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(No33) 新春吉例 米朝一門会 鑑賞記その3 

 正月2日、3日に開かれる米朝一門会。サンケイホール建替のため、昨春よりヒルトンホテルに会場に移した。その鑑賞記の3回目(完結)。

 



(5) 桂南光 「壷算」

 のっけ(最初)から安倍首相批判が飛び出す。

 「最初は安倍首相の支持率も高かったけど、最近はえらい下がってるそうですな。私も去年ほとほとがっかりしました。
 年末になったら、清水寺の管長さんが一年を象徴する漢字を書きはりますやろ。去年は”命”でしたけど。
 TVのインタビュー観てたら、『あなたにとって、今年を象徴する漢字は何でしたか』と聞かれて、素人さんでも、ちゃんとそれなりに答えてはるんです。
 それが安倍首相にインタビューしたら、どない答えはった思います?『責任です』やて。そんなん、どないやって一字で書きまんねん。
 まあ、いろいろ首相の責任問題ばっかり言われて、頭いっぱいになってはったかもしれまへんけど」

 私は観てないが、そんなインタビューがあったのだろうか。

 「私、バリ島が好きで、時々遊びに行くんですが、物売りが多いんですな。日本人やと見たら、売りに来るんです。もちろん日本語もしゃべれます。

 こないだ驚いたんが、女の人がかばんを肩から提げてまして、そこにいっぱい、水牛か何かの角なんでしょうか、それを削って、スプーンゆうか、おたまみたいなもんを入れているんです。  

 いらんゆうても付いてくるんですな。
 ほんで1本、1000円やゆうんです。そんなん高いですわな。ほんで、思わず、高い!ゆうたら、じゃ、2本で1000円やゆうんですな。
 もう、こうなったら相手のペースにはまってしもてるんです。3本で1000円にするとか、4本で1000円やとか。
 とうとう、10本で1000円にするゆうんで、思わず買(こ)うた!てゆうてしまいました。

 日本帰ってから、我に返って・・・・・どうすんねん、こんなん視力検査くらいしか使い道あらへん

 余談だが、私が中国に行った時も、値段を引かずに個数を増やす(「5個買ったら1個おまけ」とか)やり口が多かった。

 枝雀師匠の「壷算」では、猫が棚の布袋(ほてい)さんの人形を蹴り落として壷に当たったのが水壷が割れた原因。蹴られた人形がゴトゴトと動くところも大きな見せ場となっていたが、今日はその辺はあっさり落として割ったことにしていた。

 「一荷(いっか)入り」というのは、水売りが持つ天秤棒の前後のオケに入る分が一荷い(ひとにない)、一荷(いっか)と言うと説明し、「落語のトリビア」としゃれてみせる。

 買い物上手を説明するところで、
 「まあ、お前とわいで坐摩の前の古手屋へ古着を買いに行くとせんかい」
 「徳さん、しっかりしてもらわんと困るで。古着やのうて水壷買いに行てほしいんやで。」
 「わかったあるがな。仮に、行くとすんねがな」
 「ああ、借りに行くんか」
 「話のしにくいやっちゃな」とか「ちゃうがな、口でキズつけんねんがな」「ああ、こう噛み付いて?」とかお馴染みのやり取りの後、「縞柄がぼやけてる」とか「紋が違う」などの台詞もおしえてもらう。

 その後の、
 「ほぼ、わかりました」
 「わかってへんと思うけどな」というやり取りはおもしろかった。

 ほかにも、これまで聴いた噺(とくに枝雀師匠のもの)との演出の違いをいくつか列挙する。

(1) 通常は、ここでまけてくれたら、あいつ(買い物を頼んだアホ)の嫁さんがしゃべりやから、ええ店やゆうて宣伝するから客が増える、「あとあと」のことがあるやないかいと50銭まけてもらうのだが、今回はそれに加え、弟が三つ寺(※ 石野注 大阪のミナミ(難波近辺)の地名。「みってら」と読む)でうどん屋を開くので、丼をようけ買うでと店の番頭を説得していた。
 思うに、これは誘う話が具体的すぎる。「徳さんに弟なんかいてまへんやないか」という点はアホがばらしていたが、仮に弟がいたとしてもこの演出は後味が悪い。

(2) 二人で水壷を提げて帰る際、後ろで天秤棒を右肩にかついだ徳さんが、壷を左手で支えている格好をしていた。
 丸い壷を天秤棒にくくってもらって、前後でかついで運ぶのだから、そりゃユラユラ揺れるだろう。後棒をかつぐ徳さんが、手を添えて揺れを止めるというのは自然だ。

