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(No89) この人・桂米朝ショー DVD鑑賞記 その1   

 1985年3月7日に当初放送されたTV番組。衛星放送で再放送されたそうだが、私は知らなかった。ある方からご親切に録画したDVDを貸していただけたので、感想をメモする。

 司会は坂本九である。

 冒頭、舞台には米朝一門の系図が置かれてあった。一門の総帥・・・と紹介されて米朝師匠が登場する。
 弟子の名前を考えるのが大変で、昔は古い噺家の名前を調べたりしていたが、最近では伊勢の出身やから勢朝といった具合に付けているとか、ひ孫弟子ができた。私は還暦ですが、60ではなかなかひ孫はおらんと思うてな話をしていた。 なお、系図に書かれていたひ孫弟子とは一番弟子の枝雀の、二番弟子の雀三郎の弟子の「又三郎」であった。今、その名前は聞かないので、やめたんじゃないだろうか。
 


(1) はなし家大研究 米朝の部屋

 
舞台には、米朝宅・・・という設定で、玄関や畳の部屋がしつらえてある。
 訪ねてきたのは坂本九で、出迎えたのは枝雀。
 坂本九は、自分で「落語家らしさの四条件」というのを考えてきたと言い、それを大書した掛け軸を掛け、米朝・枝雀・坂本九でその諸条件を検証していく。

枝「一つ目は『おもしろい顔・かたち』ですか・・・・」
坂「今日は着物を着ておられますから、いかにも落語家、という雰囲気ですが、初めてお会いした時は洋服を着てらっしゃいましたから、私は、大学教授かと・・・・」
枝「うちの師匠は、よぉ言われますなあ。銀行の頭取とかね。・・・・北極探検隊の隊長とか」

米「まあ、枝雀なんかは・・・・・。特に頭がね」
坂「よく角刈りの方とかはいらっしゃいますが、枝雀さん、その頭は・・・・」
枝「いや、 伸ばしゃあ伸びるんでっせ」

米「私はね、いろんな仕事させてもろて、洋服着んならん仕事もあるし、和服と洋服の両方に映る
(似合う)頭って考えたら、その時代の、一番平凡な、普通の頭ゆうて、こうなりました。
 その方が目障りにならんのですな。無ぅに近い方が。そやから、噺家ゆうと、わりと地味なスタイルが多い」
枝「『らしくない』ほど『らしい』ゆう哲学でんなぁ」
米「この男は、時々こうゆう禅問答みたいなこと言いますからな」

枝「まあ、師匠はおもしろい顔ゆうのとはちゃいますわな。ごく普通の顔、したはりますしねぇ。

 私かてね、別におもしろい顔っちゅう訳では・・・・。」


枝「二つ目は『ずぼら』ですか」
米「ずぼら、ゆうたらずぼらやなぁ。
 私、いろいろ集めたり調べたりするんが好きで、何や義務感みたいなもんもあって。
 家ん中、紙くずとがらくたばっかりですわ。そんなほこりまみれんとこ、平気で座ってたりしまっさかい、ずぼらなんでっしゃろ。

 こら、江戸時代のはなし本でっけどな。文政から天保くらいのもんです」

(と、米朝師匠はテーブルの上に江戸時代の和本を5冊ほど並べる)

枝「こら、今の落語の原点とゆうか、小噺のようなもんが書いたぁるんです」
坂「
(挿絵の所から本文へ進んで)・・・・・・・・ちょっと、私には読めないんですけど」
米「まあ、変体がなでっさかい、じぃっと見てたら、読めます」
枝「普通の人には読めまへんけど、ちょっと変態の人やったら・・・・」
米「ほな、九ちゃんは読めんといかん」
坂「どうしてですか!しかし、こうした本を、ご自分の足で探してきて・・・?」

米「こんなん、あさって歩くんが好きでしてね。こんなんに載ってる噺は味がよろしいで」

 例えばこんな噺が載っていたと例を挙げられた。
 ある男が、行き暮れて、ある家の戸を叩いた。出てきた女房が狐。子どもも出てきた。子どもゆうのは客が来たら喜ぶもんやけど、その子どもも狐。奥からおやっさんが「どないしたんや?」と出てきたけど、これも狐。
 夜中になって、どんどんと戸を叩く音がして「やれ、助かった」と思ったら、それも狐で世間話を始めた。
 どないなんねんやろう?と思ってたら、狐らがこちらをちらちら見て「おい、あれ、人間と違うのかい」「おう、道に迷うて難儀しとったから泊めたんねん」「よぉ馴れてるなぁ」というのがオチ。

