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(No91) 講演「良弁僧正について」聴講記 その2 

 2006年12月16日(土)、息子の学校の父母会行事で講演と見学会があったので聴きに行った・・・・・・の続き。

 
(なお、いつものことなのでつい断り書きを省略しがちなのだが、たいてい録音は禁止されているし、たとえ許されていても逐一テープ起こししていたら時間がいくらあっても足りない。よって、いつでも聴講記は、簡単なメモとおぼろげな記憶を頼りに「適当に」セリフを再構成している。
 「話し言葉」なので、「録音してるんでしょ!」とお叱りの言葉をたまにいただくので、そうではないということをお断りするとともに、内容については聞き間違い等が多々あることを前もってお詫びさせていただく) 
 


 いつものように長老にいただいたレジュメの内容を白枠内に示す。

執金剛神像・良弁僧正像見学のしおり

 執金剛神立像 奈良時代 法華堂安置 塑像 彩色 像高 170.4cm
 良弁僧正坐像 平安時代 開山堂安置 木造 彩色 像高 92.4cm 

良弁僧正

 持統3年〜宝亀4年(689〜773)

 『東大寺要録』に相模国人漆部氏、義渕僧正の弟子とあり、『七大寺年表』には相模国人百済氏とあり、また『元亨釈書』には近州志賀里人、或曰相州・・・又従慈訓法師受華厳奥旨とあって、出自等が定かではない。
 法相と華厳を学ばれたと伝えられるが、「正倉院文書」にみえる事績からは、古密教系の活動が目立っている。
 師義渕僧正の遷化に遭われた神亀5年(728)には、金鐘寺(金鍾寺・金鷲寺・金熟寺)の創建に関与されたと考えられる。
 天平12年(740)に大安寺審詳(審祥)を講師に請じて、金鐘寺で華厳経講説を始められたとされるが、これは我が国最初の華厳経講説で、後年の廬舎那大仏造立に繋がったと考えられる。
 国分寺建立の詔が発せられた天平13年(741)に、良弁の名が「正倉院文書」に初めて現れ、天平15年以後、良弁師名の請経・写経の文書が夥しく存在する。

 金鐘寺が大和金光明寺(国分寺)となって、その殊勝会が天下の摸とされるまでになった天平15年(743)の3月頃までに、同寺上座に就任されたと推定される。
 『東大寺別当次第』によると、天平18年(746)に羂索堂(現法華堂)で法華会を始められたといい、「正倉院文書」による推定からも、羂索堂は、この頃に創建された可能性がある(諸説あり)。

 天平勝宝3年(751)4月に少僧都に就任され、天平勝宝8歳(756)5月、聖武太上天皇崩御のあと、看病の功により大僧都に就任された。
 天平宝宇4年(760)に、少僧都慈訓・律師法進とともに、四位十三階の僧位制定を奏上された(『続紀』)。
 天平宝宇6年(762)頃には、石山寺の造営に尽力された様子で、石山寺では開山上人として崇められている。

 天平宝宇8年(764)頃、僧正に就任されたと推定されているが、年次については異説もある。
 僧正在任中の宝亀4年(773)閏11月16日に遷化、行年85歳。
 弟子は、安寛・良興・良恵・忠恵・実忠等。

 なお、金鷲優婆塞が執金剛神像を祀って修法をしたという古い説話があり(『日本霊異記』)、のちに金鷲優婆塞というのは良弁僧正の出家前の名であると考えられるようになった。

                                                文責 橋本聖圓


 良弁僧正は『日本霊異記』には金鷲優婆塞
(こんしゅうばそく)としてあらわれています。

 執金剛神、これは「しつこんごうしん」と呼ばれることが多いですが、私どもは「しゅこんごうしん」と呼んでおります。この像は塑像です。
 くるぶしを縛って修行していたところ、くるぶしから光を放った。その光を不審に思った天皇が使いを出して確かめた。羂索堂の北の戸に立つのがそれであるといわれています。 
(※ 石野注)
 この辺、メモからうまく文章が再現できないのだが、くるぶしを縛って修行・・・・というとこ、意味がもひとつわからない。
 よく昔のスポ根柔道マンガで、木の幹に紐を縛りつけ、その紐に技をかける特訓シーンがあった。そんな感じ?

