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(No95) 講演「修ニ会を学ぶ」聴講記 その4 

 2007年2月3日(土)、息子の学校の父母会行事で講演会があったので聴きに行った・・・・の続き。

(なお、いつものことなのでつい断り書きを省略しがちなのだが、たいてい録音は禁止されているし、たとえ許されていても逐一テープ起こししていたら時間がいくらあっても足りない。よって、いつでも聴講記は、簡単なメモとおぼろげな記憶を頼りに「適当に」セリフを再構成している。
 「話し言葉」なので、「録音してるんでしょ!」とお叱りの言葉をたまにいただくので、そうではないということをお断りするとともに、内容については聞き間違い等が多々あることを前もってお詫びさせていただく) 

 


【 6.本行 】
【 (1) 初日 】

 別火坊から「そけ」という普通の袈裟を着て、参籠宿所に入ります。
 宿所には2箇所の入口があります。

 宿所では四つの部屋があり、四職は一人ずつ分かれて入ります。
 和上は、南一、南ニと同室で、ここが3人部屋。
 大導師と咒師は、それぞれ処世界、権処世界のいずれかと同室で、この二つが2人部屋。
 堂司は、あと北一、北ニ、中灯と同室の4人部屋で、ここを大宿所
(おおじゅくしょ)といいます。

 28日の夜6時に宿所の前で大中臣祓
(おおなかとみのはらい)を受けます。

 それから、しばらく仮眠をとります。

 真夜中、加供奉行が「おめさ!おめさ!」と絶叫して、皆を起こします。

 午前1時頃、食堂で授戒を受けます。

 それから「ただいま上堂!」と声をかけて堂にのぼります。のぼる時は板ぞうりですが、堂内では差懸
(さしかけ)という木靴を履きます。

 私らはあがって、上で差懸を踏み鳴らします。寒くて足をバタバタさせてるわけやなくて、そうゆうもんなんです。まあ、寒いのは寒いんですが。
(会場笑い)
 木靴ですから、それはそれはやかましい音を立てている所に、堂司がゆっくり上がってきて、お堂の鍵を開けてくれるんですね。鍵は堂司しか持ってへんのです。

(※ 石野注)
 「別火の終わる2月28日の午後3時過ぎ、練行衆は戒壇院から二月堂下の参籠宿所に移動する。
 夕刻、暗くなって練行衆一同は咒師から大祓(おおはらい)を受ける。神道的な雰囲気に包まれる部分で、俗に「天狗寄せ」といわれている。
 ごくわずかな仮眠ののち、深夜に起床、まず参籠宿所横の食堂(じきどう)で和上から授戒を受ける。いよいよ本行が始まるのだが、それにあたっての心がまえというか、練行衆は和上から戒めをまもるかどうか問われるのである。
 それから直ちに二月堂に登り、堂内荘厳のあと、2週間に及ぶ本行の最初、「日中」の行が勤められる。これは開白(かいはく)と呼んでいる」(東大寺パンフ)



 これが差懸です。裏はこうゆう風になっています。

 材質は桜が多いです。松も使われます。私も以前松で造ったことがありますが、木目が通ってたのか、まっすぐ縦に割れてしまいました。まあ、私が体重があるせいもあるんでしょうが。

 桜は硬いし、非常に重いです。

 堂に入る時、ババババン!と踏み鳴らして入ります。こんな具合です。四職は、その点、あんまり鳴らしません。これくらいですかね。

(※ 石野注)
 師は履物を脱ぎ、差懸に履き替え、壇上で、お堂に入る時の鳴らしぶりを実演してくださった。やや膝を落とし気味にして、緩急をつけ、差懸を壇に叩きつけるようにして、音を鳴らす。
 歌舞伎なんかの入場シーンで、「柝」(き)が入るというのか、どういうのかよくわからないが、裏方が舞台に板を叩きつけ、「バン!バン!バン!バババババン!」といった音を出すことがあるが、そんな感じだった。

 


【 (2) 食堂作法 】

 毎日の行は、昼の12時、食堂作法
(じきどうさほう)から始まります。

 目の前には、五合の飯が盛られます。五合というとかなりの量ですよ。昔は一升だったそうです。

 時間は1時間ほどなんですが、実質食べられるのは10分ほどです。
 食べる前にいろいろ作法があって、「天下泰平ならしめたまえ」といって、いろんな人の名前を呼ぶんですね。総理大臣とか、奈良県出身の国会議員等も呼びます。
 これは何も、こうした大臣のために呼んでいるのではなく、そうした人は天下泰平のために頑張ってくださいよということです。

 和上が箸を置くと、もうそれ以上食べられないんですね。ですから、食事を早く食べることができない人はどうしても食べる量が少なくなってしまって痩せるんです。
 私は幸いなことにご飯を早く食べることができます。去年私は体重が増えました。
(会場笑い)

