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(No47) 米朝一門会 鑑賞記 その4  

 平成19年8月12日(日)、ホテルヒルトン大阪での上演分・・・・・・の続き。完結です。

 



(5) 桂米朝 「よもやま噺」

 中入り後が、米朝師匠のよもやま噺。高座には座布団が三つ、横に並べて敷いてある。ざこば、南光に両脇を支えられて登場した米朝師匠。

米朝「ちょっと座りにくいな」
南光「まあ、今日は、師匠には落語やのうて、よもやま噺というか、ちょっと私らとお話をさせていただくということで」
ざこば「師匠、落語したら、たまにおんなじとこグルグルと・・・・・・。えらい、すんません」
南「師匠は11月に82歳になりはるんですが」
米「そんなことは楽屋でゆうてたらええんちゃうか」
ざ「師匠、今日は米朝一門会なんやから、びしっと師匠からひとこと挨拶せんと」
米「わたくし82でございますので、お手数かけます」
ざ「何でんねん、それ。歳ゆうただけでんがな。そんなん挨拶になってしまへん。
 いつも米朝一門がお世話になっておりますとか、言わなあかんのとちゃいますか?」
米「代わりにゆうてくれへんかな」

南「ざこば兄さんは、この9月で還暦でしたかな」
ざ「15で入門して、45年ですわ」
米「身の回りのもんだけ持ってこいゆうたら、長靴持って来たんだけは覚えてるわ」
ざ「ええ?そうでっかあ?覚えてませんわぁ。それを師匠が覚えてるゆうのも不思議やけどねえ」

南「師匠は11月に、師匠の師匠である米團治師匠の本を出されます。米朝師匠は落語家でもあり、作家でもあるんですが、また、俳人でもあります。

 え?あの、”はいじん”ゆうても、ダメになった人のことちゃいまっせ。わたいも一瞬”廃”の字が浮かんだんでっけどな。
 ええと、やなぎ句会というのに入ってはるんですね。どんなメンバーですか?」
米「けったいなメンバーでね。加藤武とか小沢昭一とかね」
南「あと入船亭扇橋師匠とか柳家小三治師匠とかね」
米「後、誰やったかな。出てこうへん」
ざ「永六輔さんとかでっしゃろ」
南「兄さんがゆうてどないしますねん。同じ永六輔さんでも、兄さんがゆうのと、米朝師匠の口から出るんとでは値打ちがちゃいまっしゃろ」
ざ「わいと師匠はな、そんな区別はないんや。親子以上なんやぞ。小米朝なんか子供ちゃう!」
南「師匠、聞いたはりまっか?」
米「二人でやってくれ」


南「それでは、いくつか米朝師匠の句をご紹介したいと思います。

 打ち上げを 見て帰りきて 庭花火     八十八

 八十八
(やそはち)というのは、米朝師匠の俳号で、米という字を分解したものです。さて、師匠、これは、どういうところを詠んだ句なんでしょうか?」
米「さあ・・・・・・・」
南「・・・・・・・・・さあ・・ってねえ。この句で十分くらいは話そう思てたのに」
米「まあ、夏の雑詠やね」
南「もっと、パ〜っとした句はおまへんのか?」
ざ「君、失礼やで。陰気やなんて」

南「こうゆうのもございます。

 浴衣がけ だんじりばやし ハモの皮 」
米「こら、40年近く前のんやな」
南「取り合わせ、ゆうやつですな。どうですか、兄さん」
ざ「いいねえ」
南「わかったはるんでっか」
米「それだけのこっちゃ」

南「次は春の句。これは有名ですな。

 春の雪 誰かに 電話したくなり  」
米「永六
(輔)は、これが印象に残ってるみたいで、どこ行っても、こればっかり言いよるね。

 あら、これしか覚えてないねんで」

南「わたし、これ好きです。

 表札の 代わりの名刺 からっ風 」
ざ「こうゆうかっこやね
(と、体をやや斜めにし、片手を前、もう一方を後ろにして、びらびらと振るわせる。泳いでる魚みたいだが、ちょうど、1箇所だけ画鋲でとめられた名刺が強風でビリビリ震えている感じ)
米「そないまで」
南「ええ?わたしもそうや思てましたで
(と、ざこばと同じ格好で手を振るわせる)
米「まあ、表札もよお買わんのやから、わびしい、貧乏臭い句ぅやな」 