 説話では、どうも、ある優婆塞(在家の信者)が、信仰する執金剛神像の足に縄を掛け、それを引っ張りながら修行するという話らしい。で、その像の足から稲妻のような光が放たれ、それが聖武天皇の御殿に届いた。
 聖武天皇は、彼のもとに使いを出し、彼の信仰心に感嘆し、「金鷲」という名を与え得度を許した。これが金鷲寺のおこりであり、後の東大寺につながる。また、この金鷲優婆塞が後の良弁という言い伝えもあるようだ。 

 執金剛神像は良弁の守護神であり、古くは秘仏ではありませんでした。

 平将門の乱のおり、執金剛神の髻
(もとどり)が欠け、それが蜂となって飛んでいき、将門の乱を鎮圧したという言い伝えがあります。

 また、本像をおさめる厨子は後補です。

(※ 石野注)
 東大寺HPでは「髻(もとどり)の元結(もとゆい)紐の端が欠失しているのは、天慶2〜3年(939〜940)の平将門の乱のおり執金剛神像の前で将門誅討の祈請を行ったところ、大蜂となって東方に飛び去り、将門を刺して乱を平定した」とある。
 また、同HPでは「前左右の柱に懸けられている鉄製の燈籠(重文)は、この説話にもとづいて造られたもので、火袋に蜂が〜透かし彫りで表されています」とある。
 さらに同HPでは「9世紀初頭に成立した『日本霊異記』に、「法華堂本尊不空羂索観音立像の背後の厨子内に北面してまつられていた」と記されてい」るが、現在の「厨子の両側には板絵が描かれていますが〜板絵裏面の墨書銘によると、寛永11年(1634)6月に〜寄進されたものです」とある。



【 参考写真 】 

  左写真のうち、黄色い箱内は残っている髻の元結(もとゆい)紐。黄色い「点線」の箱内は、その紐が向かって左の部分は欠落していることを示す。

 水色箱内が金剛杵。

 黄緑箱内は、彩色がよく残っているところ。



 塑造による仏像は、ほとんど奈良時代に造られました。
 法華堂内の仏像では、日光菩薩、月光菩薩、弁財天、吉祥天などが塑像です。

 土に藁(わら)、紙繊維などを混ぜたものを原料とします。このほか、雲母やフノリなども混ぜます。

(※ 石野注)
 『仏像鑑賞の基本』(著:久野健。里文出版)によれば、「塑像 〜白鳳時代から天平時代に流行した技法。〜心木の上に塑土を盛り上げて仏像を造型してゆく造り方〜単に粘土を盛り上げるだけでは破損しやすいので、心木に縄などを巻き、その上に、ワラを混ぜた荒土を着せ、さらに中土を重ね、最後に雲母を混ぜた精土で仕上げの造型を行う」とある。

 弁財天の頬の部分が欠落したのを明治時代は釘でとめていました。

 土でできておりますがなかなか丈夫で、阪神大震災のおりでも、たとえば戒壇院の四天王像にはヒビ一つ入りませんでした。

 執金剛神は仁王と同じです。錦の衣の上に革製の鎧をつけています。
 手に持っているのが金剛杵
(こんごうしょ。バジュラ)です。
 また、密教のことを大乗、小乗といった呼び方に対し、金剛乗と呼びます。
 また、五鈷杵をバジュラダーナーと呼びます。

(※ 石野注)
 『仏像案内』(著:佐和隆研。吉川弘文館)では、金剛杵を跋折羅(バジラ)と著わし、『仏像がよくわかる本』(著:瓜生中。PHP文庫)では金剛杵を伐折羅(ヴァジュラ)と著わし、さらにヴァジュラとは「稲妻」のことであるとしている。


 革の鎧は西域の兵士や武将が身につけていたもので、それが中国に伝来しました。
 もとは一体でしたが、両脇を守るために、「阿吽」の二体になりました。

(※ 石野注)
 執金剛神と仁王(金剛力士)との関係については諸説あるようだ。

 執金剛神は単身で武装忿怒形。仁王は金剛力士・密迹(みつしゃく)力士(の「ニ」王)で、隆々たる裸体の忿怒形で寺門の左右に立つ。仁王が一つは開口、一つは閉口で阿吽と称するのは本来一体の像の分身にすぎないとするのが前掲『仏像案内』
 同書は武装した二体の像は、執金剛神か仁王の古形とする。

 『仏像がよくわかる本』では、「仁王は本来執金剛神(しゅこんごうしん)という神だった。これがのちに金剛力士となって阿吽の二体に分かれて寺院の山門の両脇に立つようになり、二体が一対になっていることから仁王、または二王と俗称されるようになった。
〜一体の執金剛神像は、甲冑をつけ金剛杵をもって武装した立像で〜二体の場合には、上半身裸で筋肉をみなぎらせている。金剛杵をもつものと、もたないものとがあり、まれに甲冑をつけているものもある。
 一般には阿形が向かって左(東)に、吽形が右(西)に置かれるが、逆の場合もしばしばある。東大寺南大門の仁王などは阿形が西に置かれている」とある。

