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(No92) 講演「修ニ会を学ぶ」聴講記 その1 

 2007年2月3日(土)、息子の学校の父母会行事で講演会があったので聴きに行った。

 講師は上司永照(かみつかさえいしょう)師。昭和37年生まれというから私よりお若い。実にエネルギッシュだし、お話もユーモアたっぷりでおもしろい。 

  なお、当日は特にレジュメなどは配られなかった。下記で「見出し」を付けているが、それはすべて私(石野)が整理の便のため勝手につけたものである。見出しは、【 】で囲んだ。
 また、師のお話で前後した部分は、私がメモと記憶をたどって、自分のつけた見出しの順に編集した。よって、もしこの講演を聴かれた方がいれば、「こんな順番で話していない」と感じられるだろうがご容赦いただきたい。

(なお、いつものことなのでつい断り書きを省略しがちなのだが、たいてい録音は禁止されているし、たとえ許されていても逐一テープ起こししていたら時間がいくらあっても足りない。よって、いつでも聴講記は、簡単なメモとおぼろげな記憶を頼りに「適当に」セリフを再構成している。
 「話し言葉」なので、「録音してるんでしょ!」とお叱りの言葉をたまにいただくので、そうではないということをお断りするとともに、内容については聞き間違い等が多々あることを前もってお詫びさせていただく) 

 


【 1.はじめに 】

 これまで何回か「お水取り」について講演させていただいたんですが、そのいずれも完結せえへんかったんです。約1ヶ月にわたる長い行事なんですが、いつも最後までご紹介できず尻切れトンボに終わってるんで、今日は何とか最後までお話できたら・・・と思っています。

 今、お手元に「お水取り」というパンフを配らせてもらってますね?これは、うちの森本別当が書かれたものですから、まあ、これを読んでもらえば全てがわかるわけなんですが、私は、ここには書かれていないこともお話させていただこうと思っています。

(※ 石野注)
 この「二月堂修ニ会 お水取り」(東大寺。文:東大寺教学執事 森本公誠。以下、「東大寺パンフ」)を、今後の参考資料のメインとする。


【 2.修ニ会の意義 】

 俗にお水取り、私どもは修ニ会(しゅにえ)と呼んでおりますが、何をするか、というと「さんげ」、いわゆる「懺悔」(ざんげ)という字を書いて私どもは「さんげ」と読むんですが、さんげをするんですね。

 何を祈るのか、というと風雨順時
(ふううじゅんじ)、つまり風や雨などの天候、季節が順番どおりきちんと巡ってきますように、ということや五穀豊穣(ごこくほうじょう)、穀物が豊かにみのりますようにといったことです。
 修ニ会は、よく「春迎え」の行事と呼ばれますね。季節をあやつろうというのですから、まあ大それたことなんです。

 懺悔するのも、単に我が国の人々の罪を懺悔するのではない。いや、人間の罪ですらないのです。
 大乗仏教ですから、ま、大乗とかゆうと話が難しくなりますが、ともかく全衆生
(ぜんしゅじょう)を相手にいたしますのでね。

 「動植ことごとく栄えんと欲す」というのが聖武天皇の大仏造建の詔です。動物も植物もかわりなく、ということなんです。全衆生、つまり大げさな言い方をすれば全宇宙の罪を懺悔するのです。
 私ども僧侶は罪を犯さないか、というともちろんそんなことはありません。何かを食べて生きている以上、殺している。いや、殺すというと言葉がきついかもしれませんが、他の生命をもらって生きている。ですから、生きている以上、全く罪がないということはないのです。

 一切の過ちを十一面観音に向かって懺悔する。それで修ニ会の正式名称を「十一面悔過
(じゅういちめんけか)というのです。

(※ 石野注)
 「この二月堂の修ニ会は、東大寺の開山良弁僧正の高弟であった実忠和尚(じっちゅうかしょう)が、天平勝宝四年(752)に始めたもので、それはちょうど大仏開眼(かいげん)の年に当たる。
 修ニ会とは旧暦の二月に厳修する『法会』(ほうえ)という意味であるが、平安時代末期に編纂された『東大寺要録』によると〜和尚はこの天平勝宝四年以来『十一面悔過』(じゅういちめんけか)を奉仕されたという。これが修ニ会の正式名称である。
 十一面悔過とは、われわれが日常犯しているさまざまな過ちを二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の前で懺悔(さんげ)することを意味する」。(東大寺パンフ)

 今日は暖かくて、もう春かな?というようなお天気ですが、昔の人は、本当に今年も春が来てくれるのだろうか?きちんと春が来てほしい、春を迎えようとする強い祈りがあったと思います。
 確かに修ニ会はたいそうな行事ですが、これくらいせんと春は来ない、そう思われていたのではないかと思います。

