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(No39) 天王寺繁昌亭 鑑賞記 その3 

 平成19年4月28日(土)、午後4時からあべのアポロホールにて、天王寺繁昌亭という落語会が開催された・・・・・・の続き。
 



(4) 桂坊枝 「がまの油」

 仲入り後、満面の笑みで登場したのは坊枝。

 先ほどの銀瓶の話では、お茶子をしているのは自分の娘とのことだが、そのことには触れない。
 赤い毛氈自体の乱れを直そうとした時には、年配の女性が手伝っていた。顔が何となく似ていた気がするので、ひょっとすると母親か?そうなると、ほんま家族総出やな。

 落語会にいらっしゃる方は、もともと落語を聴こう!ということでおいでになる訳ですから平気でしょうが、今日の皆さんは・・・・・ねえ。
 抽選で当たっただけですから、そら落語会とは聞いてたけど、こない落語ばっか、次から次と聴かされるとは思てなかった人が多いんとちゃいますか?

 まさか、こんな目にあわされるとは・・・・・・・なんてねえ。

 前にいてる僕(男の子)なんて、明らかに「まだ、やんのぉ〜?」なんて顔してますねえ。
 フフフフ。まだやるんですよ。

 私らみたいな商売してると、人前でしゃべるのんも平気やろうと思う方がいらっしゃいますが、そうではございません。
 まだ、祝い事はええんですが、難しいのんが不祝儀の方です。

 こら、ほんまにあった話なんですが、ある先輩の落語家で知り合いの方が危篤やゆうのんを、何を間違おたかして、お亡くなりになったと聞いてしもて、お悔やみに行ったんですな。驚いたんは向こうさんでっしゃろなあ。
(深々と平伏して)「・・・・このたびは、どうも・・・・・・」
「・・・・は?」
「いえ、・・・・・・ほんま、突然のことで」
「・・・・・・あのぉ、うちの親父、まだ生きてまっけど」
「え!」
(と、振り返り、連れの者を「どないなってんねん?」とばかり小声で叱り付ける)
「いや、今もお医者はんに来てもうて、今、帰りはったとこですねん。まあ、今晩の10時半頃が峠ちゃうか、ゆうて」
「・・・・・・そうでっかあ・・・・
(と、また連れを振り返り、話が違うというような顔をして)・・・・ほな、また、10時半頃に来まっさぁ」

 ついうっかり、そんなことをゆうてしまうんですなあ。
 ことほどさように、人前でしゃべるゆうのんは難しい。
 特に何が難しいかゆうたら、夜店、縁日などで言葉一つで人をひきつける商売ですなあ。あら、言葉で人を呼びとめ、何ぞを売らんと、その日の商売が成り立たん訳ですからなあ。
 私らは、まあ、受けても受けんでも、今日の分は、もらえる訳です。次から呼んでもらえんようになるかもしれまへんけど。

 ともかく、まず人の足を止めんといけまへんから、ちょいちょい小道具も使われます。よう用いられるのが蛇ですな。
 誰かて、目の前に口開けた蛇ぃ、突き出されたら「わっ!」て思う。
 「この蛇は、猛毒を持ったハブや。今から、このハブにわいの腕を噛ます!」

 こんなこと言われたら、びっくりしますわな。何やいな?思て人で一重の輪ぁができたら、しめたもんやそうです。
 街中でも、行列ができてると、何かいな?わいも並んでみよかな?思いますやろ?

 人垣が一重できると、知らん間に二重、三重になってくる。そうすると、何の気なしに足止めてた人間が、ふと周りを見るとえらい取り囲まれてる。不思議なもんで、そないなると、「俺は何てええ席におるんやろう。この席を絶対譲るものか」なんて気になってくるんですな。

 
この後、蛇を持った男が、牙を抜いた蛇やないとか、このハブはどれだけ猛毒かとか、前のお婆ちゃんが「この人、ハブに噛まれたりしたら命を落としてしまう。何と気の毒な」とゆうような顔をしているとか、色々言って、場の雰囲気を盛り上げる。
 いつ噛ませるか、と期待感を募らせるだけ募らせといて、「いや、お婆ちゃん。同情してくれるのはありがたいけど、わいかて、あんたと同じ。命は一つしかあらへん。それが何で平気でハブに腕を噛まそうとしてるかゆうと・・・・・」と、ハブはさっさと籠にしまい、お目当ての薬の宣伝に入る・・・という例を紹介する。

 そして、続いて有名な「がまの油売り」の口上に移る。
 とんとんとん、と段取り良く運んで、「ここにあるだけ」と言って、並べておいた商品をすべて売り尽くす。「実はもう少し・・・・」なんてことはせず、並べた分を売り尽くすと休憩に入るとゆうから、まあ良心的か。
 がまの油売りの男は、酒好きらしく、売上げを懐に居酒屋へ。