南「次はちょっと色っぽい句ですよ。

 言えぬこと 言える相手が 二、三人

 兄さんなんか、言えないことよぉありますねえ?」
ざ「ちょっと聞きたいねんけど、それのどこに色気が?」
南「言える相手が祇園におったゆうことですか?」
米「いいや。何でこんなん作ったんやろう?第一、俳句やないしね。季語がないから」

南「まあ、川柳でしょうけど。師匠が自分の本の中で”自選十句”って書いてはるから、紹介したら喜びはるか、思たのに・・・。
 次、いきます。

 せき一つ しても 明治の人であり 」
米「これは、全身が明治の人や、ゆうこっちゃな」
南「師匠の先生の正岡容
(まさおかいるる)先生なんかそうですかね」
米「55で死んだ父親なんかも、そうやな」
ざ「えらい陰気な話になってきたな」

南「ほな、めでたい話題を。
 師匠の長男でもある小米朝君が、今度、師匠の師匠だった米團治を来年の10月に襲名することになりました。
 今日、たまたまこの場に来てますので、ちょっとあいさつしてもらいましょう」
(場内大拍手の中、小米朝登場)
南「たまたまゆうてんのに、着物着てきてどうすんねん」
小「いや、ほんま”たまたま”やったんですけど、何かこうゆうことになるかな思て着物着たら、スタッフの人がピンマイクも・・・ってゆわはって」
米「襲名もある程度若こないとな。ざこばなんて、今さら変えても遅い」
ざ「そうでっかぁ?」
(と、やや不満げ。”米朝”の名前を狙っているのか?)
南「小米朝君は、今いくつや?」
小「50です」
(小米朝は若く見えるので、50歳ということに場内から驚きの声が)

小「米團治師匠が上町の師匠と呼ばれたんですな。それと、大阪の名前が結構東京へ行ってますねぇ」
ざ「逆に東京の名前が大阪に来ることはあるんでっか」
米「そらないな」
小「四天王ともいわれた文團治、文之助、文都
(ぶんと)、文三(ぶんざ)ですが、考えたら、今誰も大阪で名乗ってへんのですな」
南「え?ほんま?ほな、私、文團治名乗ろうかな。師匠、よろしぃか?」
米「ええんちゃうか」
南「来週から、エブリディ
(南光が司会している『痛快!エブリディ』という番組)の司会は、文團治ということで」
ざ「三枝会長が何かゆうで」

南「襲名披露の方はどないなってる?」
小「10月4日の京都南座を皮切りに全国を回らせてもらいます」
ざ「襲名の祝儀袋、地下に隠しとったらあかんぞ。すぐに燃やせ」
小「あの・・・米朝師匠も襲名披露には出ていただけますよね」
米「生きてたらな。ちゅうか、ある程度健康やったら」
小「そしたら、昨日も4合瓶が空いてたから大丈夫ちゃいますか」
米「誰が?」
小「ええ?師匠の部屋やねんから、師匠が飲みはったんちゃいますのん?」
米「知らん。誰かが入ってきて飲んだんちゃうか?」

 
 も一つ、まとまりのないまま「よもやま噺」というか対談は終了。

 再び両脇を支えられて立ち上がって退場。「立ってしもたら、ええんやけどな」とざこば、南光に言ってるのがマイクに拾われて聞こえた。ちょっと哀しかった。


 



(6) 桂都丸 「ねずみ」

 真っ赤な着物を着て登場した都丸。「ちょっと地味目の衣装で・・・・」とギャグを飛ばす。
 昔、左甚五郎という有名な大工さんがおりまして、全国各地、北は青森、南は福岡に至るまで、名匠左甚五郎が残した彫刻とかが伝えられてるそうです。
 ところが、それらにまつわる伝説をつなぎ合わせますと、左甚五郎は350年ほど生きていたということになるそうでして。

