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(No134) 米朝一門会 鑑賞記その2       

   平成21年3月29日(日)にヴィアーレ大阪で開催された落語会のメモ・・・・・・の続き。



 

(3) 桂宗助 「禍は下」

 まずは、マクラであるが、
(1) 「ただいま、拍手いただいた方に限り・・・・」というネタ、
(2) 「本来ですと、お一人お一人に・・・・」というネタ、
(3) 「近頃の女性は強くなったというが・・・・」というネタ、
(4) 寒さへの耐性と雪山遭難、冬の日の「コート」のネタ、
(5) 痛みへの耐性と「石抱き」の拷問のネタ。

 すべて以前に聴いたものと寸分違わず一緒。


 
 本編は「禍は下」(わざわいはしも)。

 商家の旦那が「網打ち」に行くということで丁稚の定吉を供に連れて家を出る。
 しかし実際は手掛け(私は妾=「めかけ」という言葉より「てかけ」の方が好き)の「おたか」(お鷹?)の妾宅に。

 結局旦那はそのまま泊まることにし、定吉にはいくばくかの銭を渡し、それで魚を買って「旦さんはお友達と朝までお酒です。これは今日獲ったお土産」と言って、おかみさんに渡せ。残りはお前の小遣いにすればよいと言いつける。

 定吉は魚屋で目刺しやちりめんじゃこ、蒲鉾などを買ってしまい、おかみさんに不審がられるが、これは、実際の土産を野犬に盗られ、仕方ないので自分の小遣いで買いましたと言いぬけ、むしろポイントアップ。 

 しかし、持ち帰った旦那の羽織、袴で、おたかさんがたたんだ羽織と、定吉がたたんだ袴のあまりの違いで、おてかけさんの存在がばれてしまう。

 「禍は下」というのは、旦那が、定吉に「(忠臣蔵とか、いろいろな大事において)往々にして事は、下々の者の不用意な言動で露見する。禍は下とは、このことや」と将来の災厄(おたか宅から帰還し、「ああ、おもしろい網打ちやった」などとのたまった後の旦那とおかみさんの攻防が気になる)を予見したようなことを言う。

 そして、定吉が上着じゃなくて、「下」の袴を自分が不細工にしかたためなかったことで事が露見してしまったことで、旦那から「禍は下」と言われた時は、「そんなことはおまへん。この定吉、いただいた小遣いの分の仕事はします」と大見得を切ったが、「ああ、やっぱり禍は下やった」と述懐するオチに由来する。


 ・・・・・・・・・いやあ、ほんま、前に聴いたそのまんま。全く何の新味もない。

 桂文楽は、噺を練り上げ、完成形に仕上げ、それを寸分狂わず繰り返すことを理想にしたというが(←適当に書いてます。そんなことは言ってないとか、つっこまんといてね。古谷三敏氏の『寄席芸人伝』中公文庫第1巻の「秒の勝負 橘屋文吾」では、そうゆうことが書いてますけど)、宗助もその域に達したね・・・・・・・・・・・って、評価してねえよ!!


 


(4) 桂南光 「鹿政談」

 「めくり」で「桂南光」という名前が出た時、場内がちょっとどよめいた。今日は、正式の、というか一般的な落語会でなく、職員互助会行事的な色彩があるので、あまり「誰が出るのか」というようなことも把握してないまま来てる人がいて、「あっ!TVの『痛快!エブリデイ』に出てた南光さんや!」と感嘆の声をあげたのではないかと思う。

 今日は、トリで米團治くんが出てまいります。
 彼はお父様の名前を継いで・・・・・・・・・・・・・あっ、お父様じゃないですね。お父様の師匠の名前を継ぎました。


 ほんまやったら、息子なんですから父親の名前を継ぐ方が自然なんでしょうが、米朝が異常に元気なものですから・・・・・・・。

 実は私も15年前に今の名前を継ぎまして。全国4箇所で、こそっ〜と襲名披露しました。

 米團治くんは、全国77箇所で襲名披露したそうでして。それやったら、いっそのこと88箇所でしたら、よかったのに。


 私、三代目の南光と申しまして。その前の名前が「べかこ」です。・・・・・あんたらひとごとやから笑
(わろ)てるけど、人間の名前やございませんよ。関西で「あっかんべ」のことが「べっかんこぉ」で、「べかこ」ですからね。

