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(No91) 東西落語特選 ビデオ鑑賞記 その1   

 いつのビデオ収録かも分からない。とにかくめちゃめちゃ昔なのは間違いない。
 


(1) 古今亭志ん朝 「幾代餅」

 
搗き米屋の若い衆清蔵は、仕事一本の堅物だったが、ある日寝込んでしまった。
 親方が心配して事情を聞いてみると、たまたま吉原の幾代大夫の錦絵を目にしたところ、世の中にこんな美しい女性がいるものか、と恋におちたとわかった。

 大名道具と言われる吉原の大夫の中でも一番の売れっ子幾代大夫に、小僧風情が思いを寄せても仕方ない。
 親方は、ひとつ1年死んだ気で稼げ。1年たったら吉原に連れていってやると約束。

 1年後、13両2分まで給金を貯めた清蔵。親方は、20両まで貯めて商売の元手にしろとすすめたが、清蔵は聞く耳を持たない。

 あきらめた親方は、1両2分足して15両にしてやり、身支度も整え、指南役として近所の藪医者まで声をかけ、「15両残らず使ってこい。ただし、幾代大夫といえば当代一の売れっ妓だ。会ってもらえなくても変な気を起こすんじゃねえぞ。今日一晩ですっぱりと思いをたちきるんだ」と送り出す。

 藪医者は、野田の醤油問屋の若旦那という触れ込みにしようと考えた。

 どう気に入られたか、一晩を共にして翌朝。
 
清蔵は、自分を偽りきれず、金持の若旦那というのは会ってほしいがためについた嘘だ。実はこれで一文なしだ。一生懸命働いて、また1年後に来るから、その時は嫌な顔をせずにまた会ってやってほしいと打ち明けた。

 幾代大夫は涙を拭い、人情が紙より薄い世の中で、まことをみせてくれたことに感動し、来年3月に年季が明けたら
「・・・女房にしてくんなますか?」
「ええぇ〜?そら、くんなますよ!大くんなますよぉ〜!!」

 
夢見心地で帰ってきた清蔵。
「どうだ?清蔵。会えなかっただろう?」
「いえ・・・・会えました。それどころか、来年の3月には、女房にもらってくれって・・・・・うちの幾代が」
「お〜い!清蔵、よけいおかしくなっちまったよぉ〜!!」

 約束通り翌年の3月に二人は夫婦になり、源氏名をとって「幾代餅」という餅屋を開いてたいそう繁昌し、幸せに暮らしたというおめでたい噺。

 純情な清蔵、男気のある親方、そして傾城ながら「まこと」を見抜く目もあり、自らも「まこと」があった幾代を、志ん朝が実にテンポよく、爽やかに演じていた。



(2) 桂米朝 「本能寺」

 
鳴り物が多い「はめもの」と言われる芝居噺・・・・というより芝居、歌舞伎などの最上の入門教材になりそうな作品。
 この頃は歌舞伎も、坂東玉三郎さんや片岡孝夫さんとか市川猿之助さんら、若い方の活躍で人気が盛り上がってきました。

 海老蔵改め団十郎の襲名・・・なんて話題もありましたしねぇ。

 橘円都さんゆうて、90くらいまで長生きしやはった師匠がいたはったんですが、昔から男前の子がおったら、歌舞伎役者にしたらどないや?ってゆうて、不細工な顔してたら噺家にせえゆうたもんやてな話をされたことがあって、「ははぁ、それで円都師匠は噺家にならはったんですか?」とゆうて、えらい怒られたことがあります。

 まあ、向こうはとにかく金がかかってますからな。顔を塗るんでも、下塗り、中塗り、上塗り・・・・・って上等の壁みたいになってます。

 目が小さい人は目針ゆうのを入れると大きゅう見える。目が垂れてても、羽二重でつり上げることができる。頬がこけてたら、ふくみ綿。眉の形が悪けりゃ、描けばええし、顎が長けりゃ、チョンナ(手斧)で削る・・・・・。こんだけやって不細工やったら、相当のもんでっせ。

