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(No36) 米朝・小米朝の会 鑑賞記 その3 

 平成19年1月31日(水)、午後6時開場、6時30分開演。公演場所は京都府立文化芸術会館にて・・・・の完結編。
 



(5) 桂小米朝 「猫の忠信」

 高座にあがるなり、取り合えず苦笑い。 

 国宝の管理者というのがわかってもらえたでしょうか。

 ま、「鹿政談」が、あないな展開となるとはねえ・・・・。

 家に帰ってから、あの言葉はここ、あの台詞はここと、組み立て直してください。


 米朝も東京でゆうたら、文楽みたいな芸風や言われてたんですが、まさか志ん生になるとは・・・・・。


(※ 石野注)
 文楽とは8代目桂文楽。志ん生は5代目古今亭志ん生。文楽は、ネタを練り上げ一言一句もゆるがせにしない完璧主義の芸風で、天衣無縫、破天荒な志ん生と人気を二分した。
 文楽は晩年(1971年)、「大仏餅」という演目で登場人物の名前が出てこず、「申し訳ありません。勉強し直してまいります」と一礼して高座を降り、そのまま引退。その年の12月に死去した。

 米朝も、昔は稽古の時、厳しかったです。見台が曲がってるとそれだけで注意されました。
 噺をやってても、それは立ってるんか、座ってるんかと言われました。立ってるんやったら、手ぇはこう!
(伸ばして体の横につける)、座ってんねやったら、手ぇはこう!(やや肘を外に曲げて、膝の上につく)と注意されました。
 今は、「まあ、どっちゃでもええわ」ですからな。


 しかし、この頃は年寄るということは神々しいな、尊いな、なんてことを思うようになってまいりました。

 朝比奈隆さんが私好きやったんですが、93歳で亡くなった時の最後を一般人として見たんです。
 最後の年の大阪公演は聴きに行かせてもらいました。えらいもんで1時間以上、立って振り続けるんですからな。
 スタンディング イズ マイ 何とか、立つ事が私の仕事や、ゆうて練習の時でも「椅子どうぞ」ゆうても、でい!でい!ゆうて振り払いはったそうですな。

 その次に名古屋で公演があったんですが、ちょうど私も東京で落語会があって聴きに行くことができませんでした。
 それで東京で落語会を終えて新幹線で帰る時、寝てたら名古屋のあたりでサロンパスの臭いで目ぇさましました。

 起きたら、名古屋公演を終えた朝比奈隆さんが乗ってきはったんです。
 それで、「ああ、どうも。小米朝です」て挨拶したら、まっ黄っ黄の顔したはりました。

 「あ、どちらまで?」と聞いたら「ああ、大阪まで。新神戸止まらないから」
 それで、「え?止まりまっしゃろ」と言いかけたけど、どうもお付きの人が必死に目配せしてる。
 こそっと聞いてみたら、最寄の新神戸駅にはエレベーターがないので、新大阪駅で降りてタクシーで行くことにしたが、普通に言っても聞かないので「この新幹線は新神戸には止まらない」ゆうてだましてたそうです。

 ところが拍子の悪いことに、もうすぐ新大阪に着くゆう時、車掌さんが「次は新大阪、新大阪。新大阪を出ますと、次は新神戸に止まります」と・・・・。そしたら朝比奈先生「降りひん!」ゆうて。

 まあ、この頑固さが嬉しいですね。
 米朝も、短い噺したらどうですか?ゆうても聞きません。今日も、サゲが終わってから、まさか、あないなるとは・・・・。

 どうです?もう1回くらい、どうですか?
(※ 石野注)
 と、急に会場に向かって大きな声で問いかける小米朝。
 もちろん、今日の高座は乱れたが、これからも、米朝の高座が聞きたくないですか、と問いかけたのである。
 場内は当然、割れんばかりの拍手。小米朝も、場内の観衆も、要するに米朝師匠にこの拍手を聞かせたいのである。

 ま、皆さん、ご心配いただかんでも、もう楽屋で日本酒飲んでますから。

 こないだもね、家で晩の12時まで、お酒を五ん合飲んでますねん。次の日、近江八幡で昼の公演あんのに大丈夫かいな、起きれるんかいなと心配してたら、12時になったらコトンと寝てしまいまして。
 そしたら、次の日の昼12時まで起きず。寝れまっか?私らでも、7時やそこらにはトイレに起きまっせ。
 ほんで、昼の12時に起きるなり、第一声、「ステーキ焼いてくれ」。

 まあ、近況報告を兼ねまして・・・。

 で、私こそ何の噺やったっけ。(と、楽屋の方を覗き込み)あ、猫忠。あ、そうそう。

 

(で、ごく平均的な「猫の忠信」。常やんの女房は色気があるし、上手い。しかし、爆発的なものは感じない。まあ、今日は米朝師匠が強烈過ぎた) 


 
 どうも、お退屈さまでした。いつものことですが、録音等してませんので、聞き違い、記憶違いはご容赦ください。

  
 



 

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