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青銅器(12)平成16年度美術史ゼミナール「中国の青銅器」第4回その2資料編その1
1 はじめに 平成16年度美術史ゼミナール「中国の青銅器」という講座の、備忘録程度の受
講録。で、第4回ゼミの受講録その2に関する資料編その1。
2 本日のテーマ
今日のテーマは「戦国〜漢時代の金工について」。
今回は、「3.紋様」で、「T字形帛画」を題材に、文様あれこれを考えていく。
3 T字形帛画
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1972年、中国湖南省長沙で、いわゆる馬王堆漢墓が発見された。
馬王堆とは、馬王の塚、墓跡といった意味。そして、馬王とは当初、五代十国時代の楚王の馬殷(907〜930)と考えられていた。
そこから、四層の棺や様々な副葬品が出土したのである。
最も外側の棺は黒の油漆塗りで文様はなかった。
第二、第三の棺は鮮やかな彩画が描かれていた。
第三の棺の蓋を取ると、色鮮やかな帛画が現れた。
さらに、第四の棺を開けて現れた婦人の遺体は、2000年も前のものであるにもかかわらず、弾力性を残していたことで知られている。
さて、ここではその帛画に描かれた文様について順に見ていきたい。 |
上図は、いわば、その全体見取り図である。「T」の形をしているから、T字形帛画である。
なお、文様の解説については、『古代中国を発掘する』(著:樋口隆康。新潮選書)及び『故宮』第1巻(著:陳舜臣ほか。NHK出版)を参照した。
1.上部
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帛画の上部について。
わかりやすいよう、左図のようにアルファベットをふっておく。 |
まず、上部中央、「A」の部分について。
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左図では色はわからないが、衣は青で、腰から下は赤い蛇身となっているらしい。
この帛画は天上界、地上(現世)、そして地下の世界を現しているそうだ。
つまり天上界中央に描かれたこれは、相当大物の神であることは予想がつく。 |
人面蛇身の神として著名なのは、伏羲(ふっぎ)と女媧(じょか)。
孫作雲氏は伏羲説を、林奈巳夫氏は女媧説を唱えているそうだ。
伏羲と女媧というと、男女向かい合って、下半身は蛇の尾をぐるぐると絡み合わせた姿の図を見たことがある。(『中国の歴史(1)』(著:陳舜臣。講談社文庫)P23トルファン出土彩色絹画参照)
また、安志敬氏は『山海経』にでてくる「人面蛇身にして赤色をなし、天上を主宰する神」である燭龍とみているそうだ。
なお、『中国の妖怪』(岩波新書)で中野美代子氏は「帛画の上部中央にいる人身蛇尾の神は〜女媧であろうという説が有力である。〜曽布川寛氏は『崑崙山への昇仙』において、「崑崙山直上の天空にいる天帝」であるところの女媧であるとした」と書いている。
続いて、上部左側、「B」〜「E」。
「B」は三日月、「C」は蟾蜍(せんじょ。ひきがえる)。「D」は兎。「E」は嫦娥(じょうが)。
月を現すのに満月でなく三日月なのは珍しいとのこと。
もっとも、以前漢代の陶磁器で明器の「竃」(かまど)を見たことがあるが、それの文様は三日月だった。
嫦娥は、後で出てくる后羿(こうげい)という人物の妻。
西王母から不死の薬を盗み、月に逃げたが「ひきがえる」の姿に変えられたという伝説がある。
上部左側の龍の翼に乗って月を見上げているのが変身する前の嫦娥。 |
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続いて、上部右側の「F」。
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赤い太陽の中に、黒い烏が描かれている。
この烏を金烏というらしい。
ちなみにさとうしんさんのサイトは「金烏工房」という。けっこう金鳥工房と間違われたりもしている。蚊取り線香じゃねえってえの。
後漢以後は三本足の烏が多出するのだが、これは二本足。 |
続いて、この上部右側の太陽の下、扶桑の木にからまっている龍がいる。
そして、龍の体の上に4個、尻尾近くに1個、体の下の方に3個の赤い丸が見える。
帝俊の妻羲和が太陽を十個生んだ。最初のうちは規則正しく昇っていたが、ある日悪戯心で一斉に天に昇ったため人びとは日照りに苦しんだ。
そこで弓の名人后羿が、九つの太陽を射落とした、という伝説がある。
金烏がいる大きな丸が残った太陽で、小さな丸が射落とされた太陽だという説があるらしいが、惜しいかな、数が1個足りない。 |
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さて、上部中央の、「A」=女媧(?)の下のあたり。「H」を見ていこう。
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『古代〜』には「熊か鼠のような顔をした獣首人身の怪神が、これも、鹿か馬かはっきりしない動物に騎(の)って、鐸(たく)の両側から紐を引っ張って鳴らしている。鐸の柄の上には鉢があり、その上に盛られた穀物を、二羽の飛鳥がついばんでいる」とある。
騎られている動物は天馬という説もあり、また、孫作雲氏は飛廉(ひれん)説を唱えているそうだ。 |
また、騎っている側は、孫氏は熊の皮を被った方相氏(呪術師)とし、『古代〜』著者の樋口氏は音楽に関係する神仙であるとしている。
続いて、その下。逆Tの字形のものが二つ見えるが、これが天の門。
上部に豹が乗っているが、『楚辞』に豹が天門を守っているという一節があるそうだ。
門の内側に2名の人物(=「I」)が対座している。
『故宮』には、「天上の門の入り口には、司閽(しこん)という守門神が儒教の礼にのっとり、拱手して魂の到着を待ち受けている」とある。
