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(No99) 特別陳列「お水取り」鑑賞記 その1
2007年2月17日(土)、奈良国立博物館主催「講話と粥の会」で、講話の後、奈良国立博物館西山厚教育室長の解説で特別陳列「お水取り」を見学させていただくことになった。
この際、前2回の講演の整理で使わせていただいた私の勝手な「見出し」に従って整理させていただくこととする。
【 1.はじめに 】
これから皆さんに特別陳列「お水取り」の解説をさせていただくことになっているのですが、私に与えられた時間の終了時刻を既に15分もオーバーしています。
・・・・・・・・どうしましょ?
まあ、大急ぎでまわるだけまわりましょう。
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(※ 石野注)
守屋長老の講話が13時から13時40分までの40分間。10分間の休憩をはさんで、西山教育室長の解説が13時50分から14時30分までの40分間・・・・・というのが所定のスケジュールであった。
しかし、前回の聴講記に書いたように長老が時計を1時間見誤られたのか、講話は14時40分にようやく終了した。(東大寺の長老にお越し願っているのだから、途中でストップをかけられない博物館の職員さんの気持ちはよくわかる。しかし、ずいぶん焦っていたろうな)
で、職員さんは、講話終了後、引きつった表情で我々に「5分だけ休憩を取ります」と案内された。
よって、西山室長のもとに我々が集合したのが14時45分。スタート時点で「終了時刻を既に15分オーバーしている」というのは、そういうことである。 |
【 2.修ニ会の意義 】
【 3.修ニ会の歴史 】
【 (1) 起源と歴史 】
修ニ会は、今年で1256回目です。一度も途切れていません。このような行事は日本はおろか、世界にもありません。
太陽系の中でもこれだけです。銀河系・・・・・とまでいくと、どうかわからんけど。(会場笑い)
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(※ 石野注)
「千二百五十年以上の長きにわたり、一度の中断もなく続いている年中行事は、世界中さがしても他にないと思う。生きとし生けるものの幸せを祈る行事を、千二百五十年以上にわたり、一度の中断もなく続けているのは、世界中で日本だけである」『仏教発見!』(著:西山厚。講談社現代新書) |
お水取り最大の危機は1181年でした。東大寺自身がやめると決定したんです。平氏の焼き討ちで伽藍はほとんど全焼しました。大仏も上半身は熔けてしまいました。僧侶が寝泊りする僧坊も全焼してしまいました。
そこで、「今年はすべての法会はやりません」と正式に決めたのです。
しかし、11人の反抗者が出ました。その時点で370年くらい続けていたので、彼らは「復興してから再開したのでは意味がない」と考えたのです。
当日になってさらに4人が参加し、15人で実施されました。湯屋も焼けてしまっていたので、川の水は凍っていましたが、そこで水垢離して身体を清めて挙行されました。
東大寺では、よく「不退の行法」という言い方をしますが、そういえるのも彼らのおかげなのです。
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(※ 石野注)
「治承4年(1180)12月28日の平氏による焼き討ちの際には、二月堂は無事だったが、大仏殿をはじめ東大寺の大部分が焼失し、数々の法会は断絶した。しかし二月堂の修ニ会だけは『同心之輩』十五人の合力で続行された。この苦心の様子も練行衆日記に詳しい。二月堂が焼失した寛文7年(1667)の際にも、修ニ会は『不退の行法』として続けられた」(特別陳列「お水取り」図録) |
【 (2) 悔過のおこり 】
こちら(二月堂縁起 室町時代 天文14年=1545)をご覧下さい。袈裟を着ている僧侶が実忠ですね。そして、この十一面悔過を人間界に伝えたいと言ったのですが、菩薩は「それは無理です。生身の観音でないと駄目なんです」っておっしゃったんですね。
それで、実忠和尚が勧請したんですね。
【 (3) 本尊 】
修ニ会というのはどういう行事かというと、上七日の間は大観音に、下七日の間に小観音に対しひたすらおわびを続けるというものです。
修ニ会といえばお松明で有名です。よく、あんな松明を振り回してよく火事になりませんね、とか言われるのですが、階段の天井なんか年中燃えてます。それどころか、1667年2月14日に二月堂は全焼しているのです。
その時、練行衆は堂内に突入し、何とか小観音は救い出しましたが、大観音は持ち出せるようなものではない。