 これは左甚五郎が備前岡山に旅をしていた頃のお噂で・・・。

「あんなあ、おっちゃん・・・・・おっちゃん、旅の人ですか?」
「見ての通り、手っ甲、脚絆、わらじ履きやさかいな。あんまり風呂行く時の格好やないなあ」
「おっちゃん、今日泊まる宿屋、もう決めてはります?よかったら、うちに泊まってもらわれへんかなぁ?」
「おっ、ほな、お前、歳は若いが宿屋の客引きか?」

「宿場外れでお宿どうでやす?って聞いてまんねんで。あんまり大根売ってる格好やないわなあ」
「おお?きっちり”おため”入れてくれるやないか。
(注 「おため」とは、子供が届け物などお使いをしてくれた時にお菓子や小銭などを渡すことで、お礼、お返しといった意味)
 よっしゃ、お前んとこに泊まろ」

「おおきに。・・・・あんなあ、おっちゃん。先ゆうとくけど、うち・・・・狭
(せ)もぉまっせ」
「ああ、そんなんかめへん。人間『起きて半畳、寝て一畳』ゆうやないか。かえって広すぎるより落ちつくっちゅうもんや」
「さよかぁ。・・・・・・あんなあ、おっちゃん。これも先にゆうとくけど・・・・・・・うち、汚
(きたの)おまっせ」
「かめへんて。そんなん気にならんし、別に汚れて困るような格好もしてへんし」
「ほんまやなあ」
「口の悪い子供やなあ」
「あんなあ、おっちゃん」
「あのなぁ。ちょっといっぺんに言ってくれんか?何や、お前が『あんなあ、おっちゃん』ゆうたんびにドキィ〜ッ!ってするから。で、何やねん?」
「おっちゃん、布団要りますか?」
「ちょお、待ちぃや。狭もぉて、汚のぉて、布団もないんやったら野宿とおんなじやで。布団は欲しぃなあ」
「せやったら、貸し布団屋に行かなあかんねけど、16文、先銭がいんねけど
(要るんですけど)・・・
ああ、おおきに。そしたら、わたいこれからちょっと貸し布団屋まで走っていくさかい、おっちゃん、先、宿屋の方へ行っとぃておくんなはれ」
「あのなぁ、まだ宿の名ぁも、場所も聞いてへんがな」
「あっ、ころっと忘れてました。ここ、まっすぐ行ったら、宿屋がず〜っと並んでんねけど、真ん中辺に虎屋ゆう、岡山一立派な宿屋がおまんねん」
「そこか?」
「そこは目印でんねん。ほたら、その虎屋の前に、小さい、汚い物置小屋みたいな建てもんがあって・・・・」
「それも目印か?」
「いや、そこだんねん。ねずみ屋ゆうて、ほん小さいさかい、気ぃつけな、わたいも時々見過ごしてしまいますねん。ほな先行っとぃておくんなはれ」

「・・・・・・・・おお、走って行きよった。元気のええ子供やなあ。
 お、ほんまに道の両側にずら〜っと宿屋が並んでるなあ。なになに?ここは分銅屋?こっちは近江屋・・か。
 おっ、ここが虎屋か。ほんに、ここやったら岡山一どころか、東海道、山陽道見ても、こんだけの宿屋はちょっとないで。