 ひょっとして他の噺家もこういう仕草をしていたのかも知れないが、私自身気付いたのは今回の南光の噺が初めてだった。

(3) 一荷入りを二荷入りに買い換える時、「どなたさんに限らず、二荷入りは一荷入りの倍と、こうなっておりますんで」と言う番頭に、少し引いてくれともちかけ「いえ、二荷入りは一荷入りの倍。これだけは絶対に譲れまへんのんで」と本人に強調させる。
 それで、後で、1円からおまけせなあかんと渋る番頭に「お前が、一荷入りの倍ゆうことは絶対譲れんゆうたやないか」ととった言質でねじ込む。

 これも初めて聴いた演出だし、言われた番頭が「あんさん、値切るのお上手ですな。わたい、鳥肌立ちましたわ。どうですやろ、わたい、今度所帯持つよって立花町へ家具買いに行きまんねんけど、一緒に付いてきてもらえまへんやろか」と惚れ込んでしまうのも初めて聴いた演出。

(4) アホがかついで帰る時、笑うだけじゃなく「こら、買い物がうまいゆうより、サギとちゃうか」と言うのだが、これはどうだろうか。
 アホがそこまで的確に状況を分析できているというのも、どうかなあと思う。
 また、詐欺とわかりつつ笑いにしているのだから「犯罪」を連想させる台詞はない方がベターな気がする。

(5) 「(勘定が)おかしいんかい」と毒づく徳さんに「いえ、ソロバンの上でも、私の頭の中でも合(お)うてまんねけど、どっからか『違う』ゆう声がするんです」と番頭が弁解する。

 この納得できない感じを枝雀師匠では「何や頭ん中がもやもや〜っとするんです」と表現し、春風亭昇太は「何だっていうんだよ」「それが・・・・・立ち去るお客様の後姿を見ても商売をしたという喜びが感じられない」というやり取りで表現していた。

 それに比べると、ソロバンと頭(論理)では認めている・・・・というのはちょっと言いすぎかなって気がする。

(6) 枝雀師匠の噺では、徳さんが番頭に向かって「お前、これ、水壷に見えてるけど、これは誰かに無料(タダ)でやるんやのうて、また誰ぞに売るんやろ。
 つまり、今は壷やけど、いずれ金に変わるゆうことを忘れてるんやないか?眼前の事象にのみ、とらわれとってはいけんぞ」と説得する。

 それを南光は番頭自身のモノローグとして使用する。
 つまり、ソロバンと頭では「合って」いる勘定なのに「おかしい」とささやく「声」に対し、「いや、待てよ。これは壷やけど、売ったら3円になる。ゆうたらこれは壷の形してるけど、金の3円と同じことなんや。
 眼前の事象にのみとらわれとってはいかん。しゃあから、ソロバンに3円入れてもおかしないねん、そうや、3円や思たらええねん。3円、3円・・・」と自分を納得させるために番頭がつぶやき続け、徳さんが「お前、どこぞ悪いんか」とツッコミを入れさせている。

 この演出は、新鮮と言えば新鮮。(5)の、ソロバンの上でも、頭でも合っているという台詞も、この(6)とセットなのかな、そこまで計算されていたのかなと思った。
 まあ、従来通りの徳さんが説得する形で十分だと思うのだが。

(7) 私は以前都丸の「壷算」で、「あの壷は、今は壷やけど、客に売ったら3円になるねん。ゆうたら、今は壷の形してるけど、3円ゆう銭と一緒や、と言われると、待てよ、普通の客に売ったら3円50銭になると思って、私なら50銭返してしまうかも知れん」という感想を述べた。

 今回、それと同じ演出がされていた。「何や、損してるみたいで・・・・」という番頭のつぶやきを耳ざとく聞きつけた徳さんが「損?何ゆうてんねん。お前、俺から3円で下取った壷、あれ、同じように3円で売るんかい?3円50銭で売るんとちゃうんかい。ほたら、50銭の儲けやないかい」と切り返す。
 すると、番頭、「ああ、そうでした。あの水壷、あんさんにだけ特別に3円で売らしてもろたんでしたなあ。・・・・・・・ほたら、逆に、50銭返させてもらわなあかんゆうことに?」
 と、徳さん、さすがにバツの悪そうな顔して腰のあたりで手を振り、「いやあ・・・・そこまでしてもらわんでええねん」。