しかし、焼け落ちた跡に戻った練行衆は、何もなくなった所に大観音が立っておられるのを観て感動したそうです。
二月堂の本尊は絶対秘仏ですから、中には、「実際には本尊などないのではないか?」などというバカモノがたまにいますが、ちゃんと記録に残っているのです。
しかし、その時に光背はバラバラに砕けてしまいました。(重文 二月堂本尊光背 奈良時代 8世紀)
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(※ 石野注)
「(練行衆日記)第廿には、寛文7年(1667)の二月堂焼失が生々しく記述されている。2月13日の晨朝(14日未明)の勤行を終えた練行衆は、参籠宿所へ下堂して粥食をとった。程なくして二月堂の上に烟(煙)が立ち昇っているとの知らせが入る。堂司の実賢が急いで二月堂に入った時にはすでに内陣は火の海。厨子を押し破って小観音を取り出した実賢は、小観音を抱きかかえ、自分の袈裟で包んで堂外へ走り出た。やがて二月堂は全焼。痛ましい姿で焼け跡に立ち尽くす大観音を見た人々は、ともに拝し、さらに恐れたという」(「図録」)
会場では練行衆日記が展示されていた。現存最古の日記が保安5年(1124)から文永6年(1269)に至る「大双紙」と呼ばれるものだが、寛文7年の二月堂焼失のおり著しく焼損したそうだ。
1181年時の日記も、冊子の左右の下端が大きく欠け、ちょうど「ハート」のような形になっている。その焼け焦げた紙のところどころに「同心之輩十一人」とか「破凍行水」といった文字が見えた。
寛文7年の記載は、火災の後に書かれたものなので日記自体はきれいに残っている。
「十三日晨朝特終諸練行衆下宿所用粥食之後漸辰刻許時○以来告堂上烟立昇之由諸練驚怪先堂司実賢持内陳之鑰早速馳登開扉入内欲出御厨子火烟已満陳故頻押破御厨子網抱尊像畏自袈裟出堂外」とか「本願和尚安置之尊像安然千火中宛如有勢衆人共拝更恐」などという文字が見えた。
大観音光背については、奈良博だより、又は特別陳列チラシにて。
また、リンク切れになるまでは、奈良博HPにて。 |
先ほどの守屋長老が、お話される際、小観音には必ず小観音「さん」とさん付けされていたのにお気付きだったでしょうか?それだけ、小観音さんは大事にされているんですね。
こちら(重文 二月堂曼荼羅 室町時代:16世紀)をご覧下さい。この絵を観てもらえればわかるように、大観音はずっと二月堂に居るんですが、小観音さんは「やって来る」んですね。
小観音さんは特別製の厨子に入っています。その厨子には出し入れする扉がないんです。入口、出口がない厨子にどうやって入れたのか。昔、「地下鉄はどうやって入れたんだろう?」なんて漫才がありましたね。(会場笑い)
小観音さんは練行衆でも観ることができないのですが、図像が残っています。こちら(重文 類秘抄 鎌倉時代:承久2年=1220)をご覧下さい。
大きな特徴は、十一面観音で四段重ねになっている点です。正面の顔の上に、下から三面、三面、三面、そして一面と四段重ねになっているのですが、こうした十一面観音は、日本では他に類例がありません。
ところが、インドでは、こうした十一面観音の例があるのです。
伝説では、この小観音さんはインドというますか、西方の補陀落山から実忠和尚が勧請したことになっているのですが、その伝説も真実では・・・・?と思わせるものがあります。
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(※ 石野注)
この辺、閼伽井屋の内部に水源が二つあったことが明らかになったことを受けて「黒白二羽の鵜が岩から飛び出したという伝説は、荒唐無稽のようにみえて、水源がふたつという事実をふまえていたことがわかる。伝説を軽んじてはいけない。どこかに真実を含んでいる」(『仏教発見!』)とした西山節全開!という感じ。
画像は、特別陳列チラシにて。また、リンク切れになるまでは、奈良博HPにて。 |
【 4.練行衆 】
【 (1) 発表と制限 】
【 (2) 練行衆の分担 】
【 ア 四職 】
【 イ 平衆 】
【 (3) 練行衆の持ち物 】
こちらは三鈷鐃(さんこにょう)と呼ばれる特別な鈴です。
大導師が使う鐃は、音を抑えるためか紙で包まれています。
こうした鐃は激しく使われるため、壊れます。しかし、その度に形も同じまま再製するので、昔の形が現代に伝えられているのです。
これと同じ形の鐃が男体山などから出土しています。
【 (4) 参籠衆 】
【 ア 三役 】
【 イ その他 】
【 5.前行 】
【 (1) 準備期間 】
【 (2) 試別火 】
【 (3) 惣別火 】
ここでいったん切ります。どうもお疲れ様でした。
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