米「こら、上乗の落語ですな。こうゆうのを発見したら、嬉しなってしもて、時間も何も忘れてしまいます」
坂「しかし、師匠が狐のお話をされたら、本当にそこに狐がいるような気持ちになりました。そして、ふっと見たら、そこに狸が・・・・」
 と、画面は枝雀のアップ。
 枝雀は、「何でやねん!」とばかりに扇子をテーブルに叩き付けて怒った演技。九ちゃんは「すみません、すみません」と頭を下げる。
 米朝師匠は「よぉ言いなはった」と誉める。

 さて、三つ目の条件は「酒・遊びは底なし」というもの。


坂「しかし、困りました。これは全くずぼらなんてものではないですねえ」
米「酒は好きで、ずいぶんと呑みまっせぇ。最近はお医者はんがあかんゆうから一合くらいしか呑まへんけど。
 はしご酒とか、お茶屋も、とんと行かんようになった、なあ?」
(と、枝雀の方を向く)
枝「いや、師匠には、よぉお茶屋さんにも連れて行ってもらいました」
坂「おっ、やっと『らしさ』が出てきましたね」


枝「しやけど、お茶屋遊びゆうたら、若い芸妓
(げいこ)あげて、三味線弾いて、わぁ〜っと騒ぐゆう感じでっしゃろ?
 
うちの師匠呼ぶゆうたら、年配の芸者さんばっかりやからね。ほんで上方の古い唄の文句やら、風習やらを聞きだしてはメモしたりしてまんねん」
坂「宴席で?」
米「70過ぎたような芸者でね、よぉ、三人
(芸者)呼んだら、(年齢の合計が)200超える、なんてゆうてました。それがまた『米朝はん、来てんのんか!』ゆうて呼びもせんのに来んねん。
 で、昔のしゃれた遊びとかね、おなご口説く時はどんな段取りで・・・なんてことを。
 せやけど、そんな年寄りばっかちゃいまっせ。若いのんも来る」
枝「来まへん、来まへん。・・・・うそ。・・・・・ハッタリ」

米「もぉ大阪も京都も平均年齢が高
(たこ)なりましたからな。
 散財してるんや、敬老会してんのやわからん」

坂「さて、お身内の中から、俳優さんも出たようでして。ご長男の桂小米朝さんです」

 小米朝が出てきて、三人にお茶を出す。小米朝はカジュアルな洋装であった。

 そしてNHK朝ドラの「心はいつもラムネ色」の1シーンが流される。その画面を見つめる時の米朝師匠の厳しい視線が印象的だった。

 「心は〜」は、ミヤコ蝶々・南都雄二を描いたドラマらしい。蝶々を演じていたのが藤山直美。小米朝は雄二を演じていたようだ。

坂「芸に厳しい米朝師匠からみて、役者の仕事をやっていくということについては?」
米「落語やってくれゆう話はいっこものうて、役者の話ばっかり来て、何ごとも勉強や思てやらせてたんですけど、こない次々に俳優の仕事が来るとは・・・・・。
 まあ、
(俳優に)なってもしゃあない思てます」

坂「となると、私の挙げた四条件はどれも当てはまらないということに・・・」
枝「一つ、こんな言い方もあるとゆう、世間さんのざっとしたイメージゆうか、そんなもんでっからな。
 ただ、米朝師匠は、こうゆうタイプの噺家やないゆうだけで」
米「いや、実際、これが当てはまる噺家ゆうのも・・・・考えたらありまっせ。

 ちょっと、ビール持ってきて」
坂「いえいえ、これでお邪魔いたします。どうもありがとうございました」

 
 なお、九ちゃんの挙げた四つ目の条件とは「へんくつ・へそ曲がり」だった。

 米朝師匠や枝雀さんが若いのはもちろんだが、小米朝もほんとに若い。彼は58年生まれだから、この時はまだ27くらいである。





 


(2) 心に二人の師 ありて

 
続いてのコーナーでは夕焼けをバックにした裏長屋風の書き割り。
 九ちゃんが「40年ほど前、米朝師匠の若かりし頃にタイムスリップしていただきます。さて、師匠は、常々、私には二人の恩師がいるとおっしゃってますが・・・・」と話している所に小沢昭一が来る。