 

【 3.修ニ会の歴史 】
【(1) 起源と歴史 】

   この修ニ会は752年、大仏開眼の年、開眼は4月9日ですが、その年の二月に始まり、それから1回も途絶えておりません。

(※ 石野注)
 「東大寺はそのながい歴史にあって、治承4年(1180)における平重衡、永禄10年(1567)における三好・松永のそれぞれ兵火によって、二度までもその伽藍の大半が灰燼に帰してしまった。
 そうした東大寺の危機存亡のときですら、修ニ会だけは『不退の行法』として、一千二百有余年のあいだ一度も止むことなく、連綿と今日に至るまで引き継がれてきた」。(東大寺パンフ)




【(2) 「悔過」のおこり 】

 東大寺の開山は良弁僧正
(ろうべんそうじょう)ですが、彼の高弟が実忠という方で、この人は一種の超能力者のような方で、笠置(かさぎ。京都府相楽郡笠置町)の龍穴(りゅうけつ)といいますから、龍が住んでいるような洞穴で修行していると、穴の奥で兜率天(とそつてん)、つまり天上世界にいくことができ、そこで天上人が法要をしているのをみて非常に感激しました。

 ぜひ、この法要を私どももやりたい。そう言ったのですが、天上人
(※ 石野注 これは兜率天にいた菩薩たちのことであるが永照師は、私ら素人にわかりやすいように言葉を選んでおられる)が「いや、われわれ天上界の1日は下界では400年に当たるから無理だ」と言われました。
 しかし、それくらいでは実忠さんはくじけない。いや、時間がないなら走ってでも時間を縮めてやります。そう答えました。

(※ 石野注)
 「『二月堂縁起』によると、実忠和尚が山城の笠置寺の龍穴に入って、兜率天の菩薩たちの行法を拝して感激、菩薩たちに同じ行法を地上界に遷して勤めたいと申し出ると、〜『天上界の1日は人間界の400年に当たるから無理だ』と言われたので、『それでは走ってでも勤めます』と答えた」(東大寺パンフ)



【 (3) 本尊 】

 そうすると次に天上人は、いや、この法要は生身の観音さまに懺悔をしないと駄目なんだといわれたのですね。
 けれど、実忠さんはどうしてもあきらめられない。昔から観音さまは、はるか西方の海上にある補陀落山
(ふだらくせん)にいらっしゃることになっている。
 奈良から西にあたる海というと難波の津、つまり今の大阪湾です。そこで、実忠さんは難波の津に行かれて、はるか西方の海上に向かって一心にお祈りをされた。
 すると100日ほどした頃、はるか沖合いより折敷
(おしき。お盆)が流れてきて、その上には生身ではないのですが、ブロンズの十一面観音像が載っていた。引き上げてみると、ほんのりと温かい。ああ、これこそ生身の観音に違いないと持ち帰り、本尊にした、というのです。

 この時の観音像のことを小観音
(こがんのん)といいます。小観音さんは、今でも厨子に入って絶対秘仏ということになっています。私どもも観ることができません。
 厨子はあるんですが、扉はないんです。
 ただ、昔は観ることができたのか、室町時代の頃の絵が残っています。

(※ 石野注)
 「同じ行法を地上界に遷して勤めたいと申し出ると、それには生身の観音像が必要だと言われた。
 そこで実忠は摂津の難波津に行き、香華をそえて閼伽折敷(あかおしき)を海に浮かべ、補陀落山に向かって一心に観音を勧請(かんじょう)した。〜100日ばかりすると、折敷にのった小さな十一面観音像が漂い着いた。拾い上げると温もりがある。これぞ生身の観音と持ち帰り、羂索院に安置した。これが二月堂の小観音だというのである。
 かつては拝することができたのか、鎌倉時代の図像抄によると、二月堂の観音として、十一面観音が描かれている」。(東大寺パンフ)

 パンフには「鎌倉時代の図像抄」とあるし、「お水取り」図録(奈良国立博物館)でも、小観音が描かれているのは、『類秘抄』(鎌倉時代)と、『覚禅抄』(鎌倉時代)とある。「室町の頃の絵」というメモがあるのだが、私の聞き違いなのだろう。



 「小」観音というくらいですから、大観音
(おおがんのん)もあります。大観音は等身大よりやや大きい像です。
 江戸時代に二月堂が焼けたことがあり、その際、大観音は外へ持ち出され、その時に光背が割れてしまいました。
 もうすぐ
(※ 石野注 2月10日(土)から)奈良国立博物館でこの光背が展示されますから、是非ご覧になってください。
 大観音は明治時代には開扉されていたようです。