 そこ行くとわたしらは正味で勝負でっけど、わたしらで名人が三代続くゆうことは、まぁない。ところが、向こうは何代も続く。そら何でや・・・とゆうと、私らは一人でやりますわな。
 芝居は大勢でやりまっさかい、周りで盛り立てるゆうことができる。
 小さい時分から子役で出して、だんだん儲け役に付けていって、周りをしっかりした役者で固めてたら、知らん間に「あの大根が・・・・」ゆうてたんが名優に仕立て上がってしまう。 

 芝居の方は「型」ゆうものがおまっさかい、それに従ってると「型」にはまる。
 子役ゆうのは棒を呑んだような演技、台詞も抑揚をつけん方がええんです。
 観客も子役が出てきたら、最初から泣く準備してますからな。
 子役が泣く時は、下手にリアルな演技をせん方がええ。
(両手の平を水平に構え)目ぇと手ぇの間は10cmくらい離しまして、手を動かさずに顔の方を動かすと子役の泣き方になる。

 立ち役は鼻で泣くと申しまして、主人の危急に家来が駆けつける。こら主人と家来といいじょう
(いいながら)、こっち(家来)が主役ですからな。で、あれは必ず間に合わんタイミングで来るんです。

 「お痛わしや・・・」なんぞと言いながら、手拭いを鼻のところに左右順番にあてがう所作。

 家老などでも、両手に持った手拭いを目までは持っていかず、鼻まで。

 「おばあさんは田楽泣きと申しまして・・・・」と手拭いで扇ぐような所作。

 お姫様は、手の平を客に見せると泣いてる所作に見えると、一度やってみせ、逆に甲を見せるとどれだけ不格好かを演じてみせる。

 さて「団十郎襲名」なんて単語が出ていたが、昭和60年頃の録画なんだろうか?


 よぉ入場料のことを木戸銭といいますが、あら入るだけのお金なんですな。追い込み場ゆう場所なら木戸銭だけでええんですが、そんなとこはすぐ一杯になってしまう。で、しゃあない、二階へ上がろうとすれば別に金がいる、そうゆう仕組みでした。

 で、そうした木戸銭も払おうとせんのを青田と呼んでおりました。
 青田とゆいますと、今では減反政策でありますとか、卒業前に就職させること・・・ということになりますが、私らで青田ゆうと金にならんことをいいました。
 きゅうりが相撲を見に行ったゆう噺がありましてな。しゅっ!とただで入ってしまいよった。それを見てたなすびが自分も入ろうとしたら止められた。何でや、今入ったやないか、ゆうたら昔からゆうやろ、「きゅうりのすもみ
(相撲見、酢もみ)」て・・・・・てな噺がございます。



 昔は、実名を出すとお上からお叱りを受けたそうで、「三日太平記」でも明智光秀は武智光秀、羽柴秀吉は間柴久吉、加藤清正は佐藤正清、織田信長は小田治長などといたしました。

 幕が上がりますと、掃除をしている坊さん。こら筋には関係ないんですが、最初はどうしてもザワザワしてるんで、坊さん二人がごちゃごちゃしゃべってたら段々静まってくる。ミョウバンみたいな坊さんでして、さて、用意がよかったらぼちぼち行きましょうかな。

 袖のお囃子さんに声をかけて、本編へ。手拭いを掲げ、片手で順々に畳んでいく。幕が引かれていくさまを表現しているのだ。

 舞台両側に四人ずつ計八人が並び、左側、右側と交互に千鳥に台詞を言う「割り台詞」というのを指を並べて説明する。
 そして、最後全員の台詞では、指を全部倒して見せる。

 続いては、「申し上げます」という取次ぎの侍が出てくる。

「申し上げます」
「何ごとじゃ?」
「・・・・申し上げます」
「?何ごとじゃ?」
「申し上げます」
「え?」
「あのなぁ・・・・・・・忘れた。わい、楽屋で弁当食てたんや。そしたら取次ぎ役が、腹痛いから代わりに行けて。
 あ、せや。書いてもろてたんや」

 棒読みの台詞を言い終えて引っ込む「代役」に、客が「ご苦労はん。弁当の続き、食べや」と声をかける。

 続いて光秀の登場。人気役者なので「待ってました!」の声がかかる。客席で弁当を食べていた男も慌てて声をかけたものだから、前の席の男が「弁当食いながら怒鳴りなはんな!わいの首筋、まま粒だらけや」と怒る。

 蘭丸が殿の意向を受けて、光秀を「御意!」と言いつつ鉄扇で打ち据える。 

 もう終りかいなぁ・・・と光秀が顔を上げたところを、鉄扇で烏帽子をぽ〜んとはねのけ、鉄扇の要(かなめ)の方で、眉間を・・・「御意!」  

(光秀は、額を手拭いで押さえ、血が出ていることに)ぷぅっ〜!!