 このほかの感想としては、店に入るなりアホが「縞柄がぼやけてる」「あほ!水壷に縞柄があるかい!」とたしなめるやり取りは定番だが、どうも、その後もアホはそれにこだわっていたらしく、商談がだいぶ進んだところで徳さんが「え?何?縞柄が?縞柄はもうええっちゅうねん」というアホとの会話を表現しているところもおもしろかった。

 それと、引き返したところで、徳さんが「二荷入りの壷買わせてもろたら、前買うた一荷入りの壷はいらん勘定になるやろ。どや、これなんぼかで下に取ってもらえるとありがたいんやけどなあ。わずかな損やったら、させてもろても、ええねやで」というところで、会場中央あたりでかなりのご婦人方が大笑いしていた。
 ええ?まだ、この上にそんなあつかましいこと、ゆうのん??てな笑い方だった。ちと、笑いのポイントが違う。
 ここは、昇太の演出のように、無茶な手段で二荷入りの水壷を値切った男が「また一つ頼みがあるんだが・・・」ともちかけ、番頭に警戒させる・・・というのはある。
 しかし、それにしても、下取りとわかるや、そんなことは当たり前のことだ、傷さえ付いていなければ買値通りで下取りすると、安心してタンカをきるのが鉄板である。下取りを要求する所は笑い所ではない。

 それから、『桂枝雀爆笑コレクション』4巻の「つぼ算」の解題に書いてあったのだが、「悲劇の瀬戸物屋に『わたい、三日前から、お通じがおまへんねん』と言わせたのは、一番弟子の南光さんのアイデアです」とあった。そうか、べかちゃんが考え出したのか。

 いろいろと工夫のこらされた(もっとも、昇太のそれほど「破壊」力はないが)意欲的な噺だったと言える。

 

 



(5) 桂ざこば 「子はかすがい」

 出てきて高座につくなり羽織を脱ぎ、「こない(こんなに)、すぐ脱ぐねやったら、のっけから着てこなんだらええてなもんですが・・・・・・・・・・。まあ、(羽織)持ってるゆうとこだけでも見てもらわなあかんから」とつぶやくのはいつものとおり。
 「いやあ、南光さん。油が乗ってますなあ。いや、お客さんの反応見てたらよおわかります」と南光を持ち上げる所でまず会場がどっと湧く。

 南光は敬愛してやまない「枝雀兄ちゃん」の一番弟子だから、出来のええ甥っ子を眺める叔父さんみたいな気持ちなんだろうか。 

 
 「南光さんは、確か今年で・・・・・55でしたかな?ちょうど油の乗る年齢です。
 そこいくと(米朝)師匠は、・・・・83ですか?・・・・ひからびてまんなあ
 師匠の噺、袖で聴いてたんですが・・・・・・・冷や冷やしまんなあ。おかしなサーカス観るより、よっぽど」

 この辺で場内大爆笑。私も大笑いしていた。

 「まあ、噺かて同じとこグルグル、グルグルと。あれ、もし、わたいが、噛んだり(言い損なう)、同(お)んなじことゆうたりしてみなはれ、(身体を後ろに倒して、指差す格好で)見てみい、ざこば、間違えよったぁ、ざこば、下手やあってゆわれまっせえ。

 そこいくと、師匠が同じとこぐるぐるしたかて、客席の皆さん、こう耳ふさいで(と、両手で耳を押さえ、激しくかぶりを振って)『聞いてません!聞いてません!』って」

 もうたまらん。私も思わず膝をぴしゃぴしゃと叩き、涙が出るくらい爆笑してしまった。
 思えば、枝雀師匠の「緊張と緩和」の理論ではないが、最近の米朝師匠の高座は聴いていて緊張しまくるのである。
 いつ間違うか、絶句するか、わけのわからぬことを口走るか・・・・・・はらはらしながら「見守る」、しかし、何せ相手は人間国宝。高座が聞けるだけで幸せ、「何やねん!あれは!」と批判するなんてとんでもない・・・・・そんな雰囲気。

 言いたくても、それを言っちゃあおしめえよという寅さん的雰囲気だったのを、他の誰にも許せん(特に雀々なんかには)けど、あなたなら許せるざこば師匠がみんなの言いたい本音をずば〜っと言ってくれた。この何ともいえぬカタルシス。
 改めて、枝雀師匠の「緊張と緩和」理論に感服したのであった。