(※ 石野注)
 「大観音の方は二月堂が寛文7年(1667)に炎上したさいに、焼け跡から拾い集められた銅造の光背の断片が残っており〜その大きさや線彫りの図様から類推して、観音像が如何にすばらしい立像だったか、想像に余りあるものがある」。(東大寺パンフ)



【 4.練行衆 】
【 (1) 発表と制限 】

 さて、修ニ会に参加する僧のことを練行衆
(れんぎょうしゅう)といいますが、人数は11人です。
 毎年、12月16日に、練行衆の発表があります。

(※ 石野注)
 「これら練行衆の配役は、毎年12月16日の良弁僧正開山忌のとき、東大寺別当から発表される」。(東大寺パンフ)



 今は11人ですが、昔は最大で26人、というような時代もあったようです。江戸時代までは26人、しかも、本行は上七日、下七日と前半、後半の二部に分かれているのですが、上で26人、下で26人と交代制になっていたようです。
 それが江戸時代に14人に減り、さらに明治時代に11人になりました。まあ、廃仏毀釈の影響を受けて人手不足になったということでしょう。
 しかし、この11人というのは、もう最低限というか、これ以上減らすのは無理だと思います。

 さて、修ニ会に参加させてもらえる、籠もらせてもらえるというのは非常に名誉なことなのですが、一面、楽だともいえるのです。

 修ニ会の期間中、お客さんも多いですし、何かと雑用も多く、留守番が大変なんです。ですから、優秀な人ほど、籠もらずに留守番に回されます。
 ちなみに、私はこれまで20回、参加の機会があって、そのうち17回も籠もらせていただきました。
(会場笑い)
 でもね、ほんと、籠もる方がいいんです。籠もらせてもらえるのは幸せ。ところが、自分で「籠もらせてください!」と立候補するのはあかんのです。
 逆に拒否するのはできるんです。病気とかでね。個別に管長に断りに行くんで、誰がどうとかいうのは人にはわからんのですが。

 不幸事があっても断らんといけません。この行事は神道との関係が深いんですが、きふく(忌福?忌服?)にこだわります。
 春日大社から手向山八幡宮との関係も深いんですが、「ぶっきれい」というものに肉親、例えば親が死んだら1年は籠もれないとか決められているんです。その間は結界内にも入れない。
 あと、祖父母なら何月、子供なら何月とか全部決められています。
 確か、妻だと七日くらいなんです。まあ、元は他人だからということらしいですが。
(会場笑い)
 あと、何を食べたら何日だめ、とかそういうことも細かく決められています。

(※ 石野注)
 この「ぶっきれい」については、後日の守屋長老の講演資料で「服忌令」というのがあったので、その際に紹介したい。

 そういうことで、身内に不幸があると籠もれないんですが、逆に、いったん籠もってしまうと、仮に不幸があっても接触できません。教えてもくれないんです。
 私も亡くなった父の、晩年、かなり大きい手術をした時期と重なったことがありましたが、手術の結果とか、何もわかりませんでした。そういう覚悟は要るのです。
 


【 (2) 練行衆の分担 】
【 ア 四職 】

 この11人の中でもいろいろ役の分担がございます。
 まず、和上
(わじょう)という役職があります。一番の年寄りですね。この和上は、修ニ会全体のリーダーということではありません。会社でいうと、会長・・・、いや、むしろ顧問とか相談役の方が近いかもしれません。
 和上の大役というと、戒を授けることです。和上というのは偉いお方ですから、自分で悟りを開く、というか仏から戒を聞き、それを他の者に伝えることができるのですね。
 これを自誓授戒といいますが、何と言ってもこれが和上の一番大事な役目です。

 授戒は3月1日に行われ、次に3月8日の昼、食堂作法の時の計2回行われます。これは、昔、上七日と下七日で人が入れ替わっていた時の名残りだと思います。

 次に大導師という役があります。これが修ニ会のリーダーです。この大導師というのは肉体的にも精神的にも大変な仕事です。声を出す量だけをとっても、他の者の2倍・・・ではきかないと思います。

 次に咒師
(しゅし)といって、いかにもおどろおどろしい字を書く役があります。これは結界を張ったり、密教呪術的な仕事をする役職です。
 いわゆる「お水取り」の時、井戸に入って水を取るよう指示するのは咒師の役目です。

 最後に堂司
(どうつかさ)といいまして、その名のとおり、堂内のことを司(つかさど)る役職です。
 堂司の仕事というと、それこそ堂内の荘厳をはじめ、松明の火のサイズをどうするか、灯心の数、油の量をどうするか、など実に多岐にわたります。その分、声を出すのは少な目です。