 ご飯の段取りとかも三役さんがしてくれるのですが、何せ男所帯ですから、お汁なんかでも豆腐は一丁分まるのまま入ってたりするんです。
(会場笑い)
 湯葉なんかも拳
(こぶし)くらいのかたまりで入ってます。人参もこう縦に切れば小さいですが、斜めに大きく切ってある。

 おかずの中で、天ぷらが一番のご馳走で、それを楽しみにしてるんですが、40人分いっぺんに揚げるもんやから、中はレア。
(会場笑い)

 あと、香辛料が人気なんです。盆に三種類くらいの香辛料が乗せてある。入れ物に名前が書いてあって、「こしょう」、「さむしょう」、これは山椒のことですが、あと「とうがらし」。みんな、唐辛子なんかをお汁の中にばばばばっとかける。次の日、お尻が痛いくらい。(会場笑い)
 まあ、香辛料が人気だというのは、やはり刺激を求めているんでしょうか。

 食堂作法が終われば、上堂して日中、日没の業となります。食堂作法の後は水一滴飲んではいけません。飲むと塵になってしまいます。


【 (3) 六時の行法 】

 毎日を六時といって、六つに分け、初夜には神名帳や過去帳読み上げるなど、それぞれ行の内容が定まっています。
 声明も初夜から半夜、午夜と進むにしたがって、段々とリズムが早くなっていき、音程も高くなっていき、最後の晨朝では踊るような感じになります。



【 (4) お水取り 】

 修ニ会の愛称にもなっているお水取りですが、こんな逸話があります。

 遠敷郡
(おにゅうぐん)という場所があって、そこの遠敷明神という神様が勧請されたのですが釣りが好きだったので遅れてしまいました。そのお詫びにお水を出してくれまして、それを取るというのでお水取りということになりました。
  (※ 石野注)
 「実忠和尚が六時の行法を始められた当時、毎夜の神名帳の奉読に応じて諸国の神々が競って行法を祝福したが、若狭の遠敷明神(おにゅうみょうじん)だけは釣りが好きで遅れてしまった。終わりごろにやっと来て行法に感激、遅れたお詫びに閼伽水を献納しようと言われると、白と黒の二羽の鵜(う)が磐石を割って地中から飛び出し、そのあと甘泉が湧き出して香水が充満した。そこで石で囲って閼伽井とした、という。
 現在二月堂下にある若狭井という井戸がそれで、それから毎年12日の夜半すぎ、この香水を汲んで観音さんにお供えすることになった。
 そこから「お水取り」の言葉が生まれたのである」(東大寺パンフ)

 遠敷郡というと名田庄村があります。ナターシャ・セブンで有名ですね。こないだメンバーの一人が何か事件起こしました。・・・まあええか。(会場笑い)
(※ 石野注)
 フォークシンガーの高石ともやが名田庄村を拠点に活動していた時期があった。グループ名のナターシャ・セブンの「ナターシャ」は「名田庄」に由来する。
 なお福井県遠敷郡名田庄村は、大飯郡大飯町と合併し、今では「おおい町」になったそうだ。

 鵜といえば、この頃大仏殿の裏の池んとこに鵜が来るんです。さすが魚を取るのがうまくて、池の魚を根こそぎ取ってしまう。これもええか。(会場笑い)

 鵜ってね、黒は当たり前ですが、白の鵜って・・・・アルビノなんですかね。目ぇが赤かったかどうか知らんけど。
(会場笑い)

 3月12日の深夜といいますか、13日の未明、若狭井へお水取りに行くんですが平衆も行列に参加します。
 若狭井の建物の中は真っ暗で、非公開なんですが、フラッシュを焚かれると中が写ってしまいます。そこで、平衆は、その時袖の長い衣を着ていって、閼伽井屋を囲んで立ちふさがり、中が絶対に見えないように隠すんです。
(両手を広げて立つ格好をして)何でこんなことせな、あかんのかなあと思ったこともありましたが。(会場笑い)

 以前、室戸台風が来た時、良弁杉が倒れまして、閼伽井屋を直撃しました。その時には中を見た人もいるだろうと思います。

(※ 石野注)
 西山厚氏の『仏教発見!』には「閼伽井屋の中には咒師と堂童子しか入ることができず、真っ暗なため中の様子はわからない。しかし、昭和36年(1961)の第二室戸台風で傍らの杉の巨木(良弁杉)が倒れ、閼伽井屋が崩壊したために、内部が明らかになった。閼伽井屋のなかに水源はふたつあった。黒白二羽の鵜が岩から飛び出したという伝説は、荒唐無稽のようにみえて、水源がふたつという事実をふまえていたことがわかる」とある。
 師が室戸台風とおっしゃったか、第二室戸とおっしゃったかは確たる記憶なし。 



 


 この辺でいったん切ります。どうもお疲れ様でした。

 
  

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