坂「驚きました。お二人のご因縁は?」
米「兄弟弟子です」
小「もちろん米朝師匠が兄弟子でして。年齢もそうですし、内容でもね。
 同じ正岡容先生
(まさおかいるる。作家・演芸研究家。昭和33年没)に師事しておりまして、ただ、それだけじゃなく、今でも兄弟子としてずいぶん具体的に面倒をみていただいてます。

 正岡容という人は、今、生きておればきっと大売出しの、マルチタレントということになっていたと思うんですが、落語に関する随筆などを読んで惚れ込みまして、門を叩いて入門しました。お前たちには中川
(米朝師匠の本名は中川清)という先輩、兄弟子がいるからと言われました。
米「もう、その頃は噺家になってたかな?もちろん前座ですけどね」

小「ある日、同じ頃の弟子で、脚本とか書いてる大西信行ってのと、文学座の加藤武ってゆう俳優と私の3人が先生のお宅に呼ばれましてね。
 今日は中川を呼んでるからって、狭い四畳半ですよ。そんなとこで落語するのも大変だと思うけど。
『さあ、やれ!お前ら、兄弟子の芸を盗め!』ってね」
米「あん時、先生、だいぶ酔うてはった。ああ、さっきの四条件、先生には全部あてはまるわ」

小「で、『どうだ?いいだろ?』って。わたしゃヨイショの名人だから、感服しましたなんて言ったんだけど、加藤は大きなアクビをしてたし、大西は『先生の前だけど、おもしろくねえな』なんてイチャモンをつけました。そしたら、大西は破門ですよ。兄弟子の芸を悪く言うとは何ごとだってんでね。それが最初の出会いです」

 先ほどの小米朝の画面を見る時の表情と違い、小沢がしゃべってる時の米朝師匠の顔が本当に懐かしげで嬉しそうなのが印象的。
 では、ここは兄弟弟子どうしで・・・・と九ちゃんはいったん引っ込む。

小「どうしても伺いたいことがあるんだけど、僕らは、戦後の、文化的に自由なものにあこがれる中で弟子入りしたんですが、米朝師匠がね、戦争中に、正岡容という人物を(師匠として)選んだ目ってゆうのはすごいと思うんだけど、その理由は?」
米「先物買いなんて気持ちは全くなくて、私も、もちろん先生の随筆や小説を読んで名前は知ってたんやけど、東京出ても、なかなか知り合うきっかけはありませんでした。

 大塚の花柳街の中にある鈴本
(東京のJR大塚駅周辺には、昔、白木屋デパートや寄席の鈴本のほか芸者置屋などが並んでいたそうだ)によぉ行ったりしてましたが、戦時中は、たまに甘いもんが売りに出されたりすると、行列ができたでしょう?(小沢がうなづく)
 ところが花柳街の喫茶店なんかやと、並ばんでもすっと入れたりする。穴場なんですな。
 で、ある日、甘いもんを食べて、情けないコーヒー
(コーヒー豆ではなく大豆などを炒った代用コーヒーのことか?)飲んで、ひょっと表に出たら、たまたまそこが正岡先生の家で表札が目に入ったんです。

 その時分、田舎者で小そぉなってたんですが、どうゆうもんか、引き寄せられるように、ガラガラ!って格子を開けてしもたんですな。
 そないなると、『ごめんください』ってゆわな、しゃあない。そのまま黙って、戸ぉ閉める訳にもいきまへんからなぁ。そんで話、したいんですゆうたら、また明日おいで言われて。それからですわ」
小「じゃあ、もちろん下地はあったけれど、半分偶然みたいなもので」
米「そうです。あの先生のことやから、気に入ったら、毎日でも来い、と。
 それからは、この本を読め、この本を貸してやる・・・・・と」

小「どうして噺家に?」
米「その頃、上方落語ゆうのがだいぶ廃れてまして、うちの師匠
(米團治)や五代目(笑福亭松鶴)なんかが、焼け残ったとこで『上方落語を聴く会』なんかを始めだして、そうゆう案内なんかがおやっさん(正岡)のとこに来るんですな。
 で、先生がお前もやったらどうや、ゆうて。
 もともと自分でもやりたかったし」

小「その中でも米團治師匠につかれたのは、また、どうして?」
米「少ないゆうても
(師匠と選ぶ対象が)七、八人は、いたはりましたからなぁ。
 どっちかゆうと、先代
(五代目)の笑福亭松鶴師匠が一番心安いんやけど、そこは息子さん(六代目松鶴)がいてるし、ここも息子いてるしなぁ(春團治のところのことだろうか?)・・・とか、・・・・・・・・・(頬杖をついて、真剣に考え込んでいる)理屈では説明のしにくいことて、おますやろ?難しいことやないねんけど」
小「伺ってると、落語家になろう、タレントになろう、というんじゃなくて落語の世界に身を染めようという時に、米團治師匠のところが、豊かな草むら・・・・という嗅覚が働いたんでしょうね」