 ここが目印で、その前の物置小屋っと・・・・・・・・・うそォ〜。物置小屋ゆうのも身びいきやったんか」

   主人が出迎えるが、腰が抜けているので足をすすぐ水を持っていけない。裏の小川で・・・・とか言ってるところに、貸し布団屋から息子が帰ってくる。


「あんなあ、おっちゃん」
「またかいな。今度は何や?」
「おっちゃん、ご飯食べますか?」
「頼むで、飯くらい食わしてくれや」
「けど、今からご飯の支度してたら遅なるさかい、お寿司でも取りましょか?」
「おっ、こらええことゆうたな。岡山には、祭り寿司てな、ええ寿司があるそうやないか。ほな、注文してもらおか」
「ほな、何人前言いまひょ?」
「わい、相撲
(すもん)取りちゃうで。一人前でええがな」
「しやけど、寿司てなもん、一人で食べてたら寂しいもんでっせ。何でしたら、お付き合いしまっけど」
「こら!卯之吉!行儀悪い!」
「いや、おやっさん、ゆうてやりな。わい、あいつ気に入ってんねん。
 おお、卯之吉ゆうんか。ほな、おやっさんの分も入れて、寿司を三人前、それと酒を二升ほどゆうてきてくれる
か。
・・・・・・はは、走っていっきょった。元気のええやっちゃなあ。おやっさん、あの子、いくつやねん?」

   卯之吉は遊びたい盛りの十二歳だった。
 何も助けにはならんが、ゆうだけで気が楽になることもあるで、と事情を聞く甚五郎に、ほな、寿司が届くまでの時間つぶしに・・・と話し始めるおやっさん。

 私は、実は元々虎屋の主人だった。嫁をなくし、女中頭のお紺を後添え(のちぞえ。後妻)に迎え、最初は順調な日々だったが、ある日、客の喧嘩に巻き込まれ階段から落ち、腰が立たなくなった。
 やがて、病人が寝ていると陰気やし、客部屋も足りんとのことで、向かいに移ってくれと言われ、ここに移った。
 しかも、最初のうちは三度三度きちんと届いていた食事も滞りがちとなり、気になっていたが、やがて元に戻ったので「ああ、あん時はよほど商売が忙しかったんやろう」と安心していた。
 しかし、友人の分銅屋の主人から、届かない食事のことを尋ねに行った卯之吉がお紺から「腰抜けと継子の飯をつくってる暇はない」と言われ、泣いていたので、それ以降うちが飯を届けている。
 しかも、あまりのことに文句を言いに行ったわしに、お紺は番頭と通じ、預かっている判を勝手に押して「虎屋の身代は義平に譲り渡す」と偽造した証文を見せ、「うちはこうなっております。よその事情に口を出しはるとは、ずいぶんご商売に余裕がおまんねんなあ」と開き直った。
 卯之吉の体はお紺のいじめで傷だらけや。しかし、卯之吉が、心配かけるからおとっつぁんには言わんといてくれゆうから、今まで黙っていた。卯之吉は、おっちゃんとこにただ、ご飯だけもらっていては乞食と同じや。おっちゃんにお返しもしたいし、宿屋で虎屋を見返してやりたいから商売を教えてくれとゆうてんのやで・・・と聞かされる。

 それから、二人で力を合わせ細々ながらここで宿屋をしています・・・・とのことだった。 

 親父の話にすっかり感じ入った甚五郎、「ほな客寄せに、何ぞ縁起もんでも彫らしてもらおかな」と一晩かけて小さなねずみを彫り上げ、玄関先の桶の中に置いて、ぽいっと旅立った。

 これを見つけたのが、土地のお百姓でございます。
「おい、おめぇ、ちょっと、こけ来
(け)えや」。(こっちに来いよ)
「何なら?」(何だい?)
「ねずみ屋の前にねずみがおるぞ。なになに・・・。甚五郎作福鼠じゃと」
「名人甚五郎作のねずみじゃちゅうて、別に違うところは・・・・・・・・おお、動きよるな」
「ばか言え。そんなもん、木っ端でつくったねずみが動くわけが・・・・・・・・・・・・あるな。おめえ、目が合ったら笑いよったぞ」
「おお、まだ続きが書いておる。『このねずみ、ご覧の方は、当ねずみ屋にお泊りいただきたい 甚五郎』。名人に頼まれたら泊まらな仕方ないのう」
「何ぼ頼まれたっちゅって、わしら、野良仕事の帰りじゃで、おえりゃあせん
(堪らない。仕方ない)ぜ」
「だども、名人に頼まれてしもたら、泊まらなんだら、おえりゃあせん」
「なんぼおえりゃあせんちゅうても、わしら、家、そこに見えとるがや。それで泊まれ言われても、おえりゃあせん」
「だども、頼まれてしもたら、おえりゃあせん・・・・・」