 こうした和上、大導師、咒師、堂司の四人を四職
(ししき)といいます。

(※ 石野注)
 「一同に修ニ会中に守るべき戒を授ける和上、修ニ会の趣旨や祈願文を唱え、行法全体のリーダーとなる大導師、印を結び陀羅尼(だらに)の咒を唱え、道場を結界する咒師、堂内の荘厳係兼行法の進行係であり、修ニ会内外の雑務を総括する堂司の上位四人がいて、これらは四職と呼ばれる」。(東大寺パンフ)



【 イ 平衆 】

 そして、この四職以外を平衆
(ひらしゅう)といいます。つまりヒラなんです。私もヒラです。偉そうに講演なんかしてる場合やない。(会場笑い)

 平衆の中にも名前がありまして、トップが総衆之一
(そうしゅのいち)、又は北衆之一(きたのしゅのいち)といいます。私は去年この総衆之一やったんですが、今年は一つ落ちまして(会場笑い)南衆之一(みなみのしゅのいち)になりました。
 北と南では、北が上、ということになっているんです。
 で、北は学侶
(がくりょ)がなるということになっています。学侶というのは、いわば、エリート中のエリートなんですね。当時は、寺が大学のようなものですから、学侶が学ぶものというと単に仏教学というか宗教学だけでなく、天文学や医学など、ありとあらゆる学問を研究したのです。
 四職でいうと、和上だけは学侶でなくてもよいとされていますが、平衆で北は学侶しかなれないとされていました。

 修ニ会中の堂内は娑婆
(しゃば)世界から離れているとされています。
 で、よくお見舞いの品などをいただくのですが、そういうもののチェックをするのが、北衆之ニ、略して北ニ
(きたに)の役目です。
 精進
(しょうじん)でないといかんということになってますから、例えばお菓子などをいただいても、成分を調べまして、これは卵が入っているからあかんとか、これは牛乳が入っているからダメだとか、まあ、牛乳については良いという説もあるのですが、まあ避けてます。あと、玉ねぎとかニンニク等もダメなので、そういう物が含まれていると娑婆の人にまわす、ということになっています。
 こういうチェックはすべて北ニの役ということになっているので、北ニはなかなかしんどい役目です。
 で、南は逆に学侶ではなれないということになっています。まあ、考えてもらえばわかると思いますが、何でもエリートだけではダメなんですね。お堂を掃除したりだとか、主に肉体労働は堂坊とか堂僧という者が担当することになっていて、そうした堂僧が南に入ることになっていました。
 修ニ会では五体投地とか肉体を酷使する行がたくさんあります。私も去年北衆之一の時は、誰がどういうことをするか、分担を決めるのは北一の仕事だったので、それを考えながら、ああ、南は五体投地をようけやらなあかんなあ、しんどいやろなあ、なんて笑っていたら、今年は自分が南に入ったんで、しんどい役をたくさんやらなあかんことになりました。
(会場笑い)

(※ 石野注)
 「北」は学侶でないとなれない。逆に「南」は学侶ではダメ。それなら永照師が去年「北」で、今年「南」なのはなぜ?ということになる。
 これも、後日の守屋長老の講演で、今は昔のように学侶でないと・・・ということにはこだわらないとのことであった。また、後日詳しく紹介したい。



 次に南衆之ニ、略して南ニ
(なんに)なのですが、「なんに」だけに「なんにもない役」といわれています。(会場笑い)
 重い責任分担というのは特にないのです。もっぱら肉体労働が中心です。
(会場笑い)

 中灯之一
(ちゅうどうのいち)というのは書記役です。修ニ会の間のいろいろなことを日記に記録したりします。代々の中灯がつけた日記というのが昔から東大寺に保存されており、現在○○年(※石野注 聞き漏れたため、メモできず)までの日記が文化財に指定されています。 
 
 処世界というのは掃除役です。お水取りといえばお松明
(たいまつ)、と思われているのですが、実は処世界には松明が要らないとされています。というのは、あの松明というのは暗くなってから行のため堂に上がる練行衆のためにつけるものなのですが、処世界は他の衆より先に上がって掃除をしているからなんです。 

 そして、この末座の処世界を補佐する役目が権処世界
(ごんしょせかい)といい、以上、平衆が北一、北ニ、南一、南ニ、中灯、権処世界、処世界の7人。四職の4人と合わせて練行衆は11人ということになります。 

(※ 石野注)
 「残り7人は総じて平衆といわれ、その首長格の総衆之一(または北衆之一)、南座の長の南衆之一、北座の次席の北衆之ニ、南座の次席の南衆之一、書記役の中灯之一、末座の処世界を補佐する権処世界、堂内掃除役の処世界の各人がいる」。(東大寺パンフ)

 また、図録「お水取り」では、「練行衆日記は〜昭和21年の分までが重要文化財に指定されている」とある。

 
 


 ここで一度切ります。どうもお疲れ様でした。

 
  

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