 で、米朝師匠がしばらくしてから、「お前もいつまでも『べかこ』てな名前いややろ?」てゆうてくれはったんやけど・・・・・、ようやく馴染んできたとこでしたんや。

 で、米朝師匠が「南光ゆうのは、ええ名前や。初代も二代目も、よぉ売れたんやで」ってゆわはるから、「先代(二代目)ゆうたら、どんな人やったんですか?」て訊いたら、「わしも、よぉ知らんねや」て。

 まあ、そら無理ないんです。100年近く前の人ですからな。何せ、初代南光が生まれたんは安政元年らしい。まだチョンマゲ結うてた時代ですからねえ。

 私、何とかこの「南光」ゆう名前を有名にせな、あかん思て、「桂」を取って、「オロナイン」にしよかな思たんです。
 「オロナイン南光
(軟膏)」ゆうたら、何や落研(落語研究会)みたいやけど。

 ほんで別にアカギレやないけど、いつも軟膏すりこむみたいな手つきしてたら、CMなんかも来るんやないかとゆう邪念もございましてね。

 で、マジで襲名するちょっと前頃に、オロナイン軟膏の正式名称が変わったんです。オロナイン軟膏。いれもんの肩に、赤で大きくて。 

 
  続いて「土地のおいしいもの、名物、名産」ということで、まず三都(江戸、大坂、京都)の名物を詠みこんだ歌を紹介して、さらに奈良の名物の歌に。 

 なかなか、こないスラスラとは行きまへんよ。
 で、奈良の名物、町の早起きについては後ほど申し上げますが、奈良の名物とゆうと、何とゆうても大仏さん。

 今、真っ黒ですから鉄でできてんのかいな?と思われがちや思うけど、53尺5寸。約16mのお身体は、あかがね、銅。元素記号で申し上げますとCU。早い話、10円玉でできてるんですわ。
 10円玉、茶色ぉなってても、ソースに漬けたらピカピカになる。
 10円玉をタバスコ(ソース)で磨くとピカピカになるのは私も知ってしるのだが、「ソース」ゆうのは、ウスターソースとかのことなんやろうか?

 大仏さんは天平時代にでけたんですが、地震にあって頭が落ちたそうです。

 あと焼討ちとかもあって、今の頭は三つ目らしいですな。これで、まあ終わりやろうぉて言われてるそうです。
 仏の顔も三度、ゆうて。
 聞き流していただいて結構です。私の考えたギャグやないから。

 「大仏は見るものにして、尊ばず」と言われてるそうです。つい、大仏さんは拝むのを忘れる。

「わあ〜!!でかいなぁ!見てみぃ、あの鼻の穴。人が通れるらしいで。

 あっ、あの手ぇ!人、5、6人乗れるんちゃうか?

 ふえ〜、えらいもんやなぁ。・・・・・・・次、行こか?」 
 これから、噺は片方の目玉が内側に落ち込んでしまった大仏様の修復を、ある親子が「うちがやる」と手を挙げる・・・・というシーンに続いていく。

 で、息子が巧みに像の内側から修復したが「どこから出るのか?」と心配されていたところ、鼻の穴から出てきた。

  それから賢い子ぉのことを、目ぇから鼻に抜ける・・・・ゆうよおになった。これ、米朝師匠に教わったんです。皆さん、よそでは言わんように

 なぜ奈良で鹿が大切にされるか、とゆうと常陸の国から神さんが渡ってきはった時の乗り物が鹿やったそうなんです。

 ですから、奈良では未だに鹿を大切にしている。鹿も檻に入れたりせずに放し飼いにしている。
 放し飼いの鹿は大切にせなあかん。放し飼いの鹿、はなしか、噺家
(落語家)は大切にせなあかんゆうとこで。

・・・・・・いちいち中途半端な拍手せんと、聞き流してください。恥ずかしいわ。

 

 昔は、興福寺と春日大社に13000石がくだしおかれて、そのうち3000石が奈良の鹿の餌料とされていたそうです。

 今、鹿は1200頭ほどおるそうですが、当時は200頭ほどやったそうですな。

 先日、奈良の方で仕事がありまして奈良ホテルに泊まらせてもらいました。
 その前、NHKのアナウンサーが「さすが古都の鹿は”躾
(しつけ)”が行き届いている。
 あれだけ鹿せんべいを売る店がありますが、どの鹿も、観光客が鹿せんべいを買うとねだりに行きますが、それ以外は、せんべい売りのおばあさん達の屋台のせんべいを狙うようなことは絶対にありません」てなことをゆうてました。