 あれはたいがい吹きまんなぁ。間違
(まちご)うて吸うた奴がおったが、こら、あかん。何やアホがトロロ食てるようで。

 大立ち回りへ。
 両側から突き出された槍を両手でつかんだ、という形で見得を切り、そのまま相撲で言う蹲踞(そんきょ)の形で少しずつ回っていく。
 続いては広げた扇子をゆっくりくるりと回し「回り舞台がくるりと回ったところ」と解説する。

 一番前で見ていたおばあさんが、孫の土産に生きたイナゴをたくさん紙袋に入れて持っていた。
 芝居に夢中になっている間に袋の口が開き、立ち回りをしている役者の所へ次々とイナゴが。

「なんで、こないイナゴがぎょうさんおんねん?」
「ああ、どうやら、前のお客が青田らしいわ」

 


(3) 立川談志 「蜀山人」

 
ヒゲ・・・・・なくなっちゃってね。なくなったっつっても、盗られた訳じゃない。自分で剃
(す)ったんだけど。
 バクチなんざ、やらねぇから、金をするこたぁないけどヒゲは剃
(す)れるんだ。

 大して意味はなくてね。ヒゲがあると女性なんかが演じにくいてことはあって、じゃあ剃ればってんで・・・・・ただ、めんどくさくて。

 すべてめんどくさくてね。今、自分、幸せだから。・・・・経済的にね。
 近頃、あまり仕事がないの。ギャラが高いからね。一席2000万・・・・・とは言わねぇけど、50万よこせ!くらいのことはゆうからね。
 でも、おいら金があるから慌てない。ほんとだよ。何なら郵便局の預金通帳見せようか?・・・・郵便局の通帳ってとこに限界を感じるけどね。

 「元日や 我が女房に ちょっと惚れ」ってのは川柳子が詠んだんだけど。

 啄木は「何となく 今年は良いこと ある如し 元日の朝 晴れて風なし」。

 「めでたさも 中くらいなり おらが春」ってのは、一茶らしいね。


 一休てのは皮肉だからね。「正月は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」って、そりゃそうだな。少しずつ死んでくんだから。

 一休はトンチの名人と言うが、「”はし”は通らない。真ん中を・・・」ってあんまりおもしろくないよな。円鏡のギャグ程度だ。

 トンチの三名人とか言って、一休で次が堺の曽呂利新左衛門
(そろりしんざえもん)。こら、トンチってより、ヨイショだな。
 ご臨終の・・・・正月だってのに、死ぬだのご臨終とか。言っちゃいけないと思うほどに出るね。
 ご臨終間際に太閤さんがお見舞いに来たらしいんだな。そしたら「ご威光で 三千世界が 手に入らば 極楽浄土は 我に賜れ」って詠んだそうだ。こら、小益や志ん駒は目じゃないね。

 「小益」、「志ん駒」はそれぞれヨイショ(調子のいいおべんちゃら)で有名な桂小益、古今亭志ん駒のこと。後者は『ヨイショ志ん駒一代』という本が出ているらしい。
 それと前者は何と現在桂文楽を襲名したが、「セコ文楽」とか「ペヤング」と呼ばれているそうだ。

 三人目が蜀山人。こら文士だ。本名太田直次郎。号は南畝(なんぽ)。落語の元祖・・・ってな言い方をされることがあるがね。
 昔は国ってぇと中国とインドと日本しかないと思われてた。唐、天竺
(から、てんじく)と日の本(ひのもと)だな。だから三国一の花嫁ってぇと世界一という意味だ。
 なぜ、蜀山人と呼ばれるかと言うと、中国に狂歌を送ったんだな。「唐人も ここまでござれ 天の原 三国一の 富士が見たくば」ってね。すると、ニイハオ〜ってんで返事が来た。それが、当時「四方山人」
(よもさんじん)て名乗ってたんだが、宛名で「四」と「方」が重なって、「蜀山人」と書かれてたんで、それから蜀山人と名乗るようになったらしい。
 「四」と「方」がくっついて「蜀」ってのが、も一つわかんない。

