と説明されています。
ラーメン丼の縁についている文様というのが一番わかりやすいでしょう。
中野美代子氏の『中国の妖怪』(岩波新書)には「雷文の起源は、殷周代の青銅器よりずっと古く、紀元前三千年前後のいわゆる仰韶文化末期の彩陶に、すでに頻繁に描かれている」とあります。
さらに同書では、渦巻文様が雷文の起源ではないかとしています。「渦巻」は、自然界の中にも渦潮、貝殻など広く存在し、連続する運動、無限や循環を象徴するもので、人間が本能的に描く文様のパターンといえます。
そして、そうした渦巻を静止させ、曲線を直線に抽象化したのが雷文の基本形だとするのです。
→HP「うまか陶」における説明文は、ここ。
肩に左右一対の獣面付きの耳がついています。ただ、その環状の部分はごく小さいもので、それだけではほとんど用を成さないので、『選集』の解説にあるように、獣耳に鐶が付いていたが、既に失われてしまったとみるべきでしょう。
戦国時代の作と考えられています。
『選集』P246所収。
(3) 青銅 蒜頭瓶 (せいどう さんとうへい)
ニンニクや野蒜の球茎のような頭部をした瓶なので、蒜頭瓶(さんとうへい)といいます。
口の部分の形がミカンにも似ているので、柑子口瓶(かんしこうへい。「かんし」又は「こうじ」は蜜柑のこと)という呼び方もします。
(参考画像 蒜頭壷(秦)はここ。 曲頸蒜頭壷(戦国晩期)はここ。)
「瓶」(へい)という名称は、陶磁器ではよく用いますが、青銅器として用いられる例は稀です。
一方、「壷」(こ)という名称は、青銅器でも陶磁器でもよく用いられます。
前回のギャラリートークの際に、「瓶と壷の区別について」の質問があったとのことなので、これも少しお話します。
一般に細長い頸をしていたり、口径が胴部より相当小さい場合は「瓶」と呼ぶことが多いので、この作品を「瓶」と呼ぶこと自体は自然です。
いずれも陶磁器の例ですが、細長い頸の「瓶」としては、根津美術館所蔵の青磁筍花瓶、類品として、東京国立博物館所蔵の三彩龍耳瓶などがあります。
胴部に比べ口径の小さい「瓶」としては、吐魯瓶(とろぴん)と呼ばれる大阪市立東洋陶磁美術館所蔵の白磁銹花牡丹唐草文瓶、梅瓶(めいぴん)と呼ばれる東京国立博物館所蔵の白釉瓶などがあげられます。
逆に、胴部に対し比較的口径の大きい「壷」としては東京国立博物館所蔵の青花龍涛文壷などがあります。
ただ、東京国立博物館所蔵の青磁j形瓶のように頸もなく口径が大きくても「瓶」と名付けられているものもあります。
また、大阪市立東洋陶磁美術館所蔵の緑釉壷のように前述の龍耳瓶に似た形でも「壷」とされているものもあります。
口径が胴部の何%以下なら「瓶」だとか、頸が何cm以上なら「瓶」だとかいう明確な基準があるわけではないので、判別は難しいようです。
解説によると、この器形は戦国時代末にはじめて作られたもので、前漢に入って間もなく姿を消す。秦の勢力圏を中心にみられる、いわば地方作である。
作例も少なく、秦文化の象徴ともいえる、とあります。
よって、この器形だけで、秦〜漢代の作と判断できることになります。
陶磁器の例ですが、器形の参考として、「中国古美術太田」:「青磁」02の青磁柑子口瓶(元)、「古美術Art双川」の灰陶加彩蒜頭瓶(後漢)などがあります。
(4) 青銅 鍾 (せいどう しょう) 1対
漢代の作と考えられています。
『選集』の解説によると、「酒や穀類を入れる壷である。戦国時代の「壷」の形態から派生し、陶、漆、青銅」など種々の材質でつくられた、とあります。
漢代には「鍾」と自銘するものが多いため名称として用いられていますが、廣川氏の資料にも「壷」(こ)と自銘された器と形状や用途が大きく異なっているわけではなく、判別は困難であると書かれています。
なお、同資料(秦・漢代)には、「鍾」の形状として、「腹が張り、口がわずかに外に開き、圏足のついた器」とされており、「壷」には「蓋をもつ」の一句がついている点ぐらいしか違いがありません。
『選集』の解説には、実用器や宗廟の祭祀用の器(彝器=いき)に用いられたが、本作は「寸法から推して、実用器ではなく、彝器あるいは墳墓に埋葬する模器であろう。同様に小寸の鈁や鼎があり、一具を形づくっていたのだろう」ともあります。
「鈁」(ほう)というのは、同資料(秦・漢代)には「横断面が方形」の鍾だとしていますが、殷・周代の資料では「鍾」の記載はなく、「壷」は、殷後期頃から作られたが、当初は断面が楕円形のものが多く、西周後半期になって円形や隅丸方形の器が出現し数量も急増したとあります。
高さは17cmほどですから確かに小さいですが、実用に使えないこともないだろうと思います。
しかし、小ぶりではあることはまちがいありませんし、「一対」になっている点や、装飾(文様など)がほとんどないシンプルなデザインである点を考え合わせると、副葬用ではないかと思われます。
蛇足ですが、私は最初、なぜ壷が、殷・周代の楽器と同じ名称なのだろうと勘違いしていました。皆さんは間違えられないでししょうが、「鐘」と「鍾」は、同じ「しょう」で字形も似ているのでご注意ください。