 私、その時、早朝に近所の奈良公園を散歩してたんです。

 おばあさんらが、適当にせんべいとかの屋台を広げてはったんですが、ある店のとこへ、バンビゆうんですか、小鹿がねぇ、つつつ〜っとやって来て、おばあさんの店の鹿せんべいを食う、食う!!。


 そうしたら、そこのおばあさん、どうした思いはりますぅ?
 いきなり、そのバンビの頭、店の前の看板でバン!バン!バン!ゆうて。

 そら、言葉は通じませんからなぁ。躾ゆうのは、こうゆうもんかなぁと思いました。

 ただ、えらいもん見てしもうたなぁ思て、NHKにゆうたら、「内緒にしといてください」ゆうてました。

 「三作の石子詰め」ゆう話もあります。三作ゆう子供が習字の稽古をしてたら、鹿が、その紙を食べてしもた。
 で、カッ!となって文鎮を・・・・・・・あの、桂文珍さんやないですよ。文鎮を投げたら、当たり所が悪かったんか、鹿が死んでしもた。そしたら、13尺掘った穴に鹿と、その三作が一緒に埋められてしもたらしい。

 ですから、とにかく奈良では、家の前で鹿が行き倒れてたりすると、どんな厄介に巻き込まれるかとも知れないので、「あ、うちの前で鹿が死んでる。でも、隣はまだ寝てるさかい、隣にこの死体を持っていこう」とか考える。
 要は、朝寝坊だと、家の前がえらいことになっている可能性もあるので、「朝の早起き」が奈良の名物になったんやそうです。

 

 おからのことを関西では「きらず」と申します。関東では卯の花。
 何で関西でおからを「きらず」とゆうかゆうと、豆腐はたいがい包丁で切るけど、おからは切ることがないから、「切らず」ゆうねん・・・・・・・・て、皆さんどう思われますぅ?

 まあ、「おから」の「から」が劇場などの「空ら」に通じ、縁起が悪いという話から、上記の「きらず」になったんちゃうか、なんて言われてますね。

 

 あと、似たようなとこでは、「する」ゆう言葉は縁起が悪いゆうて、「擂り鉢」のことを「当たり鉢」てゆうたりしますな。
 スナックなんかでは、あて
(酒の肴)のスルメを「当たりめ」てゆうたりする。スリッパは「当たりッパ」・・・・・て、こら言わんか。

 果物の梨は「無し」に通ずるゆうて、「有りの実」とゆうたりもします。

 水草の「葦」ゆうの、ございますね。これも「悪し」に通じるということで、「よし(良し)」と言い換えたりする。
 東京のほうの「吉原」も、もともと水草の「葦」がいっぱい生えてたんで「あし」原やったんが「よし」原んなって、「吉原」になったそうです。

 噺は、豆腐屋の六兵衛さんが店先でおからを食べる「犬」を追おうと割り木(薪)を投げつけたところ当たり所が悪く、死んでしまう。
 はっ!として近づくと鹿だった・・・・・・・と続いていく。

 米朝師匠のギャグと違う点とゆうと、六兵衛が、犬と思って文鎮を投げた「鹿」を助け起こし、「しかりせい!しかり!」とゆうところ。

 お白州での裁判で、奉行は正直者の六兵衛を助けてやろうと、これは鹿ではなく犬だと持っていく。

 ほかに特徴ある演出とゆうと、鹿の傅(もりやく。守り役)である塚原出雲は、お奉行から「これは鹿に似た犬でしょ?犬なら無罪!」と決め付けられたが反論。

 しかし、きちんと餌を与えていれば盗み食いなどしない筈。餌料の金を高利で貸し付け、厳しく取り立て、民が難儀しているということは耳に入っておる。
 あくまで鹿と言い張るなら「餌料横領」の件から取り調べるかどうじゃ!と脅され、「鹿の落とし角、こぼれ角」を知らないのかとその前にお奉行に大見得を切ったのをすぐ撤回、「すんまへん。ちょっと待っとくんはれ。これは、鹿に似た犬でございました」と平謝りになったとこも、米朝師匠にはないボケだった。

 オチはいつものとおり、「切らずにやるぞ」、「まめ(元気)に帰ります」とゆうもの。

 

 

 

 

 


  どうも、お退屈さまでした。聞き違い、記憶違いはご容赦ください。  
 



 

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