 たった一つ、知ってる岡山弁でございます。


 この福鼠が評判に評判を生み、ねずみ屋は大盛況。ゆっくり手足を伸ばすどころか、天井から垂れる縄につかまり、新巻鮭のように立っていなければならない状態。

 周りの土地も買占め、虎屋以上に大きな宿屋に建替える。

 一方、虎屋は閑古鳥の鳴く状態。腹いせに、以前甚五郎と彫り物勝負をして負けた彫り物師に虎を彫らせて、ねずみを見下ろす位置にで〜んと据えた。

 すると、ねずみはぴくり!とも動かなくなってしまった。


「何ぃ?ねずみが死んだやとぉ?ほんまに、あの番頭とお紺のやつ、いったい、どこまでわしらを苦しめたら気ぃが済むんじゃ!」

 むかむかっとした拍子に、おやっさんの腰がシュッ!と立った。
 それは、ともかく甚五郎に報告せんとあきません。

 手紙には『私の腰が立ちました。ねずみの腰が抜けました』・・・・と何やわけのわからん手紙です。

 大坂にいた甚五郎は大工政五郎の家に逗留してたんですが、手紙を受け取り、政五郎の息子政吉と二人でやって来ました。

『政吉っつぁん。あの虎の置物、どう見やはります?』
『そうでんな。わたいに今、あれだけの虎を彫れゆわれても彫れませんけど、何やあの虎、卑しいゆうか、も一つ品ゆうものがおまへんように思うんですが』
『いやあ、よう言いなはった。政五郎はん、さすがに、よぉ、あんたをそこまで仕込みはったなぁ。
 確かに、あの虎は、目に何や恨みのようなもんが出てる。
 おい!ねずみ!お前、この甚五郎が精魂込めて彫り上げたったのに、あんな虎の威光に負けて動かれんようになったんか?』^

 すると、ねずみが「え?あれ、虎でしたんか?わたい、てっきり猫やと思ってました」というのがサゲ。

 かくして、米朝一門会は終わった。

 これは書くか書くまいか迷ったが、結局書く。
 ロビーの一角、雀々と都丸がサイン会というか、「直接サインしまっせぇ!CD買うてくださいやあ」という会をしていた。都丸は遠慮がちというか、何か「付き合い」みたいな感じで横に立っていた。

 雀々は、少なくとも私が何度か行った落語会の席で、毎回、このようなコーナーをしている。CDは米朝一門のそれぞれのものが販売コーナーでは並んでいる。
 しかし、雀々は、その売場に顔を出し、自分のCDが並んでいるところに陣取り、お買い求めの方にはサインしまっせぇ!わてのCD買うてやぁ!と自ら積極的に声を掛けるなどセールスに努めているのである。

 これ自体は、これまでは「商売熱心やなあ」とは思いつつも、別に否定的な感情は抱いていなかった。別に高座に上がる直前まで、ネタを繰れ(稽古せよ)とまでは言わない。
 また、CDは並んでいるが、雀々のように売場に顔を出していない噺家が、その間、稽古していたとも思わない。他の者が、まあ出番まで休憩しているとこ、雀々がセールスに出てるのは、そら自分のCDが売れるのは収入にも直結するだろうが、落語界全体としての発展にもつながる話だし、いいんじゃないかと思っていた。

 しかし、今日は雀々は出番がない。純粋にCD営業のためだけに来ている。そこんとこ、ちょっとこだわりを持つ私は偏狭に過ぎるのだろうか。

  

 

 


 

 

 どうも、お退屈さまでした。いつものことですが、録音とかしてませんので、聞き違い、記憶違いはご容赦ください。

  
 



 

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