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北京旅遊記(2)景山公園編


 空港から30分少しで景山公園に着く。ここでの個人テーマは「首吊りの木」と「頂上からの神武門及び鼓楼撮影」の二つであった。

 登り口の左に人だかりが。「崇禎帝自縊処」の立て看板と1本の木であった。
1644年、明の崇禎帝が、李自成軍に追われ、紫禁城を脱して景山に逃れたものの、随う者はわずかに宦官ただ一人。もはやこれまでと、首をくくった・・・といういわれのある槐(えんじゅ)の木。

 また、最近では、宣和堂さん(リンクコーナー参照)が
下で首吊りの真似をして現地の中国人に笑われたという由緒正しい場所でもある。
 『歩き方』には、当時の木は文化大革命の時に切り倒され、現在の木は後に植え替えられたもの、とあった。
  一方、ガイドの李さんは、「文革で紅衛兵が半分切ってしまったので、下半分だけがホンモノ」と言っていた。

 全ニセか半ニセか、どちらが正しいのかはわからない。

 写真でわかるように、確かに途中で切られて、そこから新しい細い幹が伸びている。
 しかし、槐の成長スピードってよく知らないのだが、下半分は明末に首がくくれるくらいの枝があり、上半分は文革以降に伸びたものにしては、ちょっと木全体が若すぎるような気もした。
首つりの木

(首吊りの木 補足)
 『最後の東洋的社会』(編:田村実造。中央公論社)、『明帝国と倭寇』(編:三田村泰助。中公文庫)、『モンゴルと大明帝国』(愛宕松男・寺田隆信。講談社学術文庫)のいずれにも、崇禎帝が槐で首をくくったとは書かれていない(寿皇亭というあずまやで縊死したとある)。

 なお、『明と清』(三田村泰助。河出文庫)には、「崇禎帝最期の地」というタイトルで白黒写真が掲載されている。
 それに石碑が写っているのだが、現地で見た記憶がないので、おそらく文革時にでも撤去されたのだろう。
 で、写真の碑文、「明思(恩?)宗殉国像」と読める。崇禎帝なら毅宗だが。それと、帝の自殺も殉国なのだろうか。
 さらに、『中国歴代皇帝人物事典』(監修:王敏・岡崎由美。河出書房新社)では「松の木に首を吊って」とあった。いやはや・・・

(首吊りの木 再補足 01.9.2)
 サイト「枕流亭」の永一さんより、「思宗」も崇禎帝のことだと教えていただきました。
 また、丁黙邨さんからは、『明史』にも、どの木で吊ったかは明記されていないと教えていただきました。

 石段を登る。大した高さではない(標高43m)ので、ほどなく頂上の万春亭に着く。南の方向を見下ろせば、あこがれの故宮の全貌、とりわけ北側の神武門が見える。
 故宮を望む欄干にもたれて、次々に中国人カップルや親子連れが記念写真を撮る。李さんが記念写真撮りますか、と言ってくれたので並ぼうとしたが、遠慮していてはいつまでたっても、先を越されるばかり。子どもたちに声をかけ、強引に占拠する。
 李さんがシャッターを押そうとするが、平気でばんばん前を通るし、立ちふさがるおばちゃんも多い。
 家族が体を張り、ガイドさんが般若のような表情と声で他の者を追っ払って、初めてまともな記念写真が撮れるのである。
 私は、今後「知らん中国人の顔が写っているのも、ええ記念や」と割り切ることにした。

 さて、私は何年か前だが、たまたま古本屋で『北京』(安藤彦太郎。講談社原色写真文庫)という本を買った。
 これは文化大革命華やかなりし頃に中国を訪問した人が、当時の北京のあちこちを撮った新書サイズの写真集である。買い値は200円だった。

 買った当時はあまり真剣に見てなかったのだが、旅行のことを考え出してから、あらためて手に取ってぶっ飛んだ。
 そこに、景山から故宮の神武門を見下ろした写真があったのだが、有名な、郭抹若の筆になる「故宮博物院」の額は隠されていた。
文革時代の神武門

 代わりに、門の上部には幅いっぱいに、革命のスローガンが赤ペンキで大書してある。
 下の方には「大字報」というのか、壁新聞がべたべた貼ってある。そして、故宮内のほかの建物にも、そこかしこにスローガンの赤い横断幕が掲げられている。あの故宮に、なんちゅうことをしてくれるのか。

 映画「ラストエンペラー」や、「溥儀もの」で紹介された故宮が、昔の、いわば「モノクロームの故宮」。そして、『歩き方』のようなガイドブックで紹介される故宮が現代の、「カラーの故宮」だとすると、それは、いわば「赤さび色の故宮」とでも表現すればいいのだろうか。私にとっては、新鮮な第三の故宮であった。

景山より神武門を望む  今回の旅行では、可能な限り、この『北京』に載っている場所がいま、どうなっているのか(それは、ほとんどガイドブック等の写真でわかるのだが、自分の眼で見て)写真を撮ってきたいな、と考えていたのである。

 その第1が、「景山から見下ろす故宮神武門」である。文革時代は上で書いたとおり。

 現在は、額の復活や落書きの撤去はいうまでもないが、周りの緑が増えたこと、バス等が多いことが印象的である。

 万春亭の回廊を北へまわり、鼓楼を遠望する。曇り空なので、鼓楼の詳細はよくわからない(だから、後日驚いた)。

 右は、文革当時の写真。下の、今回撮った写真と比べると、高層ビルの数は思っていたほど増えていなかった。
 道路は、かなり良くなっているようだ。
文革期の鼓楼遠望
景山より鼓楼を望む  ただ、街路樹の感じが全然違う。
 時代が進み、樹木が成長したのだともいえようが、緑化には、相当力を入れているのではないか。

 山を降りる。たけしが「のど、かわいた〜」とわめく。
 李さんが「じゃあ、お茶を飲みに行きましょう」と言った。
 これが、セールス波状攻撃の第一弾につながろうとは、その時の私たちには知るよしもなかった。

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