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(No97) 講演「修ニ会とごぼう」聴講記 その1 

 2007年2月17日(土)、奈良国立博物館主催で「講話と粥の会」という催しがあった。

 まず東大寺守屋弘斎長老による講話(13時〜13時40分)。
 次に奈良国立博物館西山厚教育室長による特別陳列「お水取り」の解説(13時50分〜14時30分)。
 続いて、奈良国立博物館茶室「八窓庵」(控室)にて茶粥の賞味(14時40分〜15時40分)。
 最後に、東大寺二月堂に移動及び見学(15時50分〜)というスケジュールで定員30名、会費は5000円也である。

 まずは、講話の聴講記を。
 講師は守屋弘斎長老。

  なお、当日は資料の配布(下記白枠内)はあったが、特にレジュメなどは配られなかった。
 前回の上司永照師の講演と同様、下記で「見出し」を付けているが、それはすべて私(石野)が整理の便のため勝手につけたものである。見出しは、【 】で囲んだ。
 また、長老のお話で前後した部分は、私がメモと記憶をたどって、自分のつけた見出しの順に編集した。よって、もしこの講演を聴かれた方がいれば、「こんな順番で話していない」と感じられるだろうがご容赦いただきたい。

 それと、長老には失礼だが、前回の上司永照師の講演と重複する部分は適宜省略させていただく。
 


【 1.はじめに 】

 さて、40分で何を話せばよろしいのでしょうか。
 以前、ある大学で3年かけて、修ニ会を講義させていただいたことがあります。それくらい、話す材料には事欠きません。
(※ 石野注)
 この日、特別陳列「お水取り」の図録(奈良国立博物館)を買ったので、今後の参考資料のメインとする。

 基皇子は、聖武天皇と光明皇后の間の子ですが、一歳か二歳ほどで死にました。聖武天皇はどちらかというと、考え込むタイプの人間のように思われます。
 三月堂の前身である金鐘寺は、もともと基皇子の菩提を弔うため建てられました。
 もうなくなってしまいましたがドリームランドへ通じるトンネルの上あたりに基皇子の墓があります。 

 聖武天皇を抜きにしては東大寺はなく、お水取りもないということになります。

(※ 石野注)
 「大仏殿の東方、二月堂が建っている地区が『上院』と呼ばれる〜そこには東大寺の前身である金鐘寺(こんしゅじ)が早くから存在していた。金鐘寺は、神亀5年(728)に生後僅か1年で亡くなった聖武天皇の皇子(某王/母は光明皇后)の冥福を祈って造られた山房が発展した寺院である」(「図録」)

 



【 2.修ニ会の意義 】



 

【 3.修ニ会の歴史 】
【(1) 起源と歴史 】


【(2) 「悔過」のおこり 】


【 (3) 本尊 】




【 4.練行衆 】
【 (1) 発表と制限 】

 修ニ会は身内に不幸があると籠もれません。
 どの場合、どのくらい籠もれないかは服忌令に定められています。これは本来神社の規則です。
 「里で縁を切って僧侶になったのだから、俗世の死で忌むのはおかしい」というという説もあります。

服忌令(江戸時代中期)

○ 二月堂物忌

夫妻忌服事 夫死時ハ妻ニハ 忌三十日 服一年、妻死時夫ニハ 忌廿日 服九十日
父母 忌五十日 服一年
養父母 忌三十日 服三月

(中略)

猪 三十五日 鹿 百日 狸 廿一日 兎 十四日
「二月堂堂司私日記」東大寺蔵)

 服忌令には猪何日とか鹿何日とかありますが、こうしたものを常食していたとは思えないので、食べた時の期間ではなく、境内で死んでいたのを見つけた時の期間ではないかな、と思います。

【 (2) 練行衆の分担 】
【 ア 四職 】



練行衆 四職:役職者
和上:戒和上。練行衆に戒を授ける。かつては四職の中で堂衆が勤められる唯一の役 仲間
童子
大導師(導師):修ニ会の最高責任者として法会を統轄。かつては学侶の所役 仲間
童子
咒師:呪禁師。結界・勧請などの密教的修法を司り、神道的作法も行う。かつては学侶の所役 仲間
童子
堂司(司):法会進行上の監督兼責任者。かつては学侶の所役 加供奉行
(加供)
仲間
童子
平衆:諸役分担者 総衆之一または北衆之一(衆之一):平衆の統率役。かつては学侶方平衆の頭 童子
南衆之一(南衆):平衆の次席。かつては堂衆方平衆の頭 童子
北衆之ニ(北ニ) 童子
南衆之ニ(南ニ) 童子
中灯之一(中灯):会中の書記役。かつては複数いた 童子
権処世界(権処):処世界の補佐役。かつては堂衆方の末席 童子
処世界:平衆の末席。かつては学侶方の末席。法要勤修に関する雑用役 童子
三役   堂童子:礼堂・外陣・閼伽井屋等を掌握し、練行衆の勤行に付随する外縁作法を担当 童子
小綱兼木守:法会の会計・雑法務の担当者。かつては「算数(さんず)の小綱」、「行事の小綱」、「木守(こもり)」それぞれ別役 童子
大炊:炊飯役
院士:調菜役
駈士:湯屋を掌握し、雑法務に携わる 庄駈士:湯の番

