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北京旅遊記(14)明の十三陵(定陵)編

 さらに市内方向へ戻って、明の十三陵に向かう。

 途中、並木道の両脇にずらっと屋台が並ぶ。いずれも、畳のような大きさの戸板を横長に、やや傾けて立て、そこにを並べている。

 平べったいピラミッド状の展示方法(要するに、傾けた板の下端に棚板のような「受け」を付け、三角形に並べる)は、どこも同じだ。
 気がつけば、広大な桃畑が続いている。春に来たら、桃の花がさぞ美しいのであろう。

 定陵に着く。ここは、日本でも「万暦赤絵」で有名な、明第14代万暦帝の陵。
 明楼をみて、次に地下宮殿に向かう。
 途中は、「ゆずり葉の道」(大阪市で、住宅地の中などに設けている、わざと細かく鍵状に曲げ、車のスピードが出ないようにしている道)のようだ。街路樹で、道ががくがくと曲げられている。

 地下宮殿入り口。短い間隔で、細かく折り返す下り階段。相当降りてきたと思うのに、なかなか終わらない。
 下りやからええけど、これが登りやったらきついで。早くも帰りの心配をしてしまう。

 ようやく、下に着く。ほとんど展示物は残っていないが、壮麗ともいうべき、馬鹿馬鹿しい巨大さに感嘆してしまう。

 司馬遼太郎氏の『長安から北京へ』(中公文庫)は、氏が75年の中国旅行を題材としたものだが、 「万暦帝の地下宮殿で」という章で始まる。
 馬鹿と繰り返して申し訳ないが、それにも「馬鹿な男がいたと思う以外に手がないほどの豪華さ」と表現しておられる。深さ27m、建築面積は約1200平米のことだ。
 この地下宮殿とは、皇帝の死後の生活のためのものである。

 前掲書に「ただ一人が、誰にも見せずに、そして権力の誇示という政治上の効果にもまったくならない建造物を、国家の経常費の倍もかけて地下に作り、あとは土を盛り上げて埋めてしまうという異常さは、古代ならばともかく、十六世紀に中国では平気でおこなわれていた」とあるが、たしかに日本的基準からすれば異常というほかはないであろう。

 皇帝、皇后の「死後の玉座」には、無数の紙幣、コインが積み重なっている。観光客がお金を投げて、うまく玉座に乗れば幸福がくる、という運試しらしい。
 角や分などの小銭ばかりではあるが、金に埋没しそうなその姿は、信じ難いほど金に執着し、そして浪費した万暦帝に最も似つかわしい姿のように感じた。

 見学コースの設計として、最初に深く潜り、地下宮殿内ではゆるい昇りになっていたらしい。最後は、傾斜のゆるやかな階段を少し上れば地上に出ることができた。なかなかよく考えられている。

 万里の長城で車に酔って青い顔をしていた長男。今度は油汗を流している。
 おなかが痛いらしい。あわてて、トイレをさがす。
 どうや、大丈夫か?と個室の外から声をかけると、「お父さん、ちょっと来て」という。心配して中に入ってみると、流し方がわからない、という。

 な〜んと。あきれるとともに、そんなものかと思った。
 天井からひもが下がっていて、それを引けばいいのだが、彼はそういう形式のトイレを日本で経験したことがないのだ。私が子どものころは当たり前の形式だったのだが。

 少し歩いて、車を駐車している場所に着く。
 長男は、また、トイレへ駆け込む。
 なかなか出てこないので、「おい、まあ君。ほんま大丈夫か」と声をかけると、再度、「あ、お父さん。ちょっと来てくれる?」。
 どうしたんや?中へ飛び込むと、またしても「流し方がわからない」そうだ。
 今回のトイレも前回と同じくハイタンク式(流す水をためるタンクが、天井近くにある。最近の家庭用トイレは、ほとんどがロータンク式)で壁際の水の配管の途中に細長いレバーがついており、それをゆるめると水が流れ、再度回して止めるというものだった。
 まあ、これも経験したことはないのだろうが、少しは応用きかせろや、と歯がゆく思う。お腹が痛くてウロがきている(=狼狽、気が動転している)子どもに望むのは無理か。

 さて、もともとの観光コースは定陵のあと、神路(石像)を見て終わりだった。
 ところが、『北京』には、長陵の明楼の写真があった。当時の政治情勢を反映して、大きく「援越抗美」と赤で大書してある。
 越はベトナム。美は「美国」でアメリカのことである。今なら逆にアメリカと手を結んで、ベトナムと敵対するのでは?

文革期の長陵明楼 現在の定陵明楼

 で、李さんに、長陵にも寄ってほしいと午前中に頼んでいた。

 明十三陵は、共通ルートともいうべき神路(本来は永楽帝を祀る長陵の参詣道)を経て、山すそに散財する各皇帝の陵へ道が分かれる。
 神路の北端から西奥に進んだ所が定陵である。一方、長陵は、反対に東奥にあたる。

 李さんは、困ったような顔をして、10km以上離れています。全く別方向ですよ。長陵には、地下の宮殿はありません。陵によって公開の度合いが違う。行っても、陵や明楼の中には入れないと思いますよ、などと言う。

 はい、承知してます。昔の写真集を持っていて、それが現在どうなっているか、写真を撮りたいんです。明楼の写真が撮れれば、それでいい。別に楼の中に入る必要はありません。入場料とかも、みんなは、車で待っていてもらって、私だけが券を買って中に入り、写真だけ撮ったら、すぐに出てきます。そう告げた。

 李さんは、運転手の張さんといろいろ話し合い、「ちょっと、その本貸してください」と『歩き方』の地図を見せて、説明している。
 そして、申し訳なさそうに「もし、まわるのなら、運転手さんにちょっとしたお礼として50元渡さないといけないけど、それでいいですか」と言う。
 行ってくれるなら異存はない。
 それで、長陵にもまわってもらう予定になっていた。

 李さんにしたら、決められたコースを、急に変更するのは、運転手との報酬等の調整含め、大変だという面は当然あっただろう。(運転手の張さんは、同じ旅行社の人間、というわけではなく、下請けというか提携会社のタクシー会社の人らしかった)
 しかし、それよりも、明楼なんて定陵も、長陵も同じなのに、どうしてわざわざ見たいなんて言うのかが、理解できなかったのだと思う。
 上に文革時代の長陵の明楼の写真と、今回撮った定陵の明楼の写真を並べる。たしかに、よく似てる。

 さて、そんなスッタモンダのあげく寄ってもらうべく話をつけていた長陵であったが、李さんが「どうしましょう?」と言った瞬間に決断した。
 「直接、神路に行ってください」
 今日は、十三陵が最後の観光地だ。神路は帰り道だからやむなしとして、長男の体調を考えたら長陵への寄り道はやめて、少しでも早くホテルに戻ろうと思ったのである。

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