 『仏像鑑賞の基本』では、「執金剛神〜は、金剛杵を手にとり諸仏・諸天を警護する夜叉神をいう。また寺門の両側に安置する仁王像をこの執金剛神と同一の系統に含める考え方もある。さらに観音菩薩の三十三応化身には執金剛神が含まれている」とあり、また、
「仁王 二王ともよぶ。一般に仁王は口を開いた阿形像と口を閉じた吽形像が一対となっている。このうち阿形像を金剛力士吽形像を密迹力士とよぶこともある。各寺院の寺門の左右に安置され〜普通上半身裸形で〜時には甲冑に身をかためた武将の姿をとることもある。
〜東大寺三月堂の金剛、密迹力士像は、武人の姿に表現された8世紀の遺品として貴重である」とある。

 さらに『仏教美術入門』(著:佐和隆研。現代教養文庫)では「帝釈天の所持している金剛杵は自然現象を左右するほどの偉大な力をもつものとして、古くからインドでは畏怖尊敬されておりました。この金剛杵だけをとりだして〜さまざまな障害を除去する力をもった神を作り出し、金剛という名称のほとけが出現することとなった〜最初のころのものとして仏教の伽藍の入り口をまもる金剛力士を作り出した〜。

〜日本における金剛力士像で、最古のものといえば、和銅4年頃(711)に作られた法隆寺中門の仁王像で〜また他の例をあげるならば天武天皇朱鳥元年(686)に作られた長谷寺銅盤法華説相図の下辺左右の隅に浮彫されたものがあります。
〜これらの像をみるならば、上半身を裸体にして、頭髪は鬘を結び、金剛杵をふりあげている姿に作られ〜インドからの伝統をうけついで作られている〜。

 しかし天平18年頃に制作された東大寺法華堂内の金剛力士像は鎧に身をかためて、比較的に短い金剛杵をもち、怒髪天をつく格好〜これは中国的な改変を加えた金剛力士像とみなければなりません。
 日本の仁王像には裸体像のものが通例〜平安時代以後の寺院では入口の門に造られている場合が多く〜密教系統の寺院では仁王像を安置する代わりに、持国・多聞、持国・増長のニ天を安置することもあります。

 なお、東大寺法華堂内に安置されている執金剛神像は〜典拠となった経典がどれであるかわかりません。しかし、その像は武装した形姿に作られており、頭髪は仁王像に似ております。そのためにこの堂内の金剛力士像よりも仁王像に近い姿であります。これもおそらく金剛力士と同じ系統において考えられた執金剛像で、それを或る個人(金鷲行者)の信仰としてとりあげたものと考えられます」とある。



 姿は一面三目八臂でシバ神に似ています。阿弥陀如来が観音菩薩になっていますが、しかし、シバ神に似ています。
(※ 石野注)
 ここは意味がつながらないので、私のメモ違いと思う。

 外国人が本像を見て、悪魔信仰か?と尋ねたことがあります。

 シバ神の身体を借りたものと言えます。口を開けた仁王の姿です。仁王としては、古い形です。仁王は、裸体で裳をつけた姿が通例ですが、本像は鎧をつけています。
 門の両側に立っているのではなく、堂内にいるのは珍しいものです。

 東大寺では仁王の「阿吽」の配置が逆で、これも古形とされています。

 梵天・帝釈天などは漆が塗られています。乾漆造りです。

 良弁僧正像は木像ですが、造立年代は不明です。
 良弁僧正は東大寺の開山ですが、御忌法要は平安時代になってからです。寛仁3年、11世紀初めに始まりました。
 9世紀、10世紀が妥当ではないかという説もあります。

(※ 石野注)
 当日開山堂で配布された「良弁僧正坐像(国宝)と開山堂(国宝)」チラシによると「良弁僧正は、一説には持統天皇3年(689)、相模国(さがみのくに。神奈川県)の漆部(ぬりべ)氏の子として生まれ、義淵(ぎえん)僧正に師事されたというが、別伝では近江百済氏の出身で幼時に鷲にさらわれ、義淵僧正に育てられたといわれている」とある。
 この鷲が、さらった赤ん坊を樹に引っ掛けたのを義淵僧正が見つけた・・・・というのが二月堂のところにある良弁杉(ろうべんすぎ)のお話。

 また、同チラシには、「良弁僧正は〜宝亀4年(773)閏11月16日に遷化され〜246年後の寛仁3年(1019)に初めて御忌法要が営まれたが、開山堂はその時に創建され、安置の僧正像も同時に造立されたといわれている。ただ僧正像についてはその重厚な造りや鋭い衣文表現などから、様式的には9世紀後半の作とする説もある」とある。

 本像は、たくましい壮年の姿に造られています。
 「如意」という孫の手のようなものを持っています。この如意は、奈良時代の作とされています。

 どうぞ後ほどごゆっくりご鑑賞ください。
 

 


 どうもお疲れ様でした。

 
  

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