また、運命の神、司命であるという説もあるようだ。 |
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では、天上界はこの辺にして、下界に下りよう。
まずは、中央部の見出し。
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先ほどと同じく「J」から「R」までアルファベットをふってみた。
まず「J」は、華蓋(かがい)。『故宮』では「天上の世界の入り口を塞ぐ扉」とあり、『古代〜』では、単純に「M」らがいる建物の屋根だとしている。
華蓋の上には、2羽の鳳凰が向かい合ってとまっている。 |
続いて、華蓋の下の「L」。
『古代〜』では「顔は猿のようで、耳があり、コウモリかミミズクが翼を広げて飛んでいるといった格好である」としている。
私は、最初「蛾」かな?と思った。
この怪鳥、神禽の飛廉という説もあり、不祥の象徴、鴞(ふくろう)という説もあるようだ。 |
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二匹の龍の頭(=「P」)が見える。『故宮(1)』のカラー口絵によると、向かって右が赤龍、左が青龍である。
二匹とも上を向いており、「M」らを載せて、天上界に向けてぐいぐい上昇している感じである。
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中央部の群像のうち、最中央の「M」が、女主人、被葬者である。
後ろに控えているのが三人の侍女=「N」。
女主人の前では二人の男性(=「O」)が跪いており、特に前列は盤を捧げている。 |
このシーンは、盤に食物を乗せて主人にすすめている場面だとも、天界からの使者の挨拶をうけている迎接の場面だともいわれている。
群像の足下からは道路といわれる部分がやや斜めに走って、璧(へき。=「Q」)に続いている。
龍身は壁を貫いて左右交差している。
道路の両側には豹が一頭ずついる。 |
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璧には繸(すい。リボン)が結び付けられている。
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繸は両側に広がっているが、その上に人面の怪鳥(=「R」)がとまっている。
これは、人の寿命を司る句芒(こうぼう又はくぼう)だと考えられている。 |
上図には、少ししか写ってないが、繸の真下には逆Vの字形の玉璜(ぎょくこう)がぶら下がっている。では、さらに下部へ。
それでは、下部の見出しを。
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玉璜の下では、料理や人物が並んでいる。位置的には「S」の部分。
『古代〜』の説明が詳しいので引用する。
「前景には〜台の上に、三つの鼎と、二つの壷が並んでいる。その奥の方に、人物が三人ずつ対座している。 |
長冠をかぶり、袍を着、拱手している。左側には、三人の後にもう一人が控えている。
〜対座している六人の人物の間には、文様のある何か長いものが置かれている。これは御馳走に、錦の袱(風呂敷)をかぶせたものだろう。
〜最奥部には、白い台の上に食器が並んでいる。右に敦(たい)が二個、中央には壷と杓が一つ、左に耳杯が四個、積み重ねてあり、その上に杓が三本のっている。」
この場面は、『故宮(1)』では、「地上では宴会が開かれている。〜死者を送る宴なのか、参加している人びとは神妙な表情で畏まっている」とある。
また、『古代〜』では、宴会のシーンであるという解釈もあるが、一般に宴会の場面では雑技や歌舞を一緒に描いていることが多いが、ここではそういうものがないから、饗宴の準備をして待機している「供膳」の光景と見るべきではないか、としている。
思うに、死者を送る宴なら、雑技や歌舞がなくてもおかしくないのではないか。
見ると、同じ拱手であっても、右側の三人はやや腰をかがめ、左側の人に礼をしているように見える。とすれば、単なる待機でなく宴会が始まっているように思える。
さて、次に「T」の部分。
裸の大男が台を支えている。
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ヒゲもじゃで笑ってる。腋毛も生えている。
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『古代〜』では力士としており、『故宮(1)』では、「冥界の神の土伯だという説もある」としている。
だいたい、この台の下が地下の世界ということになるのだろうか。
大男の横には、スカーフというかリボンを首にまいた蛇(=「U」)がいる
。
次に、大男から少し離れた左右両側、「V」の部分。
大きな亀がいる。首にはやはりリボンを巻いている。
口には、霊芝か雲気のようなものをくわえ、背中には鴟鴞(しきょう。ミミズク)がとまっている。 |
最後に力士の真下、「W」の部分。
怪しげな魚が二匹交差している。
魚というのは発音が「余」、つまりお金があり余るなどに通じ縁起がいいとされている。
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よって双魚文などがあるが、この魚は、肉食の熱帯魚に似たようなやつがいるが、ワニみたいで不気味。
怪魚の尾の上には、羚(カモシカ)のような角をもち、鼠のような顔をした怪獣が、お互いに「よお〜っ!」って感じで手をあげている。
2.その他補足
なお、冒頭で、この墓は当初五代十国時代の馬殷の墓と考えられていたと書いた。
現在では、副葬品などから、出土したこの婦人は、前漢時代の長沙相である軑侯(たいこう)利倉(出土品の中には「利蒼」となっているものもある)の第一夫人とする説が有力である。
それでは、皆さんごきげんよう♪
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