 この男は、至ってはしご酒の好きな男でして。
 皆さん、「はしご酒」ゆうと、単に次々場所変えて飲むだけや思てはるお方が多いと思いまっけど、あら、ほんまは1軒目で1合やったら、2軒目で2合、3軒目で3合、と段々合目が上がっていくさかいに「はしご酒」とゆうそうですな。


 場内から感嘆の声。私もこれは知らなかった。

 何軒もはしご酒して、すっかり売上げを使い果たした男。これは、もういっぺん小遣い儲けをせんと・・・と、再び口上を述べようとするが、何せかなりの泥酔状態。

 刀を取り出し、紙を斬っていくが「1枚が2枚、2枚が4枚、4枚が8枚・・・・・」という倍倍ゲームのところが暗算がおぼつかなくなっており、観客からつっこまれ、「細かいことヤイヤイゆうな」と逆ギレ状態。そのうち、「ほな、お前、ゆうてくれ」と投げてしまう。

 「四六のがま」の説明のところで前足の数を数えるのだが、何度数えても5本になってしまい「・・・・・おかしいな・・・。ちゃんと昨日の晩、切っといたのにな」とネタバレしてしまう。

 いつも通り、がまの油を刀に塗り、自分の腕に押し付け、

「ひとたび、このがまの油を塗りつけると、ほ〜れ、この通り。叩いても切れん。引いても切れん。どうじゃ。・・・・・・・・・え?切れてます?(と、自分の腕を見て)うぉ〜
(気を落ち着かせるように)いやいや、案ずることはござらん。このような時には、まず、血を拭く。
(と、手拭いを押し当てる。しばらくして、腕を見ると、血が止まっていない。いささかギョッとするが、また気を取り直し、手拭いを再度ぐいぐいと押し当て)
 血は十分に拭った方がよろしい。こうすれば、大丈夫じゃ

 いやほど押し当てた後だが、血は全然止まらない。
 かなり焦るも、再度手拭いをぐぐっと押しつけ、さっ!と離した瞬間、間髪入れずに「がまの油」を当て、「一貝全部塗る」と言いつつ、こてこてと軟膏を傷口に盛り上げていく。
 しかし、やはり、血は一向に止まらない。

 痛い!痛い!と顔をしかめて絶叫し、苦しんだあげくに「どなたか血止めのお持ち合わせはござらんか」というのがオチ。

 へべれけに酔った描写が実にうまい。うますぎて、酔いすぎた時の自分の醜態を再現されてるような気がして、何かきまりが悪かった。嫁さんが横にいるからかなあ。もちろん一言も言われてないのだが、居心地が悪いというか何とゆうか。

 なお、がまの油売りは日本刀を差した武士の格好をし、刀の切れ味を示すのに白紙を斬る。1枚の紙を両断し、それをさらに両断。それを何回か続けた後で、紙吹雪としてパッと散らせる。
 そして、次にがまがえるを取り出し、そんな蛙なら近所にも・・・と思うだろうが、それは俗にいうおたまがえる、ひきがえるで薬の効用はない。しかも、これは多い五六のがまではなく、前足の指が四本、後ろ足の指が六本の四六のがま・・・とブランド物であることを強調。
 このがまを鏡張りの箱に閉じ込め、鏡に映った自分の姿の醜さにたらした脂汗を煮詰めたのが、この「がまの油」。血止め、切り傷、痔などに効くほか、刃物の切れ味を止める・・・と効能を宣伝し、刀に油を塗って自分の腕に押し当てたり、引いてみたりしても切れないのを示す。
 次に、油を拭った刀を少し腕に当て、ぷつっと血が出たところに少しがまの油を擦り込めば痛みも去って血もぴたりと止まる・・・と言って売りつける。

 桂坊枝は、昭和35年生まれ。昭和58年に5代目桂文枝に入門。
 

 

 



(5) 桂春團治 「野崎まいり」

 お父ちゃん(坊枝)の高座が終わって、またお茶子さんが出てくる。ちょっと疲れてきたのか、ミスが多い。
 高座のマイクのコードを引っ掛けて倒しかけたり、見台の上に置かれていた拍子木は着物の襟元にねじ込んで収めるのだが、めくりを返す時に舞台に落として大きな音を立てたり。
 そのたびに場内の観衆は、学芸会の孫の出番を見つめるじいちゃん・ばあちゃんのようにハラハラ、ドキドキ。

 いよいよトリの春團治師匠。出囃子が鳴ってから高座に出てくるまで、えらい時間がかかってた。何かあったのか?と心配になったくらい。

 いつものことだが、マクラなしでいきなり、日本の三(大)詣りということで京都祇園のおけらまいり、讃岐金刀比羅宮の鞘橋(さやばし)の行き違いに並んで、5月1日から野崎まいり・・・という話になる。