 「ほんま、わたいも早(は)よ、83になりたいわ。
 年ちゅやあ(と言えば)、わたいもちょうど今年が干支で、60になりまんねん。(場内から拍手)いや、たまたまそうやゆうだけやから、そんなん関係あれへん。

 よう家の中に同じ干支のもんが三人おったら、その家は栄えるなんてことゆいますな。ま、逆にあかんゆう場合もあるようですが、大体は三人おったらええ、とゆうんです。

 で、うちは二人はおるんです。わたいがいのししで、末の娘もいのしし。
 やっぱりね、家は栄えさせなあかんから、もう一人、いのしし年のもんをこさえなあかん。で、嫁はんには悪いんやけど、誰ぞに生ませます。
 はよ生まさな、年が明けるんで。十月十日かかりまっさかいな。

 ま、嫁はんとの間もね、別れよ、出て行け、そんな話もありました。ぶっちゃけた話。
 でもね・・・・我慢してるんです。とゆうのは、わたいのおふくろ、離婚してるんです。それで、わたいの姉も。それで、わたいまで離婚してしもたら、関口家は離婚筋や、言われますやろ。

 そやから、『わいが悪かった。言い過ぎた。どうか、考え直してくれ』ゆうて謝るんです。・・・・・腹ん中では、考え直さんでもええぞう、思いながらね」

 と、子はかすがいゆうけど、「かすがい」がどんなもんか正確に知ってる人は少ないと言いながら、懐から手ぬぐいを出し、そこに包んだかすがいを客席に見せる。実は私自身も蝶番と勘違いしていたと言いながら、手をぱたぱたさせた。

 場内から何となく「ほぉ〜」と感心する雰囲気がただよったところで、「こんなもんですわ。今は何でも持ってこんとわからん時代になってきました。
 へっついさん(かまど)てな言葉もわからんようになってきましたが、ま、へっついさん持ってきて、ゆうのは重とおて大変でっけどな。

 それとお手掛けさんてな言葉も、若い人は、『え?お手掛けさんて何?』てなもんですわな。そやから、おい、ちょっとわいの手掛けを・・・てなことでね。あの、生ます女子(おなご)を・・・」とお馴染みのギャグを飛ばして、いきなり「さよか、わかりました」と本題のおはなはんの台詞に入る。

 中味については、ここのところ続けて聴いている噺だから省略し、気付いた点だけ列挙する。

(1) とらちゃんが、金もん屋のてっちゃんの向うずねを蹴飛ばしたと告げたり、文句を言いに来た金物屋の母親が余りにしつこいので「子供の喧嘩に親が出てこん方がええんと違いますか」と母親が返したと聞いて、「その攻め方はええぞ!」、「おはながゆうてんのが正解!」と繰り返し指差しながら声援した。

 その時のざこば師匠は、なかなか言葉が出てこない感じだった。

(2) 金物屋の母親が「あんたとこの子供は躾がなってない。これもてて親がおらんさかいや」となじられ、「てて親がおらんかて、ちゃんと躾けてます。あんたにそんなこと言われる筋合いはおまへん」と言い返したものの、後でおはなはんは悔し泣きする。
 とらちゃんが急に泣きながら、「おかあはん、『これもてて親がおらんさかい、こんな情けない思いせんならん』て、泣いてたで。なあ、なあ、おとっつぁん、帰ってきたってえやあ」と訴えかけた。

 急に感情が激した感じであったが、考えるとざこば師匠、最初から感情が昂ぶり気味だった。正月だからちょっと酒でも入っていたのか、正月から米朝師匠が高座に上がれたことが嬉しくてたまらないのか。

(3) とらちゃんが父親と会ったことを知り、おはなはんが「・・・・で、おとうはん、やっぱり松島のおなごはんと暮らしたはりまんのんか」と聞く。
 すると、とらちゃんが「ええ?おかあはん、おとうはんとおんなじこと、ゆうなあ。まだ好いてんのかあ?」

 基本は、今は独り者と知って嬉しそうな顔をするところで、まだ惚れてるなと冷やかす。ちょっと中間を飛ばしちゃってる感じ。

 
 しかし、ざこば師匠はこの噺と合っているなあと感じた。

 
 


 どうも、お退屈さまでした。いつものことですが、録音等してませんので、聞き違い、記憶違いはご容赦ください。

  
 



 

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