米「
(米團治は)わかるように落語の説明をしてくれました。ああ、そうかってわかるような。
 当時、理詰めで解説してくれる人なんかおりませんでしたからね。
 訊いたら『そら、そないなってんねん!うるさいなぁ!』とか言われましたから。

 文章書かせても上手でした。学歴なんかなかったけど、頭のええお人やったんですなぁ。あんな説明のでける人は他におらなんだ。インテリやったんですな」

小「兄弟子はお忘れになったかも知れませんが、以前『若いうちは、とにかく噺の数を覚えていくんだ。そして、年を取ってから、それを一つ一つ深めていこうと思う』っておっしゃったのがいまだに忘れられなくて。
 よく、弱冠にして、あれだけの見通しと目があったなって思って」
米「いや、あの時分
(じぶん。頃、時代)はね、上方落語界は平均年齢が70を超えてましたからな。(年寄りの噺家が)一人死ぬたびに、(その人しか知らない)噺がボコボコなくなっていく時代やったからね。

 テープレコーダーもないしね。できるかどうかわからんけど、とにかく吸収しておこうと。書いたもんもないし、録音もないから。
 私だけやない、皆、必死やった思いますよ。
 いっぺんねえ、六代目
(笑福亭松鶴)がね、春團治と小文枝を叱ったことがありました。と、ゆうのはね、二人がおんなじ噺を稽古してたんです。何ちゅうもったいないことすんねん、と」
小「手分けをしろ、と?」
米「そうそう。二人で手分けして別々に習
(なろ)たら、それで噺が二つ残るやないか、と。相手、いつ死ぬかわからへんで、ゆうてね」

 六代目松鶴と言えば、酒飲みで、ロレツが怪しい・・・・という印象が強いのだが、さすが、ここ!というときは真面目だったんだなあと思った。
 何でも、春團治は稽古嫌いで有名だったとか聞いたことがある。

小「その辺の団結心は素晴らしいですねえ。しかし、食べるものなんかはひどかったでしょう?」
米「貧乏は底なしでしたなぁ。私ら、親がおったから、まだましでしたけど。
 いつでしたか・・・。暮れにおかん
(母親)の金歯がぼろっ!と取れたことがありましてな。昔の仕事で、ブリッジゆうやつですわ。
 どうせ合金の安もんやろう思て、心安い歯医者はんに見てもろて、ちょっと炙ったら『えらいこっちゃ!8割方、金やで』ゆうて。それで何とか正月、越せたこともありました。

 何べんもゆうてますけど、その時分は、今みたいにどんどん弟子入りしたいゆうもんが来て、断らんならんような時代が来るとは、ほんま夢にも思いませんでした。

 しかし、
(米團治)師匠が偉いなあ思うのは、その時分から『今に君らの想像でけんような時代が来るで』て、ゆうたはりましたからなぁ」

小「もちろん米朝師匠お一人だけの力ではないでしょうけど、大阪の人だけが楽しんでいた上方落語を全国に広めた、いわば地方区を全国区にしたのは米朝師匠のおかげだと思います」

 ここで九ちゃんが再登場。


坂「何でも、正岡容さんの思い出の品をお持ちいただいてるそうで」
米「あの先生のもんは何も持ってませんねんけど、ただ一つだけ、先生のコートをね。
 ここにネームが入ってるでしょ?ちょっと派手なんですけどね。
 ちょっと私には小さいんですが」
(と、薄い赤茶色のコートを羽織る)
小「師匠の未亡人も見る目があるというか、私にはくれなくて、兄弟子に渡すというのが。
 破門するのと、しないのとの見極めとゆうか」
坂「小さいものも、もらってないんですか」
小「何一つ、いただいておりません」
米「黙って持って帰ったやつは?」
小「いえいえ、何も。私には師匠のような素晴らしい兄弟子を残していただいただけで十分でございます」

 上手い決め台詞が出たところで、九ちゃんが拍手。
 米朝師匠も「ありがたいこと、ゆうてくれはる」と本当に嬉しそうに拍手していた。

 さすがヨイショの名人である。

 




  どうも、お退屈さまでした。聞き違い、記憶違いはご容赦ください。

  
 



 

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