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青銅器(10)平成16年度美術史ゼミナール「中国の青銅器」第3回その5

1 はじめに

 平成16年度美術史ゼミナール「中国の青銅器」という講座の、備忘録程度の受
講録。で、第3回ゼミの受講録その5。


2 本日のテーマ

 今日のテーマは「殷周時代の青銅器について」。
 内容は、
1.製作法
2.青銅器の誕生
3.器形・名称・用途
4.文様
5.銘文
6.地方性・・・・・の6項目。うち、「6.地方性」について、資料では「四川省三星堆、江西省新干県」とあったが、説明はなかった。

 順次、概要を紹介していく・・・ということでスタートしたのだが、今回は「5.銘文」から。



3 講座内容の概要

3−(5)−1 銘文:金文

  O先生からいただいた資料には、金文の実例がいくつも載っていたので、それは資料編で扱うこととする。


3−(5)−2 金文の変遷概説

 金文とは、青銅器に鋳込まれた銘文のことである。
 甲骨文は、占卜に用いる亀甲や獣骨に刻み込まれた文字をいう。
 時代については、『漢字百話』(著:白川静。中公新書)に「殷の武丁期から殷末まで〜また西周期は殷周革命から周の東遷に至るまで〜この両期と春秋前期の7、80年を合わせて約600年に及ぶ時期が甲骨文・金文の時代、文字がその成立した本来の形象と表記意識を失わずに伝承していた時期」とある。

 『金文の世界』(著:白川静。平凡社東洋文庫)には、殷代の青銅器は「ほとんど銘をもたない。銘を付しているものも、図象的な標識や、祖丁や父乙のように父祖の名号のみを刻している」とある。
 安陽期のはじめ、武丁期の甲骨文に既に長文の刻辞の例がある。刻むべき文字は存在した。
 では技術的問題か?いや、青銅器の器面に複雑な文様が表現できるのに、文字を表現できない筈はない。

 この理由を、前記『金文の世界』では端的に「『言あげ』を必要としない時代であった」としている。
 要するに、祭祀が無事に執り行われることが大事であって、くだくだしく誰がどんな経過で造ったなどを祖霊や神に対して申し立てる必要はないということだろう。

 それが、やがて氏族の標識を加え、特定の父祖の名を刻するようになった。

 殷末になると、長文の銘も現れてくる。「作器の由来をしるし、またその目的を明らかにした〜概ね王室に対する勲功によってよって賜与を受け、その寵栄を記念し、これを祖霊に告げて祀ることを述べた」銘文は「祖霊とそれを祀る氏族との間に、王室との政治的な関係が媒介的に強くはたらきはじめたことを意味する」。

 「殷の支配は〜政治的というよりもむしろ宗教的な性格のものであった」が、周の「支配の原則は政治的な服属の関係であり、君臣の関係」であり、王室との関係を彝器に銘した。

 西周期の貴族社会の基盤は経済力であり、軍事力であったが、それを反映してか、土地関係の銘文がかなり多くなる。



3−(5)−3 図象標識

 殷代の彝器で古い時期のものはほとんど銘刻がなかったが、やがて図象的な標識が刻されるようになった。

 こうした標識は、氏族の標識であろうと考えられている。

 『金文の話』では、図象標識は(絵)文字とは区別すべきだとしている。絵文字は、様々な内容の伝達を目的とするが、図象標識は専ら氏族の表示にだけ用いられるからである。

 図象には子を翼戴する(「金烏工房」のさとうしんさんによれば「高い、たか〜い!」の形)析子孫形というものがあるが、これは王孫とか親王家を意味すると考えられている。

 また、いわゆる「亜字形標識」と呼ばれるものがある。これは、「亞」のような形、つまり四隅を欠いた方形の中に図象が描かれているものだ。
 これは、『漢字の世界 2』によれば「明らかに墓室の形である。殷墓をはじめ、棺槨をおく玄室は、多く四隅をおとした亞字形につくられている。従って亞字形図象をもつものは、この墓室の儀礼に関するものとみてよく、もと聖職を掌る氏族であった」としている。

 図象の種類は代表的なものだけでも300種類を超えているそうだ。図象標識は身分関係や職能を表示するものであり、それがひいては氏族の名号ともなっていったと考えられる。




 短めの「銘」については、資料編の(1)、図象標識については、資料編の(2)で、やや長い金文の例については、資料編(3)で見ていただきたい。

 それでは、皆さんごきげんよう♪ 


 

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