 片町から徳庵堤・・・というと私の地元なので、今の高いコンクリート塀に囲まれたどぶ川を思い出して、昔はこれほど風情があって賑わっていたのかと思う。

 噺は、まず船嫌いで不慣れな男の失敗が笑わせ所。
 船頭に船を出すため「艫(とも。船尾)を張ってくれ」と頼まれ、「ええのん?」「船頭が頼んでんねんから、張れ」と言われて、いきなり船客を張っ倒す。
 今回は、「とも」を張れと言われて船内を見回し、「あんさん、お供風やから」としていたが、友達を張る演出もある。全くの他人を叩くというのは、やや無理があるか。

 次に、「棒杭持って気張れ」と言われる。船頭がぐううっ!と竿を川に差して進もうとするのだが、船は動き出さない。再度、渾身の力をこめるが動かない。おかしいなと振り返ると、先ほどの男が、棒を持って、船頭と逆方向に踏ん張ってる。

 その男は、船が出たとたん「忘れもんした」と連れに言う。
「何忘れてん?」
「小便すんの忘れた」

 船べりから身を乗り出して小便するのは怖いと言う男に、船内に落ちている竹の皮を使えとアドバイス。

 洗(あろ)て、もういっぺん握り飯包も思て・・・・・といういささか下品なくすぐりを経て、まあ落ち着いてきた二人連れ。野崎まいりの名物は船の参詣客と堤を歩く参詣客との口喧嘩らしい。

 あの船に弱い男は、気も弱いし、おつむも少々弱いようだ。
 堤を歩く参詣客に声をかけるが「舌もまわらんのに・・・・・・」と馬鹿にされるし、自分でも自信がないので、啖呵をきるごとに「な、せやな」「これでええねんな」と連れに確認する。

 この口喧嘩は1年の運だめしのもので、何を言われても手は出さない。船が着いたら、船の者も堤の者も一緒に仲良く踊りながら(←ほんまかな?)お参りするのが慣わしだそうだ。それと、片方が頭を下げたら「負け」というルールらしい。
 勝手に「何か踏んでるぞ〜」と言って、相手が「どこに〜?」と足元を見たら「こっちの勝ちや〜」と喜んでいた。

 
逆に、堤を歩く者から背が小さいことを馬鹿にされ、ファイトが沸いてきた男。「山椒は小粒でヒリヒリ辛い」と言い返したれと知恵をつけられるが、「さんしょはヒリヒリ辛い」と言ってしまい、「”小粒”が落ちてるぞ〜!」と返される。

 やおら、ゆっくりと下を向いた師匠は、また、ゆっくりと顔を上げ、またまた、ゆっくりと「何してんねん」、「へえ、落ちた小粒、探してまんねん」と語って、ゆっくりお辞儀。そして、いつも通りクルクルクルッと羽織を丸め込みながら立ち上がり、軽く会釈して引っ込んだ。

 「山椒は小粒でピリリと辛い」という諺で、「小粒」という言葉を飛ばしてしまったため、「”小粒”が落ちてるぞ」という相手の言葉につながる。
 
また、小粒とは、小判ほどではない小粒銀という昔のお金。「小粒が落ちてる」と聞いて、小粒銀が落ちていると勘違いして下を向いて探す男。それだけで「負け」になってるので、わざわざ尋ねて、落ちた小粒を探してるというオチの付け方は「解説し過ぎ」という感じがする。

 それと、文句ばっかり言って申し訳ないが、チョッ!チョッ!というセリフの合間合間の舌打ちの音が気になる。
 あと、ボケたことを言う男に、「アホなこと言いな!」と連れが右袖を手先で払う感じのツッコミが連発されることも、どうも気になる。 

 
先ほど「いつも通りクルクルクルッと羽織を丸め込みながら」と書いた。実はその時、はっ!と思ったのだ。丸め込んだ羽織は、いつ脱いだんや?で、嫁さんに聞いた。なあ、いつ羽織脱いだ?最初の方か?と。
 嫁さんの答えは「うん、始まってすぐくらい。きれいやったよ。スッ!と脱ぎはった」。

 初見の嫁さんでも「きれいやった」と言う脱ぎっぷりを、今回私はうっかり見逃してしまったのである。最近では、春團治師匠の最大の見せ場だの、これが出来んようになったら引退しはるんちゃうかなどと失礼なことまで書き散らしている私が。まことにうかつであった。

  


 
 どうも、お退屈さまでした。いつものことですが、録音等してませんので、聞き違い、記憶違いはご容赦ください。

  
 



 

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