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(No168) 日本の話芸 TV鑑賞記
金馬は、平成22年2月9日、松之助は、2月16日、雀松は3月10日くらいの・・・・・・放送です。 (はっきりしなくて、すみません)
この助産婦さんが、ある家を訪れたら、そこに網走からの脱獄囚が逃げ込んでいた。脱獄囚は、家族を人質に、食事などを要求する。 しかし、助産婦さんは平気のへいざで、その脱獄囚を、産気づいたそこの奥さんのために湯を沸かせ!とかこき使う。
結局、脱獄囚は悔悛して自首することを誓い、助産婦さんに、悪いけど刑期を全うして釈放される時には迎えに来てくれないかと頼む。
特に面白いギャグなどがあるわけでもないし、人を感動させるほどうまく構成されているようにも感じなかったが、こういう噺に好感を持たれる方もいらっしゃるのだろうな、と思う。
笑福亭松之助 「三十石船」
NHKの番組紹介によると「上方落語界の重鎮、笑福亭松之助の話芸で、旅情豊かな「三十石船」をお送りする。」とある。
実に淡々とした、(ここのところずっと、仁鶴でもよく感じるのだが)「棒読み」の高座であった。
桂雀松 「愛宕山」 NHKの番組紹介では「【内容】旦那(だんな)が芸者や幇間(ほうかん)をひき連れて京都・愛宕山へ山遊びに向かう。山が苦手な幇間の一八は逃げ出そうとするが、旦那は繁八を見張りにつけている。
旦さんが、お前ら大坂の人間やから野掛けに慣れてない。大坂には山がないからと言うと「大坂かて山はある。茶臼山、真田山、天保山・・・」と反発するも、「あんなもん、山やあれへん。あんなん地べたの腫れや」などとバカにされる。 愛宕山のふもとで「どうや、恐れ入ったか」と挑発する旦那に「へん、何でんねん。こんなもんケンケンで上がったりまっさ」と見栄を張り、みんなの弁当や荷物をすべて背負わされるはめに。 またも、経験もないくせに張り合って散々な結果となった一八、悔し紛れに、大坂の旦那衆は、「かわらけみたいなもんやのうぉて、お金を投げる」と逆に挑発した。 と、京都の旦那は、細かい銀貨ではなく「小判」を投げると宣言。 一八は、旦さんは京のお方にしては度胸のあるお方ですが、これは、投げようと思っても身体がゆうことを聞きまへんと、取りなし半分、挑発半分の言葉。 で、旦さんが小判をかわらけ代わりに谷間に放り投げる。きら、きら、きら・・・・・・・。緑の谷間に金色の小判が舞うさまが目に見えるようだ。 この小判は、拾った者の自由じゃと言われ、(旦那の示唆で、繁八が後ろから押したが)傘を広げて谷間に飛び立った一八。 降りたは良いが、上がる手段がない。(傘を必死に握り締めていたため、口を使って自分の指を傘の柄から外すところの描写が私は好き)。 そこらに散らばっていた小判をすべて拾い集めたが、どう戻る?で、自分の着ていた絹物の肌着を裂いて縄をこしらえ、竹に結び付けて「しなり」をきかせて、みごとに旦さんの元に戻る。 前にも書いたが、ついつい私は「枝雀スタンダード」、枝雀師匠はこう演っていたなという感覚で観てしまう。それからすると、雀松の高座は、どうも、えらいあっさりとした感じなのだ。 しかし、少し時間を置くと、例えば、扇子をこめかみの辺りで下げて、芸妓のかんざしの雰囲気を出したりする雀松の演出が妙に快い。 口跡が明らかとゆうか、雀松の高座は、(例えば「片棒」のような、ある意味、「吝嗇」とか「死」とか「世間への見栄」などといった要素を複雑に含む噺であっても)落語が包含している様々な要素をすぱ〜んと平明に解き明かしてくれるような働きがあるような気がする。
うまく言えないのだが、ともかく今後とも雀松の高座には注目していきたい。
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