※ 参考
建昭三市鍾(前漢)はここ。
雙輔首鍾(前漢)はここ。
中山内府鍾(前漢中期)はここ。
北寖鍾(秦)はここ。
『選集』P248所収。
参考として、陶製の明器の鍾(褐釉 鍾 前漢末〜後漢初期)について、大阪市立美術館サイトの画像ではここ。
また、平成11年の展示会のHPなので、いつまでリンクが切れずに残っているかわかりませんが、青銅製の非常にきらびやかな鍾(青銅鍍金銀 蟠龍文鍾 前漢 中山靖王劉勝墓出土)の画像はここ。
(5) 青銅 鍍金銀 洗 (せいどう ときんぎん せん)
漢代の作と考えられています。
鍍金とはメッキのことで、水銀に金を溶かし込み、ゴム状の水銀アマルガムをつくり、器に塗りつける。そして、器の表面を加熱すると、沸点356.6度の水銀は気化してしまい、薄い金の被膜で覆われるというわけです。
「洗」というのは、廣川氏の秦・漢代の資料では、「広口の鉢形器で、水たらいとして用いられた。内底に文様をもつものが多い。
宋代以来「洗」と呼ばれているが、自銘器はなく、むしろ銅汗(盂)」という銘が見られ、盂とすべきである。盂は殷周青銅器礼器に見られ、これはその伝統を引き継いだものである」としています。
一方、同氏の殷・周代の資料では、「鑑」として「広口で深鉢状の大型盥(たらい)で短い圏足をもつものが多い。〜耳のないものを「洗」として区別している。〜「鑑」あるいは「金鑑」と自名する」となっています。
また、「盂」の項目では「圏足のついた深鉢で、胴が外に向かって直線的に広がる器。身の側壁に対の把手がつく。〜全体の形が簋(き)に似て区別が困難なものも見られる」とあります。
「盂」はゼミの資料では盛食器となっており、水器の「洗」とは、やや器形が異なるように思います。
たとえば、この盂 (西周)を縦に押しつぶすと、この恭王牆盤(西周中期)と似た形になるのではないでしょうか。
どうも感覚的に、盂は大きな耳の印象が強いので、盤との共通性は感じられても、耳のない洗との関連は、もう一つしっくり来ません。
陶磁器において「洗」というのがありますが、こことか故宮のそれなど、三足で浅いものが多いようです。
本器は、まさに小型の金たらいという感じがするので、まあ「洗」と呼んでもいいのかな、と思います。
ちなみに、本器に似た感じのものとして、漆絵人物魚龍文盤(前漢早期)がありました。これも「盤」と書かれているので、「洗」と呼ばれる青銅器の画像がないか、今後も調べてみたいと思います。
内部底面(見込み部分)には、細い線刻で大きな円と、その円の外周を取り囲むように三角形が放射状に並んでいて、ちょうど太陽のマークのようです。
鍍金の色が全体によく残っており、直径は15cmほどで、薄手のつくり。全体の雲気文と相まって、瀟洒な感じがします。
器の両脇に、ごく小さな鐶耳がついています。
(6) 青銅 犀 (せいどう けい)
漢代の作と考えられています。
「犀」というのは、非常に珍しい器形名称です。廣川氏の資料には出てきませんし、インターネットなどで調べてもなかなか類例が出てきません。
受講生の中で、これはお経を入れる「経筒」に似ているという意見がありました。経筒の実例としては、例えば高男寺経筒や奈良国立博物館所蔵の金銅宝幢形経筒などがあります。確かに本体の形は似ているのですが、把手や足がついている経筒は、現在、私は確認できておりません。
※ 参考
鳳文筒形卣(西周早期)はここ。
立鳥人足筒形器(西周)はここ。
楊姞方座筒形器(西周晩期)はここ。
犀足筒形器(戦国中期)はここ。
漆絵人物禽獣文筒(前漢早期)はここ。
(参考の参考 上記はいずれも、足はあっても把手がない。把手があるのは足がない、といった具合に本器と全く同じのものは見つけられなかった。
で、ギャラリートーク本番の今日、集合時間の2時まで、2回目の「中国書画名品展」を鑑賞して、売店をのぞいたら「よみがえる漢王朝」展の図録が売られていた。この展示会は99年4月から6月に、ここ大阪市立美術館で開催されていたらしい。
先ほどのきらびやかな鍾の画像は、本展示会から引っ張ってきたので、何となく図録を立ち読みしてみた。
すると・・・犀そのものズバリが2点も掲載されている!
運命的な出会いを感じ、即座にその図録を購入した。
あと15分遅かったら、もう開始時間になってしまい「結局、このような犀の画像は見つけられませんでした」と言わざるを得ないところだった。)
いわゆる温酒器の一種であると解説に書いてあります。
把手は龍首の形。
鎖鐶がついており、この鎖で持ち上げて火にかざしたり、持ち運んだりしたのでしょう。
円鈕付きの蓋には龍が身体をくねらせ、からみ合った蟠螭文(ばんちもん)が施されています。
また、器の底部には熊足が3箇所ついています。
時間の関係もあって、実際にしゃべったのは上記内容からだいぶはしょった。
私が担当した展示物以外の解説については、また後日にアップしたい。
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