 昔は宛名が違ってても手紙が着いたんだね。おいら、南大泉に住んでんだが、「南」って文字が抜けただけで届かないよ。こんなとこでグチ言ったってしょうがないけどね。

 蜀山人は寛延2年3月3日、お節句だね。牛込中御徒町
(おかちまち)に生まれた。
 19歳で『寝惚先生』
(ねぼけせんせい)って本で有名になったってゆうねぇ。偉い奴は若いうちからいいもの出すんだ。年は関係ねえ。川端康成が『(伊豆の)踊り子』書いたのは23歳の時だからな。

 エピソードは多いよ。紀州の殿様に呼ばれて五色の歌を詠めって言われたそうだ。
 で、「色白く 羽織は黒く 裏赤く 御紋が青い
(葵) 黄ぃ(紀伊)の殿様」って詠んだらしい。

 「借りて黄る
(着る) 羽織は黒し 裏白し ここは赤坂 行くは青山」ってのもあるな。

 先生、いろんなとこで話をしたりしたそうなんだが、酒を呑みながらだからどうしても話が長くなるわな。待ってる門弟はたまらない。
 「四方赤良」
(よものあから)とも名乗ってたらしんだが、ある日門弟が、こんなことを書き残したらしい。 
 「いつ来ても 夜ふけて よもの 長ばなし あからさまには 申されもせず」ってね。

 で、酔っ払って帰る途中、向こうからお侍が二人歩いてきたらしい。加賀様と水戸様ってから大したもんだな。で、先生、こう言ったそうだ。
「小石川 本郷さして 鳩が二羽」 で、続けて「みとっこ かがっぽ」。侍の方も蜀山人先生だってんで咎めはしなかったらしいがね。

 「みとっこ かがっぽ」ってのも意味がわからない。

 弟子たちが心配して、酒をやめろと。
「バカ言うな。芭蕉も『呑み干して 花活けにせん 二升樽』と詠んだんだよ。『さほどにも うまきかと 人の問いたれば 何と答えん この酒の味』ってやつだ。
 私が思うに、酒より水の方が、よっぽど害があるよ」
「これは異なことを。なぜ酒より水が害をなすんですか」
「洪水、みてごらん」
「・・・・・・・・とにかくご禁酒を」
「やめりゃ、いいの?じゃあ、やぁ〜めたぁ〜っと。これでいいのかい?」
「ご誓文を」
「わかったよ。『くろがねの 門より堅き 我が禁酒 ならば手柄に 破れ朝比奈』と。
 朝比奈ってのは「ご門破り」の朝比奈だよ。朝比奈順子じゃないよ」

 多分、昔の武将で門破りの朝比奈ナントカってのがいるのだろう。
 なお、朝比奈順子というのは日活ロマンポルノに出ていた女優。

 門人と入れ替わりにやってきたのが魚屋で。
「魚金です!誉めてほしいね、初鰹。片身でもいい、一本でもいいよ」
「いいよ。鰹だけ食ってもうまくねえから」
「あたりめえだよ、猫じゃねえんだから。
(と、両手の指で猫のヒゲの格好) こんなこと、しようよ。(と、酒を呑む格好)
 え?弟子が酒を呑むなって?ええ?
(袖に向かって大声で)弟子はバカばっかり!」

 魚屋が、さっき蜀山人が言っていた芭蕉の句や、「酒よりも水の方が害があるよ。洪水を・・・」と言い出す。

「驚いたね」
「呑みなよ」
「呑もう」・・・てんで、ぐでんぐでんになっちゃった。
 驚いたのは弟子たちで、
「わたくしたちはよぉございます。ただ、良くないのは神様で、神罰がくだりますよ!」
「大丈夫だよ、ご誓文が変わってるから」
「え?」ってんで神棚のご誓文を見てみたら確かに変わっていて、
「我が禁酒 破れ衣になりにけり やれ継いで
(注いで)くれ それ刺して(注して)くれ」・・・って。


 煙草もやめられないらしいね。夢ん中で火ぃ点いた煙草に追いかけられたりするらしい。目玉焼きにされたらコトだってんで逃げる。煙草は追ってくる。「東舞台」みたいなもんで。