 四職も観音悔過など、全員同じことをやるのですが、別に仕事があります。

 和上は、2月1日の午前1時と2月8日の食堂作法の前に、賓頭廬尊者
(びんずるそんじゃ)から戒を受け、それを他の者に授けます。
 昔は練行衆は1週間交代でしたが、今は通しです。ですから今は、授ける和上も受ける練行衆もメンバーは同じですが、昔のしきたりに従って2回やるのです。

(※ 石野注)
 「3月1日午前1時頃、練行衆は食堂に集まって床に着座する。和上(戒を司る)が賓頭廬尊者の前でこつこつと石を打って自誓受戒をし、他の練行衆にも八斎戒を授ける」(「図録」)



 大導師は、初夜の法要など1時間半ほど一人で勤めます。

 咒師は結界を張り、堂司は法要の準備をとり行います。

 昔は堂衆学侶の区別がありました。堂を守るのが堂衆で、学者として勉強するのが学侶です。昔は「堂衆が下、学侶が上」でしたが、現在では区別はありません。

 本堂に向かい、左が北です。
 北衆は左。咒師も左です。
 南衆は右。大導師、和上も右。
(※ 石野注)
 左は略式の二月堂平面図。

 「須」は須弥壇。

 「例時」は例時の間。「勧進」は勧進の間。

 
 参籠宿所では、4人部屋、3人部屋、2人部屋(二つ)あり、四職はそれぞれに一人ずつ入ります。
 各部屋は入る四職により、和上部屋、導師部屋、咒師部屋と俗称しますが、堂司の部屋は、大宿所
(おおじゅくしょ)と呼びます。
 大宿所には、他の部屋にいない加供奉行がおります。それだけ大宿所は忙しいということです。


【 イ 平衆 】

 処世界の補助をするのが権処世界ですから、処世界の方が上のように思えますが、権処世界が上座です。

 処世界は、他の者が午後7時に上堂する1時間半くらい前に上堂し、掃除をしたり、灯心に火をつけたりします。
 新入など若手が処世界をします。
 処世界の松明があるのは12日の晩のみです。   


【 (3) 練行衆の持ち物 】

 惣別火の時には紙衣を着ます。新入の時に2着分もらいます。
 仙花紙を最初に50枚ほどもらいます。これをくしゃくしゃに丸め、のばし、そして筒状に丸め、竹で突きます。私で30枚くらい使って1着作ります。
 木綿の裏地をつけ縫い合わせて紙衣にするのですが、こうゆう伝統ある衣服を縫えるのは名誉なことだということで、裁縫してくださる方がいます。

(※ 石野注)
 上司永照師は43枚使うとおっしゃっていたので、枚数の違いがおもしろい。
 長老は、元の仙花紙と紙衣の両方を会場に回し、手触りを確かめさせてくださった。

 不浄の時に着るのが湯屋小袖といいます。医者にかかる時は湯屋小袖を着ます。

 テシマ(ゴザ)とは、畳1枚分の半分のサイズで、自分の紋をつけたものです。
(※ 石野注)
 「テシマは浄座を象徴し、惣別火の期間にはテシマの上にしか膝をつくことができない」(「図録」)



 このお札は、牛黄を溶かした墨で刷ったものです。牛黄とは牛の腎臓や肝臓の途中でできた瘤で、漢方薬として貴重とされています。

(※ 石野注)
 牛黄については、例えばここで。牛の胆石らしい。




【 (4) 参籠衆 】
【 ア 三役 】

 三役は、小観音さんを難波津からお連れした時のお供の子孫が代々勤めることになっています。

 お水取り閼伽井屋から水を汲むのは堂童子です。

(※ 石野注)
 「『水取り』は3月12日の後夜(13日午前2時頃)におこなわれる。〜閼伽井屋に入るのは咒師と堂童子と庄駈士(閼伽棚を荷う)だけ〜。水を汲むのは堂童子で、咒師はその間祈請する」(「図録」)

【 イ その他 】

 童子は、練行衆を松明で送る役です。また、町や塔頭
(※ 石野注 「たっちゅう」。「だっちゅーの」ではない。←古い。子院)へのお使いなどもします。

 仲間は、宿所の部屋にいます。練行衆は昼の12時までは部屋におり、客とも会えるので、仲間は部屋の掃除や来客の接待などをします。

(※ 石野注)

 左は略式の二月堂周辺配置図。

 


 

 ここで一度切ります。どうもお疲れ様でした。

 
  

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