 逃げる男、追う煙草を二本の指をこちょこちょ動かして表現していた。その時「あずまぶたい」と言っていたので、「東舞台」とかゆう噺にそうゆうシーンがあるのか?と思ったのだが。ただし、「東舞台」という噺は聞いたことがない。

 上方落語の「軽業」という噺では扇子を綱渡りの綱に見立て、その上で曲芸する人間を指で表現する。それを連想したのだが。それと、「本能寺」でも指による表現があった。

 やっと、(追ってくる煙草を)まいてな。あ〜良かった。やれ、一服・・・・・てしたって噺がある。

 旅に出まする・・・ってのが修行だな。芭蕉がね、ある山ん中の村で満月の晩、句会をやってるところに行き合わせたって話がある。こりゃ風流だな。
 で、相手は芭蕉って知らないからね。ワイドショーで見てねえから。「爺さん、俳句って知ってるかぁ?ちょっとやってみな」とか何とか失礼なこと言ったんだろうな。
 ムッとして「三日月の・・・・」って詠んだ。「満月の晩に、三日月とは・・・・」と笑おうとしてると、すかさず「・・・頃より待ちし 今宵かな」って続けたという。

 蜀山人が近江に行った時、駕籠かきが「蜀山人先生だろ?近江八景を歌に読み込んだら駕籠をタダで乗せるよ」と言ったんで詠んだのが、「乗せたから 先は逢わずか 只の駕籠 平石山や 馳せらせて見い」。

 「のせた(瀬田の夕照)からさき(唐崎の夜雨)はあわず(粟津の晴嵐)かただ(堅田の落雁)のかご ひら(比良の暮雪)いしやま(石山の秋月)やはせ(矢橋の帰帆)らせてみい(三井の晩鐘)」で近江八景。

 世間話しててちょいと煙草の火を借りようとすると、すっとキセルを引いてね、狂歌を詠んだら火を貸してやるって。こうゆうの多いんだ、俺たちも。バーで呑んでるとね、落語やれ〜って。減るもんじゃねえだろ!とかな。そりゃ、減りゃしねえけど、もう少し言いようがあるだろうってんだ。

 蜀山人先生、俺みたいに断らないよ。こう詠んだ。
「いりあいの 鐘を合図に 撞きだせば いずくの里も 日は暮るるなり」と。こりゃ、うまいね。

 「鐘を撞きだす」と、火を借りようと「キセルを突き出す」。「日は暮るる」と「火は呉るる」をかけているのだろう。

 京の三条大橋に行った時のこと。綺麗な橋かと思ってたんだが、行ってみると古くなってて、あちこち継ぎはぎで板を貼って修繕していた。しかし、うまくゆうよ。
「来てみれば さすが京
(みやこ)は 歌どころ 橋の上にも 色紙 短冊」。


 文化から文政の5年、6年の正月くらいから具合が悪くなって、いよいよいけないってんで、弟子たちが「辞世を」。
 で、「冥土から 今にも迎えが来たならば 九十九までは 留守と断れ」。

 俺ならどう詠むのかねえ。「初雪や トンビころんで カッパの屁」とでも詠むのかねぇ?

 亀五郎という泥棒がいて、10両盗んで首ぃ切られちゃった。
「万年も生きよと思う亀五郎 たった十両で 首がすっぽん!」。


 最後、蜀山人の好きな句を季節ごとに・・・・と早口に並べ立てていたが、ほとんど意味がわからなかった。古いビデオで音声も悪く、うまく聞き取れない。

春。「すみさんも ふじも つくまも いちどうに どっととわろう 春は来にけり」
 「いっこくを 千金ずつに しめあげて 六万両の 春のあけぼの」
夏。「いかほどに こらえてみても ほととぎす 鳴かねばならぬ むらさめの空」
秋。「紅葉さく 菊やすすきの 本舞台 まず今日は これぎりの秋」
冬。「雪降れば 炬燵やぐらにとじこもり うっていずべき 勢いもなし」

 ともかく、ただただ狂歌を並べ立て続けたような噺であった。




  どうも、お退屈さまでした。聞き違い、記憶違いはご容赦ください。

  
 



 

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